「………………」
じーっと、無言で見上げてくるのは、アザラシのような、カピバラのような、兎のような――――猫。
種類は雑種だ。
しかし、なぜこうもネコ科要素がないのか、私は疑問に思う。
「………………」
普段は細めている目。それが開くと、うるうるの瞳が現れる。
よりアザラシに近づいた。
「…………」
「どうしたの、ムサ」
この猫の名前はムサシ。しかし、家族は皆、「ムサ」と呼ぶ。
「…………」
私の言葉を理解したかのように、ムサシは歩いていく。
餌箱の前まで行くと、こちらを再び見た。
「あ、おなかすいたのね」
この子は、酷く賢い子だった。
一時期、檻に入れるしかなかったとき、まずは長老猫のコテツが抜け出し、そのあとにコジロウが出る。
その二匹が出て、一定時間戻されないと出てくるのだ。しかも、「出たよ」とこちらを見上げてくる。
怒られるようなこともせず、鳴くこともあまりなかった。
優等生と言うやつだろう。
ムサは、なぜか私に懐いていた。
私は毎回餌をあげてるわけでもないし、時々頭を撫でたり遊んであげるだけで、懐かれる要素があまりないのに、ムサは懐いていた。
それはどうやら、私の体臭がお気に入りだったからしい。
もともとは、父親の匂いが好きだったようで、父のことをよく追いかけまわしていた。
父は酷いひとで、猫を殴ることがあった。おかげで、チャッピーという猫は撫でようとすると殴られると思うのか攻撃するようになっていた。
しかし、ムサは違った。
殴られても、なにされても父親を追った。
ドМだったからだろうか。
嬉しそうについてくるので、父親もムサにはデレデレだった。
親が離婚し、家が変わって一年。
ムサは私の匂いを気に入って、私を追いかけてきた。
朝は私の布団の上で悶え、おなかを軽く踏んで転がすと、嬉しそうに「ぐふっ」と鳴いた。
制服に着替えるときは、うしろに待機して、ズボンを脱いだとき、スカートを履くときの匂いを嗅いで至福のときを味わっていた。
学校から帰ると私の脱ぎたての靴下を抱えて眠り、夜は私が寝付くまで隣にいた。
修学旅行に行けば寂しくて私の部屋に入り浸り、帰ってきたら私の傍をしばらく離れない。
そんなムサに、私もデレデレだった。
「ムサ、おいしい?」
カリカリを箱に入れると、まずコテツが食べ、そのあと息子のブーやチャッピーが食べる。ムサシはそのあとだ。
家の猫はすべて家族だ。全員コテツの血を引いている。
だからだろうか。階級のようなものができていた。
ムサはようやく順番が来て、夢中にカリカリを食べていく。
思わず笑みがこぼれた。
我が家の猫は、血縁同士で子供を作っていった。
本当は去勢して、止めなくてはいけない。
けれど、ちょうどそのころに母は私を妊娠していた。
妊婦は動物病院に行けない。
母は父にお願いしたが、父は行かなかった。めんどくさかったらしい。
おかげで、下の子たちは体に支障をきたした。
一番下の三匹は未熟児で、体が大きくならなくなった。
お嬢と呼ばれていた子は、体が小さいだけでなく、後ろ足の長さが違っていた。
ムサシは、足が全部短く、癲癇という持病を持った。
しかし、あの子たちはすごく元気で、楽しそうに生きていた。
「な~う~……」
ふと、ムサの声がした。
ムサは見た目は可愛くてマイルドなのに、声は低くてワイルドなのだ。
しかも、なぜか「なう」と鳴く。
ツイッター猫かおまえは、とよく思ったものだ。
ちなみに、この鳴き声を出すのは、決まって弟がちょっかいを出しているときだ。
ムサは私の弟が嫌い……というか、苦手だった。
「ムサになにしてんだこら」
「いいじゃん別に! 俺だってムサに触りたい!」
「嫌がってるから触るな馬鹿」
私のムサをいじるんじゃない。
ムサを撫でると、嬉しそうに目を細める。嬉しくなった。
そのころ、弟はムサに嫌われいじけると、チャッピーのところに行っていた。
チャッピーは弟が撫でようとすると猫パンチをして、爪でひっかこうとする。
しかし、何ヶ月か経つと、チャッピーは変わった。
殴られるんじゃないかと怯えて、攻撃をしていたのに、それがなくなったのだ。
殴られないのだと、愛されているのだと、気づいたからかもしれない。
弟のウザさは、ここでいい方向に働いたらしい。
中学一年のころだっただろうか。
コテツが死んだ。十八歳だったと思う。
いきなり老衰して、まずは目が見えなくなった。
それでも、布団を重ねて作った山には上っていた。馬鹿ほど高い所が好き、というのは本当だ。
亡くなる直前まで、動いていた。
弟がその日は友達の家に遊びに行っていた。帰ってきたときに、コテツは弟のほうに顔を上げたのだ。
そのあとすぐ、コテツは息を引き取った。
弟の帰りを待って、全員そろったところでタイミングよく。
コテツは、母が父と出会う前から飼っていた猫だ。亡くなってから数日間、母は夜になると泣いていた。
次は、歳的にプーあたりかなと、母が悲しそうに言っていた。
寿命で死んでいくのだから仕方ない。しかし、次々と死んでいくとなると、やはり心が辛い。
ムサは、比較的若い方だった。だから、安心していた。
このころ、癲癇の発作がよくあったけれど、私は深く考えず、大丈夫だと思っていた。
しかし、ある夜。
「あれ、ムサは?」
いつもは私が寝ようとするとすぐにやってくるはずのムサが、その日は現れなかった。
探したら、私がいつも座るリビングの椅子の下にいた。
様子が、おかしかった。
体勢は低く、苦しそうに息を上げていた。
嫌な予感がした。
隠れようとしているようで、不安だった。
猫は死んだ姿を見せないように、死期が近づくと隠れるという。
実際、コテツも家中を隠れ歩いていた。
「ムサ? どうしたの、こっちおいで」
呼びかけても、こちらへは来ない。
「あんた、明日も学校なんだがら、早く寝なさい」
母親にそう言われ、反抗してもダメだった。
明日は起きたらすぐにムサのところに行って、撫でてあげようと決めて寝た。
次の日の朝、私はすぐに寝室を出てムサの元に行った。
母親の足元。様子が見れるように、体調が悪い猫はそこにクッションを置いて寝かせるようにしている。
ムサもやはりそこに寝かされていた。
見たとき、たぶんわかった。動いていない。
でも、もしかしたら動きがゆっくり過ぎるのかもしれない。
私は恐る恐る、ムサに触れた。
――――冷たかった。
いつもは暖かくて、ふわふわだったはずの体は、冷え切っていた。
なにかが、抜け落ちていく感触があった。
私は泣きながら、母に「ムサが冷たい」と告げた。
ムサを撫でながら、私は泣き続けた。せめて、最後のときまで一緒にいたかったと、後悔ばかりが募る。
動物霊園に連れて行った。コテツや、そのまえに亡くなっていたブーもそこに眠っている。
霊園で、ムサは花と大好きだった餌に囲まれて、綺麗にされた。
私は、ぎりぎりまでムサの体を撫でた。
暖かくならないかと、想っていた。もしかしたら、いつもみたいにうるうるの目を向けてくれるのではないかと、期待していた。
しかし、結局ムサとはそのままお別れだった。
唐突過ぎた別れに、心構えもできておらず、家に帰ってもなにもする気が起きなかった。
布団の上に座っていると、チャッピーが来た。
チャッピーは、私の膝の上に乗ると、座った。
それは生前、ムサが私によくしたことだった。
慰めてくれているらしい。
私はまた、泣いた。
あれから、五年ほどが経った。
いま生きてるのは、以外にも未熟児のキャサリンだ。
他の子は、全員亡くなった。
チャッピーが亡くなったときは、弟が泣き崩れた。
驚いたのは、プーという猫が二十歳超えても生きたことだ。コテツの記録を抜いた。
嫌なことだが、死んでしまうことに慣れ、老衰の際の準備が万端なことだ。
心構えができてしまっていて、あまり泣かなくなっている。
いや、もしかしたら、ムサがいなくなったことが一番ショックだったからかもしれない。
私は、当分猫を新しく飼いたいとは、思えない。
私が飼いたいと思える猫は、アザラシのような、カピバラのような、兎のような猫なのだ。
マンチカンでもないのに足が短くて、声が低くて、でもあんまり鳴かなくて、少し丸くて、匂いフェチで、背中の毛が花咲くように開いてる、そんな猫なのだ。
きっともう、そんな猫には会えない。
だから私の中で、一番の猫は、ムサシであり続けているのだけれど。