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 二十年間生きてきて、人に困ったことは一度も無かった。
 笑顔、言葉選び、タイミング、角度、距離感。適切に行動し、適切な言動でエラーなくことを進めれば、人と関わるのはとても簡単だ。
 なるべく何も思わず、何も感じず、機械のように正しく反応を繰り返せば、信頼、好意、興味関心が、適切に周囲から与えられる。
 私はいわゆる幸せな、一般的な女子大生だ。
 例えば友達に誘われた合コンで出会った歳上の社会人男性と連絡先を交換し、何度か二人で出かけた後何かと理由をつけて話題のレストランに誘われるような……拒む理由がないからというだけで、食事のあと手を引かれるままホテル街へ連れていかれても素知らぬ笑顔で言外に受け入れるような。

 十二月。寒い。
 冬にしては珍しく雨は強くて、二人を覆う一つの傘へ、申し訳程度に添えた手に雨粒の振動が伝わる。左肩に雨水の冷たさを感じる度、鞄の中の折り畳み傘が脳裏にちらつくけれど、得意げに「入っていいよ」と微笑みかけられたから、持っていることもろとも隠しておくことにしたのだ。
 連れていかれたお店は高いわりに量が無かったし、別にこれといって美味しくもなかった。 まずいわけでもなし、今宵、一銭たりとも私の財布からの出費はなかったが、自分からもう一度行こうとは思えない部類のそれだ。もし終電に間に合えば、帰りにコンビニに寄って何か買おう。私は、内心そう決意しながら傘を握り直した。

 フロントを通過し、部屋に連れ込まれ、シャワーを浴びる。
 これから何が起こるのかは知っている。それに対し特に思うこともなく、とはいえそれが回数を経ることによる麻痺じゃないのもまた知っている。

 私の『これ』は、もうずっと昔から『こう』だ。
 この世には数多人間が暮らしていて、同種の生き物ながらその内面は十人十色。自分とそれ以外はどうしようもなく違くて、似ているところもあるけれど、間違い探しに労力を使うのは、とても疲れる。
 とはいえ、壁を作れば摩擦が生まれる。そんなくだらない結果は本意じゃないから、私は他人を”コンピューター”だと思って生きることにした。
 どんな数字を入力すると、どんな答えが返ってくるのか。その反応だけを集めて、人付き合いを最適化していく。
 必要なのは数字であって私じゃない。
 必要なのは言葉であって私じゃない。
 必要なのは正解を入力してくれる存在であって、間違ってもわたしそのものじゃないのだ。
 気づけば私の周りには自然と人が集まるようになった。ほら、必要なのはやっぱり私じゃないし、君でもない。誰だって正解だけが欲しい。わたしも本当は正解だけが欲しい。だけど、まあ、それは贅沢ってことで。
 蛇口をひねってお湯を止める。水の跳ねる音が途絶えた途端、薄い壁越しに声が聞こえた。電話。仕事かなと思ったけど、耳をすませばどうやら相手は彼女らしい。浮気。……別に珍しい事じゃないけど。

 浴槽の縁に腰掛け、タオルケットを被って全身の水気を取った後、脱いだ服を着直す。雨で湿ったタイツは流石に履き直す気が起きなかったので、雑にカバンに詰め込んだ。軽く持ち込んだ保湿クリームを肌へすり込み、鏡に向き合ってドライヤーで髪を乾かす。……時間稼ぎだ。電話、まだ終わってないみたいだし。

 ゴーゴーと喧しいモーター音を意識から追い出し、ふわふわとぬくい風にあたりながら、わたしは考える。
 もし、誰か、誰か私の世界に飛び込んで、私のことを知ろうとして、私の本当を知って、それでも一緒にいてくれるなら、

 そしたら私は、こんなふうに意味もなく泣いたりしなくなるのだろうか。

 なんて。
 鏡を見て、苦笑った。
 擦ると後に障るから、数滴湧き上がった涙はドライヤーの風で吹き飛ばす。
 身の回りにはたくさん人がいるし、みんな私といると楽しそうだし、私は幸せな人間にカテゴライズされるような生活を送れているし、何も、何も不備はないのに、それでもこうやって、ふとした時に涙が出るのはどうしてなんだろう。

 ふう、と息をつきドライヤーを止めると、壁越しの声は止んでいて、変わりに少し大きめのため息が聞こえた。
 立ち上がる。
 正解は知ってる。
 だから、私は戸惑うことなく扉を開ける。

「どうしたんですか? ため息なんてついて」
 笑顔、猫撫で声。女の子なら誰でも出来る簡単な方法。わかりやすく好意を押し出し、あけすけに打算をひけらかせば都合がいいと拾われる。
「あはは、聞こえてたの?」
「ため息だけ……。大丈夫、ですか? もしかして私、迷惑だったり……」
 申し訳なさそうに少し俯く。きっと、欲しいのは、年下の女の子。つまるところ自分が優位にたてる状況。
 心底肩身が狭そうに、それでもここにいたいから、みたいな、そんな顔と言葉を選んで。
「大丈夫だよ、少し疲れてるだけだから」
 反応は笑顔。つまるところ、私の見立ては正解だったようだ。「よかった」と息をついて、私はそっと歩み寄る。
 嗚呼、はじまる。いつものこと。嫌ではない。好きでもない。そこには何も無い。何一つ、何かがあることなんてない。意味は無い。味はない。色はない。私は何も感じなくていい。
 それでいい。
 ……それで、いい、の?

 音がした、気がした。ぽたり。雨音かな。シャワーの蛇口が緩かったかな。それとも、

「唇、切れてる」
 目の前の彼はわたしの唇を指でなぞる。血液でぬるりと滑る指が不快で、目を伏せ近づく顔に何も思わない自分がどこか虚しくて、わたしは戯れみたいな声色で言葉を零す。
「これ、わたしである必要、ありますか?」
 くすり、世間一般に言う『妖艶な笑み』を浮かべた彼は一度目を開けて、わたしの髪に指を絡めて返す。気持ち悪い。なんでだろう。普段なら何も思わないのに。置いてきたものが、私を追いかける。なくしちゃいたかったものがずっと耳元で囁いている。
「あるよ。だって、今僕が欲しいのは君だから」
 焦れて、倒れ込むように身体が近づく。私には、なんだかそれがスローモーションのようにゆっくりに見えた。
「そう、」
 喉から出たのは乾いた声だ。
 冷たくて色のない、私の声。
「……ですか」
 見つけられそうなのに、取り戻せそうなのに。本当はずっとそこにあって、いらないと蹴飛ばしていた何かを。
 顔が近づく。知らない匂いがする。多分、目を瞑ってしまう方が賢明なんだろう。だから、私は瞼を落とす。見えない。聞こえない。そんな必要も無い、から。

 ――なのに。
 瞼の裏側。音が聞こえる。ぽたり、ぽたり。シャワーか、雨か、それとも、
 ――――伸ばした指を掠めた唇の血は乾いて固まっている。

 代わりとばかりに、溢れていたのは涙だった。

「……ぁ、」
 唇が触れるか触れないかと言うところで、”わたし”は目を見開く。
 シャボン玉が弾けたみたいに、急速に世界が色をとり戻していく。
 わたし、
 なんでこんな所にいるんだろ。
 なんでこんな風に喋ってるんだろ。
 わたしがしたいことってなんだよ。
 わたしがみたいものってなんだよ。
 わたしが話したい言葉は、聞きたいことは、食べたいものは、見たい景色は、
 わたしが、わたしが、わたしは、わたしは…………?
 ぐるぐると目が回るような心地のまま、とん、と、拒絶の意思を込めて目の前の肩を押す。
 ただのわがままなわたしが、正解をなぞるだけのアンドロイドだった私から、全身の全権利を奪ってしまったみたいだった。
 なんで、なんで戻ってきたんだろう。わたしは私のままでいいのに、だって、どうやって生きていけって言うんだよ。ぜんぶにいちいち真正面に感じ取ってたら、疲れちゃうじゃないか。苦しいじゃないか。だから、無くしたかったのに。

「……かえり、ます」
 呟くように零すと同時に、カバンに飛びつき、わたしはわがままに駆け出す。
 ドアに体当たりして、エレベーターに飛び乗って、出口まで。逃げてるみたいで、ちょっとおかしかった。
 自動ドアをくぐり抜け、傘をさしながらふらりふらりと帰路をゆく、どうしよう、どうしようね、走ってみようか。走りたければ走ってもいいのだ。周りの目なんて気にせず。……なんて、なんてあたりまえで、狂おしくて、馬鹿みたいで、それでいて、素敵なんだろう。
 くだらない。駆け出して思う。くだらないくだらないくだらない。なんのためとか、なんでとか、どうしようとか、もう全部どうでも良くなってしまった。生きたくて生きてたんじゃないし、でも生きたいと思いたくて、生きてて欲しいと思ってもらえれば生きていられるきがして、こんなことばかり。

 頬を伝った雫が口に入った。塩辛い。ほら、そうやってまた泣く。誰かに助けて欲しいのかもしれない。見てほしいのかもしれない。これは、そういう下心の涙なのかな。それともほんとうに悲しいのかな。わかんなくなっちゃったなぁ。

 喉を通り過ぎる空気が冷たくて、頬を滑り落ちる涙が冷たくて、髪から滴る雨水が冷たくて、地面を蹴る脚へ跳ね返る水しぶきが冷たくて、やり切れなくてまた泣いて。
 泣いて、泣いて、走って、走って、走って、走る。どちらへ進んでいるかもわかんないまま、引き止めてくれる人も、誰もいないから。

 開いた傘にひっかかる空気が煩わしくて手を離す。肩で揺れる鞄が邪魔で投げ落とす。髪をまとめていたヘアゴムはとっくに捥いで捨ててしまった。清楚を気取ったブラウスの第1ボタンも、足に合わないヒールの靴も、いつの間にやら無くなっている。どこに行きたいわけでもないのに、本当にどうしようもなくここにはいたくなくて、全身ずぶ濡れになりながら、裸足のわたしはただ逃げる。

 どこを見ても息が詰まる。なら、どこなら息ができるというのだろう? ぼやけた視界、きらきらした世界。あちこちの窓からあかりが漏れてる。これがいっぱいで夜景になるのか。なんだか桜の花びらみたいだなって思う。

 走る、走る、走る、走る、走る、走る。走って、転ぶ。
 擦りむいた膝が痛い。どうしよう。携帯も財布も身分証もカバンに置いてきちゃった。寒い。寒いけど、コートはホテルに置いてきちゃった。どうしよう。スカートのポケットを漁る。奇跡的に200円あった。自販機ないかな。いや、公衆電話を探すべきかも?
 ここがどこなのかも自分がどこから来たのかもわからない。涙も全然止まらない。
 このまま死んじゃうのがいいのかな。わかんない。寂しい。誰か迎えに来てくれないかな。いや、でも、そんなに仲良い人いないしな。それに、こんなとこ見られたくないし。……ほら、またそうやって繕おうとする。

 車もほとんど通らないような、大通りから外れた道路のど真ん中、わたしは泣きながら笑って仰向けに倒れる。雨が目に入るから目は閉じた。涙はやっぱり止まんない。びしゃびしゃで、つめたくて、寒い。
 ずっと、待ってる。探してる。わたしに触れてくれる人を。
 両手で目を抑える。嗚咽が溢れる。何かがずっと足りてなくて、それが欲しくて、欲しいと思うのが辛かったから全部閉じ込めた。
 閉じ込めたけどやっぱり欲しくて、向こうから触れてもらえることを期待して求められるがまま生きてきた。

「………ぁ…ぐ、……ふ、」

 口を開くと雨が口に入る。熱い口内を冷まして心地よい気もするけれど、いかんせん寒いので総合的に見ると不快だった。
 ただ、倒れ込んで泣いていた。いままでの全部が嫌だった、嫌だったことが分かっちゃって、過ぎたことだからどうしようもなくて、また胸の奥がぐちゃぐちゃになっていく。

 ……ほら、やっぱり何も感じない方が良かったんだよ。
 ともかく、このままじゃ死んじゃうから、どこかに行かなきゃ。
 どこかに行くなら、泣くのをやめなきゃ。
 涙が止まるよう祈りながら、深呼吸する。
 ひゅるり、吐く息が熱く、
 ひゅるり、吸う息は冷たい。
 ひゅる、ひゅる、冷えきった世界の真ん中で数分、数時間、あるいは数秒。無心で自分の呼吸の音を聞く。
「……さむ、い」
 ぽつり、落ち着いて、出てきた言葉がそれだった。言った途端いよいよ本当にどうしようもなく寒くなる。真冬にこんなかっこで路上にぶっ倒れてりゃそりゃ寒いわ。
 面白くて、一人また笑う。涙こそ止まらないけれど、くつくつと無邪気に。こんなに素直に笑ったのはいつぶりだろう。あらゆる感情に関わる抑制が無くなっているような気がした。
 思考がまともに働きそうにないので、口に出しつつ今後のことを考える。
「……おきてー、かばんひろってー、ねるとこ、さがす?」
 それで、それで、どうしよう。明日は土曜日、明後日は日曜日。土日の講義は入れてない。でも明明後日大学にいつものように行けるかと聞かれると微妙だ。とはいえ親や友達に心配をかけるのは気が引けて、
「…………死ぬかぁ」
 ごちゃついた脳内で転がり込むようにたどり着いたのがそれだった。ものすごく暫定だけど。だって、苦しい思いをしてまで存命する理由がない。…………死ぬと言うより、生きようとするのをやめる、の方が近い気すらする。本来もっと早く死ぬはずだったものを、無理やり今の今まで繋げてきていただけのような。

 できることなら、一度でいいから生きたいと思いたかった。生きている意味を心の底から感じたかった。
 でも、……もう無理だろう。不感症と機械的処理による延命処置は終わりを告げた。あとに残るは生身で味わう日常というひとつの地獄でしかない。
 そんなことを、神妙な顔で、泣きながら考えていた。
 考えていた、その時だった。

「……あのさ」
「ひぇ、」
 突然聞こえた声に思わず起き上がる。
 黒いスウェット、ぼさぼさの髪、この雨の中緑色のサンダルをつっかけて紺色の傘をさしたその人は、
「道の真ん中で寝るの、やめてくれませんか」
 ぼそぼそと、眉をひそめ呟く様にそう言った。

「ぁ……ごめ、なさ」
 わたしは慌てて涙を拭いつつ返す。己の状況を省みて、一体何だと思われているのかがちょっと気になった。酔っ払い? 時間帯的には分からなくもないし、もし自分が彼の立場なら十中八九そう判断するけど。……何にしたって、明らかな不審者に自分で声をかけるだなんて勇気のある人だ。
「す、すぐにどきますんで、すいません……」
 立ち上がるタイミングを見失って、座り込んだまま見上げた。存外、綺麗な目をした人だなぁなんて場違いに思う。
 お兄さんは、へらへらと笑うわたしを訝しげに数秒見つめたあと、「どくって、どこいくの」とぼそりと返してきた。
 質問で返されるとは思っていなかったので「へ?」などと素っ頓狂な声を上げてしまう。
 そんなわたしを差し置き、お兄さんは淡々と続けた。
「荷物、なんも持ってなさそうに見えるけど」
「あ、はい、まあそうなんですけど」
 あまりの事態に口が滑る。しくじったな……適当に誤魔化しておけばよかったものを。
「それにさ」
「ハイ」
「君、酔ってない、よね」
 嗚呼、なんという洞察力。思わず「さ、さあ?どうでしょうか……?」なんて馬鹿みたいな返しをしてしまった。もう散々だ。警察に通報されるところまで脳裏に浮かんでくる。
「………………」
「……あー、もう、負け負け。負けです。酔っ払ってません。だからそんなに真っ直ぐな目で見ないでください」
 諦めの降参ポーズだ。
「……酔ってない、荷物もない。で、行くあてもないの?」
「…………まあ、そういうことになりますかね」
 いたたまれなくて目を逸らす。お兄さんは呆れたような顔で質問攻めを続行する。
「家族に連絡すれば?」
「実家北海道なんで」
「友達とかいないの」
「いますけど……迷惑かけれないですし」
「あーはいはい、若者特有の上辺だけってやつね」
 したり顔でそう言われ、さすがにむっとする。「わかったような事言わないでくださいよ」と顔を背けて見せると、視界の端でお兄さんが笑った。ような気がした。
「じゃ、」
 ばさり、音を立て傘を閉じ、お兄さんは私の傍らにのっそりとしゃがみ込む。思わずそちらを見て、想像以上の近距離に硬直した。息が止まる。最後に吸った空気はなんだか懐かしいにおいがした。脇に手を入れられ、引き寄せられる感覚。ずぶぬれの布越しに感じる温かさにどうしようもなく安心すると同時に、わけがわからず声も出せない。
「うちにおいでよ」
「は?」
 驚愕でフリーズしていた脳みそが動き出した時にはもう、お兄さんは私のことを抱えあげていた。それはいわゆるお姫様抱っこというやつで、当然、こっちは軽くパニックだ。
「あ、あのっ?」
「何」
「下ろしてくださいっ」
「やだ」
「いやいやいや」
「落ちてたから拾っただけだし」
「落とし物は交番に届けなきゃいけないんですよ……?」
「そこ?」
「~~~~っ! だーっ! もぉおお……分かってるんじゃないですか!」
「騒がしい落とし物だね」
 お兄さんは、軽々わたしを抱え歩く。どうして、とか、あぶない、とか、色々思うところはあるはずなのに、お兄さんの楽しそうな足取りだとか懐かしいにおいだとか、小さく聞こえる鼻歌の優しさだとかで抵抗する気が削がれてしまう。
「あの」
「何」
「なんでそんなに嬉しそうなんですか……?」
「シチュー作りすぎちゃったから」
「しちゅー」
「うん。ちょうど良かった」
「…………えぇ」
 こんな寒い雨の夜中、道路のど真ん中で泣きながら倒れてる変な女の子拾って、作りすぎたシチューを振る舞う……。
「馬鹿なんですか?」
「どーだろ」
 変な人。お兄さんが変な人だから、こんなにも思ったことがそのまま口にできるのだろうか。
「……寒いね」
「寒い、ですね?」
 雨はまだやんでいないから、私を抱えるために傘を閉じたお兄さんも、もうずぶ濡れだ。なんだか申し訳ないな、なんて考えているうちに、ふと、涙が止まっていることに気づく。寒さも悲しみも消えたわけじゃないけれど、気にならない程度まで和らいでいた。
「…………でも、ひとりきりよりはあったかいですよ」
 ぼそり、思ったことがまた口に出る。
 ただ単に脳が動いていないだけなのか、はたまた理由はまた別か。
「そう」
 知ってか、知らずか、お兄さんはふっと笑った。

 ……わたしは、人には困っていないはずだった。事実、『私を必要としてくれる人』には困っていなかったのだと思う。
 でも、違う。わたしは、ずっと、ずっと、ずっと、待っていた。探していた。わたしに触れてくれる人を。『わたしを必要としてくれる』、『わたしが必要としている人』を。
 もしかしたら、もしかしたら、この人がそうなのかな、とか、
「思っちゃったりするんだよなぁ……」
「何、落とし物さんひとりごと? 電波なの?」
「電波じゃないです。あと、落とし物さんじゃなくて、はにゃ、ぬぐ……花宮(はなみや)、絵梨香(えりか)、です」
「……うん、エリカ、ね」
「はい、『孤独』、『裏切り』、『寂しさ』のエリカです。あと、ちょっとかみかけたくらいでそんなに笑わないでください」
「『幸せな愛』とかもあるでしょ」
「はぐらかさないでくださいよ。……お兄さんは?」
「どんな名前に見える?」
「なんですかそれ」
「からかってるだけ」
「からかってるだけ。」
「…………怒んないで」
「怒ってません。いいから名前教えてください」
「とうまりつ。当たる麻に、旋律の律で当麻(とうま)律(りつ)」
「とーま、りつ」
「そ」
「いい名前ですね」

「鞄、親切な人が拾ってくれてるといいなぁ」
「そうだね。明日探しに行こうか」
「ついてきてくれるんですか?それは心強いですね」
「そう?」
「はい。……あ、シチュー、どんな味するんですか? クリームシチューですか? ビーフシチューですか?」
「クリームシチューだよ。鶏肉と、人参と、じゃがいもと、ブロッコリーと、玉ねぎと、今とろ火で煮込んでるところ」
「わぁ、おいしそう」

 ざーっと降りしきる雨に交じって、ぽつり、ぽつり、くすぐり合うように言葉を交わす。
 まるで、子どもの頃に戻ったみたいだった。あったかくて、なんの意味もなくて、どこまでも甘い。抱きかかえられて触れたところがぬるくて、心地よくて、なんだかまた泣きそうになった。
 ……だからかな?
 これからのことも、自分がどうしてこんなことを言おうとしてるのかも、ぜんぜんわからないけど。
「あの」
「何?」
「……わたし、しばらく、とーまさんのところでお世話になってもいいですか?」
 これで、最後にしよう。ここで息が出来なければ、もう全部諦めよう。
 わたしは、そう心に決めたのだ。

 

 後に、わかる。花宮絵梨香と当麻律は、社会に適合『できてしまった』社会不適合者だ。本当は常人に紛れ足一歩踏み出すことさえ困難なわたし達は、各々の方法で今日という日まで歩み、生きながらえてしまった。
 とはいえ本来であれば、例えば今日のわたしのように遠くない未来何かが壊れ、淘汰され消えていく運命だったのだ。
 それがこうして巡り会い、共に過ごすことになったのは幸か不幸か。
「……言わなかったっけ。最初から、そのつもりで拾ったんだけど」

 ――それは、まだ、今のわたし達には知り得ないことだ。