その空間は異質だった。
なかなかの広さではあるのだが、中心にあるダイニングテーブルとその上に置かれたチャメドレアのせいで手狭く感じる。
コンクリート剥き出しの壁には絵画とホルンがひっかけられ、天井には電球、空の鳥かご、木製の椅子までぶら下がっている。
俺はコーヒーを飲み終わると鋏を手に持ち、立ち上がった。目の前で顔を突っ伏して眠る男を睨み付ける。
「お前さえいなければ」
俺は鋏を握る右手に力を込めた。
――パチン。
真夏の京都は地獄、ましてや着物なんか着ていては地獄より暑いかもしれない。元気な太陽の下で日向舞子はそう考えながら汗を拭った。
日向舞子は舞妓である。背の高い細身の女だが、三十代を迎えようとしていた。もう若いとは言えない女に容赦なく熱は絡む。
「最近売上落ちててねぇ。観光客とか喜ぶだろうからさ、営業ってことでよろしく」
上司の言葉が頭の中で渦巻く。あいつのせいで今、舞子は舞妓として昼の京都の街を歩いていた。白塗りの顔に赤い口紅、丁寧にセットされた髪型、全てが見事に崩れている。
暑い。
せめて色だけは涼しくしようと水色の下地に紺や紫の朝顔が散らばった着物を選んだ。
しかし帯に黒を選ぶ辺りが若くない証拠だろう。
「あの上司、脳みそないんか？」
誰に言うでもない言葉がつい、こぼれてしまう。
「もうあかん。こら死ぬ」
三条駅前を通り過ぎたところで、舞子は仕事をさぼろうと考えた。
「どっかに涼しいおしゃれなカフェとか……、あったぁ-！」
カフェと書かれた木製の看板が下り階段の横にぶら下がっているのを見つけた。
舞子は吸い込まれるように地下へと下りて行った。
カランとベルを鳴らしながら、舞子は店の中へと足を踏み入れた。コンクリートが剥き出しの壁には絵画や鋏がひっかけられ、天井に吊るされた空の鳥かご、点滅する電球、涼しい空気、そして――奥の方で男が一人、頭から血を流して倒れていた。赤く染まったホルンが血だまりの上を転がっている。その傍で友人と思われる男が騒いでいた。
「警察は？」
その声を聞き、慌ててカウンターから年寄りの男が出てきた。着ている服からしてこの店の店員だろう。
「連絡しました。すぐ来るそうです」
二人は舞子に気づいていないようだ。その異様な空気に舞子は困惑する。
「あの、何やあったんどすか？」
二人はびくりと体を震わせた。男は舞子を睨むと、血だまりの隣に倒れている椅を指差した。
「見ての通り事故だよ。もう警察呼んだから、あんたは早く出ていってくれ」
舞子は首を傾げながら男を見つめる。
「あの、何で警察なんや？ まず救急車では？」
男は少し戸惑った表情を見せた。
「え？ あ、慌ててたんだよ」
店員は舞子の隣に立ち小声で言った。
「舞妓さん、信じてください。ちゃんと毎朝点検してるんです。事故なんて起こしません」
男にもその声が聞こえていたのか、眉間にしわを寄せ店員の胸ぐらを掴む。
「椅子がいきなり落ちてきたんだ。どう考えても事故だろ。店の責任だ」
舞子はそっと天井を見上げた。確かにあの高さから椅子が降ってきたとなるとかなり危険だ。もちろん当たればの話だが。
――なんや、可哀想やなぁ。
舞子は男と店主の間に割って入った。
「店員はんは落ちてくるところ見たんどすか？」
店員は慌てて首を横に振った。
「いえ、私は奥でお客様が注文されたケーキを作っていて」
舞子は聞きながら部屋を見回した。
赤いホルンとイス、机の上、壁……。
舞子はクスッと笑った。
「なるほど、分かったわ」
男は肩をすくめてため息をつく。
「やっとか。椅子を吊るしてた糸が切れたんだよ。どう考えても事故だろ？ 分かったならさっさと……」
「あんさんが切ったんでは？」
舞妓は刺すような冷たい視線をこちらに向けている。男は思わず、唾を飲み込んだ。
「あんな所、届くわけねぇだろ」
男の言い訳に舞子は吹きだした。笑いをこらえながら言葉を紡ぐ。
「届きますわ」
舞子は肩を震わせながら壁を指差した。
「そこにある、鋏を使えば」
壁には斜めに高枝切り鋏がひっかかっている。笑いを腹に収めて次に舞子は机を指差した。
「ケーキを頼んだのもあんさんでっしゃろ？ 二個目どすかぁ」
机の上には生クリームがついた皿とフォーク、コーヒーカップが二人分置かれていた。
「職業柄、噓を見抜くんは得意なんよ。男はすぐ見栄を張るからね」
男は一筋の涙を流す。
「……あぁ俺がやったよ。許せなかったんだ。あいつのせいで俺は会社クビに……」
嗚咽に遮られた言葉を舞子が引き継ぐ。
「で、糸を切って腰掛けを落としても、彼に当たらへんかったから……」
男は落ちているトロンボーンを指した。
「その、でかいラッパで殴った」
舞子は微笑み、小さく頷いた。
警察が来て男は逮捕された。高枝切り鋏は男の私物で凶器を隠そうとして試行錯誤した結果、壁にひっかけたと言う。
一方、舞子は事件の後そのカフェの常連になっていた。
「にしてもマスター。何で気づかなかったん？ ホルンと鋏、全然違いますけど？」
「はぁ、もう歳でね。目がちょっと……」
店員は小さくため息をついた。
「もうこの店は閉めようと思ってました。けど、常連さんが増えちゃったから頑張らないとですね」
言いながら舞子にコーヒーを差し出す。カップから白い湯気が立ち昇り、濃い香りが舞子の身に染みた。
「そうどすね、私もお仕事がんばりましょ」
舞子はコーヒーを一口飲み、熱いのも悪くないなと微笑んだ。
