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 山は雪で覆われ、吐く息が白くなった冬の日。粗末な小屋のように見える家で、私は彼の声を聴きました。
 彼は最初に、薄い木の戸を小さく二回叩きました。
「すみません、道に迷ってしまって、一晩泊めていただけませんか」
 その声は男にしては少し高く、そして、弱々しく感じました。
「お母様、お父様……」
 貧しい私達は、訪ねてきた者に分ける夕食も、布団もありませんでした。
「放って起きなさい。そのうち帰るだろう」
 戸の向こうに聞こえないほどの、囁くような声でお父様は言いました。
 しばらくの間、戸を叩く音は隙間風と一緒に私達のもとへ吹き込んでいましたが、そのうちピタッと止みました。外は雪が降り積もっているようで、いつもよりもとても静かでした。しんとした部屋の中、囲炉裏を囲む私達は、何も話しませんでした。

 翌朝も空は灰色で、雪こそ降ってはいませんでしたが、刺すような冷たい空気が充満していました。昨夜の夕食で出た少量の米が、この冬最後の米でした。もう、私の家に米はありません。この村の大半が、私達と同じような生活を送っています。近くの村の人々は、この村は冬場の餓死者が多いと噂しているようです。それでも、決して手を差し伸べようとはしません。私の村ほどではないにせよ、どこの村も飢えで苦しんでいるのです。
 私はまだ、昨夜の彼のことが忘れられませんでした。どこかの家に泊めてもらえたのかと心配でした。何年か前には、泊まることを断られた迷い人が、雪の中から掘り起こされたことがありました。当然、冷たくなって。だから、彼が今も生きているのか、それだけが気がかりでした。
 私はまだ新しい、汚れのない雪の中を歩いていきました。その間も、戸を叩いた彼の声が頭を離れませんでした。どうしてだか、私には分かりません。あの高い、綺麗な、水晶のように透き通った声は、牡丹雪が私の手のひらで溶けるように、胸の中にじわりと広がっていきました。
 数十分歩き、私はある家の前で立ち止まりました。
「おはようございます、斉藤様」
 ガラリと乱暴に戸が開け放たれ、上質な着物をだらしなく着た斉藤様が顔を出しました。ぽってりと膨らんだ腹が、堕落した彼の生活を物語っています。
「やっと来たか、遅かったではないか」
「雪に足を取られてしまい……」
「早う入れ」
 斉藤様は、私を投げるように引き入れました。
「遅れた分、しっかりと働いておくれ」
「……わかりました」
 私はその言葉を合図に、一切の感情を封じ込め、働き始めました。

 昼食に、少し米が出ました。しかし、私は美味しいと思えませんでした。
「あと三分経ったら食器を洗うんだ。わかったな」
「はい」
 斉藤様は村一番の金持ちです。それでいて、村一番の低俗な男としても有名でした。誰も逆らえません。逆らったら何をされるか、想像もつきません。だからその家に仕えるものは長くて三か月、短いと数週間で逃げ出し、精神を病む者もいるという噂でした。しかし、私はその家で、半年働いていました。
「よくもまあ、そんなに続けられるものだ」
「どうして逃げないの」
 小さい子供までもがそう聞きました。私は答えませんでした。私にもわからないのです。私が好意を寄せた人がいたとしても、結ばれることはない。そういう時代です。それならば、どうなってもいいと諦めていたのかもしれません。昔は、こんなに暗い性格ではなかったと記憶しています。両親の愛を感じることもありました。友人に、恋もしました。しかし、周りの人を見て現実を知ってから、私の心は冷たくなっていきました。私は理想の恋を追い求め、そして諦めた、悲しい女なのです。
 その日もいつも通り、約束された仕事の時間を大幅に過ぎた深夜、私は帰途につきました。いつものように、雪が降っていました。
 ふわっと、白いものが見えました。暗い夜道を照らす提灯の明かりの中、大きな綿毛のような、ふわふわとしたものが先を歩いていきます。もしその光景を誰かに見られていたのならば、従順な犬を、散歩しているように見えていたのではないでしょうか。私は小さな足跡をたどりました。
 しばらく歩くと、大きな綿毛はピタッと止まりました。顔を上げると、そこは私の家の前でした。白い何かはくるりと振り向き、その凛々しい顔をこちらへ向けました。
 白い綿毛の正体は、狐でした。
「ここまで送ってくれたの」
 返事をするように、大きな尻尾を揺らしました。
「ありがとう」
 白い狐はお辞儀をするように頭を下げると、宵闇の中へ走って消えていきました。私はしばらくの間、狐の消えていった闇を眺めていました。

 その不思議な出来事から数か月が経った、からっと晴れた朝のことです。私は両親と、村の商人の家へと雪道の中を歩いていました。初めて着た晴れ着の裾が雪に濡れ、お母様の機嫌を損ねてしまいました。
 その日、私は夫となる人の家へ向かっていたのです。
「いらっしゃい。さあ、上がって」
「これで足元を拭いてください」
 商人の息子は手拭いを手渡してくれました。美しい顔立ちの男性でした。好意を寄せていたわけではありませんでしたが、この人となら幸せな家庭が築けると、どこかで確信しました。これで、斉藤様の元を離れることができます。そういう考えも、頭をよぎりました。
 彼の名は「誠」と書いて「まこと」と言いました。その名の通り、誠実そうな人に見えました。
 顔合わせは滞りなく終わりました。雪がほとんど溶けてぬかるんだ道を、晴れ着の足元を汚さぬように、ゆっくりと帰っていきました。誠さんは姿が見えなくなるまで、私達を見送ってくれました。
「一か月後、お嫁に行くのよ」
 そう告げられたのは一昨日の夜、斉藤様の家から帰宅したすぐ後でした。
「相手は商人の息子だ。誠実な人と聞いているから、心配することはない」
 お父様も、そう言いました。
「一か月、準備する期間も下さって……本当に良い方々です」
 二人とも、どこか寂しそうでした。私は一つ頷くと、米のない夕飯に手を付けました。

 その日の夜のことです。私は斉藤様の元で最後の仕事を終え、いつもどおり暗い夜道を一人で歩いていました。
「あの、こんばんは」
 声を掛けられた時、一瞬、誰だかわかりませんでした。
 右手の提灯が、吊り目で白髪で、整った顔立ちの男性を闇の中に浮かび上がらせました。誠さんと同じくらいの年齢だと思われます。誠さんが「誠」なら、彼は「麗」でしょうか。雪のように美しく、そして、雪に解けて消えてしまいそうな、儚い印象を受けました。
「えっと……」
「……覚えていないのであれば、大丈夫です。突然、すみませんでした」
 彼は軽く頭を下げて、私の横を通り過ぎていきました。私はふと、思い出しました。
「もしかして、あの夜のお方ですか」
 私が振り返ると、彼は足を止めました。
「覚えていて下さったのですか」
 か細い声は、震えていました。
「その声、私は好きですから。生きていてくださって、嬉しいです」
 白髪の彼は、振り向かずに話しました。
「僕はあの夜、道に迷っていたのではありません。他の目的があって、あなたの家に向かいました。あなたは覚えていますか。十年ほど前、僕を助けてくれたことを」
 彼の声は降り始めた雪に吸い込まれ、とても小さく聞こえました。
「まだ幼かったあなたは、小屋の中でばたばたともがいていた僕の足に、この手拭いを巻いてくださりました。とても優しい手つきで」
 小さな金色の毛玉のような彼の姿が蘇りました。暑い夏の日、農具が仕舞われた小屋の中で暴れまわっていた、小さな狐の姿。
「僕はいつか、恩返しをしないといけないと思っていました。でも、この姿になるので精一杯だった。だから、せめて手当てしてくれた手拭いだけでも返そうと思って、あなたの元へと、こうして参上しました」
 よく見れば、彼は右手に手拭いを握っています。色は元のように白いのですが、ほつれがひどく、使い物にならないでしょう。
「返すのが遅くなったことを、許してください。この姿になるまでに、これほどの時間が必要だったのです。この手から勝手に持って行ってください。今はみっともない顔をしているので、振り向けません」
 彼はそう言って、右手を後ろに差し出しました。小刻みに震えているのは、寒さからでしょうか。私は背の高い彼に近づきました。
「どうして泣いているのですか」
「どうしてそんな野暮なことを聞くのですか」
「その手拭いは、持っていてください。もう使いませんので」
 彼は右手を下ろしました。そして、ぎゅっと手拭いを握りました。
「あなたはずるいです。成長するにしたがって、美しくなっていく……」
「あなたも、十分美しくなりました。十年前のあなたは、黄色い小さな毛玉のようだったのに」
「それは悪口ですか」
「いいえ、かわいらしかったということです。こんなにも美しくなって……」
 彼の肩が震えました。私は力の限り、彼の広い背中を抱きしめました。
「僕は山から時々下りてきては、遠くからあなたを見ていました。気持ち悪いと思っても仕方ないと思います。僕は、あなたに一目惚れをしたのです」
 彼はきっと知っていたのでしょう。私が結婚することを。
「一目惚れですか……そんなの、私も一緒です。闇の中、提灯の前に立つあなたを見て、私は……」
 私と彼の頭には、真っ白な雪が積もっていました。彼の髪のように白い雪。
「雪のような白髪、それはきっと、春になると金色になるのでしょうね」
 私が彼の頭の雪を落とすと、彼が、ゆっくりと振り返りました。鼻の頭と目元は赤くなっています。
「あなたが誰かの妻となっても、僕を覚えていてくれますか」
「はい。忘れるわけがありません」
 彼も私の上の雪を落としました。とても、とても優しい仕草で。
「遊びに来てもいいですよ。本当の姿でなら」
「では、あなたが可愛いという、金色の毛玉となって会いに行きましょう。今の僕が可愛いかどうかは分かりませんが」
 私たちは、静かに笑いました。
「その時は、油揚げでも用意しておきましょうか」
「食べ物なら、なんでも」
「……必ず、会いに来てくれますか」
「必ず行きます。この姿ではありませんが、僕の、本当の姿で」
 私は彼を、もう一度、強く抱きしめました。
「あなたにこうして、あなたと同じ人間として、お話しできてよかったです。次は狐の姿で会いに行きます。待っていてください」
「はい、待っています。油揚げを、たくさん用意して」
 彼は私の肩を持ち、少し離れました。そして、額に口づけをしました。
「では、また」
 そういうと、彼は背を向けて歩き出しました。雪色の、綿毛のようなしっぽが見えたと思うと、次の瞬間には白い狐になっていました。
「また会えるというのに、寂しく感じるのはなぜなのでしょうか」
 小さな村でのお話です。
 私が恋した彼は、狐でした。