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 茹だるような暑さと、鬱陶しい蝉の鳴き声が聞こえてくる夏になると、戸井は決まってこう問うた。

「俺がここで死んだら、お前はどう思うの」

 と。

 前を向けば緑ばっかりのつまらない田舎によくある光景。横を向けば田畑ばかりである。そこに踏切がぽつんとあった。よく見れば不自然だ。自然しかない道にいきなり機械的なものが不格好に立っているのだから。
「……なあ」
「んー?」
「その向日葵、どっから持ってきた?」
「えー?去年も聞かれた気がすんだけど。いい加減覚えろよー、家だよ、家から持ってきたの」
 作り物みたいに大きい向日葵を抱えながら戸井は線路に足を踏み入れる。線路を素通りするわけではなく、そこに座り込む。向日葵を胸元に置き、まるで棺桶に入れられた死人のようなポーズをとり、線路に横たわる。これが毎夏の、戸井のルーチンワークだった。
「お前、飽きないの?それやってて」
 俺は踏切のバーの前で胡座をかく。
「飽きないんだよなー、それが。こうやっててやっと生きてる感じがするから」
「……逆じゃねーの?なんか死んでるみたいだし」

 戸井は昔から変なやつだった。ある時は木にしがみつき「このまま一週間蝉の真似してたら蝉と一緒に死んじゃうのかなー」やら、先程のように向日葵を抱えて線路に横たわったり。俺には何がしたいのかさっぱりだったが、幼馴染のよしみというやつか、気付けばいつもそれに付き添っていた。一緒にやるわけじゃない。あくまで傍観者として。
 
 カンカン、と踏切が鳴る。別に戸井は焦る様子もなく、バーを潜り抜けた。
 向日葵を線路に置いて。
 
「……あれっ、お前、いつも向日葵持って帰ってなかったっけ」
「ああ。……今年はいいかなって」
「え……?」
 疑問だけが頭を駆け巡る中、電車が風を切って通り過ぎる。汗で濡らされた制服が少し冷えた。
 電車が過ぎ去った後、線路に置かれていた向日葵は見るも無残な姿になっていた。花弁は三、四枚程しか残っておらず、最早原型を留めていない。
 
「なあ」
「……何」
 
「俺がこうなったら、お前はどう思うの?」
 
 生温い、風が吹き付ける。気持ち悪い感覚を覚え、それと共に虚無感が襲う。
 戸井は、決まってさっきのように問う。形は違えども、毎回「俺が死んだらどう思うの」と聞いてくる。
 どう「する」んじゃない、どう「思う」と聞いてくる。
 
「そりゃあ……悲しいだろ」
「そっかー」
 毎回、同じ返しをして同じ返しを食らう。それしか言うことがない。それ以上なんて、きっと戸井は望んでいない。
「でもさあ、最初から悲しいとは思わないだろ。だって俺があんな向日葵みたいになっちゃうんだぜ?人間に置き換えたらグロいだろ?」
 ズタズタになった向日葵が脳裏に浮かぶ。とても置き換える気にはならなかった。黒縁の眼鏡越しに、戸井は俺の目を覗き込む。
「最初だったら、気持ち悪いとか思う筈なんだよ。俺の独断と偏見だけど」
 話の内容にはとても合わない、剽軽な声だった。
「いくら友人っていったってあんなんになったら気持ち悪い筈だぜ?まあお前が轢死体愛好とかじゃなかったらの話だけど。……目の前の光景を受け入れて、やっと悲しいって思えるんじゃないかなー、ってさ」
 去年はそんなこと言わなかったよな、と思いながら、
「……そうだな」
 とだけ返した。
「はは、変わってねーなお前は」
 バン、と背中を叩かれ、浸っていた虚無感から解き放たれる。
「うっせ、お前の方が変わってねーだろ」
 口ではそんなことを放っていたが、本当はこれっぽっちも思っていなかった。唯、変わってしまう戸井が怖かった。
 頭を掴み、自然と肩を組んできたやつを引きはがす。なんだよ、つれねえな、と戸井が口を尖らせて呟く。可笑しな顔だった。
 そうして、俺と戸井は踏切をあとにして、それぞれの帰路についた。

 その日の夜、嫌な夢を見た。
 踏切が鳴っても、戸井はそこから一歩も動かずに、
 そのまま電車と去り逝く夢を。

 その悪夢から目覚めるのと、戸井からのコールはほぼ同時だった。
「秋谷―、既読スルーならまだしも既読すらつかねぇんだもん。大真面目に課題やってんのかよーとか思っちゃってさ」
「悪ぃ悪ぃ、課題やってたんじゃなくて、マジで寝てた」
 声色で悟られないよう、平常を装う。受話器の外では、冷や汗でぐっしょりでとても隠せそうにない程に焦っていた。然し段々偽るのも酷になってきて、誤魔化し方が雑になり、声が大きくなっていく。
 戸井が電話をかけてくるのはしょっちゅうあることで、ほぼ毎日喋りこんでいたり、今みたいに段々話し声が大きくなってしまって度々隣室にいる妹に「うるさい!」と言われる。その度に戸井は嘲笑し甲高い声で叱られた俺を馬鹿にするのだった。今さっきだってこっぴどく言われた。スピーカー越しに戸井のげらげら笑う声を遮るように、これ以上恥をかきたくないがために話を変える。
「いつまで笑ってんだよ!それよりさ、話したい事あるんだけど」
「ひひひひ……だって面白えんだもん……で、何?話したいことって」
「お前、結局何の為に電話かけたんだよ、俺にさっき送ってきた花火大会のポスターの写真は関係ないのか?」
「あー……?ああー!そーだよすっかり忘れてた!」
 先程、戸井が送ってきた画像とは、明日近場で開催される花火大会のポスターの画像だった。わざわざ帰りに掲示板を見て撮ってきたのだろう。
「もしかして、予定あったりする?」
「別に。いつも通り暇だからさ、行けるぜ」
「よっしゃ!花火大会行くのガキの頃以来なんだよ。だからめっちゃ楽しみ!」
 声色からして楽しそうなのが伝わる。こんな少年みたいにはしゃいでいるやつが、数時間前は踏切に横たわって不穏な問いをかけてきたやつと同一人物だとは思えなかった。
「でもよ、花火大会って人めっちゃいるじゃん、場所取れんのかな」
「んー?ああ、その心配はご無用だぜー」
 いつもと変わらず、軽々しい口調で戸井は話す。
「ご無用だぜーって、あそこ、穴場なんてあったっけ?」
「実はあるんだよ。そういう穴場が」
 この十七年間住んできて、まだそんな知らない場所があったものか、と思いつつ戸井の話に耳を傾ける。
「山をちょっと登った先にさ、断崖絶壁の場所があるんだ。そこがすっごく花火が綺麗に見えそうな場所なんだよ」
「見えそう?実際に行ったことないのか」
「うん。何度もさ、あそこで花火を見たら綺麗なんだろうなって考えてた」
 意外とそういうの考えるんだな、とか思いつつ、言葉は「ふぅん」と素っ気ないものを放った。ほんの数秒の沈黙の後、また口を開く。
「おセンチになってるとこ悪いけどよ、もし見えなかったらどうするつもりなんだ?下まで降りて見るか?」
「別におセンチにゃなってねーよ。じゃなくて……そん時は秋谷ん家行くわ」
「何でそうなるんだよ……俺の家、花火見にくい位置にあんのお前なら分かるだろ」
「違う違う。課題、見せてもらうんだよ」
 にしし、と電話越しでも分かるようなわざとらしい笑い声が聞こえる。戸井の悪だくみした顔がまざまざと浮かぶ。
「意地でも見せないからな、自力でやれ」
「なんだよー、ケチだな。まーでもあそこなら花火が見えないことはないだろうし、秋谷の家にお世話になることはないと思うぜ」
「そうかよ」

 他愛のない話をしている間でも、頭に浮かんできたのは、轢かれた向日葵を横にして語る戸井の顔だった。
 何故か「俺が死んだらどう思うの」と問う時の戸井は不気味に思える。いつもは少し変わっているってだけなのに、その時だけ、別人のようになる。

 夢の中で、バーの降りた踏切の中で立ち尽くしていた戸井が、へらへらと笑って
「海」
 と俺の名前を呼んでから電車と去り逝く映像が流れる。

「……あれ、秋谷?俺の話聞いてたー?明日六時半にー、俺んちに来てーって」
 スマホのスピーカー越しに流れてきた声でやっと意識が戻る。
「……ごめん、全然聞いてなかった……考え事してた」
「何やってんだよー、まああとでラインにも入れとくからさ、それ見ろよな」
「ん、分かった」
「ぼけーっとしてんなら早く寝た方がいいぜー?」
 お前が言うなよ、夜更かし魔、と小言を吐いて、
「おやすみ」
 電話を切った。
 画面をスワイプした後、友だち欄に映る「戸井 夏樹」という四文字の名前。戸井は、「いい加減あだ名に変えてくれよー」と言うが、さらさら変えるつもりはなかった。

 毎年、夏に変な問いをかけるやつ。
 何か秘密があるのだろうか、俺は問いたくても、問えずじまいでいた。
 どうせ聞いても流されるだけだろう。考えたって謎が深まり、俺だけが頭を抱えるだけだ。
 電源を切り、蒸し暑い空気を振り切るように薄い掛布団を被り、床に就いた。

 断崖絶壁の場所で、俺は戸井と花火を見ていた。
 見ていた筈なのに、何故か音はせずただ花火が咲く様子を滔々と見ている。音がないから、味気がない。
「なぁ」
「何」
「なんで俺が、こんな場所選んだか分かる?」
「……花火がよく見えるからだろ」
 そう俺が答えると、いきなり戸井の顔が眼前に迫り、
「違う」
 と、短い言葉で不正解を示した。顔が近い。普通の人からしたら薄い、榛摺の目が近い。目が暗い。音のない花火の、ただ眩しいだけの閃光がその目に光を与える。見惚れていた。俺が何も言葉を発せずにいると、距離を離し、花火の方に向き直り、そのまま古びた木で作られた仕切りを越え―――……

「おい、馬鹿戸井、戻ってこい!」
 既に戸井は仕切りを超えていた。超えた先は、一歩でも踏み外したら、奈落の底だ。戸井は、そんな状況でも、へらりと笑って、
「はは、なんだよお、踏切じゃ止めないクセに」
 と呑気に言ってのけた。
「それとは話が違うだろ……!」
 暗い笑みは崩れない。俺だけが焦っている。次第に嫌な予感が汗となって湧き出た。予感が的中しないように、手を、必死に伸ばす。
「海、いつもと違うとすぐ焦るなあ。でもまあよ、焦るのも分かるぜ」
「なあ戸井、べらべら喋ってないで、早くこっちに、」
 焦る。
 焦る。
 戸井の戯言なんて聞いているわけなかった。
 手を伸ばして、譫言のように、こっちに、仕切り越えて、と言い続けていた。
 でも。
 戸井も、そんな譫言を聞いていない。

「俺が、飛び降りると思ってるんでしょ、」

 手が、触れた。逃すまいと、握りしめようとして、拳を握、

「そう、大正解。」

 ぱし、と手が払われた。中途半端に握られた拳が空を掻く。呆気に取られた、そんな隙にも、戸井は、

 

   落ちていった。
          奈落の底に。

 

 

 

「……っ!」
「うわあっ!何お兄ちゃん、いきなり飛び起きて……」
 悪夢から覚めた直後、真っ先に目に入ったのは驚愕に染まった妹の顔だった。やがて呆れたように顔を歪め、
「すんごい汗」
 たり、と生温い汗が額を伝った。紛れもなく、先程の夢のせいだった。夏の暑さのせいだけじゃない、感覚が妙に生々しかった、あの夢のせい。
「ほら、タオル!汗だくはフケツだからね!」
 夢がぐるぐると頭を支配している中、突然眼前に迫ってきたのは夢の中のように戸井の顔ではなく、真っ白なタオルだった。ばふ、と顔全体にごわごわとした感触が広がる。
「ああ、タオル、ありがと……」
 と呟いてみたものの、妹は一階に行ってしまったようで、階段を下る音が響く。顔を拭き、ごわごわの感触から顔を離す。
 それにしても、異常な生々しさだった。花火の音が聞こえないこと以外は、全てリアリティがあった。戸井が話す仕草もそのまま、夏の夜の蒸すような暑さ、断崖絶壁に立った時のような胸が空く感覚。そしてあの時、手を取ろうとして掠めた手の感触。
 女みたいな細い指先を、はっきりと覚えている。

 何だよ。いつもいつも、変な問いかけをしてくるのは、さっきの夢のようにいきなり死ぬつもりからか?後悔しないように、先に気持ちを聞いておきたいってか?馬鹿馬鹿しい、夢を真に受けるなんて馬鹿馬鹿しいと思ったけれど。あの夢だけは妙に現実味を帯びていて、正夢になってしまうような気がしたから、答えてくれ。どうして、そんなことばっかり聞くのか。知りたい。解りたい。

 トーク画面を開く。
 受話器のマークを押す。
 発信。
 コール一回目、二回目……三回目。遅い。……四回目。
 切れるような音。
 切れたんじゃない。
 繋がった。

「夢でえ?俺が飛び降りて死んだってえ?」
 わざわざ、戸井は復唱した。
「ああ、お前が復唱した通りだ」
「ふーん……で、それがどうしたんだよ」
 俺の気も知らないで、とスマホを握りしめてしまう。折角拭いた掌が、また汗ばんだ。
「どうしたも何もって……その夢のせいで気分悪くなった……っつー話」
 俺は話を締めるのが下手だった。誤魔化すのも、下手だった。戸井と、全く逆だった。数秒間の沈黙、俺には数分にも感じられる空しい時間。
「……はははは!何だよ、お前面倒くさい彼女みたいだな!」
 げらげらからから、笑い散らかす声がうるさい。耳元からスマホを少し遠ざける。
「うるせぇな……」
「だってよー、それ話すためだけに電話かけてきたんだろ?俺いつでも暇だからよかったけどよ、どっか出掛けてたり他のやつと遊んでたらキレてんぞ俺」
 よく考えなくてもそうだ。こんなことを話す程普通のやつは暇じゃない。戸井が出たのだって、偶然だろう。いつでも暇、と言ってる割にはしょっちゅうほっつき歩いているようなやつだ。
「……すまねぇ」
 聞きたかったことも忘れ勝手に項垂れて、床にごろりと倒れ込む。声が嫌という程沈んでいる。衝動でまた、後悔の波に呑まれそうになった。
「なぁ秋谷」
 戸井の声で持ち直す。横目で床を見つめていた眼を電話に移した。

「そんなに俺が死ぬのが怖いの?」
 そんなにもお前が死ぬのが怖い。
「つーかさ、随分ロマンチックな死に方してんね、秋谷の中の俺。花火をバックに飛び降りなんてさ」
 そりゃあそうだ、所詮夢の中の戸井なんて偶像だから本人と大きな差異があっても仕方ないだろ。
「死ぬんならもっと地味に死ぬよ」
 なあ、その言い草じゃ結局死ぬつもりではいるのか?
「……そうじゃないか」
 ……
「まぁ、俺そんなあっさり死なないからねー」
 そんなあっさり死にそうだから、こんなに心配しているんだよ。

「……戸井、」
「んー?」
 あっけらかんな声の短い返しが耳に届く。死ぬことなんてこれっぽっちも考えず、先も見据えずに今だけを生きていそうな軽薄さが目立つ、そんな普通の男子高校生。そんなやつならよかったのに。
「今日も、死んだらどうするって問いを投げかけるつもりだったのか?」
「ああー……」
 群衆に交じり、一番家の近くで鳴いていた一匹の蝉の声が止んだ。視界を窓の外に移す。
「うん。」
 今、窓の外で一匹の命が終わった。幹から力なく、落ちて逝く蝉だったものが映った。
「……つーかなんで分かんだよ、エスパーかぁ?」
 死んだ蝉を差し置いて、また五月蝿く他の者が鳴き始める。流れる大きな雲が、熱を降らす太陽を覆った。蒸した室内が、影を帯びる。やがて陽が完全に差さなくなった時、本来聞きたかったことを思い出した。
「エスパーでも何でも無えよ、それだったら……」
「だったら?」
「戸井が死んだらどう思うか聞いてくる理由だって、はっきりと分かるはずだろ」
「分からねえんだ、毎年俺に問いかけてくる理由が。何が正解かも、不正解かも、その問題の真意が昔っから見えないまんまで」
「なあ、どうして・・・・・・」
 汗が額を伝う。無言が心苦しい。妙に薄暗い部屋が不安を煽る。
「どうして、戸井は必ず夏にお前が死んだときの、俺の心情を聞くんだ」
 それは。
 それは、俺が初めて戸井に問いかけた疑問だった。夏の時ばかり、眩しくも影を帯びる戸井夏樹という人間の真意に踏み込んだ、最初できっと最後の問題。春にも、秋にも、冬にも死のうとしないあいつの、唯一死に踏み込もうとする夏に問う。
「それは、」
 絶妙な声色が返る。電話越しの声じゃ、相手がどう思っているかも気が知れない。妹が注いだであろう麦茶の氷が溶けてからりと鳴った。
 死にたいから、と言うのか。
 夏だと、死が過るからと言うのか。
 それとも俺に死に際を見せて、地獄に堕とすために、
「秋谷海が、好きだから!」

 雲が退き、業火が咲いた。蝉が一斉に鳴きだす。風が吹いたのか、外の風鈴がちりりと鳴った。
「お……」
 午後四時を告げる町内放送が、俺の返事を妨げた。
 俺も戸井が好きだから、心配ばかりしていたんだと。
 夏に問うたその答えは、暑さで倒れてしまいそうな程眩しかった。