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 夢の中で僕は銀河系の中にいる。隣には知らない女性が宇宙の中を浮遊していた。僕はただ無重力空間の中、無数の星の輝きを眺めていた。
 それがどれほど巨大な空間なのか、質量をもつのか僕にははかり知ることができない。それで僕はただ唖然としながら、同時に感動しながらその光景を眺めていた。とても不思議な世界でまさしくそれは夢だ。
 それから僕は部屋の中で目を覚ます。いったいどんな夢を見ていたのか記憶は定かではない。記憶というものについて強い興味があるが、人の記憶とは不思議なもので僕は常に記憶の中に生きている。
 そしてその記憶というものに時に捕らわれていたりするのだ。
 では妄想はどうだろう。それにもきっと何か意味があるに違いない。あらゆる観念というものに僕は縛られているように思える。それで僕は何かにつけては頭の中で理屈に頼ったりしていた。
 部屋の中は秋の涼しい風が開けっ放しにしていた窓から吹き込んでくる。風はとても透き通っている。それで酸素とか窒素とかそういう多くを占める大気を含んでいた。それは僕の頭に詰め込まれた理論で、しばしば僕はそう言った理論に頼る。
 目覚めるとベランダに出て煙草を吸う習慣があった。ベランダからはとても広いスーパーの駐車場が見える。この街に住んでいる人は比較的少ない。ベランダの手すりは塗装がはがれてざらついている。それで僕は手遊びにざらつきの感触を確かめた。
 ベランダから街並みを眺めると遠くには緑に覆われた山が見えた。山は眼前に大きくそびえたっている。様々な満たされない思いを抱えながら僕は生きていた。仕事に行くまでの時間を時計で確認する。まだ十分に時間はある。
 煙草を一本吸い終えると、僕はキッチンへ行って簡単な朝食を作った。パンをトースターで焼き、目玉焼きを作る。僕は考え続ける機械みたいにそれくらい僕の悩みはつきない。そしてなんとなく人生は先へと進んでいる気がした。
 僕は先ほど見た夢を思い出す。僕は誰か知らない人と宇宙の中で過ごしていた。その人に会ったことはもちろんない。彼女はいったい誰なのだろうと僕は思う。もちろんそれは夢の世界の話だ。夢とは奇妙なもので、どうしてあんな風に現実に似た世界を作り出せるのだろう。僕は夢というものに何か強烈な感覚を抱いていた。
 大学で研究員を初めて今年で一年目だった。僕は大学で博士号を取得した後、この仕事についた。やることは学生に実験を教えて、そして自分の研究を進めることだった。僕はこの仕事がとても気に入っている。僕は過ぎていく時間の中で割と自分のやりたいことをやっている方だと思う。年を重ねるにつれて一年というものは早く過ぎていくようになった。
 朝食を作り終えると、僕はリビングのテーブルの上で朝食を食べ始めた。テレビではニュースがやっていた。
 僕はテレビのニュースをただ眺めていた。こうしてテレビを見ている人が日本には何人いるのだろうか。
 なんとも奇妙な世界だ。そして僕はこの世界について考えることも少なくなった。
 そういえば大学生のころ、僕は一人の女性と付き合っていた。彼女の名前や顔や体つきや性格など様々なことが鮮明に思い浮かぶ。髪が長くてそして優しそうな顔つきをしている女性だった。理由もわからずに僕らは大学を卒業するときに別れた。僕から理由を問いただすこともなかった。
 二人で遠くの山に登ったことがある。僕らはあの頃いつだってそばにいたのだ。そしてただ時間が過ぎていく瞬間を楽しんでいた。
 仕事にでかける時間になると僕は書類を鞄の中にいれて部屋を出た。外はやはり冷たい風が吹いている。
 玄関から階段を下りていき、下の階まで行ったとき僕は一筋の閃光を見た。謎の光の集合で、僕は不思議とその光に吸い寄せられていった。辺りの空間が歪んでいくのを感じる。僕はその時超現実を味わっていた。不思議と恐怖はない。あるのは底知れぬ好奇心だった。

 それは僕の割と平凡な人生に訪れた奇妙な瞬間だ。僕は突然夜のマンションの中にいた。部屋の中には一人の女性がテーブルに座っている。髪が長くて肌の色が白い。彼女はテーブルの上で泣いていた。
 もちろん初対面の女性だった。僕は彼女に何かを問いかけようとしていた。
「いったいここは?」僕は聞いた。
 その女性は何も答えない。ただ泣いているだけだ。
「どうして泣いているんですか?」と僕は質問を変えた。
 その女性は顔をあげて僕の方を見た。
「どうしてって悲しいからに決まっているじゃない」
 女性は当然のように僕にそう言った。
「何か理由があるんですか?」
「恋人を亡くしたから」
 その日から僕とその女性との奇妙な生活が始まった。彼女と僕のいる世界は僕の全く知らない世界だった。
 女性の名前は小百合と言って、いかにも名前みたいな性格の人だ。おしとやかで大人びて見えた。実際僕より少し年上のようだ。
 ただ時間は過ぎていく中で僕は何かすることを探していた。僕は割とこういった状況にすらすぐ馴染んでしまう。
「何か作りましょうか?」
 夜の部屋のキッチンの前で僕は小百合にそう言った。なんとなくご飯でも食べるのがその時、適当に思えた。
「何か作ってくれるの?」
 小百合は涙を拭いて僕にそう言った。
「カレーとかパスタなら作れますよ」
「じゃあカレーを作って」
 僕は小百合の部屋のキッチンで料理を始めた。キッチンの冷蔵庫を開けてカレーの食材を取り出し、それらを細かく切って鍋に入れて水で煮込む。その間にご飯を炊き、しばらくするとカレーのルウが煮込み終わってできあがった。
 僕は炊き立てのご飯とカレーのルウを皿に盛りつけた。小百合の前に皿を並べる。
「恋人はいったいどんな人だったんですか?」
「とてもやさしい人だった。私の人生の一部と言ってもよかったの」
「恋人を亡くしたのは辛いことだと思うけれど、悲しみはいつか過ぎ去ると思います」
「わかってる。でも私はまだ彼との思い出を大切にしているの」
 彼女はそう言った。僕らは相変わらず食事を続けた。僕の頭はぼんやりとしている。この奇妙な世界の中で僕らは食事を続けた。僕にはなぜかそれが当然のことのようにすら思えた。思えばこれも運命だとすら思った。
「ちなみにどうして僕はここにいるんですか?」
「さぁ」
 小百合は曖昧に返事をしただけだったが、どうやら僕の存在を受け入れているらしい。食事を続ける中で小百合はいろいろな話をした。僕もいくつか質問した。
「その恋人について教えてください」
 僕は小百合に言った。
「彼は作家だったの。プロだったけれど、そんなに有名ではなかった。ずっと部屋で小説を書いていて、私はその手伝いをしていたの。時には彼の作品を読んで間違いを直したりしていた」
 僕はただぼんやりと彼女が話すのを聞いていた。
「作家だったんですね」
 僕はぼそっとそう言った。
「とても素晴らしい作品を書く人だった」
「いつから知り合ったんですか?」
「高校生の時。彼が図書室で本を読んでいるのを私が見かけたのが始まりだったの」
「ずいぶん長い付き合いなんですね」
 僕はテーブルの上のグラスの水を飲む。
「高校で出会ってからずっと今まで一緒に過ごしてきたから」
 小百合はそう言ってグラスの水を飲み干した。しばらくの間お互いに沈黙の時間があった。
 夜はゆっくりと過ぎていく。
「コーヒーでも飲みませんか?」
 僕はそう言った。
 奇妙な夜に、奇妙な世界を僕は小百合と過ごした。彼女はリビングで煙草を吸った。僕はソファに座っていた。
 時間は過ぎていく。そして僕はただ小百合と同じように悲しい気持ちを共有していた。そういう気分の時が僕にだってあるのだ。別に他の誰かが死んだわけではないけれど。
 二人で沈黙の中に夜の時間を過ごしていた。
「あなたは煙草は吸わないの?」
 小百合は僕に聞く。
「時々吸います」
「私は煙草が好きで、彼も煙草が好きだったな。いつもここで二人で吸っていたの」
 小百合はそう言って煙草を灰皿に置き、コーヒーを飲んだ。
 時間だけが過ぎていく。
「シャワー浴びてくる」
 小百合はそう言って風呂場へと行った。
 僕はただ過ぎていく夜の時間の中にいた。気分は悪くない。なんとなく物寂しい部屋の中に佇んでいる。
 小百合がシャワーを浴びている間に僕はベランダに出た。そして小百合の吸っていた煙草を吸った。
 ベランダの窓から街並みをただ眺めていた。広くて居心地のいいマンションだ。僕はまるで夢を見ているようで、遠くの道路を車が走っている。
 ここはどこなのだろう。そしていつなのだろうか。
 僕がベランダから部屋に戻るとシャツに着替えた小百合と出くわす。
「ベランダにいたのね」
 小百合は僕にそう言う。
「あなたの煙草を吸って、街の景色を眺めていたんです」
「煙草はいいわよ」
 小百合はそう言って冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出して飲んだ。
 僕はソファにもたれかかったまま、ただ黙っていた。
 そして時が来ると眠りについた。
 
 ふいに夢から目覚める。僕はぼんやりとした頭を抱え込みながら朝の日差しを眺めた。
 時計の針を確認すると朝の八時だ。
 もう大学に行く時間だった。スマートフォンでカレンダーを確認する。
 平日の水曜日、もう大学へ行かなければならない。
 僕は悲しくなってシンクへと行った。そして気が済むまで泣いた。
 僕はただ遠いところを眺めていたのだ。そこには僕の夢が眠る。小百合のことなんか別に気にかけていない。その恋人を亡くしたこともどうでもよかった。なにより僕自身が何より悲しみに満ちていた。
 朝の時間は穏やかに過ぎていく。遠くで大きな鳥の鳴き声がする。僕は盛んに夢の続きを見ようとした。
 研ぎ澄まされていく感覚。そこに僕はいるのだろうか。そして僕は誰なんだろう。一人の僕はとても寂しい。
 僕は小百合の表情を思い出す。どうしてか知らないけれど夢の中で出会った彼女に対する思いは理性を超えて募っていく。
 時間は過ぎていく。僕は鞄をもって大学へ行く準備をした。
 部屋を出て電車を乗り継ぎ、大学まで向かった。途中大きな並木道を通った。
 校内に入ると多くの学生が歩いている。
 僕は大学の自分の研究室がある棟に入った。
 教授室の前を通り過ぎて僕は自分のデスクに座った。
 隣に座るのは自分と同じ研究員だ。彼女は若くそして研究というものにたけていた。
 彼女のそばの席にすわって論文を読み始める。
 一文一文脳に刻まれる。
 そして時間がたつ頃には僕は論文の世界に没頭している。昔からそうだった。
 昼休みに研究員の女性とランチに出かけて、そして午後は実験や学生に指導を行った。
 その日、夜までデスクで僕は奇妙な論文を読んでいた。
 その論文は人の心についての論文だった。とても長い文章で書かれているのは心のメカニズムについてだ。
 どうしてだか僕はそういう事象に没頭してしまう傾向にあった。
 それでとにかく僕はその論文を読んでいたのだが、帰り際に一人の学生に呼び止められた。
「どうしたの?」僕は言う。
「実験で失敗してしまい、原因を探しているんですがわからないので、アドバイスをいただきたくて」
「データは?」
「ここに」
 学生はデータのグラフを僕に見せる。
「確かにおかしいね」
 僕はそういいつつ、夢の中の現象を思い出す。
 小百合と会って話をしていた。僕はもう違う世界に行ってしまった。そして僕はなぜだかわからないけれど彼女にひかれていたのだ。
 僕は何かしら適当なアドバイスをして、学生を帰した。
 そしてその日、僕は論文を抱えて、家に帰った。
 家の中はとても静かだ。風の音が聞こえる。
 僕はソファに座る。その瞬間に途端に眠くなってしまう。
 僕はふいに意識を失う。

 どうしてだろう。夢の中の出来事についてこんなに思いを馳せるのは。
 僕は意識を失った後、奇妙な閃光を見た。それはあの時と全く同じだった。
 理由もわからずに僕は小百合の住んでいるマンションにトリップしていた。
「また来たね」
 小百合は僕を見るとうれしそうにそう言った。部屋はとてもきれいに整理されている。失った恋人の書斎もちゃんとあった。
 彼女好みの彼女風に彩られた部屋だった。
 僕は茫然とリビングに立ち尽くした。
「どうやらまたここに来てしまったみたいです」
 あやふやな意識なまま僕はそう言った。
 不思議と今日も夜だった。部屋の中は冷たい空気に覆われている。
「コーヒーでも飲む? 君は確か好きだったよね」
「ええ」
 小百合はキッチンへ行ってコーヒーをドリップで淹れた。僕はといえばただ茫然と部屋の中に立ち尽くしながら、辺りの空気を感じていただけだった。もう理由を知ろうという意志もなかった。
 とても落ち着く部屋で生活感がある。それなのに、僕も小百合もまるで死んだ人間のようにどこかひやりとしていた。
 そんな風なことを考えているうちに小百合が僕にコーヒーを淹れてくれた。
「この間はどこまで話したかしら?」
「恋人が作家をやっていたところまで聞きました」
 相変わらず僕にはどうでもいい話だった。
「高校時代に私たちが会ったところまで話したわね」
「二人はどんな感じだったんですか?」
「なんとなく物静かでお互いに真面目なところがあったの。私たちは付き合い始めたときもお互いの距離感みたいのをとても大事にしていた。それで二人だけの世界を楽しんでいたの」
 小百合はコーヒーを飲んだ。カップをテーブルに置くと音がした。静かな部屋の中に響きわたる。
「僕にもそういう経験があるので共感できます。すごく気の合う人と一緒にいるのは楽しいですよね」
「私もいろいろ考えるのよ。高校生のくせに将来のこととかね。現に今だって彼が生きていたらその先のことについて考えていたりしていた」
「どうして恋人は死んでしまったんですか?」
「私にもわからない。彼はいつだって元気そうに見えた。でもどこかに自分だけの孤独を感じているようだったの」
「自分だけの孤独?」
「そういう作品を書いていたから」
 小百合はそう言って彼の書斎に向かった。
 書斎はとても整理されている。それでいて独特の配色だった。きっと作家だった彼好みのものに違いない。
 外は涼しい風がずっと吹いていて、それで僕は小百合が書斎にいる間に部屋の窓を開けた。とてもきれいな月が見えた。
「あったけど」
 小百合は僕の方を向いて一冊の小説を持ってきた。
「これが、彼が書いた小説ですか?」
「読むのに時間がかかると思うけれど」
 僕は小百合から渡された小説をとても大事そうに受け取り、そして一ページ目を開いた。
 一見普通の小説となんらかわりはない。
 それで僕はリビングのソファの上でその小説をただ読んでいた。
 とても悲しい小説だった。
 時間はあっという間に過ぎていく。
「小百合さん」
 僕は彼女の名前を呼んだ。
「どうだった? とても上手いでしょう?」
「すごく悲しい話ですね。確かに孤独を感じます」
「きっとこの小説の主人公が彼自身だと思うの」
「とても悲しいストーリーなのに、何か極端に難解なところがある気がします」
「私は彼の作品を何度も読んで読み解くの。いつも特徴的な主人公が最後は死んでしまう。それもとても孤独な主人公が」
「それにしても奇妙な暗示みたいなのがいくつか出てきますね」
「私も最初はなんのことだかわからなかったわ。この作品っていったいなんのために書かれたんだろうとか」
「僕にもあまり見当はつかないです。けれどもう一度読んでみたら解釈が変わるかもしれません」
 僕らはそんな話を夜の間中していた。僕の手に握った文庫本はすっかり僕の手になじんでいた。
 そういうことが時々ある。僕はいつも小説というものが、どれだけ自分になじむのかを気にしていた。
 それはまるで人付き合いのようだった。それで僕に気が合う小説に出会うと僕はいつまでもそれに寄り添うことになる。
 心の中の寂しさを埋めてくれるような小説に巡り合いたいといつも思っていたのだ。それで僕はそれを気が済むまで小説を読むのが好きだった。
 時間はゆっくりと過ぎていく。僕はただぼんやりとソファに座っていた。小百合はリビングでコーヒーを飲んでいる。
 僕はまた元の時間に戻るのだという発想に至った。ソファにもたれかかる。
 意識はまどろむ。

 目を覚ますと僕は大学の中庭にいた。中庭には数人の学生が芝生の上に座って本を読んでいる。僕はベンチの上でまどろんでいた。時刻は昼だった。いったいその前に僕がどうしていたのか記憶はもちろんない。
 時間と日付があやふやなまま、僕は自分のデスクに戻る。デスクの机には学生が行った実験データが乗っていた。
 僕はそれを眺める。部屋のドアが開く。
「実験は進んでる?」
 教授が僕に声をかける。僕より一回り年を取っている白髪の教授だ。
「順調に進めていますよ。中々いいデータがでないのが実験ですけれどね。学生もあまりやる気がない人もいるし。そういう時どうしたらいいかわからなくなります」
「君は指導に入ってまだ一年目だから。そこは君に任せるよ。私が大学院生の時も厳しい教授はいたからね。私とはまるで正反対の性格だった」
「今ではそういった人は減りましたね。時代の流れかもしれませんが。僕も学生に小言を言うことはあっても怒ることはめったにないですね」
「君自身はこの先どうしていくつもりなの? 私みたいにアカデミックの世界でやっていくつもり?」
「今のところはそう考えています。だけれど未だに何か未練みたいなものがあるんです。それが何かはっきり説明することはできないけれど」
「そういう時はゆっくり考えるといいね」
 教授はそう言って部屋を後にした。僕はデスクに座って論文を読み進めた。時間はゆっくりと過ぎていく。そしてその中に僕はいないかのようだった。
 僕はただぼんやりと自分のデスクの上で考え事をしていた。それは自分の将来のことだったりした。特にこの先自分が直面することについて。
 このまま生きていて大丈夫なのだろうか。漠然とした不安が自分の胸に沸き起こる。いったい自分はどうしてしまったのだろう。あの奇妙な夢を見てからずっとこんな感じだ。急に現実というものはリアリティをなくしてしまった。
 僕は時折昔の曲を思い出した。その曲がいったいどんな曲だったのか僕はよく覚えていない。部屋の外の窓には木々が風に揺れているのが見えた。穏やかな風に吹かれて、そしてゆっくりと揺れている。そんな光景をただぼんやりと僕は眺めていた。
 時間は過ぎていく。僕は実験室に行く。学生がそれぞれ請け負ったテーマの研究を進めている。僕は彼らを眺めていた。
 僕自身も進めるテーマがあるので、それをやっていた。時間は過ぎていく。今いったいどこにいるのだろう。
 気づくと夜になっていた。僕は家に帰る準備をする。
 電車に乗り、家に帰る。僕は部屋のドアを鍵で開ける。途端に悲しくなる。どうしてかはわからない。
 部屋に帰った僕はあまりにも疲れていてソファに横になる。それでゆっくりと眠りにつこうとする。ぼんやりとまたあの小百合の世界に行くのだと思う。それはなぜか悲しいことだった。不思議と思い出すだけで涙があふれてくる。
 いつだって僕はこの奇妙な世界の観測者のようなものだ。そして運命というか自分自身の奇妙な境涯に支配されて生きている。
 どうしてこんな風に奇妙なことが起こるのだろう。そしていつになったらこの奇妙さから解放されるのだろうか。
 時々僕は自分自身がわからなくなる。そして気分は世界とは無関係に憂鬱になりもの悲しくなったりする。
 仕事のこととか恋人のこととか人間関係とか考えることは山ほどあった。だけれどそれが何か僕には気にする余裕はなかった。
 いつだって僕は頭の中で物事を考えすぎる。そして考えた挙句に自分では答えが出せないことに気づかされる。
 夜の時間はただ過ぎていった。疲れているのになかなか眠ることができない。やることは山ほどあった。けれどそれが何かわからない。ただ時間だけが過ぎていき、僕は布団の中に入る。
 穏やかな月の光が窓から差し込んでいた。僕はそんな光景を見て少し安堵する。窓の外の景色を眺めて、それで僕は気が済むまで疲れ果てて泣いていた。奇妙な運命に翻弄されていることが悲しかったのだ。
 この世界は本当に不思議だと思う。どういう原理に従って動いているのかまるで見当もつかない。ただ過ぎていく時間の中に身をまかせるように僕らは生きている。
 気が付くと僕は眠ろうとしていた。そしてまたあの世界に行くことになった。

「やあ」
 小百合はソファに座っていた。
「こんばんは」
 僕は彼女にそう言う。
「この間はどこまで話したかしら?」
 彼女はいつもみたいに能天気にそんなことを言っていた。僕は勇気を出して本音を言った。
「どうして僕はここにいるんでしょう?」
 小百合は僕の目をじっと見つめていた。
「知りたい?」
 僕は途端に胸がどきどきした。彼女は理由を知っているのだろうか。
「ええ」
 僕はそう返事をした。
「あなたはね、死んだ彼が作り出したアンドロイドなの」
 僕はただ茫然と彼女の話を聞いていた。
「いったいどういうことですか?」
 僕はそう聞く。
「つまりあなたが体験した世界はすべて作られた記憶だったのよ」
「僕には意味がわかりません」
「私はね。あなたを使い始めてからこれで数日になる。事前にあなたに人生の記憶をプログラミングしていたの」
「じゃあつまり、僕が今持っている記憶はすべて虚構に過ぎないと?」
「あなたは自分が人間だと思い込んでいるのよ」
「そりゃあそうですよ。小百合さんだって同じ人間じゃないですか」
「人間とアンドロイドなんて区別できないのよ」
「僕には全く意味がわかりません。今まで生きてきた記憶はいったいなんですか?」
「あなたはここ数日私と会った時しか存在していないの。後は私たちが作り出した仮想世界」
 僕はよくわからないまま、そのまま部屋を後にした。小百合は僕の後ろ姿を眺めている。
「ねえ」
 彼女は僕にそう問いかける。
「何ですか?」
「もしすべてが虚構だったとしてもね、あなたがそれでいいなら、それがすべてだと思うのよ」
「あなたの言ったことが本当だとしたら、とても残酷ですね」
「そうね。私はあなたのことをアンドロイドとしか思っていないから」
「そんなこと悲しすぎます。僕はあなたに惹かれてさえいたんです」
「私だってあなたに惹かれていたわ。だって死んだ彼と同じ姿のアンドロイドだから」
 僕は部屋を後にした。外はマンションになっている。小百合は後を追ってこなかった。空を見上げると無数の星が輝いている。まるで星が降ってくるようだ。
 こんなに悲しい運命だったとしても僕はそれでいいのかもしれない。僕はふいに頭に何かスイッチのようなものがついているのを発見する。
 アンドロイドの僕自身。スイッチを切ればきっと僕は消滅するだろう。僕はただ小百合のことを愛していた。僕自身は彼の作り出したアンドロイドに過ぎない。虚構の記憶を植え付けられた。
 僕はただ空を眺めていた。そしてようやく死や様々な恐怖から解放されることに気づく。結局すべては夢だった。最後に美しい光景を眺めて安堵する僕がいた。
 僕は自分の意志に関わらず小百合を愛するようにプログラミングされていたのかもしれない。
 不思議な世界の中で僕は自分のスイッチを落とした。それが僕にできる唯一の意志のようなものにすら感じた。きっとそれすら小百合と彼が作り出したプログラミングされた運命に過ぎないかもしれないけれど。