読書設定

文字サイズ

背景色

フォント

方向

フィールドワーク
『三毛猫のメメ ―コイ、願うもの―』著:兎洞ありな

 葉っぱばかりの自然の中に、大きな木がアーチのようになっていた。人間たちはその下を通る時にお辞儀をする必要があるらしいが、ボクには関係ない。
 だって、猫だから。
 人間たちはボクがアーチの下を通ると真ん中をあけて歩いて行く。中には「きゃー」と声を上げたり、「かわいい~」と四角い板をもつ人間がいる。ボクは賢いから知ってる。あの四角い板はカワイイボクを「とる」ためのものなんだってことを。そしてそういうモテモテの人間はアイドルといわれるすごい人間らしい。
 つまり、ボクは人間ではないけど、人間たちのアイドルなのだ。
 愛されることも、褒められることも、頭を撫でられることも、もう日常茶飯事。こうやって平らな石ばっかりの道をてくてくと歩いているだけで人間たちの注目のまとだった。けれど、ボクはいちいち相手になんてしない。一流のアイドルには、クールであることも必要なのだ。
 人間たちがずらーっと蟻の行列のように歩いている。でも、途中で分かれ道があった。
 どうやら庭を守っている人間がいるらしい。その人間のおじいさんと話をして、通してほしいと話し合わないといけないらしい。
 人間は大変だねー。
 でも、ボクには関係ないことだ。だって、猫だから。
 庭を守っているおじいさんに、
「にゃー」
 と、ひと鳴きすれば堂々と通してくれる。
 ボクはアイドルでもあるけど、ビックでもあるのだ。
 
 この庭は選ばれた者しか立ち入れない場所だから、さっきの歩いてきたところよりも静かで心地よい。僕のお気に入りの場所にしよう。
 ボクよりはるかに大きい木のさらに上には温かい「ひ」がある。葉っぱの間からちらちらと輝いている「ひ」に目を細めながら、ボクは大きな水たまりを見つけた。
 ボクは水が嫌いだ。
 濡れるとボクの綺麗な毛並みがぐちゃぐちゃになってしまうし、肉球で触ると冷たくて変な感じがして嫌なのだ。それなのに、ボクはその水たまりに吸い込まれるように近づいていく。
 池をのぞいた瞬間、バシャ、と水が跳ねる。
「ニャッ!」
 鳴き声をあげて後ずさりすると、池の中から渋い枯れ草のような声がしてきた。
『あー、すまんすまん。大丈夫か?』
 そろそろと水たまりに近づく。そして声の主が分かると、ボクはジロリとそいつを睨みつけた。
『大丈夫じゃないよ、危ないじゃないか!』
 シャーッ! と、威嚇すると池の中からこちらを見上げているそいつは口をぱくぱくと開いた。声の主はこの池に住んでいるコイだった。
『悪かったよ、てっきり白鳥かと思ってな』
『だから、わざと水をかけようとしたの?』
『違う違う、水をかけようと思ったんじゃない。ここに居るぞってアピールしたかったんだ』
 ボクは首をかしげた。
『なんでそんなことするの? 食べられちゃうよ』
『それが狙いなんだよ。……あぁ、いや、本当は食べられたくないがな』
『じゃあ、なんで?』
 水の中に沈もうとするコイを、声をかけて引き止める。その時にまた水がバシャッとはねたが、今度は小さかった。コイがちゃんと工夫してくれたらしい。
 ボクは安心して水の瀬戸際まで近づいた。
『お前に言うことじゃねぇよ』
『いいじゃん。それにボクだってお魚ぐらい食べれるよ』
『だから、食べられたい訳じゃねぇって……』
 ざらざらの舌をぺろっと出す。
 それを見たコイは「やめろよ」といって顔を引っ込ませてしまった。残念、食べられたいのかと思ったのに。でも、コイっておいしくないし別にいいか。
『食べないから教えてよ、なんで白鳥を探してるの?』
『……』
『ねぇねぇ、教えてよ~』
『…………笑わないか?』
『笑わない!』
 コイはそっと水の中から顔を出して、内緒話をするように小さく口をぱくぱくさせた。
『……空を、泳いでみたいんだよ』
『空を?』
 ぱっと上を向く。遠い、遠い、手の届かない青い空を見上げる。確かにボクらは空に手は届かないけれど、白鳥ならあの青い空に届くのかもしれない。白鳥じゃなくたって、手に羽を持つ生き物たちは空を泳いでいるのだ。
 それがきっと、コイは羨ましいのだろう。
 でも、とボクは下を向いた。大きな池にふよふよと浮かぶコイに向かってボクは言う。

『――でも、君だって空を泳いでるよ?』

『はぁ?』
 何言ってんだこいつ、とばかりにコイは口をあんぐりと開ける。それを気にせず、猫は大きな池を見た。大きな池は空のように広く、ひのように輝いていた。大きな池はよく見ると水たまりにしか見えないけど、大きく広く見れば、そこには空があったのだ。
 猫にはそれが「反射」というものだと知らない。知らないからこそ、猫にとってはコイが空を泳いでいるように思えたのだ。猫にとっては空を泳ぐ鳥も、池の中で泳いでいるコイも変わらない。
 ほら、とボクは再びうなずいた。
『君はずっと空を泳いでるよ』
 凪いだ水面に小さく波紋が広がった。水面に映った空もゆらりと揺れ動く。そしてすぐに真っ青な空と真っ白な雲が現れた。
 コイはその空の中で嬉しそうに、でもどこか照れくさそうに泡を吐く。
『……へっ、ありがとよ』
 それだけ言って真っ白なコイは空の中へと溶けていった。
『え、なにが?』
 見えなくなった姿に問いかけてみても、波がひとつ動いただけだった。
 もう一つの空の中で美しくゆうゆうと泳いでいるコイ。その姿を見て猫は不思議な気持ちになる。
 その時の感情の名前を猫が知るのは、もう少し先の話だ。

(了)