地方から東京の大学に入り、三階建ての女子学生寮へ住むことになった。二階の朝日がよく入る部屋だ。
新生活を始めて折。翔子には一つ悩みができた。これまで平屋に住んでいる彼女にとっては、天井の奥から聞こえる声は違和感を拭えないものだった。
でもだからと言って、隣人トラブルを避けたい翔子には耐えるほかない。ただの雑音であれば、ままあることだろうし、逆に私の部屋の音が漏れ出てしまうこともあるだろう。そう言い聞かせ、関係に刺激を与えないようにしていた。変な勘違いされても困るので、上の階を見に行ってもいない。
しかし、春が終わろうとしたある日の夜、けたたましい悲鳴が頭上で響いた。翔子はパジャマのままスリッパをひっかけて階段を駆け上がった。
ただ事ではない。鍵をかける癖がなかなかつかぬほどの田舎娘でもそれはわかる。
体が震えた。三階には誰も住んでいなかったのだ。端から表札を確認していくごとに、気温が下がっていくのがわかる。カチリカチリカチリカチリと歯が激しく噛み合う。
足は自分自身の部屋へ戻ろうとしているが、頭がまだ状況を処理できず固まったままだ。
部屋の前には、女性がへたり込んでいた。真下に住んでいた同級生だ。
「あのね! さっき悲鳴が聞こえたの!」
彼女の言葉に翔子は少し安らぎを覚える。
「あたしもよ! よかった。あたしだけじゃないのよね。そうよね。あんなにおぞましい悲鳴だったものね! よかった。いえ、よくはないのだけど、幻聴じゃあないのよね」
「どうしよう。怖い。怖くて震えがさっきから止まらないの。やっぱり警察に通報したほうがいいのかな? いいのよね? 分からないわ。動転しちゃって。恐ろしくて。ねえ、どうしたらいいのかしら。あなたのお名前も知らないのだけれど、助けてってのは違うわよね?あなたも被害者なのだろうし、ええ。そう。怖いのよ。だから……えっと、どう、どうすればいいのかな?」
翔子は自分よりも恐怖に飲まれている彼女を見て、少し冷静になった。突然のことで気が動転してしまうのは仕方のないこと……と一呼吸を置く。
彼女を安心させるように手を伸ばす。応えるように、うるんだ瞳でこちらを見て、震えた手を添えてくる。翔子は包み込むようにもう一方の手をその上に乗せる。
「大丈夫。落ち着いて」
「え、ええ」
「まずは寮長に相談しましょう? 寮長室にいるはずだから。場所は覚えているわ。悲鳴が聞こえないくらい熟睡しているみたいね。うらやましいこと。それで、対応は大人に任せましょう? 大丈夫。少し時間がかかるかもしれないけれど、ゆっくり寝られるようになるわ。明日も元気に、学校にも行かなくちゃいけないものね。大丈夫。そう。大丈夫だから。安心して。ね?」
「ええ。ええ! そうよね。大丈夫……大丈夫」
彼女の震えはだんだんと収まり、立ち上がったところで翔子は両手をゆっくりと離した。翔子は自転車の乗り方を教えてくれた祖母が、同じことをしていたのを思い出していた。
「さあ、行きましょう。三階には近寄らないほうがいいわよね。不気味なのだもの。悲鳴が聞こえるだけじゃなくて、ほかの部屋に誰も住んでいないのよ? ああ、怖がらせるつもりはなかったの。ごめんなさい。でも、大丈夫よ。もうすぐ解決するもの。」
後者は偶然で、前者だって真相は鼠だとか、ドアがきしむ音だとか、そんなものだろう。寝起きの目覚まし時計は数倍うるさく聞こえたりするもので、その類だ。現象の名前は知らないが、そういった日常にあふれるものかもしれない。いいえ! きっとそう!
翔子が思考を巡らせることで、自身も恐怖を打ち消そうとしていると、ふと、異変に気付く。
彼女は部屋の前に再びへたり込んでいた。翔子が再び立ち上がらせようと近寄ろうとすると「来ないで!」と叫んだ。
「ええ。そうよね。なにか……何かおかしいとは思っていたの。だってあなたは、私の部屋には来てないものね。階段を降りてはいないのよね。ええ、そう。そうよね。やっぱり。おかしいのよ、おかしくなってしまいそう。あなた……あなた名前は……表札に書いてあるわね。苗字は……これなんて読むの? どうでもいいけれど……いえ、ごめんなさい。えっと翔子さん? で、合っているわよね。うん。ここはおかしくない。で、翔子さん。質問をしてもいいかしら?」
震えが再び彼女にまとわれ、血の気が引いた顔でこちらを見る。翔子は頷いた。
「翔子さん、悲鳴は三階から聞こえたって言ったわよね? だから三階の様子を見に行って、不気味な光景を目の当たりにして、戻ってきた。そう、そういうことよね? あっているわよね?」
「え、ええ。そうよ。あたしはそう行動したわ。合っているわ」
それを聞いて、彼女は叫んだ。
「いいえ! いいえ! 間違っているの! だって悲鳴は下から聞こえたのだもの! 一階に住んでいる私の部屋の真下から! 地下室なんてこの寮にはないにもかかわらず!」
影が見えた。月明かりが憎いと言わんばかりの黒さを持った影が、有象無象に変形しながら彼女の背後に見えた。
しかし、名も知らぬ彼女のほうが早かった。
「翔子さん! 跳んで!」
声につられ、翔子は思わず二階から中庭へと飛んだ。陸上競技選手でもある彼女にとって、跳躍中の時間感覚は慣れたものであったが、この時ばかりはとても長く感じた。
まず、自身の背後から迫ってきていた影が見えた。こちらを見ている……気がする。しかし追ってくる気配はない。ただこちらを見続けている。視界に入れるだけで眼球が腐敗していくようだった。
次に、見えていた影に飲み込まれていく彼女が見えた。抵抗の余地なく、包み込まれた。
最後に、影たちが部屋に入っていくのが見えた。彼女を飲み込んだ影は、私の部屋に入っていった。その際、表札が白紙に変わっていた。
そして、彼女の悲鳴が聞こえた。
落ちた衝撃で薄くなっていく意識の中で、勢いよくガチャリとドアを開け階段を駆け上る音が一階から。遅れて恐る恐るドアを開け階段を降りる音が三階から。聞こえた。
行ってはいけない。けれど、諦めてはいけない。
此度の残響は中庭に残り、春は明けぬ。