冷え切った空気を切るようにして、俺は原付バイクで見知らぬ土地を走っていた。一人旅と称して散歩をしていると、時折、今のように迷子になることがある。でもそこは、文明の利器、スマートフォンを利用することによって簡単に地元へ戻ることができる。
文明の利器さまさまだ。
ふと、橋を渡ろうと走っていると、左手に川が見えた。普通の川ではなかった。気になったのは、その川の中にあるものがあったからだ。
小さな川の中にはレールが敷かれていた。何の変哲もない電車の走るレールが、川の中に敷かれている。駅らしき建物も河原に置かれている。
興味を持ったら即行動。
そんな座右の銘を持つ俺は、バイクを適当なところに止め、橋の下へと向かった。
駅らしき建物は、傍から見ると壊れた小屋のようなもので、どちらかというと田舎のバス停に近い形をしていた。
不思議なことに、時刻表も駅員もいない。ただ一人、静かに電車を待つ女性の姿があるだけだ。俺はその女性に声をかけた。
「あの、この電車って、どこへ向かうのですか?」
朽ちかけたベンチに腰を掛けていた髪の長い女性は、美しい黒髪を耳にかけ、俺の方へ振り返った。目線は何かを探すように地面を向いていたが。
「わからないわ。どこまでも、どこまでも進むそうよ」
――どこまでも?
俺の疑問を無視するように、「切符は持っているの? 持っていないと、乗れないわよ」とさらに続けた。
そこで目が合った。大きな黒目、その向こうには宇宙が広がっていた。銀河がいくつも浮かび、彗星はその星々をめぐるように翔けている。闇に包まれたその空間には、音も、匂いも、何もない。不思議と、怖いという気持ちはなかった。
「持っているの?」
再度聞かれ、俺は空の両手を差し出した。
「じゃあ、ここで見ているのね。可哀想に」
何が可哀想なのか、なぜそんなに悲しげな眼をしているのか、俺にはわからなかった。
川の向こうにそびえ立つ山は、凍てついた茶色で覆われ、地面がむき出しになっていた。ここに針葉樹があれば、この冬の寂しさが少しは紛れるのではないかと思われた。
しばらく、何の音もしない時間が流れた。虫の音も、車の音も、風の音すらも消えていた。張りつめた空気だけが、俺と女性の間にあった。
突然、ゴーという音が世界を切り裂いた。
音のない世界から帰ってきた俺は、最初、何の音だかわからなかった。それが目の前に現れた時、そうだ、川の中にレールが敷かれていたんだったと、ようやく思い出した。
見慣れない青い電車が、水しぶきを上げながら川の中に停車した。
「じゃあね。さようなら」
女性はドアが開くと同時に電車に乗り込んだ。真っ青な電車の中に、彼女の姿が浮かび上がる。太った車掌が切符を預かり、軽くうなずいた。
気の抜けた音を立てて扉は閉まり、彼女の姿はさらに見づらくなった。
またゴーという音とともに、青い車体は水しぶきを上げて去っていった。
去り際、彼女の口がこう動いた気がする。
『さようなら』
手を振ることもなく、ただそう動いた口元が、脳にこびり付いた。
どこで切符を買ったのだろうか。
俺はその電車に乗らなければいけないような気がして、あたりを見回した。