彼女が遺した最期の言葉は「ありがとう」だった。
最早どれだけの時間を費やしたかも分からぬ永劫に等しい繰り返しの末、遂に勝ち得た彼女の命。幾度となく発狂しては正気に戻り、努力という言葉が生ぬるいほどに俺は、同じ時間を繰り返し続けていた。
自己満足だろう。彼女の為だと言いながら、彼女はずっと物言わぬ死人でしかなかった。ようやく救えた彼女も、俺がどれだけの時を巡っていたかなど知る由もない。だから俺は、それからの人生をそれまでの回帰と同じく、彼女を幸せにする為に費やしたのだ。
彼女が平穏な日々を望むなら、俺は培った知識を無駄にしてでも平凡な人間を演じた。彼女がたまに贅沢を望むなら、俺は普通の男がするように背伸びしたプレゼントを贈った。彼女が俺の健康を望むなら、俺は既に恐怖も感じなくなった死を多少遠ざけるよう努めた。
そして彼女が望むなら、俺は彼女の死をも受け入れた。医者は延命措置が有効だなんだと反対したが、そんなものは俺一人でも実現できる。重要なのは、彼女がそれを望むかどうか、ただそれだけだった。
せめて最期は安らかに。あのときのような苦痛に満ちた病ではなく、幸福なままに全て終われる安らぎの中で死んでくれ。俺はそう願い、事実その通りになった。死に逝くそのときまで、彼女は変わらず穏やかで、笑顔のまま息を引き取ったのだ。
最期の言葉は、俺を救うには十分だった。彼女は何も知らない。俺がどれだけの残酷を繰り返し、どれだけの狂気で溢れていたのか。だが確かに、俺の行いは無駄にならなかったのだ。自己満足で何が悪い。俺は、俺の為に彼女を幸せにしてやったのだ。
「私もすぐ、そちらへ向かう事になるだろう。いや、彼らの言い分を信じるならば……もう君は世界のどこにも居ないのかもな、智香」
あの忌々しい朝から五十余年。正直、俺が彼女よりも長く生きるとは思っていなかった。元から病弱だった彼女のことだ、本来の寿命も常人より短かったのだろう。八十代も半ばになる爺を置いて逝くこともなかろうに。
「結局、俺の最期は一人か。まあ、それも慣れたものだな……悔いはない」
彼女の最期を看取った翌朝、俺は自分の体から気力や精気と呼べるような代物が軒並み流れ出していくのを感じた。眠っている間に殺してくれれば良いものを、悪趣味な奴らだ。俺はくたびれた軍服姿の男を思い浮かべると、約半世紀ぶりとなる彼との再会を果たした。
「やあ、久しぶりだな。満足できたか、狂人」
「ああ、お陰様でな」
漆黒の空には白い太陽が昇り、窓の外には光が欠けている。十万に届く回数は見た光景だ。この電車が行き着く先も、俺はとっくに知っている。
「言った通りだっただろう。人はいずれ死ぬ。お前も、あの女も、それは変わりないことだ」
「そうだな、その通りだ。だが俺は満足しているぞ。後悔など、ありはしないさ」
「……やっぱり狂ってるよ、お前。万単位の年月を賭けて、たかだか半世紀程度の幸せに満足するなんて」
「労力に見合う価値がその五十年にはあった、ただそれだけの話だ」
俺は吐き捨てるように告げると、俺と男の二人以外に乗客が居ない車両で、彼の正面に当たる座席へと腰を下ろした。
「強いて言うなら、最期に見る顔がお前だというのは気に食わないがな。まあ、虚無とやらに呑まれればそんな感情も無意味なのだろうが」
「此岸の連中は輪廻だ生まれ変わりだなどと妙な期待をしているが、人は死ねば無に還る。ニヒリストは利口だぜ、現実を見ている」
「生憎、俺はロマンチシストだ」
「知ってるさ、何年来の付き合いだと思ってる」
俺は男と他愛もない雑談を交わしながら、いずれ来る終わりの瞬間――電車が終点へ辿り着くそのときを待ちわびていた。
だが、俺はふと気がついた。正面に座る男が、ボロボロの袖から棒付きキャンディを取り出しながら、ニヤニヤとこちらを見ている事に。
「なんだ、その気色悪い笑みは」
「新鮮なイワシは畑に行けばいくらでも手に入るが、加工品もたまには悪くない。それに、畑なんて危険で行く気が起きないだろう?」
「……なんの話だ」
「つまりだね、妥協も時には必要という事さ」
そう告げたのは、軍服を着たいつもの男ではない。俺の正面に座っているのは、男物の黒いスーツを着込んだ奇妙な女だった。いつの間に入れ替わったのかは分からないが、元よりこの世界に意味などない。考えるだけ無駄だ。
「この電車は、虚無まで辿り着かないよ」
女はキャンディをしゃぶりながら、嘲るような表情でそう言った。
「どういうことだ?」
「その通りの意味さ。元はと言えば君のせいなんだぜ? 君が何万回も世界を歪めるものだから、君の電車はそれそのものが無意味になってしまった。こいつは死人一人に一つだけ与えられる専用の代物だから、代わりなんて無い」
「なるほど。つまり俺は、お前たちのように死ぬことも生きることも出来ず、この世界に取り残される。そういうことか」
「まあ、そういうことだね。ついでに言えば、この電車は死人と一緒にそいつが生前犯した罪を一緒に運んでる。普通なら虚無でまとめて消えるけど、言いたいことは分かるよね」
正直な話、こういう展開を予想していなかったわけじゃない。俺は世界に逆らいすぎた。こんなペナルティが与えられることも覚悟はしていたのだ。だが実際にそうなってみると、やはり怖いものは怖い。俺は、平静を装いながらも足が震えつつある事を自覚した。
だが、女はそんな俺の心中を見破っているかのように舌舐めずりを見せつけると、文字通り吐き捨てた舐めかけのキャンディを俺の足元へ放り出した。
「私はそれでも良いと思ってるんだけどね、でも私は彼女の味方だから。妥協も時には必要だろう」
彼女がそう言うなり、電車は緩やかに速度を落とし、止まった。車両の扉が開き、外が駅のホームらしい事が見て取れる。その風景は、俺にとって見覚えのあつものだった。
「私がこちらへ来てしまったから、彼女は今、話相手を欲しているだろう。彼女の電車は、到着するまでまだ少しかかるはずだ」
「……お前の目的は、なんなんだ?」
「私は、私たちは、死そのものだ。メメント・モリ、もしくは此岸の人間が死神と呼ぶ者。そこに目的はない。ただの自然現象だ。だが、たまにはこうして自我を出すのも悪くない」
女は立ち上がるなり俺に歩み寄り、無理やり立たせると突き飛ばすように俺を電車から追い出した。
「彼女の電車に二人で乗れ。それでお前は、めでたく虚無の餌食になれる。感謝しなよ、彼女に。お前を地獄から救う大恩人だ」
扉が閉まり、女を乗せたまま電車は走り去る。それを見送った俺は、後ろを振り向いて見慣れた人物の顔を見つけた。
我が愛しのサンドリヨン。その顔は、いつか見た若かりし頃の彼女と顔だった。
「……智香」
「聞いたんです、あの人に。貴方が私の為に、ずっと辛い思いをしてきたと。だから今度は、私が貴方を助ける番です」
彼女が笑いかける。それは俺にとって、あまりに明るい光そのものだった。
「恩返しが遅くなりました。でも、神様って居るんですね。最後の最期で、こんな機会を与えてくれるなんて」
「……神など、居るものか。居やしないさ。だが、そうだな。君がそう言うのなら、俺も感謝くらいはしておこう」
俺たちは待つ。いずれ来る、終わりの時を。世界は変わらず動き続け、俺たちだけが消えてなくなる。それが世界の、正しい形だ。
だからそれまで、ここで二人、最後の幸せを味わっても文句は言われまい。
彼女の電車はまだ来ない。だがもし今すぐ電車が来ても、俺は臆さず乗ることが出来るだろう。たとえ行き先が何も無い虚無だと知っていても、彼女が共に居るならば怖くない。
「ありがとう、智香」
「こちらこそ」
ふと遠くから、電車の近付く音が聞こえた。