まだ肌寒い春風がカーテンを揺らし、部屋に桜の花弁を届けた。
アパートの一室、挙式を挙げたばかりの新婚夫婦が引っ越しの準備をしていた。
「この写真は、どの段ボールに入れればいい?」
「こっちの段ボールに入れておいて」
挙式を挙げて三日目。春香は自分の部屋で、夫となった健と共に荷物を詰めていた。明日は健の部屋で作業することになっている。春香はそれを考えるだけで口角が上がってしまうのを恥ずかしいと思いながらも、これからずっと一緒に健といられるのだと嬉しくも思った。
「これ、ハルが書いた日記?」
本棚をあさっていた健の手にはピンクのシンプルな日記帳が握られていた。
「そうそう。結構前のだけどね」
「見てもいい?」
春香が答える前に、健はもう日記帳を開いていた。そんな少し自分勝手なところも、時として、優柔不断な春香の助けになることもある。
「いつの日記?」
「多分、小学生の時じゃないかな? 学校のこと書いてない?」
「給食で男子に泣かされた?」
春香は、話を聞いてないところは直してほしいと、密かに思った。
「好きな人ができた」
「え?」
春香は一瞬、健自身に好きな人ができたのかと勘違いをしそうになった。
「そんなこと書いてある?」
日記帳を読んでいるのだと理解しても、春香には思い当たる人物がいなかった。これまで人を好きになったことがあまりなかった春香にとって、初恋の相手は健だと認識していた。
「私と同じ、四年生。名前はハルト」
「待って、そんなの書いた記憶ないよ」
「でも、書いてある。三月三日」
春香は思い出そうと必死に思い返したが、そんな名前は聞いたこともない。誰かが書き足したのではないかと健の手の中の日記帳を覗くが、文字に違和感はない。自分の字だ。
「本当に覚えてない?」
「うん。全く覚えてない」
二人は準備の手を止め、不思議な日記を読み始めた。
三月三日。
今日、好きな人ができた。私と同じ四年生。名前はハルト。ハルト君って呼んでる。
私よりも少し背が大きくて、すごくかっこいい。でも、病気にかかってる。病気の名前は忘れたけど、泡になって消えてしまう病気。
ハルト君は全然そんな風に見えない。いつも元気いっぱいで、楽しそうに自転車に乗ってる。
また明日も遊ぶって約束をした。楽しみ。
三月四日。
ハルト君の指先が、少し消えていた。泡になって空に消えていったらしい。泡が空に消えていくのを少し見たいけど、ハルト君が消えるのは嫌だ。
今日は一輪車に乗って、公園を走った。空中乗りができない私に、いろいろと教えてくれたけど、やっぱり乗れなかった。もっと練習して、ハルト君にほめてもらいたい。
「泡になる病気なんてあるの?」
「ありえない。聞いたこともない」
その後も、しばらく楽しそうな二人の様子が鮮明に記されていた。
三月十三日。
もう歩けないハルト君は、今日も公園にいた。お母さんが送ってきてくれる。そう言っていた。少し元気をなくしているハルト君をおんぶしたけど、とても軽くてびっくりした。
いなくならないでほしい。
三月十五日。
日記を書くのを忘れていた。ハルト君のことを考えると、何も手に着かない。いなくならないでほしい。
三月十六日。
ハルト君が、目の前で、消えた。
最後ははじけて消えた。
シャボン玉みたいだった。
いなくなった。
また会いたい。
一緒に遊びたい。
日記はその後、途絶えていた。
ハルトとの二週間の記憶は、春香の記憶に全くなかった。
健がページをめくる音だけが聞こえた。何の音も聞こえない。まるで、春香と健だけ取り残されたように。
「春香、これ」
何かを求めるように空白のページをめくり続けた健は、日記帳の最後のページを指さした。空白だと思っていたページに、何か書いてある。
『兄をよろしく』
筆跡は春香のものではない。家族の字でもないようだ。角ばったその字は、どこか健の字に似ている。
「これは、私の文字じゃない」
春香がそう言うと、何かを考えていたように黙っていた健が、静かに口を開いた。
「ハルトは、俺の弟。生まれてすぐ亡くなった」
春風はやんでいた。どこかで救急車のサイレンが鳴っていた。
ふと、春香の頭の中に声が響いた。
「兄をよろしく」
健に似た、低く、優しい声だった。
二人は日記帳をウエディングの写真と共に段ボールへ入れた。
「私が健と出会うのは、必然だったのかな」
「そうかもしれない。春香が俺にふさわしい人かどうか、ハルトも気になったのかも」
静かな世界が、少し音を取り戻した。
「一生愛することを誓いますか?」
「誓います」
健の問いかけに、春香は胸を張って答えた。二人の笑い声は春風に乗り、広い青空へと消えていった。