会社へと向かう道の途中で、大学ノートを拾った。
青い、古びた大学ノート。
肉屋の前に落ちていたから、そこのおばちゃんに声を掛けた。
「あの、これ、落ちていたんですけど」
「あら、誰のかしら。ありがとうね、預かっておこうかしらね」
青い表紙の大学ノートを、ふっくらとした小さな手のおばちゃんに渡し、いつも通り会社へ向かった。
肉屋の前のその道は、毎日通るわけではない。気分転換のために時々通るだけ。だからその道をまた通ったのは、ノートを渡してから一週間経った後だった。
「ああ、そこのお姉さん」
声の主は、あのおばちゃんだった。手招きをしている。
「このノート、持ち主が見つからないのよ。それでちらっと──本当に少しだけ見てみたの。でも何も書いてなくて、持ち主には返せないし、捨てるのももったいなくてね……」
その日、一冊の青い大学ノートが、日常の何気ない風景に取り入れられた。
少しだけ、不愛想。そして、色鮮やか。
しかし、よく見れば表紙は黒く汚れている箇所があり、ところどころに傷もついている。それでも鮮やかさは不思議と失われていない。
何年も使われていなかったのだろう。この傷を負ったノートは、それに耐えられなくなって、持ち主の元から逃げ出してきたのかもしれない。
スーツのままで、大学ノートを棚の上に飾る。白と黒と茶色ばかりの薄暗い部屋に、傷を負いながらも色鮮やかに青色を放つ古い大学ノートが加わった。
時計が時を刻む音を聞きながら、私はずっと、その青い表紙を見ていた。
外は夕焼けに染まっているのだろう。カーテンの隙間から、赤い光が弱々しく差し込み、薄暗い部屋をほのかに染めている。
アゲハのことを、思い出した。
アゲハは昔、実家で飼っていた雌のパピヨンの名前だ。名付け親は母。
物心ついた時にはアゲハは家族として当たり前に存在していたから、幼い頃のアゲハの姿は覚えていない。母の話によると、初めて家に来た時、ケージから出されると、怯える様子もなく堂々と居間を歩き始めたらしい。まるで、ここで一生を終えることを決めたかのように。
母はよく言っていた。
「その堂々とした姿とあの立派な耳。アゲハって名前、ぴったりでしょう」
そんなアゲハには、たった一つだけ、嫌がることがあった。
それは、抱かれること。アゲハは抱き上げられると、体をくねくねと揺さぶり、腕の中から脱出を図った。鳴くことはなかったが、逃げ出した後は、お気に入りの青い犬用クッションの上で丸くなった。誰が近づいても我関せず。そのまま眠ってしまうこともあった。
私とアゲハは一緒に育った。幼稚園の頃から、ずっと。
毎日散歩をしたが、その青いリードを買い替えることはなかった。それくらい、暴れることもなく、大人しい犬だった。
私がいじめられた時は、何も言わずに──鳴かずにそばにいてくれた。
私が疲れた時は、目を伏せ、背中を差し出してくれた。
『撫でて、元気を出して』
そう言ってくれていたのだと思う。
立派な姿のアゲハは、いつも何気ない日常の風景の中にいた。
そんなアゲハが、ある日、死んだ。
私が中学三年生の頃のことだった。
私が部活から帰ってくると、アゲハはいつものように青いクッションの上で丸まっていた。
私は疲れていたから、アゲハの方から寄ってきてくれると思っていた。
しかし、もうアゲハが立ち上がることはなかった。
嫌な予感がした私がアゲハの背中に手をやると、もう冷たくなっていた。
私はアゲハを抱き上げた。嫌がって逃げ出そうとするアゲハは、もういなかった。されるがまま、抱き上げられていた。少し、固くなっていた。
次の日、アゲハは火葬され、骨だけになった。
青空には、白い煙が細く昇っていった。
青いリードと青いクッションは、アゲハと一緒に棺桶の中に収められたから、もうこの世にはない。
だから、アゲハを思い出すこともなかった。
大学ノートを見ていると、走馬灯のようにアゲハの姿が蘇ってきた。鮮明な古いその風景の中に、温かい優しさを感じた。それは、単調な毎日の中になかったもの。
家族と最後に連絡をしたのは、いつだっただろう。
普段は使われず、沈黙の中で眠りについていた固定電話を手に取った。実家の古い電話へと繋がる番号は覚えている。一つずつ、ボタンを押していく。
数回のコールの後、受話器が取られた。
「もしもし、高原ですけど」
懐かしい声が聞こえた。最後に聞いた声より、少し、掠れているような気がする。
「……もしもし、お母さん?」
「え?」
「美咲。美咲だよ」
「珍しい。美咲から電話してくるなんて。どうしたの?」
言葉に迷った。どうしたのと聞かれても、答えを用意していなかった私は、何と言えばいいのか分からなかった。
助けを求めるように部屋を見回すと、目に入ったのは鮮やかな青色。
「……少し、寂しくなって」
素直な言葉が飛び出した。自分でも驚いたけれど、それ以上に母は驚いたらしく、何かあったのかとしつこく聞いてくる。
「何もないよ」
大学ノートを拾ったんだ。なんて、話を盛り上げるような話題ではない。
「年末、帰ってきなさいよ」
「年末?」
「あと二週間で大晦日なんだから」
カレンダーに目をやると、今年の三月で時が止まっていた。考えてみると、最後に電話したのもその頃だと気づいた。
「仕事が休みなら、帰ってきたら? もう三年も帰ってきてないんだから」
「うん、一週間くらい休みだから帰るね」
「そうしなさい」
別れの挨拶を済ませ、電話を置いた。
氷のように冷たかった部屋が、ほんの少し暖かくなった気がする。
スーツから部屋着に着替え、棚の上の大学ノートを手に取った。
青い、大学ノート。
青い、クッション。
青い、リード。
青い、空。
古い、大学ノート。
古い、記憶。
年老いた、パピヨン。
パズルピースのように心に残った景色。きっとこれからも、色あせることはない。
久しぶりに帰るんだから、アゲハのお墓参りもしなくてはいけない。
帰るときは青い何かを買って行こう。
大学ノートもお供えして来よう。
「これは何?」
そう聞かれたら、きちんとこう答える。
「アゲハの分身だよ」
と。