*噂*
「あの家、幽霊が出るんだって」
「え?」
休み時間、翔は健太に言った。
「あそこだよ。三年前まで健太が住んでた場所。あの家、幽霊が出るって有名だよ」
「幽霊……」
無邪気に話す翔には、健太の表情が見えていなかった。
俯いたその頬には、一粒の涙が伝っていた。
「姉ちゃんがまだいるんだ……」
「何? 何か言った?」
健太は眼をこすると、顔を上げて言った。
「ううん、何でもない」
その日の夜中、健太は妹を連れ出した。
――また、会いたい。
ただそれだけを思って。
*夜*
少女がふと目を覚ますと、周りには誰もいなかった。月明かりがぼんやりと周りを照らしている。
『ここは、どこ?』
少女は見たこともないところに横たわっていた。廃墟のように荒れ果て、家具は散乱し、外は薄暗い。
『ここから出ないと』
今まで何をしていたのかも忘れていた。肝試しにでも来たのだろうか。でも、なぜ気を失っていたのだろう。
――とりあえず、玄関を探さないと。
崩れた壁の向こうに、微かに扉が見える。
『玄関だ』
散乱した家具やクッションなどを避けながら慎重に歩き、やっと玄関にたどり着いた。
両開きの少し大きな扉は、固く閉ざされている。
まるで、少女が外に出るのを阻むかのように。
『……あれ? 開かない』
錆びついたドアノブをどれだけ捻っても、一向に開く気配はない。
ただ冷たく扉は少女を見下ろしている。
『なんで開かないの?』
ガチャガチャという音が空しく廃墟に響く。
『どうして……』
ドアノブを捻ることに疲れ、ドアに凭れるように座り込む。
とても静かだった。ときどき裏山の木々がざわざわと音を立てたが、それ以外は何の音もしない。虫の声さえも。
頭の中に、孤独の二文字が浮かび上がった。
『また、一人なんだ』
少女の傍にはいつも孤独があった。
小学の頃はいじめに遭っていた。たった一言の間違いだけなのに、どうしてあそこまで責められ、無視をされ、蔑まれなければいけなかったのだろうか。
過去から逃げるように遠くの中学へ進学し、これで楽しく暮らしていけると思っていたけど、小学と同じようなことを繰り返してしまった。
机の上に置かれた花、チョークや油性ペンで書かれた落書き、ボロボロの体操服。
そんな孤独な少女は、高校へは行かずに、地元に戻ってきて、小さな会社に就職をした。しかし、人と会話することができず、同僚たちが楽しそうに会話しているのを端の方から見ているだけだった。何をするにも、また失敗するのではないかと相手の指示を待つだけだった。
あの蔑むんだ瞳、大勢の視線が頭に浮かんだ。
会社は、すぐにくびになった。
『帰りたい。家に、帰りたい』
その言葉は響くことなく、廃墟の中に消えていった。
*月*
ガチャリ
その音が聞こえたのは、夜も更けてきたころだった。懐中電灯の明かりの後、小学高学年くらいの少年と、低学年くらいの少女が入ってきた。
「兄ちゃん、ここ、汚い」
「それはそうだろうね。ずっと誰も引っ越してきてないって言ってた。三年しか経ってないのに、もうボロボロだ」
両開きのドアの、凭れていた方とは反対の扉が開いた。
『なんで開いたの?』
少女は幼い二人に問いかけたつもりが、聞こえていないらしい。誰だろう。肝試しでもしに来たのだろうか。二人は話しながら奥へ進んでいく。
好奇心のような何かに突き動かされ、少女も二人の後をついていった。
兄妹の会話の話題は、少年が聞いた噂の話になっていた。
「ここにね、幽霊がいるんだって」
二人の後を追っていた時、その言葉が心臓を大きく波打たせた。何か嫌な予感がする。
「え!? じゃあ、早く帰ろうよ」
「なんで」
「怖いもん」
泣き出しそうになる妹を「もしかしたら、俺らが会いたい人かもしれないよ?」と慰めた。
『幽霊?』
――まさか。そんなわけない。
『ねえ、二人とも』
話しかけた声は、小さく震えていた。
『ねえ、二人とも!』
少女は震えを誤魔化すかのように大きな声を出したが、二人は気づかない。
いや、届かない。
二人の後を追い、手を伸ばした。
伸ばされた手は、空しく宙を掻いた。
涙が頬を伝った。
『孤独なのは、変わらないんだ』
少女は、テレビ番組で心霊特集を見ていた頃、「みんな一か所に集まって楽しそうだな」と思っていた。しかし、考えてみれば、孤独だからこそ人間を引きずり込もうとしていたんだなと、幽霊になって気づいた。
昔から何も変わらない、孤独だった。
『もう、死にたい』
とうに死んでいることは承知しているが、生きている時からの願いは、死んでからも変わらなかった。こんな姿になっても楽しくなんかならなかったし、ましてや死ぬことさえも出来なくなった。
『死ぬんじゃなかった』
それは、遅すぎる後悔だった。
前を歩く二人の姿が遠く見えた。
「最後の部屋だ」
「うん」
兄弟は二階の一番奥、姉の部屋の前に来ていた。
「開けるよ」
兄が扉に手をかけ、内側に押した。
ふっと目に飛び込んできたのは、まぶしい月の光。
「あ、あれ」
妹が月の光の方を指さした。
そこには――
「ロープだ……」
柱から垂れ下がるロープがあった。下の方が輪になっている。その向こう側には、木製の椅子が転がっていた。なぜか、ロープだけは綺麗に残っている。
まるで、時間に忘れ去られたように。
「ここが、姉ちゃんの部屋」
兄弟はそのロープの前へ来ると、しゃがみこんだ。そして、近くに転がっていた瓶を立てると、手に持っていた花を挿した。
「なかなか来られなくて、ごめん」
「お墓より、こっちの方がいいよね」
「今日は、母さんも父さんも夜勤でいないんだ」
「お姉ちゃん、寂しかったかな」
ロープの下に座る二人は、笑顔で話している。
――そうだ。孤独なんかじゃなかった。健太も、さくらも、お母さんも、お父さんもいたじゃない。何で忘れていたんだろう。一番大事なこと、何で忘れていたんだろう――
涙は頬を伝って、床に落ちる前に消えた。染みすらも残らない。
「姉ちゃん、ごめん」
――違う――
「俺が助けなきゃいけなかったのに、何もできなかった。ごめんなさい」
『私がいけないの。勝手に一人だと思い込んで、勝手に死んで……』
「謝るのは私なの!」
二つの影が振り向いた。
「お姉ちゃん?」
「姉ちゃん、ここにいるの?」
「お姉ちゃん、出てきて!」
みるみるうちに、二人の瞳には涙が溢れ出した。笑顔は消え、その表情は悲しみに沈んでいる。兄妹の頬を伝って床に落ちる雫は、床に染みを作っていく。
「お姉ちゃん……」
「姉ちゃんが死んでから、すごく寂しかったんだよ……」
大声をあげて泣き出した二人を覆い被さるように抱きしめた。
「ごめんね、勝手に死んで。まだ遊びたかった。一緒にいたかった……ごめんね」
「姉ちゃん……!」
「お姉ちゃん……!」
「ありがとう、こんなところに来てくれて。こんなところで、ごめんね」
三人は、抱き合って泣いた。
床にできた染みは、三人分の涙で広がり、月の光は、三人の影を落とした。
*手紙*
姉ちゃんがいた。本当に、あの家にいた。小さい頃、よく遊んでくれた姉ちゃん。ある日、突然死んだ姉ちゃん。
『ダメな姉ちゃんでごめんね』
俺にそう書き残して、首を吊って死んだ姉ちゃんが、俺らを抱きしめてくれた。
姉ちゃん、寂しかったんだよね。姉ちゃんに会った次の日、帰ってきた母さんに聞いてみたんだ。姉ちゃんは、なんで死んだのか、って。そしたら、寂しかったんだって、って返ってきて。
正直に言うと、俺、姉ちゃんに会うまで、忘れてたんだよ。匂いも声も、一緒に遊んでた思い出も。でも、姉ちゃんが抱きしめてくれて、思い出したんだ。匂いも声も、一緒に遊んでた思い出も、俺が泣くと、変な顔して笑わせてくれたことも、妹が生まれて、母さんも父さんもあまり構ってくれなくなった俺のことを、たった一人構ってくれた優しさも。思い出したんだよ。
姉ちゃん。もう、忘れないよ。それなら、もう寂しくないでしょ?
『叶ってほしいできごとの夢を見たら、誰にも言っちゃいけないんだって。叶わなくなっちゃうから』
あの後、全部夢だったんじゃないかって、帰り道に思ったりもしたんだ。でも、もうどっちでもいいかなって。姉ちゃんのこと思い出せたし、姉ちゃんの声も聞こえたし、それに、確かに姉ちゃんの背中に触った。夢だとしたらすごいよね。さくらも同じ夢を見てったってことだし、明晰夢っていうのを聞いたことがあるけど、姉ちゃんに会えたことは、そんなんじゃないよね。
もちろん、誰にも話してないから、安心してね。
あのね、姉ちゃんは一人じゃなかったんだよ。俺らのことに気づいてくれて、思い出したんじゃないかな? 俺も、さくらも、母さんも、父さんもいたんだよ。もっと頼ってほしかった。
またいつか、一緒に遊んでほしいな。いや、次は俺が遊んでやるんだ。今まで遊んでくれたお礼。
もう、このくらいでいいかな。言いたいことはまだあるけど、一生書き終わらないと思うから、後は天国から俺の頭の中をのぞいてね。
最後に、花を買ったから、置いておくね。紫苑って言って、すごくきれいなんだ。
じゃあね。
またいつか、会える日まで。
待っててね。
柱から垂れ下がるロープの下の瓶に、新しい紫の花が活けてある。小さな、紫の花。その瓶の横に、真っ白な便箋が置いてある。
姉ちゃんへ
割れた窓から、少し強い秋の風が吹いてきた。
風は便箋を裏返すと、廃墟の中に散っていった。
姉ちゃん 大好き
けんた、さくらより
噂の絶えたこの家は、幽霊屋敷と呼ばれなくなった。
幽霊屋敷に居座っていた幽霊は、月夜の晩に、空へ登って行った。
少女は二人が孤独にならないように、静かに見守り続けている。