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 どこかの街の、どこか一角。
 営業時間もわからない。
 不思議な不思議な、そのお店。
 そこにはなぜか、失恋した者ばかりが、訪れる。

     ◆

「あああああぁぁぁぁぁぁぁ……」
 ため息なのか、嘆きなのかもわからない声を、歩きながら何分上げ続けているだろう。
「……もう嫌だ。今度こそ死ぬぅ。死んでやるぅぅぅぅぅ……」
 人生の中で、自殺を決意するのはもう十回目。いや、十二か?
 大体は新しい恋を見つけて生きてきた。だが、もうダメだ。あれ以上の恋はできない。
「好きだったのにぃぃぃぃぃ……」
 野宮洸。今年で二十五。今回惚れたのは仕事の上司、浅井享士。
 洸は、根っからゲイだった。茶髪に小柄な体つきな彼は、性格が素直なせいか、柴犬なんてあだ名がついている。
 昔から男性にしか惚れず、失恋するたびに自殺を考えるネガティブさ。
 それを変えるために大学で女性と無理に付き合ったこともあるが、いざ夜の営みを試みると気持ち悪くて吐いてしまった。
 あの後はひどかった。彼女は逃げ出し、次の日からは大学でいじめられた。陰湿すぎて、思い出すだけで身震いする。
 今回の相手、浅井さんは、仕事はできるしスーツ姿が色っぽいし、黒髪も、鋭い瞳の中の優しい光も、なにもかもが美しくかっこいい。
 洸のドストライクだったのだ。
 いままでの経験上、がっつけば断られるとわかっている。慎重に慎重に近づき、仕事のあとに飲みに行く仲にまでになった。
 仕事場では見せない優しい笑みを見て、『これ行けんじゃね?』なんて思ったのが間違いだった。
『え、なんだ? 面白い冗談だなー。あはははは』
 思い切り笑い飛ばされ、恥ずかしくて飛び出してきた。
 しかも、荷物全部おいて。
 金も定期もないので、家に帰ることもできない。
 野宿なんてのも寂しい。――――もういっそ死のう。
「よさそうなビルないかな……。あぁ、スカイツリーから華々しく散るのもいいか……」
 迷惑なんて知らない。もう死ぬ。死んで神様と新しい恋を……――――。
「ん?」
 ふと、目に留まったのは暖かい光をこぼす店。
 昔ながらのカフェか洋食店のようなそれに、妙な感じを覚える。
「喫茶『猫の手』……?」
 肉球が書かれた木製の看板。
 それに招かれるように、気づけば店内へと足を踏み込んでいた。
 カランコロンと、静かな店内に音が響く。暖かい雰囲気の店内は、壁も床も天井も、机や椅子まですべてが木でできていた。
 優しい雰囲気が浅井さんを連想させ、再び泣きそうになっていると奥から初老の男性が現れた。
 黒いエプロンを付けた男性は、白い髪をオールバックで固め、こちらを驚いた顔で見た。
「おや、珍しい。男性に失恋なさった男性のお客さまか」
「うえ!? な、なんで……!?」
 初対面でなぜわかる。
「ちょ、超能力者……?」
 心が読めるとか、そういうあれだろうか。
 男性――――恐らくここのマスターは、細めた目を少し開いてから静かに微笑む。
「いやいや、年を取るとわかるようになるものですよ」
 包容力のある微笑みに、すっかり警戒心を忘れた洸は、引き寄せられるようにマスターの前のカウンター席に座った。
「お客さん、俺しかいないですね」
 失礼なことをいきなり聞いてしまい、慌てて意味もなく口を両手で塞ぐが、マスターは気にした風もなく頷く。
「えぇ、いつものことです」
 そんなことで経営は大丈夫なのだろうか。心配したが、いまは自分のことだけで精一杯だ。
「好きだったんですね、浅井さんのこと」
「えぇ!? そんなことまでわかるんですか!? 年の功ってすげぇ……」
 年ってすごいな。超能力みたいだ。
「入社したばかりのころに、俺……ミスしちゃって。みんなに責められて、辛くて」
 役立たず。おまえのような者がなぜ入社した。辞めろ。
 上司も同期も、誰も庇ってはくれなかったし、暴言ばかり浴びせられた。
 そもそも、その仕事は上司の倉井さんが面倒だからと洸に押し付けたものだった。やり方も教えないまま、倉井さんは飲みに行き、一人で頑張ったのだ。
 その倉井さんも、責任を取りたくないのか責め立てる側にいて、どうしようもなかった。
「でも、浅井さんは、俺を庇ってくれたんです!」
 この仕事は、彼ではなく倉井さんに任せたはずです。なぜ、彼がやっているのですか。大体、教えれば間違えるはずのない仕事だ。
 倉井さんの失態なのだと、浅井さんは責め立てていた全員に聞こえるように言ってくれた。
「『君が悪かったのは、他の人間に仕事のやり方を聞かなかったことだ。次からは私に聞きなさい』なんて言って電話番号まで教えてくれて! かっこよすぎて一瞬で好きになっちゃって!」
 いま思い出しても胸がキュンキュンする。
 そして思い出すのは、先ほど笑われたこと。
「……本気で好きになったから、まずは仕事を頑張って認めてもらって、同じプロジェクトにも参加して、少しずつ距離を縮めて」
 あのひとに気に入られるために、必死に必死に頑張ったのに。
「なのにふられたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」
 はっきり断られて、軽蔑された方がまだよかった。信じてもらえない方がよほどきつい。
「もう一緒に仕事できない……。傍にいれない……。うぅぅ、やっぱり死ぬしか……」
「おやおや、それは、こちらを食べてからにしなさい」
 出されたそれは、社員食堂のカツ丼。
「へ、なんでここに?」
「思い出の食べ物でしょう? 初めて浅井さんと昼食をとった」
 答えになっていない。しかも、またもや年の功でばれている。
 確かに、これはあのひとと初めて一緒に食べた、カツ丼。
 隣に座られて、驚いて咳き込んだら、水をくれたし、頬につけた卵を取って食べてくれたし。
 あのときはまだ幸せだった。
 トキメキで胸が張り裂けそうだったけど、幸福感でいっぱいだった。
 出された箸で、カツ丼のカツをつまみ、一口食べれば、あの日のことだけでなく、あのひとのために尽くした日々が溢れてきた。
 社員食堂の、安っぽくって薄い肉。なのにそれが、酷くおいしくておいしくて。
「……おかしいですね。涙が止まらない」
 大好きだ。振られてもなお。
 あの優しさは、みんなに平等に向けられていたけれど。
 幸せだった。
 あの優しさに包まれていた時間が。
「……うぅぅ」
 マスターはなにも言わず、ただ静かに見守ってくれた。
 涙で少ししょっぱくなったカツ丼を食べ終えたころには、涙は治まり、妙に心がすっきりしていた。
「ごちそうさまでした!」
 そう言ってから気づく。
 お金……おいてきちゃった。
「あ、ああ、あの、値段は……」
「お金、おいて来てしまったのでしょう? 大丈夫。もうすぐ来てくださいますよ」
「……へ?」
 来てくださいます? お金が? 財布って歩けるんだっけ?
 混乱していると、お店のドアが勢いよく開いた。
「野宮!」
 シャツもスーツもぐちゃぐちゃで、いつもまとまっている髪も乱れた、浅井さんがそこにいた。
「へ、あ、浅井さん!?」
 全力で走ってきたのか、息が切れ、肩が上下している。
「なんでここが!?」
「わからん。ここにいる気がした」
 近づいてくる浅井さんに、洸は下がる。しかし、浅井さんは洸の肩を掴んだ。
「なぜ逃げる」
「え、いや、だって……」
 気まずいんだもん。とは言えずにいると、浅井さんが顔を近づけた。
「さっきの告白、あれは本気か?」
「え、ああぁ、えっと…………はい」
 今度こそ軽蔑されるのだと、身構えたそのとき。
「よかったぁぁ……」
 なんて、浅井さんが安堵した。
 なにがいいのか考えていると、唇に柔らかい感触が。
「………………ふぁ!?」
 浅井さんの顔が目の前にある。
 浅井さんの鼓動が聞こえる。
 これは、――――キスされている?
 いやいやいやいや。いやいやいやいやいや!
 これは夢だなさては。じゃないとこんなことが起こるわけがない。
「ほほう。熱烈ですな」
 なんてマスターがにやにやしてるけど、夢だから。
「俺も、好きだったんだ。おまえのこと」
 ほぉーら見てみろ。こんなことが起こるわけない。
「告白されて、信じられなくて笑った。でも、おまえが泣きそうな顔で逃げてくから……」
 浅井さんが受け入れてくれるはずない。
 悪い夢だ。夢なら覚めろー。はよ覚めろー。
「聞いてるか野宮」
 頬をつねられ、確信する。
「痛い。………………夢じゃない!?」
「おまえな……」
「いやだって! 信じられます!? 両想いだったとか、そんな馬鹿な!」
 夢じゃないとしたらなんだ? 明日死ぬ? 世界滅亡? ――――あり得る。
「おまえネガティブすぎないか? 両想いで、幸せだろ?」
「………………幸せ過ぎて死ぬ」
「おまえは!」
 抱きしめられて、正直もう心臓とか肺とかいろんな臓器が全部口から飛び出そう。
「好きだ。付き合ってくれ」
 なんて言われてしまったらもう、全身破裂するんじゃないかな。
「返事は?」
「は、はい……」
 い、いまならたぶん。
「死んでも生き返れる……」
「ゾンビかよ」
 そう笑っている浅井さんの隣にいることができる。
 それだけで魂が十個ぐらい増えてる気がする。
「どうやら解決したようですね、よかったよかった」
「マスター、ありがとうございました!」
「いえいえ。私はなにもしてませんよ」
 優しい微笑みは、男性なのにマリア様のよう。いや、仏さま?
 お会計をして、洸と浅井さんは店を出る。
 それからというもの、仕事もプライベートも順調で、今度出世する。
 真っ先に報告したくて、喫茶『猫の手』に向かうと、そこにはなにもなかった。
「あれ……?」
 そこだけぽっかりと空間があり、まるで猫騙しにあったかのよう。
「幽霊だった……とか?」
 それにしては、恐怖はなかった。むしろもっと豊かな……。
「神様ってことにしておこう」
 空き地にお辞儀だけして、洸は帰って行った。

     ◆

 どこかの街の、どこか一角。
 営業時間もわからない。
 不思議な不思議な、そのお店。
 失恋した者の元へ、今日も開店いたします。

 カランコロン。