『海に行きたい』
始まりはその一言だった。
『なら、行く? 』
たったそれだけの会話で今週末の予定が決まってしまった。
私が冗談で口にした言葉なのに二神結人(にかみゆいと)はきちんと受け止めていた。
『海ならここから近いのは湘南? 』
『か、かな……たぶん』
高校へ入学して二ヶ月が経った。
なんとなくという理由で写真部に入部した。新入部員は四人、A組は私と二神くんだった。クラスでは中心グループにいて気さくで誰とでも仲良くなれる、そんな印象だった。いつもいっしょにいる男子たちはイメージ通りに運動部へ入っていたから彼が写真部に入部したのは意外だった。
『楽しみだな』
話すのはこれで二回目だ。私はぎこちなく言葉を返した。
『そうだね』
仮入部期間では一度も彼の姿を見なかった。初日のオリエンテーションで自己紹介を終えた後、隣に座っていた二神くんが『大瀬さん、同じクラスでしょ』と声をかけてきた。頷くと『よろしくね』と一言だけ。
八時に新宿駅で待ち合わせをして私たちは小田急小田原線に乗った。快速急行に乗ったから目的地までに一時間ちょっとで着くはずだ。
海に行きたいなら個人で行けばいいことなのだが、二神くんが貴重な休日を返上してまで付き合ってくれた理由は写真部の課題だった。夏にコンクールがあり、出品するための作品を撮影する。学校なら一眼レフを貸し出してくれるし、ほとんどの部員は部活内で撮影するらしかった。だけど、せっかくのコンクールなのに決められた範囲内はもったいないなと私は思った。部活内での撮影はいつでもできる。なら、これを機に遠出をするのはどうかと考えた結果、海となった。まさか連れができるとは思っていなかったけど。
二人肩を並べて座席に座っている。向かい側の窓の外を眺めていたら二神くんが呟いた。
「朝早かったからねみぃ……」
言いながら二神くんはうとうとして首がこくりこくりと上下していた。なんか面白いな。
「何時に起きたの? 」
「五時」
「五時!?」
思わず声を上げてしまって慌てて口をおさえた。
待ち合わせ時刻は八時だ。二神くんの身なりや荷物を見る限り三時間も猶予を設けないといけないほど身支度に時間がかかったとは思えない。いつもどおりの髪型、私服は今回が初めてなのでなんとも言えないが、Tシャツに薄手のパーカー、淡色のダメージジーンズと簡単だ。
「は、早くない? 」
「んー……俺んち、新宿まで一時間以上かかるから」
えー……。そんなに遠いなら始めからそう言ってよ。待ち合わせ場所もっと考えたのに。
「ごめん、現地集合とかの方がよかった? 」
「大丈夫よ、どうせ合流するなら一緒に行った方が楽しいでしょ」
なにそのイケメン発言。みんなが二神くんを好いている理由が分かった気がする。
「藤沢まで時間あるし寝てていいよ」
「マジでぇ、じゃあ寝るわ」
二神くんは寝る姿勢で腕組みをして瞼を閉じた。口調もかたことで学校にいるときよりも砕けていた。きっと家ではこんな感じなんだろうな。なんだか二神くんが可愛くて笑いがこぼれた。
藤沢駅の一駅前で私は二神くんを起こした。
それから江ノ島電鉄へ乗り換えて七里ガ浜へ向かった。
電鉄の窓からは道路が見えて、その向こうにきらきらと光る地平線が覗いていた。乗客のほとんどがスマホを取り出して写真を撮っている。はしゃぐ気持ちは分かる。私も窓から視線が離せない。鼓動が跳ねて見入ってしまう。
太陽に照らされて輝く水面は呼吸するように波を立てていた。転々と散らばっている黒いシルエットが波に向かっていく。あんなにたくさんのサーファーも初めて見る。
七里ガ浜駅で降車して私たちは改札を抜けた。
「二神くん、速く速く」
彼の腕を引っ張って私は脇道を通っていく。
「大瀬さん、そんなに急がなくても海は逃げてかないよ」
二神くんが背中で笑っている。だが、そんなことはどうでもいい。海へ行きたくて電車を乗り継いでやっと目的地に到着した。しかも電車からは海が見えていた。求めていたものはすぐそこにあるのだ。
大通りに出て、信号を渡る。
鉄柵がある歩道に来れば、その眼下に砂浜が広がっていた。波の音が聴こえて潮の香りが鼻に届く。私のテンションは最高潮だった。近くの階段から砂浜へ下りる。
海水に濡れて砂は黒く湿っていた。ところどころに子猫くらいの石や木の枝が転がっていて正直きれいとは言えなかった。この調子なら漂流物もどこかに寝転がってそうだ。
「おお……思ってたのと違う」
二神くんがぼそっと言う。
「日本の海なんてこれが当たり前じゃん」
行ったり来たりするのが面白くて私は波と追いかけっこをしている。
「大瀬さんって意外と現実的なんだ……」
「二神くんは意外と夢見がちだね」
そう返すと「夢見がちで悪いかー」と棒読みで追いかけてきた。二人で波が向かってくる砂浜を駆けまわった。
写真を撮りに来たことすら忘れて私たちは水をかけ合ったりと年相応にはしゃいでいた。
「遊びすぎたー」
「それなー」
靴も服もびしょ濡れで額には汗が滲んでいた。撮影どころか時季も時間も忘れていた。六月下旬、昼時。
「あつーい」
「替えの靴下持ってきてねぇ……」
仕方なく私たちは靴と靴下を石段の上に置き、ここらで休憩をはさんだ。本当なら冷房が効いたお店で海鮮料理のはずだった。濡れたままでは店に迷惑が掛かってしまう。おひさまで服も乾かしつつ海を眺めていた。ずっと日に当たっていたこともあって腰かけた石段は熱かったが、我慢できないほどではない。
「この後どうする」
目的の海はもう充分だろう。海の他には何も考えていなかった。どうしよう。せっかく神奈川まで来たのに海だけ見て帰るのはさすがに寂しい。
「どうしよっか」
そう答えるしかなかった。
「……なんもないなら江ノ島行っていい? 」
「いいけど、水族館? 」
二神くんは「そう」とにっこり微笑んだ。
話を聞くと、二神くんは生き物が好きらしい。江ノ島水族館へ行くのは秘かな夢だったのだと教えてくれた。家からは遠いし、なかなか行く機会がなくて先延ばしになっていたようだ。
「大瀬さんとはそんな話したことなかったからなんか新鮮だわ」
不意に二神くんがそんなことを言った。それは私も同感だ。むしろほとんど話さずにクラス替えになると思っていた。
「俺のこと結人って呼んでいいよ」
「みんなそう呼ぶし」と続けて彼は言った。
「そう? じゃあ、そう呼ぶ」
「うん」
二神くんは〝みんな〟と言ったけど、私は女子がそう呼んでいるところを聞いたことがない。男子はほとんどが結人と呼んでいる。でも女子は。噂で二神くんを好きという女子は多いと知った。中学が同じ子もいてよく話しているから本当にそうなのだろう。
「私も美緒(みお)でいいよ」
だけど二神くんは断った。
「……お、大瀬って呼ぶよ」
それが二神くんの精一杯の言葉だって分かった。
「なんで? 」
「えっ」
純粋な好奇心で尋ねると、明らかに二神くんは困った顔をした。それから必死に言葉を探しているようでなんだかおかしかった。
「……だって女子じゃん」
二神くんは視線を逸らしたままか細い声で答えた。そんな分かり切ったことを訊いているのではなかったのだけど、女子だから名前じゃ呼びにくいってことなのかな。しかし、他の男子は簡単にクラスの女子を名前呼びしている。周りの子よりも大人びて見えたのだけど、やっぱり男子高校生なんだな。
「結人は気にせず呼べる人だと思ってた」
「はぁ!? んなことできるわけねぇだろ」
うわぁお。
「呼ばれるのは大丈夫なのに呼ぶのはダメなの」
今日は二神くんの可愛い一面をよく発見するなぁ。
笑みがこぼれて二神くんに「笑うなよ」と怒られた。
「なんで無理なの」
隠しきれない笑いを含んだ声で訊いてしまった。また怒るかなと思いきや、二神くんは再び視線を逸らしてから消えてしまいそうな声でぽつりと答えた。
「……は、恥ずいから」
頑張った二神くんは耳まで真っ赤だった。