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 私の祖父は、庭の手入れをすることが唯一の趣味の人だった。そんな祖父の家には広い庭が付いていて、今はそこに住む妹夫婦と母が日々、手入れをしている。小さな家に不釣り合いな大きい庭には、一年を通して様々な草花が彩りを豊かにしている。
 これからお話しするのは、この庭を造り上げた祖父が、幼い私に話してくれた不思議な話。祖父が亡くなってしまった今では真相は分からないけれど、私はこのお話が大好きだ。

 祖父の妻──つまり、私の祖母だ──は、私の母を産んですぐに亡くなってしまった。とても優しい人だったそうだ。
「この庭を造り始めたのは、花好きなあいつに見せたかったからだ」
 そう、祖父はよく言っていた。
 結局、若くに亡くなった祖母には立派になった庭を見せることはかなわなかった。しかし、定年後もぐだぐだと堕落せずに暮らすことができたから良かったのではないかと、母は言った。
 祖父は庭の手入れを始めて約三十年、五十歳になることを境に、突然同じ夢を見るようになった。
 庭の手入れをしている、ただそれだけの夢。
 最初は疲れているのだと思い、庭の手入れをする時間を減らしたり、水やりを子供に任せたりした。そうして、あまり庭のことを考えないようにした。
 しかし、休んでも休んでも同じ夢を見る。
 しかも、気づくと見知らぬ誰かも少し離れたところで手入れをしている。
 見たところ、男のようだ。小柄で細身、顔は伏せられ、綺麗な黒髪で横顔すら見えない。しかし、手は常に動かされ、手際よく雑草を抜いたり、ある時は水やりをしている。
 そして、祖父が一番不思議に感じたことは、いつも会っているような、親しみの感情が湧いてくることだった。

 祖父は、長い間同じ夢を見た。
 何年も何年も、顔の見えない男と会話をすることもなく、ただ黙々と手入れをした。
 その空間には居心地の良い空気が流れ、まるで、長年付き合いのある親友と一緒にいるように感じたと、祖父は言った。
 私の母にもその話をしたことがあるそうだが、母はすっかり忘れていた。あまり夢物語に興味がないのだ。

 毎日庭の手入れをしていた祖父は、六十歳の時に脳梗塞で倒れた。
 命は助かったものの、右半身に重いまひが残ってしまった。庭を手入れするどころか、歩くことさえも困難になった。
 やがて、祖父は家に引きこもるようになっていった。
 若いころから病気一つしなかった祖父は、不自由になった体に馴染めず、行き場のない腹立たしさに、大声で喚くようになった。
 祖父の倒れた後、代わって庭の手入れをしていた母も、介護に疲れ、庭に行くことさえなくなっていった。
 あの夢も、見なくなっていった。

 それから約一年後。祖父は久しぶりに、夢を見た。
 その日見た夢は、祖父が庭のベンチに座り、あの男が草むしりをしている夢だった。
「今まで、ありがとうございました」
 座り込んでいた男が立ち上がった。初めて聞いた、少し低い声。
 振り返った彼は、紫色の瞳をしていた。細められた瞳と、薄く整った唇。どこかで見たような気がしてならない。
 男は怪しげな笑顔で、深々とお辞儀をした。
 長い間、頭を下げていた。祖父は、身体を動かすことはおろか、声を出すことさえもできなかった。
 男は踵を返してツバキの向こう側へ消えていった。
 その横顔は、泣いているように見えた。

 目を覚ますと、枕もとの時計は朝の八時を指していた。
 急いで私の母を呼び出すと、庭に連れて行ってくれと頼んだ。
 倒れてから、初めて外へ行くと自分から言った瞬間だった。
「驚いたわよ。倒れてから外に出たがらなかったんだから。お父さん、ひっしになっていたわ。あんな姿、初めて見た」
 母は、懐かしそうにそう言った。
 季節は春だが、その日は気温が低く、結局祖父を連れていくことは断念した。その代わり、庭の様子をカメラに収めてくることになり、母はデジタルカメラを手に外へ出ていった。
 数十分後、祖父は十数枚の写真を手にすると、一枚一枚、噛み締めるようにめくっていった。
 そして、ある一枚で手を止めた。
 中央に映る、小さな花。その花が、まさに今、その命を終えようとしているところだった。 私の母も、その花の名前くらいは知っていた。
 紫色の、小さなスミレ。
 何代も見守ってきた小さなスミレと、あの男の姿が重なった。
 少し低い声と、紫色の瞳。
 私の母は、その写真に向かって頭を下げる祖父の様子をよく覚えていた。申し訳なさそうに、深く頭を下げていたらしい。
 スミレは、祖父が好きな花だった。庭を造り始めた時、一番最初に植えた花が、そのスミレの一代目だった。
 それから祖父は、毎年種を取っては植え、種を取っては植え、大事に守ってきた。
 そのスミレが、命を終えようとしている。
 その日、祖父は母に水やりを頼むと、窓からずっと庭を眺めていた。
 祖父の脳裏では、紫色の瞳がぞっと悲し気にこちらを見ていた。

 その夜、あの夢を見た。祖父はベンチに座っていた。紫の瞳の男は、昨日消えていった、ツバキの向こう側からやってきた。
「帰ってきました。ありがとうございます」
 照れくさそうに頭を下げた男の後ろから、大きな声が聞こえてきた。
「おーい、俺もいるぞ!」
「私たちのことも、忘れないでちょうだいね」
 ぞろぞろとやってくる若い男、女。男は賑やかになった彼らを何とか鎮めると、紫色の瞳を伏せ、申し訳なさそうに言った。
「すみません、こいつらも来たいってうるさくて」
 彼は一人ずつ紹介していった。
「こいつはバラです」
「よろしく」
 妖艶な姿の女性が挨拶をした。
 それからは長かった。コスモス、スズラン、クローバー、ツバキ……。
「まあ、もうわかっているとは思いますけど、僕たちはあなたに育てられてきました。まだ時期ではないのもいるんですけど、お礼を言いたいらしくて」
 全員が幸せそうに、楽しそうに笑っていた。
「スミレのやつ、私の後ろに隠れて泣いてたんだよ。まだ別れたくないって」
 ツバキは顔を赤らめているスミレを突いた。
「まあ、まだ死にたくないのはみんな一緒さ。あの女性にも、お礼を言っておいてください。水やりをしてくれた、あの美しい女性にも」
 クローバーと紹介された少年は、眩しい笑顔を向けた。
「本当に、ありがとう」
 彼らの言葉を聞いているうちに、自然と涙が頬を伝った。
「泣かないで下さいよ。あ、僕も手入れ手伝おう」
 クローバーが花壇の前に座り込んだ。
「アタシも」
「僕も!」
 彼らはみんな、草むしりから、水やり、虫の駆除まで、手際よく進めた。
「また庭に戻ってきてください。まだ種のままの者もいますが、みんな、あなたを待っています。このベンチで、僕たちのことをみているだけでもいいので」
 スミレはそう言うと、彼らに交じって草むしりを始めた。
 色とりどりの彼らは、楽しそうに笑っていた。

 自分で庭に行けるようになるまで、庭の手入れをしてほしいと頼んだのは、その翌日のことだった。母はすぐに快諾した。元々、ガーデニングは好きなのだ。
 車いすに乗った祖父は、庭へと向かった。車いすを押していた母に、入り口で止めるように指示をする。
 祖父は、深々と頭を下げた。あのスミレと同じように。
 そんな祖父の周りを、春のほんのり暖かい風が吹き抜けていった。
 まるで、帰ってきた父を歓迎するかのように。

 祖父はこの話をした一週間後、この世を去った。
 きっと祖父は、私に託したのだと思う。
 この庭を、いつまでも守っていってくれと。
 今でも私は、時々庭の様子を見に行く。
 彼らが元気でやっているか、それを確認するために。