エンジンの音が車内に低く響く。
先ほどから押しつぶすような重苦しい空気が車内を満たしていた。
あの浜辺で少女が車に乗せてと僕に頼み込んだとき、兄は一目散に浜辺に降りてきてこう言い放った。
「どこから誘拐してきた!?」
「してないよ! この子が話しかけてきたんだよ」
どうしたらこの一瞬の間に誘拐できるのだろうか。
確かに、子供なら男の子でも女の子でも、愛想が良くても生意気でも、すらっとしたモデル体型でもちびっこ相撲で活躍しそうなぽっちゃり体型でも、身長が高くても低くても好きだけど、僕はそんなことはしない。例え、少女が僕の好みにぴったり当てはまっていても。どんな子でも、遠くから眺めているだけで幸せだから。
兄はもう少し僕を信用してもいいと思う。
「で、どうするんだ」
「え?」
「後ろの子供だよ」
自前の軽自動車を運転する兄は、小声で助手席の僕に聞いてきた。
ちらっと後部座席を振り返ると、少女は窓の外を眺めている。
あの後、少女を車に乗せてから話を聞くと、どうやら誘拐犯から逃げてきたらしい。
馬鹿馬鹿しいと兄は信じていないが、僕は信じることにした。少女を一人にしておけないし、なによりこの寒さの中に放っておくわけにはいかない。
少女の名前は三島春香と言うらしい。近くの小学校の三年生で、今は冬休み中。家族で出かけていたところ、はぐれてしまい、見知らぬ男性に誘拐されたらしい。
「遠くまで逃げてください。それからお母さんには連絡します」
少女は携帯電話は持っていなかった。僕の電話を貸そうとしたが、遠くまで逃げてからでいいです、と受け取らなかった。
「それで、遠くまでってどこまで行けばいいんだ?」
兄は腹立たし気にそう言う。
少女は答えない。
それがさらに気に障ったらしく、兄は大きく溜息をついた。
「とりあえず、実家まで行く? この後行く予定だし」
ぎすぎすした空気に耐えられず、僕はそう言ってしまった。
「何で見ず知らずの子どもを連れて行かなくちゃいけないんだ」
予想したとおり、兄は大声で僕の案を却下した。
後ろで身体を小さく委縮させる春香の姿が安易に想像できる。
僕は春香に聞こえないように小声で言った。
「もし言ってることが本当じゃなくても、何か理由があるんだよ」
「だからってな……」
元より実家へ向かっていた車は、結論の出ない言い合いをしているうちに着実に目的地へと近づいていく。
兄は諦めたように黙った。
気まずい空気から逃れようと窓の外に目をやると、外はもう暗くなり、空には星が瞬き始めていた。