五月の連休も終わり、俺は夕日に照らされる教室の中にいた。クリーム色のカーテンが光で透け、風になびく。
一年の中で一番好きな時期が今かもしれない。寒すぎず暑すぎず、四月は少し肌さむかったし。そんなことを考えながら俺は窓の外を眺めている。
ふと教室のドアを開ける音が聞こえ振り向く。見るとクラスメイトの長友一樹が教室に入って来る。
俺は長友に頼まれて放課後残っていた。
「もう先生の説教は終わった?」
そう俺が長友に聞くと「うん。終わった」と長友は頷いた。
長友は少し疲れたような表情を見せ、こちらに近づいて来る。
彼は前の時間、先生に職員室まで来るように言われていたのだ。
「てか、なんであんな質問したんだよ」
「あんな質問?」
俺の問いに長友は首をかしげる。
「お前が数学の時間になんでいきなり『先生は今、青春してますか』なんて聞いたのかってこと」
「それは聞きたかったから」長友はしれっと答えた。
答えになってない答えが返ってきてため息が出る。本当、長友は変わっている。
「しかも、なんであの後あんなにしつこかったんだよ。あそこまで聞かなければ放課後に呼び出しまでは無かっただろう?」
そう言い、俺は長友の顔を窺う。
「でも先生はわからないことは質問してと言ってるよ。わかるまで教えるからと」
「それでわかった?」
「ううん」長友は首を横に振り、少し細くカーブの描かれている眉を八の字に反らす。
長友とは中学に入学したての頃に知り合った。それまでは何も考えず楽しければよいと思っていたが、彼の変に子供っぽくないところに興味を持ち、気づいたら一年以上一緒にいる。その方が自分が他の奴よりも少しだけ大人びていると思えるから。
「……そういえば」
長友はふと、思い出したように口を開く。
「告白はどうなったの?」
「いきなりだな……振られたよ……ほかに好きな子がいるんだって」俺は少し投げやりに答えた。
俺は一年の時から好きだった伊藤麻美に春休み中にどう告白するか悩んでいた。
色々考えた結果、シンプルに「好きです」と四月の終わりに告白した。けれどあっけなく振られる羽目に。本当なら五月の連休はデートを満喫し、今も彼女と放課後デートを楽しんでいたのかもしれないと言うのに。
「そっか、ごめん」長友は心底申し訳なさそうに謝る。
「なんでお前が謝るんだよ。てか謝られるとなんか余計に辛い」
窓から入る風が妙に心地よく感じる。いきなりの質問に体が少し火照ったからかもしれない。
「でも仕方ないよ。恋愛は割れ物だから」と長友は言った。
「割れ物?」と俺は言葉を繰り返す。
「割れ物よりも割れ物さ、例えばクッキーみたいに」
「でもクッキーは食べられる」俺はかっこつけて言い返した。
「恋愛も食べられるよ」長友はしれっと口にする。
「何だって?」
長友の変な表現に俺は顔をしかめる。長友の言葉は理解に苦しむのが多いが今回のはその中でも特にわからない部類に入るだろう。
「恋愛をすると、人は食べ物が普段より食えなくなるでしょ?胸がいっぱいとか言ってる人もいるけど、それは恋愛を食べているからその分、食べれないんじゃないのかな」と長友は続ける。
「お前って本当おかしなこと言うよな」俺はあからさまに呆れて見せた。
「そうかな」長友はまた首をかしげる。
少しの間沈黙が続いた。長友の言葉は意味深い感じに聞こえるが、一つ返せば、中学生のただの妄想ともとらえられる。
「……まあそれも青春だな」と長友はしみじみ言った。
「……そうだな青春だな」俺は自嘲気味に頷く。
長友は俺の席の前に来て窓枠に寄りかかり軽くこちらを見る。俺は鏡に映った長友の横顔を眺める。
黙っている彼はなかなかの好青年だ。野球部みたいに短くカットされた髪の毛、良く焼けた肌、少し細めの吊り目だがそれがなんだか彼を大人びて見せる。それでも彼に異性の浮いた話はこれまで一度もない。
「なあ、青春ってなんだろう」
教室の天井を仰ぎながら呟くように長友は言った。
「なんだよ突然」
「僕達も青春しているのかな?」
彼は急にこちらに体を向け、前のめりに聞いてくる。
「え、良く分からないけど送ってるんじゃん?」俺は長友の変なテンションに少し圧倒された。
「今ここでこうして放課後、君と話をしているのも青春なの?」
長友はこちらの顔を覗いて執拗に聞いてくる。
ここまでくるとさすがに面倒になる。俺の方はもうこの話題には飽きていた。しかし彼の面倒な所は一度興味を持ったことはよほどの事がない限りそれを終わらせないことだ。
「かもね、みんな差はあれど青春を送ってるんじゃない?」
俺はわざとイラつきぎみに答える。長友は少し驚いた様子で細い目を少し開かせたがすぐに表情を元に戻した。
「みんなって、どこまでがみんな?何歳ぐらいまで?」と長友は言う。
どうやら長友が驚いたのは俺のイラついた態度ではないらしい。俺はあっけにとられ一瞬固まってしまう。
「知らないよ。そんなに知りたいならネットでも辞書でも使って調べれば」
俺の乾いた声にも顔色一つ変えず、長友は腕を組み少し考え込む。しばらくして口を開く。
「僕なりにも調べたんだよ。なんか『季節の春を示す言葉、転じて生涯において若く元気な時代』とか『夢や希望に満ち活気溢れる若い時代』とか書いてあったよ」
「じゃあそうなんじゃない」と俺は返した。
「でもなんかしっくり来ないんだよ」と長友は少し強めの口調で主張する。
「なんで?」それにたいして俺は、冷めた口調で質問する。
長友はまた窓枠に寄りかかり床を眺める。俺はそんな長友を暇つぶしに眺める。
「だって、その調べた言葉では生涯を季節で表していて、春が若い僕らの時期ってことだろう」長友は頭を抱えている。
「それでいいんじゃないの」と俺は考えなしに返事をする。
「でも最近は春だろうが夏みたいな猛暑、逆に冬みたいな寒波が来たりもするじゃないか、それって春はもとより季節全体の境目がわからなくなっているってことじゃないのかな。それに伴って青春という言葉の意味はものすごく怪しいものになってきてるんじゃないのかな」
長友のあまりにも突拍子もない発言に、俺は驚きを隠せない。
「はぁ?いきなり何言ってるんだよ」そんな俺の声は少し上ずっていた。
「そうかな?」と長友は首をかしげる。
「そうだろ。お前が言っているのはもう言葉の意味とかではなく、ただの地球温暖化の問題についてだ」
「でも言葉の意味に沿って考えるとそういうことになるんじゃないかな」と長友は返す。
「だとしても青春という言葉を考えたのは今よりも前なわけだし、その時はお前がいう季節の変わり目も今ほどあいまいじゃないだろ」
俺がそう言うと、長友は顎に手を当て二、三度小さく頷いた。しかし少ししてまた難しい顔をこちらに見せる。
「ならもう青春と言う言葉は言葉の意味を考え直さないといけないのかもしれないよ」長友は真剣な表情で言う。
俺はそれを聞いて呆れと疲れを滲ませた声で喋る。
「いや、別にいいだろそのままで。てか変えるならどう変えるんだよ」
「そこが問題だね。どう言った意味が正しいのか全然思いつかないよ」
真剣に考えている長友を見て俺はさらに疲れた。こんな意味のない会話になんでここまで時間を費やしているのかわからず、本当に馬鹿らしく思う。
「君はどう思う」長友は聞いてくる。
俺はこんなことを真剣に考えるのも嫌なので、適当に考えこの会話を終わらそうと思った。
「長友。そもそもみんながみんな青春っていう期間が同じとは限らないだろう。だから季節の境目が曖昧だろうが、それはそれで人によって曖昧ってことでいいんじゃん?」そう言うと彼は細い目を少し大きく開きこちらを見る。
「君って面白いことを言うね」彼は少し関心したように言う。
「それはどうも」と俺は適当にそれを流した。
そこへタイミングを計ったかのように、担任の田浦先生が教室に顔を出す。
「あれ、まだいるの?早く帰りなさい長友君」
「あ、はいわかりました」そう返事をすると先生は足早にその場を去った。
いい加減に俺も彼との会話に疲れてきていたので、荷物を持って席を立つ。
俺は教室を出ようとしたが、長友は窓から動かない。仕方なく声を掛けようとする。そういえば窓を閉めるのを忘れていたのを長友を見て思い出した。
「じゃあ人間以外にもこんな時期ってあるのかな?」と長友は突然口を開く。
「まだ続けるのかよ」
俺は疲れを声に出した。取りあえず長友にどいてもらい窓を閉める。長友はその様子を黙ってみている……いや、きっと自分の質問の答えを待っているのだろう。
あまりにもこちらを真っすぐ見つめる長友の目になんだか居心地の悪さを感じる。
「……はいはい、わかったから。それについても考えるから取り合えず帰りながらな」
長友はそれに頷き教室を出ようとする。それに続いて俺も教室を後にした。廊下に出るとあたりは薄暗く妙な悲しさを感じる。
「それでなんだっけ?」俺は話を再開した。
「人以外にも青春なんてものは送れるのかな」と長友は即答した。
「長友はどう思う?」
俺がそう聞くと長友はまた腕を組みだした。それをみてつくづく変わったことを考える奴だと思った。
「僕は送れると思うんだよね。だってみんな生まれたら死ぬまで成長するわけだし、その過程の中で少なからず確実に起こり得る期間なんじゃないかな」
一息にそういうと長友は少し深く息を吸い込み、呼吸を整える。
「じゃあ、送れるんじゃないの」俺がそういうと長友はつまらなそうにこちらを見て、小さくため息をついた。
「なんで君はそうも適当なんだい。僕らは今色んな事に興味を持ち考えなくちゃいけないんだよ」長友は熱弁する。
「なんだよそれ」彼の言葉が大げさに聞こえ、少し嘲笑ぎみに聞き返す。
「大人になってからじゃ考えられないからさ」
彼の口調は徐々に強くなり、何かに訴えているようだった。
「でも大人になってからの方がより色んなことを考えるだろ」と俺は返す。
「確かにね。でもほとんどの人の考えの中には明るい色はついてないんだ。大抵の考えは灰色なんだよ」
「色?なんだよそれ、もっとわかりやすく言えよ」
「大丈夫。今わからなくても、君も大人になれば時期にわかるさ」長友は自分だけ知っているような口調で話し、それがなんだか気に食わなかった。
昇降口に着き、靴を履き替える。気付くと長友はもう履き替えていたらしく、少し前をもう歩いていたので小走りで追いかける。
「でも、こんなこときっと社会に出たら考えなくなっちゃうよ。それこそ青春なんてものが過ぎ去ってしまった証拠だと僕は思うよ」長友は前を向きながら独り言のように言った。
「なるほどね。じゃあこんな事考えてる俺らはやっぱり青春してるんだろ」
そう俺が言うと彼は一度横目でこちらを見て、すぐに視線を前に戻す。
「でも、君にもその時が来るよ」そう言う長友の声は少し重く感じる。
「それは長友にも言えるだろう」
長友は首を振る。そんな長友の横顔は何故だか寂しそうに見える。
「その時にはきっと僕はいないよ、もしいてもその時を迎えた君とは会えないだろうしね」と長友は言った。
いまいち長友が言っていることが良く分からず、俺は言葉を理解しようと努めた。
長友はそんな俺を見て少し微笑むと右手を前に出し指をさす。俺はその方向を見るが、そこには何もなく校門がこちらに向かって「早く出ろ」と促すように待ち構えているだけだった。俺は意味が分からなく長友の方に向き直す。
「えっ」
気付くと夕闇が近づく校門の前で俺は一人佇んでいた。ちょうど聞こえたチャイムがとても気持ちを寂しくさせた。
……俺は今まで誰とどんな話をしていたのか。
急に視界が白く曇ってきた。まるで濃い霧の中にいるみたいに。
「……さん。長友さん電話です」
朝の忙しいオフィス内に電話のコール音が鳴り響く。目をつむりながらそんなことを思っていると名前を呼ばれていることに気づき慌てて返事をする。
「え、あっすいません。すぐ取ります」
俺の返事を聞くと、後輩は自分の席に戻って行った。
俺は急いで電話を取り応対する。なんとなく子供の時の事を思い出していた気がする。しかしすぐに業務の事で考えは溢れ、仕事という波に押し寄せられるように暗闇に消えて行った。