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 どうも皆さんこんにちは。私は黒猫のタップダンサーのミケでございます。ん? 黒猫なのに、なぜ「ミケ」なのかって? それは大将に聞いてください。名前なんて、自分と他人を分ける記号でしかありませんから、私は何でもいいと思っております。
 それはさておき、この私、人間の前では隠しておりますが、尾の先が二つに分かれております。人間たちは私たちのことを「猫又」と呼ぶようです。もう何百年も生きているので、人語もある程度、理解することもできます。さすがに人間と直接会話をしたことはありませんが、意思疎通を図ろうとすれば、容易にできるでしょう。
 さて。本題に移りましょうか。私は、猫又の中でもとても珍しい存在です。猫又になるには何百年も生き延びなければなりません。ですから、私のような黒猫は、猫又になることが難しいのです。不幸を呼ぶなどと言われ、あまり好かれていませんからね。しかし、私は運が良かったようで、様々な時代を、様々な人間に育てられてきました。そんな私ですから、猫又の中では異端者として見られています。今でも不幸を運んでくるからと、仲間外れなどという、子供じみたこともされております。彼らも何百年も生きているはずなのに、なんと頭の悪いことをするのでしょうか? おっと、口が滑りました。こんな意地汚い性格だから、仲間外れというものをされるのかもしれません。ああ、また話がそれてしまいました。申し訳ありません。お喋りも程々に、ということですね。
 話を戻しましょう。黒い猫又の私は、ある日、タップダンサーの男性に拾われました。もう、何年、何十年も前の話です。彼には一人娘がおりましたが、妻は何年も前に他界していました。シングルファーザーの彼は、一人娘を育てながら世界各地を回る、名の知れたタップダンサーでした。港でふらふらと散歩していた私は彼に抱きかかえられ、レンガ街の外れの、二階建ての家に連れていかれました。一階は倉庫になっているようで、彼は家の外に付いている階段を登って行きました。
 階段の上の小さな扉を開けると、少女が立っていました。金色の髪の、小学生になるかならないかというくらいの少女です。少女は私を見るなり、持っていたくまのぬいぐるみを私の前へ差し出し、こう言いました。
「この子も家族だからね。仲良くしてね」
 とても不思議な雰囲気の子でした。彼女はくまのぬいぐるみの手を握るとそれを私の頭の上に乗せ、ふわりと笑いました。なんだか、見た目よりも幼い口調でした。

 彼女の名前はマリー。彼女の話す言葉は、父と世界中を巡っていたからでしょうか、世界の様々な言葉の影響を受けていました。彼女が私にかける言葉は、訛っていて聞き取りづらい時もありましたが、とても優しいものばかりでした。彼女は美少女とまではいかないかもしれませんが、美しい外見でもありました。
「今日も可愛いね」
「ふわふわしてるね」
 私は人語を喋らないので、マリーは短く簡単な言葉で、一方的に私に話しかけていました。
 私はほぼ一日中、マリーの腕の中にいました。タップダンサーでありマリーの父でもあるマイクは、靴を磨きながらその光景を眺めていました。
「パパ。この子、可愛いね」
「うん、そうだな」
 時々そう言っては、二人は私を撫でるのでした。

 一年、二年、三年……。どれくらいの時が過ぎたのか、私にはわかりません。少女は徐々に大人へと成長していきました。しかし、世界を巡っていたタップダンサーは、この国を出る気配を見せません。彼は、ここを終焉の地にしようとしているようでした。
「パパ、どこ行くの?」
「仕事だよ」
 そう言っては、どこかへと出かけていきました。私は一度、そんな彼の後をつけて行ったことがあります。その時、マリーは眠っていました。私は彼女の腕から静かに抜け出し、時間は掛かりましたが、扉を開けて外へ出ました。久しぶりに外へ出ましたが、私が拾われる前の景色と、さほど変わった様子はありませんでした。
「出ていけ! お前にやるパンなど無い!」
 しばらく進むと、そんな怒鳴り声が聞こえました。
 声を辿って歩いていると、街の中心にある小さなパン屋に辿り着きました。夜なのに、店先には明かりが煌々とついていました。怒鳴り声はそこから聞こえているようでした。私は建物の陰に隠れて、そこへ近づいていきました。
「ここにいられると邪魔なんだよ」
「一切れでいいのです。お願いします」
 私は、近づいて気づきました。せがんでいる男性が、マイクだということに。
「はぁ……一切れだけだからな。もう来るなよ」
 しばらくするとパン屋の店主はマイクの願いを聞き入れ、面倒くさそうに店の奥へと向かっていきました。
「マリー、ごめんな」
 スポットライトのような明かりの中、彼の口から零れた言葉を拾うものは、私以外にはいませんでした。

 私が家へ帰ると、ちょうどマリーが目を覚ましました。
「逃げちゃダメ! ずっとここにいるの!」
 マリーは私を乱暴に抱き上げると、また頭を撫で始めました。
 よく考えてみると、マリーは一度も外へ出ていません。少なくとも、私がここに来てからは、一日中、私に触れているだけで、玄関の外へ出るのを見たことがありません。実際はどうかわかりませんが、きっと、他の土地でもそうだったのでしょう。そう考えると、言葉の訛りは、窓の外から聞こえる声に影響を受けたものでしょう。そうでなければここまで細く、白い身体をしているはずがありません。
「ただいま」
 マイクが帰ってきました。手にはむき出しの一切れのパンと、シチューの入った小さな容器を持っていました。
「この子、可愛いね」
 マリーは私を撫でていました。
 マイクはシチューを温め、皿を用意しながら答えました。
「うん、そうだね」
 疲れ切った顔の父と何も知らない娘は、夕食を食べ始めました。パン屋の他に、どこへ行ってきたのでしょうか。私には分かりませんでした。私は、ただ見ているだけでした。猫又は、夕食など食べなくても困りはしないのです。

 マイクはもう使わないはずの靴を磨き続けました。
 マリーは私を撫で続けました。
 私はただ撫でられ続けました。
 何年も、何年も、同じことを繰り返しました。
 誰も入ってこない、二人と一匹だけの閉じた世界が、そこにはありました。
 それが、いつまでも続くのだと思いました。
 それが、当たり前になっていました。

 別れは突然やってきました。
 ある朝、私が目を覚ますと、二人の呼吸は止まっていたのです。きっと、昨日の夕食に何か混ぜていたのでしょう。苦しんだ様子もなく、いつも通り寝ているようでした。いや、いつもより穏やかな、疲れも苦しみも悩みも、全て消えたような微笑みを浮かべていました。冬の朝だったと思います。寒さで起きたような記憶があります。
 私は二人についていくことが出来なかったのです。同じことの繰り返しでしたが、愛情を受け、純粋な優しさと温かさを教えてくれた彼女たちの元に、一緒に行けなかったのです。私は長い間隠していたもう一つの尾を出しました。憑き物が落ちたような気がしました。いや、憑き物は私自身なのですが。
 私は部屋を一周してみました。住み慣れた部屋はいつもより静かで、そして、広く感じました。
 マリーの手に触れても、いつも撫でてくれていたあの温もりは、もうありませんでした。まるで人形のようでした。
 いつも食事をしていたテーブルの上に飛び乗った時、手紙が置いてあることに気が付きました。古びた便せんには、こう書かれていました。
『黒猫へ。考えてみれば、名前すら付けなかったな。申し訳ない。でも君は、長い間生きているのだろう? なんとなく、そんな気がするんだ。マリーは気づいていないだろうが、君からは普通の猫と違うものを感じたよ。なんというか、オーラが違っていたよ。だから、港で拾ってみたんだ。いつ本性を現すか楽しみだったが、もう諦めることにするよ。俺はもう疲れすぎた。すまないが、また他の家族を当たってくれ。この手紙は破ってもらっても、燃やしてもらってもいい。君ならば、きっとこの手紙も読めるだろう? 最後になるが、マリー、いつも楽しそうだった。幸せそうだった。君は一人でも生きていけるが、マリーは難しい。一緒に連れて行く。俺たちのこと、いや、マリーのことを忘れないでくれ。君の幸せを、空から祈っている』
 私は一通り読み終えると、そばにあったインク瓶を倒しました。黒く染まっていく手紙を跨ごうと思いましたが、上手くいかず、後ろ足にインクが付いてしまいました。私は玄関へ向かい、最後に一度、後ろを振り返りました。足跡は点々と、私の後ろに続いていました。彼女たちが目を覚ますことはありませんでした。少し開いていた扉から、外へ出ました。外に出てはいけないと叱る声は、もう聞こえません。あの日、マイクが物乞いをしていた日以来の、外の世界でした。少し曇っていましたが、雨が降ってくる気配はありませんでした。数何年ぶりに、私は自由になったのです。
 その後、私はある家族に拾われ、日本にやってきました。しかし、私はその家族から逃げました。そこにいると、マイクとマリーのことを忘れてしまいそうで、怖くなったのです。こんな気持ちは初めてでした。何十、いや、百を超える家族と一緒に暮らしてきましたが、ここまで寂しさを覚えたことはありませんでした。
 私は野良ネコとして、さまよい歩きました。そしてある日、田舎の空き家へ辿り着きました。そこには百匹を超える、猫又の仲間を見つけたのです。日本には様々な妖怪がいるようで、他にもすねこすりと呼ばれる妖怪や、河童などもいました。もう、尾を隠す必要はなくなったのです。そして、私は妖怪の中でも手先の器用で知識の豊富なものに、靴を作ってくれと頼みました。タップダンス用の、立派な靴を頼みました。しばらくして渡された四足の真っ黒な靴は、すぐに足に馴染みました。それから私は、タップダンサーを名乗りました。
 タン タン カツ カツ
 きっと、人間と一緒に暮らすことはもうないでしょう。この靴がある限り、マイクとマリー、彼女たちのことを忘れることはできません。最後にもらった名前である「ミケ」は猫又の大将からもらいましたが、今頃になって、マイクとマリーから名前をもらいたかったなどと思うのです。たとえ自分と他人を分けるものであっても、できるのなら今からでも、もらいたいと思うのです。
 タン タン カツ カツ
 ああ、このようなことを思い出してしまった今宵は、盛大に踊りましょうか。マイクの踊りを想像しながら。マイクが踊っていたであろう広場を想像しながら。
 マリーが見ていてくれることを、想像しながら。