視界が霧雨に煙る午後六時のプラットホーム。構内アナウンスは間もなくの列車の訪れをしつこく告げている。欠伸を手で抑える老け込んだサラリーマンや憔悴した表情の女性社員が並ぶ待機列の中、少年はある決意を胸にその時を待っていた。
右方の彼方から列車の前照灯の光が迫ってくる。それを確認するのと同時に彼は行動を開始した。可能な限り自然なふうを装いながら徐々に標的の方へ近づく。標的は彼から見て右の前方、列の先頭に立っている。ホームの混雑に紛れているうちは彼の動きが目立つことはない。
事故を装って奴を線路へ突き落とす。足元が湿っている今日ならそういう事故があってもなんら不自然はないはずだ。それは少年が十三年間の人生で初めて抱いた本気の殺意だった。今ならまだ引き返せると理性が警笛を鳴らすが、それを振り切るようにかぶりをふって決意を固めた。
列車がホームとの距離を徐々に狭めてくる。焦るな。タイミングを見計らえ。失敗は許されない。奴に感づかれるな。緊張のせいか、車輪とレールが擦れる音がやけに普段よりも大きく耳に入る。雨天の影響で気温は下がっているはずだが、手には汗がじっとりと滲んでいた。
列車が入ってくる――よし、今だ。周囲が彼に注目していないことを確認し、標的との距離を詰める。青年は右の肩に力を入れ、そっと標的を前に押し出した。標的の上半身が前のめりになるのと同時にすかさず足を引っ掛ける。標的の体勢が大きく崩れた瞬間だった。それは、想像した以上にあっけない《計画の成功》を意味していた。
奴が、落ちる。事態をいち早く察した周囲の人間がどよめくが、彼の仕業であろうとは誰も考えていない。あくまで、奴は勝手に滑った。周りの目にはそう映っている。
鉄の巨体の前に飛び出す奴の身体。運転手がはっと目を開いた頃にはもう手遅れだ。バン、と鈍い衝撃のあとに列車が速度を落とす。キィ……カラカラカラカラ……と車輪を軋ませながらゆっくりと停車する列車。奴の身体はあっけなく車体に刎ね飛ばされた。他人の死の瞬間とは、こんなにも軽いものなのか。鮮血の赤がやけに目に痛い。湿った匂いが鼻腔をつく。初めて目にする人間の中身が散らばっている。自分の行った軽はずみな行動に今更ながらに後悔を覚えた。
やってしまった――もうあと戻りは出来ない。女の叫び声、どこからか「また人身だよ」という諦観の混じった呟き、なにが起こったかも知らずにはしゃぐ赤ん坊。様々な人の声が入り混じり喧騒となる。混乱は次第に拡大してゆき、駅構内には一種の軽いパニックが蔓延した。
「えぇ、ただいま人身事故が発生いたしました。現在、運転手が降りて状況の確認に努めておりますので、ご迷惑をおかけしますが暫くの間お待ちください」
淡々と状況を告げるアナウンス。派手に割れたフロントガラスに携帯を向ける若者。携帯の電源が切れているのか、家に連絡を入れるため急ぎ足で公衆電話に向かう会社員。赤の他人の死を悼む余裕などそこにはなく、各自が思い思いの行動を進めていた。無感動に、無慈悲に時間が進む。憐憫も同情もない。ただ自分の時間が下らない事故によって奪われている、その程度の認識が漂っていた。あっけない死という状況の前に、人はそれが映画のワンシーンとでも認識したかのように、驚くほど冷徹に順応していた。
これが現実だというのか。これでは、あまりにも……。少年はその光景を目の当たりにして、背中に氷を押し付けられたかのようにぞっとした。未だ人生の半分も生きていない彼の目の前にありのままの現実が、悪意が、突きつけられたのだ。
しかし呆然と立ち尽くしている暇はない。はやく、逃げなければ。今のうちにこの場から立ち去らないと足がつく。今なら自分がやったという確たる証拠はないはずだ。このまま混乱に乗じて綺麗にこの場から姿を消すことが出来れば奴の抹消は完遂したことになる。人の足並みの方向は千々に乱れている。巧く紛れ込んでここから逃げ出せ。焦るとロクなことがない。自分に言い聞かせるようにして心を落ち着かせてから足を踏み出した。俯いて歩くと不自然に思われると考え、顔を上げて堂々と歩くことにした。どうせこの人数の中で自分だけが目立つということもないだろうが万全を期すに越したことはない。
彼が顔を上げたその瞬間、彼の目に、本来この場にいる筈のない、いや、いてはいけない人間の姿が移りこんだ。ここからは少し間のある駅内売店の前、そこには品川里美の姿があったのだ。
なぜここに彼女が……?
少年と眼が合った瞬間、彼女は小動物のように身体を震わせて酷く怯えた。
彼女の態度を見て判った。彼女は彼の犯行を目撃したのではないか。考えうる最悪の事態が、いま起こっているのではないだろうか。少年が彼女に近づこうとして足を踏み出した途端、彼女は咄嗟に逃げ出した。
「待てっ!」少年の叫び声に周囲の人間が一瞬振り向くが、直ぐに何事もなかったかのように目を背ける。それでも彼女は足を止めない。待ってくれ。待ってくれ。君のためにやったことじゃないか。何を恐れる必要があるというのだ。彼の内心の悲痛の声に気付く事ができない彼女は振り返ることもせずに階段を段飛ばしに下りていく。くそっ。何で俺から逃げるんだ。誰のせいでこんなことになってんだよ。ちくしょう! と叫びたい気持ちで彼の胸は満たされていたが、今は感情に流されるべきじゃない、と状況を冷静に分析する。今するべきことは何か。早くここから逃げ出すことと、彼女への自己弁護。少年は彼女の背中を見失わないようにしながら人の波を精一杯に掻き分けた。
なあ、里美。どうして俺たち、こんな結末を迎えなくちゃならないんだ。あまりにも、残酷すぎやしないか。説明してくれよ。全部、俺のせいなのか。誰か、教えてくれ――。
◆◆◆
「また佐川くんと遊んでくるのー? 夏休みだから別に遊ぶなとは言わないけど宿題もあるんだからほどほどにしときなさいよね」
「わかってるよ、かあちゃん」
暑い夏の日だった。壊れたラジオのノイズ音みたいな蝉の鳴き声がやけに五月蝿い。この地上から全ての水を蒸発させてしまうのではないかというほどに強い日差しがアスファルトを焦がし、陽炎を立ち昇らせていた。
小学校生活で最後となる夏休み。俺は毎日飽きもせずに佐川進也と遊んでいたが、ここ最近は夏風邪で寝込んでいたため会うのは数日振りだ。
俺は家を飛び出すなり、虫採り網とビニール袋をママチャリのフロントバスケットに突っ込んで搭乗した。
小二のときから使っていた小型の自転車からママチャリに買い換えたのはついこのあいだの誕生日のときだ。
うちでは誕生日プレゼントとして特に欲しいものがなければ辞書か教材を渡すという取り決めがある。俺はクラスのみんながハマっているようなゲームソフトには興味がなかったし、天体望遠鏡も地球儀もサッカーボールも既に持っていたのでその時にこれといって欲しいものはなかった。それでも年に一度のせっかくの機会を無駄にするのも癪だったので、自転車を買い換えることにしたのだ。ちょうど今までのじゃ小さいなと思い始めていた時期だったので、悪い選択ではなかったように思える。買ってもらったのは俺よりも大きい体格の人に適性のサイズだったが、父親は「どうせこれから成長するんだし大きくなっても買い換えなくて済むだろ」と言ってそれを選んだ。大は小を兼ねる。父親の細かいところでけち臭い(よくいえば倹約家な)性格が如実に現れていた。
向かうは佐川家前。集合時間は正午だが、腕時計によるとまだ五十分の余裕があるようだ。ちょっと出るのが早かったかな、と思った。うちから佐川の家までは自転車で十五分かからない程度の距離だ。早くついてもどうせする事がないし、適当に時間潰してから行くか、と考えて軽いサイクリングをしようと思ったが、ある妙案がふと思い浮かんだ。
そうだ、品川を遊びに誘ってみるのもいいかもしれない。
品川里美とは三年来の付き合いで、出会いのきっかけは特筆するほどのものでもない。ただクラス変えの結果最初に隣の席になったのが彼女というだけのことだ。
彼女は傍目から見たら男子と見紛うような外見だったのでクラスの中でも割合目立っていた。少し茶色の入った黒髪を短く切りそろえており、クラスの女子が柄物のスカートを履いて御洒落している中でも彼女だけはジーパンを履いている。短髪で、着飾ることもないボーイッシュ気質な彼女は女子の間にはあまり馴染んでいない様子だった。
彼女は休み時間には校庭で男子のドッヂボールに混ざって遊ぶのが通例で、男子たちも彼女を異性だからといって弾くようなことはしない。性別を気にしないで気軽に接せるのが品川里美という女子だった。そんな彼女は運動神経も成績も頭一つ抜けており、男子からは羨望の眼差しを受ける一方で女子からは妬みを買っていた。男子に人気はあったものの告白を受けたことは一度としてないらしく、「恋愛の対象とはまた別」というのは誰しもが同意見のようでもあった。
佐川との付き合いはそれよりも一年長く、こちらは出会いのきっかけは記憶が埋没していて思い出せないが家同士が近いことと相性の一致からなんとなく意気投合したところは要因として大きいのだと思う。三年に進級してクラスが変わってからも交流は続いており、初めて品川を彼に紹介した時は「俺たちの友情に女を割り込ませる気かよ。見損なうぜ」と、やんわり拒絶されたものの結局いまは俺たち三人グループということでまとまっている。
俺たち三人はある趣味というか活動というか形容しにくい曖昧模糊としたものの下に結束していた。言葉にしてしまえばそんなに格好がつくものでもない。それは小学生にありがちな、『正義の味方ごっこ』のようなものだ。幼少期に誰もが憧れたであろう、テレビ画面の向こうで繰り広げられる赤マントの勧善懲悪活劇。結局小学校最後の学年に上がっても俺たちはその夢から覚めずにいたのだ。ただし『正義の味方』といえど、打倒する悪事はきわめてスケールの矮小なものだ。他人にものを借りて返さない奴だとか、信号無視だとか、ゴミの不法投棄だとか、俺たちはそんなちっぽけな『悪者』相手の『正義の味方』。でもそういう当たり前の様なルールを平気で無視する人間と、それを咎めない人間とで構成された矛盾を少しでも解消していって罰が当たるということはないはずだ。俺たちは、決して間違ったことはしていない。
佐川の家同様に品川の家までもそう距離は遠くない。俺たちは携帯電話を買い与えられていなかったため、遊びの約束を取り付けるときは学校で事前に話し合っておくか、こうして休みに入っている場合は家を直接訪ねるしかなかった。なくて不便だと思った経験がないため携帯電話が欲しいと思ったことはない。親に連絡を取る時は最悪でも公衆電話で事足りるし友達に連絡を取る時もこうして直接会いに行けばいい。狭い街なので大体のクラスメイトの家は把握しているし自転車でいける距離であることも確認済みだ。それに、正直言って俺はメールでのやり取りというのは何か気持ち悪いような気がしてならない。お互いの顔も見えない状態で無機質な言葉だけで行われるやり取りには感情の露出も表情の応酬もないのに、果たしてそれがコミュニケーションといえるのだろうか。確かにただの業務連絡などをする場合にはそちらのほうがよほど効率的だが、まだ小学生である俺たちにとってそういった類の連絡をする機会はないため携帯が必要となることはなかった。中学に上がれば買い与えてもらえるらしいが、おそらく使う機会はそんなにないだろうと俺は思っている。
品川家に到着したのが家を出てから十分後のことだった。水筒を持参するのを忘れたため、水分補給用のペットボトルを二本、品川家前の自動販売機で購入した。流石にこの暑さを水分なしで乗り切るのは厳しい。
呼び鈴を押すと、品川の母親が応対に出た。母親は俺の顔を見て直ぐに用件を察したらしく「中島君が来てるわよー」と里美を呼んだ。こうして彼女の家に来るのは初めてのことではないため母親にも顔を覚えられているようだ。「ちょっと待っててね」と言われるその後ろでは彼女があわただしく階段を下りてくる音が聞こえる。
夏休みに入ってからあまり遊んでいなかったため彼女と会うのは久しぶりになる。俺がつい四日前まで夏風邪で寝込んでいたせいでもある。
いつしか振りに見る彼女の髪は少し伸びているように思え、ちょっとだけ大人びて見えた。
「よ、久しぶり。今から佐川と一緒に森に遊びいくけど品川もいかね?」
「うん、いいよ。でも今日の宿題のノルマ早めに終わらせたいからあとで行くね」
「そっか。品川はそういうの毎日こつこつ消化してくタイプだもんな。あー、でももしかしたら場所移動するかもしれないな。森に行って俺たちがいなかったら中央公園か川沿いかどっちかにいると思うからそっち来てくれよ」俺たちが普段遊んでいる場所は大体その三箇所に限られていた。今日は森に虫取りをしにいく予定だが気が変わる可能性は大いにある。佐川は基本的に自由奔放で無計画なタイプだから気が変わることも多い。
「わかった。じゃあまたあとで。二郎も早めに宿題終わらせちゃいなよ?」
「わかったわかった。かあちゃんみたいなこと言うなよな。じゃあまたあとでな」
品川も誘ったことだしそろそろ向かうか。彼女と一旦別れた俺は再びチャリを漕いで佐川家に向かった。
「二郎、遅いぞ」いつの間にか時間を過ぎていたのか、と焦って腕時計を確認するが、針は正午の十五分前を示していた。
「集合時間は十二時じゃないか」
「三十分前行動を心がけろよ」
「そんな無茶な」
「まあ別に時間なんてどうだっていいけどよ。風邪はもう大丈夫なのか?」
「全快だよ」俺は自分が元気であることを示すために力こぶを作る仕草をした。
「そりゃよかった。ほんじゃ早速行きますか」
「そうだ、いま品川誘ってきたぞ」
「ん、里美か。まあお前は最近顔見てなかったし、いいんじゃねえの。俺は一昨日あったけど。でもそれじゃ俺ら移動できねえじゃん。森来いって言っちゃったんだろ」
「それも考えて森にいなかったら川か公園来いよー、って言っといたから大丈夫だよ」
「そっか。虫取りも最近飽きてきたし川に水浴びでもしにいこうかなって思ってたところなんだよな」彼の気が変わるのを予想しておいてよかったと安心する。
「じゃあ今日は川のほうなんだな」
「おうよ。自転車出すからちょっと待っとき」
佐川が自転車を出すのを待ってから、俺たちは川に向かった。俺たちが川と呼び習わしている櫻野川は住宅街に沿って大きく流れており、休日になるとサイクリングロードとして利用しているロードレーサーや釣りに興じる老人らが多く見られる。夏になると近隣の多くの人がバーベキューやら火遊びやらそれぞれの目的で利用しに来るが、それでも混雑と感じないほどにはスペースが広い。俺たちがそこを利用する時は大体、思い切り身体を動かしたい時だった。ダンボールの板を尻の下に敷いて斜面を滑り降りたり川の淵で水浴びをしたり、目的を持たずともそこに行けば何かしらの遊びが見つかる。そういう小学生の頃しか出来ないようなはしゃぎ方が好きだった。
到着したのは十二時半。自転車を漕ぐのは慣れているため四十分ぐらいではそこまで疲弊しないはずだが暑さのせいでやや体力を消耗していた。案の定、川は多くの人で賑わっているようだ。水浴びをしている下級生や斜面から景色を眺める高校生のカップル、トングでゴミを拾い集める老爺などが目に付く。
「で、今日は何をするんだ」と俺は訊いた。
「特に何も考えてないけどなあ。どうするか」佐川は相変わらずの無計画の様子だ。
「取り敢えず適当に身体動かすか。この前まで風邪で寝てたから鈍ってるんだよな」
「じゃあ走ろうぜ。チャリ漕いできて疲れてるだろうから取り敢えず水飲んでから」
「持久走にするか。川沿いひたすら走って先にへばったほうが負けで」
「受けて立とう」
俺たちは陸上部に所属しているため運動能力には自信があった。陸上部とはいっても中・高等学校のように先輩に扱かれたり大会に向けてハードな練習をしたりというようなことはなく、ただ走るのが好きな人の集まりという大雑把な意味合いが強かった。そのため夏休みの練習も自由参加で、別に俺たちが参加する義務はない。しかし常日頃から走っている感覚が身体に染み付いているため長らく身体を動かさずにいるのは何かと気持ち悪くて、そんな提案をした。その気持ちは佐川としても同じだったらしい。
自転車を駐輪してから川沿いの舗装道路を三十分ぐらい走り続けたが体力の限界を感じたため適度に休憩を挟みつつその後は一時間程度往復を繰り返しながら歩き続けた。たまに頬を撫でるようにして吹く風が心地いい。川の水面には陽光が反射しててらてらと光輝いていた。虫の音、水の匂い、木々の揺れ。そんな、ビルが立ち並ぶ都会では味わえないような自然が俺たちを包み込んでいた。
「そろそろ品川が来るんじゃねえか」と佐川が言い出すまで俺は彼女の存在をすっかり失念していた。「それもそうだな」と返事をして、俺たちは自転車を停めた場所まで戻ることにした。
特に周囲を見回しながら歩いていたわけではない。川辺の情景は正に夏の真っ只中を表現する画に描いた様な壮観ではあったが、見慣れている。だから、その光景が目に入ったのは、本当に偶然の出来事だ。最初に気付いたのは佐川のほうで、「おい、あれ」と俺に声を掛けてきた。彼が指差す方向には体つきのいい成人ぐらいの男性三人が何かを取り囲んでいるのが見える。怪訝に思った俺たちはそちらのほうに近づいていった。
聴こえてくるのは嬌声のような悲痛の叫び。しかしそれはどうやら人の声ではないようだ。近づくにつれてその声が耳を聾さんばかりに次第に大きくなってくる。
叫喚の主は、全身に傷を負った犬だった。俺たちは状況を把握した。あの男たち三人はその犬を足蹴にして歪んだ享楽に耽っているのだ。その傍らには「拾ってください」とインクの文字が入ったつぶれたダンボールが落ちているのが見える。おそらく捨て犬だったものを男たちが拾ったのだろう。
狂っている――。どんな事情であれ一度は時間を共にした飼い犬を無責任にあんな場所に放棄する飼い主も、それを自分たちの快楽の道具として利用するあの男たちも。俺は気分が悪くなった。胸の底にメスを入れられたような鋭い痛みが走る。しかし、どうしようもない。俺たちがあの男たちに何を言おうとしたところで相手にされるわけもなく、上手くあしらわれるだけだろう。最悪の場合自分たちにも危害が及ぶ可能性も懸念せねばなるまい。ならば、ここは大人しく撤退するのが筋か。俺たちが嫌いな「見てみぬふり」を今自分がしようとしていることに気付いた。悪事を見逃して撤退するのは正義の理念に反する。しかしそれは感情と理屈とを天秤に掛けた結果にはじき出された最適解のはず。今は、こうするしかない。俺は踵を返そうとした。しかし、傍らの佐川はそうしようとはしなかった。
「おい、やめとけ。俺たちに何が出来るっていうんだ。後先を考えろ」彼の意思を汲み取った俺は急いで彼を制そうとした。早まるな、と。
「お前、あれを見てよくそんなことがいえるよな」佐川は今までに見たこともないぐらい冷徹な視線を俺に向けた。彼は静かに、瞋恚の焔を胸中に滾らせている。俺は何が彼をそうまでさせているのか分からなかった。
「わかるよ。お前の言いたいことぐらい十二分に理解できる。だけど理屈ってもんがあるだろ。俺たちはまだ子供であいつらは大人だ。適うわけがない」俺は必死に彼を諌めようと試みた。しかしその努力も空しく、「お前がそんな奴だとは思ってなかったよ」と言い残して彼はあの男たちの元へと向かっていった。俺はその背中を追うことはしなかった。あれほどに自分の非力さを呪った瞬間はない。何が理屈だ、格好付けるんじゃねえよ。
その時、俺はふと思った。俺たちが憧れた正義とはなんだっただろうか。そもそも正義という存在自体は悪を打倒すべくにある。それを言い換えるなら、悪がなければ正義は成り立たないということになりはしないだろうか。陽の光が大地を照らす時に必ず動物や木々が背面に影を落とすのと同じように正義があればそこには必ず悪が存在する。法も正義も悪を戒めるための存在だが、それは悪を否定すべき立場にありながら悪の存在を肯定している。こんな単純で馬鹿馬鹿しい矛盾があっていいのだろうか。答のない問いに俺は煩悶する。
いったい、俺は何を追い求めていたっていうんだ――?
俺はその場から逃げ出した。振り返ることもせず、一心不乱に風を切って走った。さっきまでに溜め込んだ疲れは知らぬ間にどこかに消えていた。佐川、ほんとうにごめん。その謝罪が彼の元へと届くこともない。
俺は自分の自転車を見つけた。ここに来た時の場所まで戻ってきたのだ。
逃げよう、俺は負けた。どうしようもない現実をどうかしようとする勇気がなかった。あいつの行動を無謀と一蹴する権利はない。誰かこんな俺を臆病者と嘲り笑え。いっそ、このままどこかへ消えてしまいたい。俺は佐川の飼っていた犬が去年亡くなったということをふと思い出す。そうか、それであいつ……しかし今更引き返すようなことはしない。自転車に足を掛けて漕ぎ出そうとしたその時、「二郎、もう帰るの?」と後ろから声がした。振り返るとそこには遅れて到着した品川里美の姿があった。
「よう。お、遅かったな」何故今更……、最悪のタイミングだ。俺はそう思ったが口には出さなかった。
「どうしたのそんなに息切れして。それに顔色も悪いよ? 風邪が完治してないんじゃないの?」俺は肩で息をしていた。そう思われても仕方があるまい。
「品川。悪いんだけど俺用事が出来たから先に帰るわ。てか佐川もなんか用事あるらしいし今日は解散になったんだよ。お前も悪いけどもう帰ろうぜ。明日だ明日」話している内容が支離滅裂なのが自分でも分かる。ここで品川に俺が佐川を見捨てて逃げてきたことを知られればあとで何を言われるかわからない。俺は瞬時にそう判断していた。友人を見捨てた分際で自分の立場は案ずる。俺は、最低の卑怯者だ。
「そう? まあ二郎がそういうならしょうがないけど……まあ、また誘ってね。早く風邪治しちゃいなよ?」彼女は俺が疲れていると察したのか、気遣う表情でそう告げた。彼女に気遣ってもらう価値など、俺にはないというのに。
「ああ、じゃあな」俺はそう言い残して全力で自転車を漕いだ。辺りの景色が近づいては遠ざかる。下腹がひどく痛む。今日は相当に体力を使っている。もう、家に帰って全てを忘れよう。そして、休みが終わったら佐川に謝ろう。許してもらえるかどうか、わからないけれどそれでも出来るだけの償いはしなくてはならない。ああ、本当に気分が悪い。黒い感情が胸の底で害虫の群れのように蠢いているのだ。
夏休みがあけた。俺はあれから何事をする気力もわかず、ただ無意味に一日二日と時間だけを削っていった。宿題は何一つ提出できなかったため担任には酷く怒鳴られたがその怒号すら右から左へ抜けていった。我ここにあらずの体で始業式を終えた放課後、佐川のクラスに向かおうとしたところで品川に声を掛けられた。
「佐川、休んでるよ」心なしか責め立てるような視線でこちらを睨んでいるように感じる。
「どうして……」疑問をそのまま口にした。
「朝二組の教室に行ってみたら担任の安原が『佐川は夏休み中に不運な事故に遭って怪我で入院している』って教えてくれた。二郎はあれから佐川に会ったの?」
あれから、というのは川で遊んでからという意味だろう。あれ以降彼とは会っていないし、その事情も今初めて知ったものだ。
「いや。俺もそれは初耳だ。佐川の奴、何かあったのかな」
白を切るように応じたが、俺は正直のところ察しがついていた。恐らくあのあと佐川はあの男たちに返り討ちにされたのだろう。怪我の度合いが分からないが、入院するほどの大事ともなれば袋叩きにされたかもしれない。全て、俺のせいだ。これでは今後、奴に合わせる顔がない。謝ることすらも出来ない。
「そっか、二郎も何も知らないのかぁ。ほんと佐川どうしちゃったんだろう」
「心配だな」よく他人事のように言えるものだ、と自分でも思う。
「お見舞い、行かなきゃだね。安原に入院先聞きに行こうよ」
「……悪いけど、俺このあと用事あるから品川が聞いといてくれ。明日教えてくれれば俺も行くよ」どうしても顔を合わせづらい。俺は嘘で誤魔化してその場をやり過ごした。
「わかった。じゃあまた明日」
「おう」
俺は、本心では出来ればこのまま佐川に会わずに卒業してしまいたい気分でいた。謝罪しなければいけないという義務感と、顔を合せたくないという身勝手な甘えが心中で相克する。このまま時間だけが過ぎて事態が有耶無耶になってくれればそれがいい。次に会って謝ったところで許してもらえるはずがないだろうし、佐川の親に事情が伝わっている場合、大人たちにも恨まれる。その時、ついに俺の居場所はどこにもなくなってしまう。
幸い品川にも今のところは事情が伝わっていない。しかしそれも時間の問題だろう。品川が見舞いに行ったときに佐川は話すだろうか。中島二郎は目の前の事態から逃げる臆病者だと。友達を見捨てて逃げる卑怯者だと。品川にだけは知られたくない。彼女が、俺がどういう人間かということを知ったら二度と俺に話しかけてくることはなくなる。それがとてつもなく嫌だった。そして、佐川の身を案じるよりも前に自分の立場の心配をしている自分自身がもっと嫌だった。
佐川が、それから卒業式まで学校に来ることはとうとうなかった。卒業を迎え、周りには涙で別れを惜しむ女子や再会の約束を交わして清々しい別れを迎える男子がいる中で俺は素直に卒業を喜ぶ気持ちにはなれなかった。俺はこの日まで背徳感と自責の念に苛まれ続けていた。あれから品川は佐川の様子を見にしばしば病院に足を運んでいたらしい。彼の病状は全治七ヶ月の骨折と診断されていた。中学の入学式までには復帰できるだろうとの見込みだ。品川には何度も彼の見舞いに付き合わないかと誘われたがそのたびに用事が出来たといって断り続けていた。品川が未だに俺に話しかけてきてくれているということは佐川が俺のことを品川に話していないということになる。俺が逃げたことをなんとも思っていないのか、あるいは俺が自ら謝りに来るのを待ち続けているのかはわからない。俺は今でも彼という存在に対して心底から怯えている。しかしこれで、これからは彼と顔を合わせることもないまま時間だけが勝手に過ぎていくことだろう。
俺のそんな思案は浅はかだった。卒業すれば彼とも離れ離れになって事態は時間の経過に溶けるという疚しい考えは、あっけなく打ち砕かれることになる。
入学式。俺たち三人は同じ中学に入学し同じクラスに編成された。佐川は私立中学への受験を予定していたため地元の公立中学に進学する俺と品川とは小学校卒業と同時に別れるはずだった。しかし、佐川は入院している以上、受験会場に赴くことは出来なかったのだ。彼の受験勉強は無駄になってしまった。そして俺はそんな単純なことも忘れていた。自分のことばかりで彼の身を案じなかった故の結果だ。
『花は鮮やかに色づき、春の匂いと草木を縫う日差しは新たな始まりを予感させる。この春爛漫の佳き日に入学式を迎えられたことに心からの喜びを申し上げます――』
学校長の式辞や新入生代表挨拶など退屈な演説を適当に聞き流していたら、いつの間にか長い式典が終わっていた。その後、各々の組と座席を確認するために廊下に張り出されたクラス編成表に佐川進也の名を見つけたときは息が詰まる思いがした。何故佐川がこの学校にいるのか。考えて、単純な理由に思い至り、自らの浅はかさを呪う。これがもし天罰でないというのなら。宿命でないというのなら。なんだというのか。
幸か不幸か俺の不安は杞憂に終わった。結果から言えば俺と佐川が言葉を交わす機会は二度と訪れることがなかった。登校初日は担任の挨拶と新入生の自己紹介、数枚の資料配布のみで終礼は午前中だった。しかし放課後になってからの佐川は品川に軽く会釈をして教室を出て行くだけだった。
俺には話しかけてこないのか……? 佐川がどう出るかと構えていた俺は呆気にとられた。二日目も三日目も、その後も依然として佐川の態度は変わらなかった。クラスメイトが徐々に空気に慣れて打ち解けつつある中で佐川は品川以外の人間とは接点を持とうとしなかった。無論、俺にも話しかけてこないどころか目も合せようとすらしない。まるで、始めから知り合っていなかったかのように。「俺たちの間に関係などなかった」と彼が無言のうちに語っているような気がした。身体の傷は癒えても心の傷は癒えないということか。あるいは俺を赦す気はない、とそういうことなのだろうか。
俺は、毎日の下校路を品川と共にしていた。入学から三週間が経ち、ある程度は交友関係が出来上がりつつあったが、元から付き合いがあった品川と最近知り合った連中とでは少し接し方に開きがある。
「佐川の奴、今日もだんまりだったね」品川が切り出す話題は大体が佐川の身を案じるものだ。
「ああ、まだ身体きついんじゃないかな」俺は無視するわけにもいかず月並みな答を返す。
「そんなことないと思うけどなあ。先生は完治したって言ってたし」
「そんならなんでだろうな」
「てか何で最近二郎は佐川と話さなくなったん? 喧嘩でもしたの? 櫻野川のあれ以来、二郎あいつと距離あるよねえ」
「あ、あぁ……なんでだろうな……」一番触れて欲しくないところだった。
「さっきから二郎『なんでだろうな』しか言ってないじゃん。アリさんマークの引越社かって」
「そのCM懐かしいな……はは」俺は素直に笑う機会もあれから随分減った。クラスメイトの冗談に愛想笑いで返すことはあるが心のそこから何かを面白いと思ったことは暫くないような気がする。いつから感情が磨耗していったのか。しかし品川と話している時は純粋に色々なことを忘れられる。他のクラスメイトとの会話と何が違うのかは分からないが、彼女との会話には何か温かみを帯びているような感覚がある。もしかしたら俺は彼女のことが好きなのかもしれないな、と思った。今まで考えたこともなかったが、あの日川で逃げてきた時に彼女に嫌われないための言葉を咄嗟に紡いだのも佐川が彼女に俺のことを話すのを恐れたのも彼女への無意識下の好意があっての行動かもしれない。人が人を好きになるのに理由も時間も要らない。
しかし、これじゃあまるで――三人の関係が崩れたから品川を独り占めできる――と考えているようではないか。むかし学校で教わった太宰治だか夏目漱石だかの小説を思い出す。どこまで卑怯なんだと自己嫌悪に駆られる。
その後も佐川は自分の殻にこもるように孤立を保っていたが、ある日を境に学校に来ることはなくなった。理由は担任の口からも語られることはなかったため、分からない。最初、クラスで孤立していた彼が三日四日休んでも話題には上がらなかった。しかしそれが二週間ともなると誰もが気にせざるを得ない。人の口に戸は立てられぬ、とその格言どおりに噂は直ぐに学年中に拡散していった。
「三組の佐川進也って人、学校来てないんでしょ」「中一で登校拒否は流石にまずいんじゃねーか」「何が原因なの」「家出したんだってさ」「俺は親の夜逃げに巻き込まれたって聞いたけど」「昔やってた病気が再発したんじゃなかったのかよ」等、様々な風評やデマが飛び交っていたが真実は未だに誰にも掴めずにいた。
人の噂も七十五日というが彼の噂は一ヶ月もしないうちに霧散していった。一方品川はその間も彼の身に心配を寄せていたが郊外学習や定期試験など立て続けに慌ただしい行事を控えていたためあまりそちらばかりに気を取られているわけにもいかなかった。
期末試験も終わり、いよいよ夏休みを目前に控える時期になる。クラス内は皆で海に行くやら家族で海外旅行に行くやらもう既に高校受験の準備を始めるやら、今後の予定の話題で持ちきりだった。
「品川、試験も無事終わったことだし俺たちも休みはどこか行かないか」
「わたしは佐川の様子を見に行こうかなって思ったんだけど」
俺は虚を衝かれる思いがした。そうだ、俺が彼のことを忘れようとしている一方で彼女は今でも彼の復帰を願っているのだ。ならば休みに入ったら彼の様子を窺いに出向こうと考えるのは至極全うな考えだ。そろそろ潮時かもしれない。このまま品川の誘いを断り続けると彼女との関係は長続きしなくなるような気がした。人間関係の綻びはこういった些細な亀裂から産まれる。彼女との摩擦は極力起こしたくない。ならばここは……
「分かった。俺も行くよ。そろそろ俺もあいつに会わなきゃいけない時期かなって思っていたんだ」俺は現実と向き合う決断をした。
「そう。よかった。これで久しぶりに三人で顔を合せられるんだ。まあ佐川が家出とかしてなきゃの話だけど」すると彼女は嬉しそうに微笑む。彼女の笑顔が見られるのならそれに代わるものはない。
そのやり取りから数日後、夏休みに入ってから早速俺たちは佐川の家を訪れた。
「じゃあ、準備はいい?」品川が緊張した面をこちらに向ける。
「何の準備だよ」俺は品川の緊張をほぐそうと微笑でかわす。俺も緊張していないわけではない。
「そりゃもう。数ヶ月ぶりの親しき友との再会でしょ」
俺はもう彼を親しき友、などと呼べる立場ではなかったが、「そうだな」と返事をした。
「じゃ、呼ぶからね」
「俺に許可取らなくていいからさっさと押せよ」
「分かった。いくよ」品川が呼び鈴に触れた指に力を込めた。ピンポーン、ピンポーン……。その音から約一分後、玄関から顔を出したのは佐川の母親だった。見るのは初めてではないが、歳を取ったせいか前に見たときよりも痩せ衰えている気がする。母親がどちらさまですかー、とこちらに呼びかける声に品川が応じた。
「あのー、わたしたち佐川進也くんのクラスメイトの品川と中島って言いますー。佐川くん学校休んでたから体調崩したのかなと思って様子を窺いに来ましたー。進也くん、今いらっしゃいますかー?」
「いま呼んできますからちょっと待っててくださいねー」と言って佐川母は再び家の中へと姿を消した。
それから十分が経過したが、誰も出てくる気配が感じられないため、もう一度インターホンを押してみた。すると今度は佐川の父親が姿を現した。
「すいません。息子は体調が悪くて部屋から出たくないそうで。また明日来てくれれば今度はちゃんと出られると思うから今日のところは引き取ってもらえるかな」
わかりました、お邪魔してすみませんと慇懃に礼をして俺たちはそこを離れた。俺は内心ほっとしていたが、どうせ明日は顔を合せなくてはいけない。執行猶予が出来た罪人の気分。
「佐川出て来なくて残念だったね。でも家にいるのが確認できてよかった。お父さんもああいってくれたんだし明日も行けばちゃんと会えるよ」品川は佐川の安否が確認できたことで一安心したようだ。帰りの通学路でも佐川を気にすることばかり口にしていたからこれで彼女の心配事はとりあえずなくなったはず。
「でもなんで学校休んでいたんだろうな」
「だから、体調不良でしょ」
「それにしても夏休みまで休み続けるってのはいくらなんでも療養期間が長過ぎだろ」
「そう言われればそうだけど……まあ明日確認すればいいでしょ」
「そうだな。じゃあ今日はもう解散、かな」
「うん。朝から呼び出して悪かったね。帰ったら早めに宿題終わらせちゃいなよ? 最終日に必死になってやるとかあほくさいから」
「お前は母さんみたいなこと言うんだな。じゃあ、また明日」
互いに手を振り合って別れたところで、そういえば去年もこんな会話したな、とふと思い出した。あの時は――そうだ、櫻野川の一件の日。あの日、彼女の家に誘いに行った時にも同じ会話をしたんだ。あの時はまだ三人一緒だった。いつまでもこの関係は壊れないものだと、無邪気にも信じていた。
翌日、俺たちはだいたい昨日と同じ時間ぐらいに合流して佐川の家へ向かった。
品川が呼び鈴を鳴らすと今度は佐川進也その人が現れた。玄関を出てこちらへと近づいてくる佐川は眼が虚ろになっており大分顔色も悪い。幾分か痩せたようにも見える。佐川は品川の顔を認めると「よう」と軽く手を上げたが、俺と眼が合った瞬間に目の色が変わった。
「悪いが、帰ってくれ」彼は足を止めて冷たくそう言い放った。
「なんでよ。どうして学校休んでたの」品川が抗議するように問いただす。
「帰ってくれよ」品川のその声も耳に入っていないかのように彼は感情のない声でそう繰り返した。
「だからなんでって言ってるでしょ。わけを聞かせてもらうまで帰らないよ。二郎もなんか言ってやってよ」
「…………」俺は黙っていた。やはり失敗だったのだ。佐川は俺にこの場に居て欲しくないのだろう。それならせめて品川にだけでも話をさせてやるべきだ。俺の存在が邪魔だというなら俺がこの場を立ち退けば済む話だ。「品川。悪いが、用事を思い出した。先に帰るよ」と言い残して、彼女の返答を待たずに俺は自転車を走らせた。「ちょっと、ねえ!」と後方で大きな声がしたが気にかけない。これでも佐川は彼女を帰らせるだろうか。わからないが、少なくとも俺があの場に居ては状況は進展しない。場が膠着する時間は長引けば長引くほど動きにくくなる。ならば早いうちに俺が決断を下したほうがいい。それからどうなったかが気がかりだったし、後日品川に怒られるだろうなと思いつつも状況が好転していることを願って俺は家へと帰り着いた。
一週間後、俺は品川と佐川の様子が気がかりでいたが自分から確かめにいく気力もなく痺れを切らせ始めていた。品川はあれから佐川の家に通い続けていたりするだろうか。佐川と話すために、あるいは佐川の拒絶を振り切るために。どちらにせよ品川は佐川とずっと会っている可能性が高い。根拠はないが、確信めいたものが俺の中にあった。様子を見に行ってみるか。そう決意して直ぐに家を出た。佐川の家の鍵は郵便受けの裏側にビニールテープで留めてある。親の帰りが遅いときに佐川が家に入れるよう、また友達を気軽に家に招けるように。未だにその習慣が続いていることを期待して佐川の家へと自転車を走らせる。
佐川の家の前には品川の自転車が停まっていた。つまり品川はいまこの家の中に居るということになる。郵便受けの裏を確認すると、きちんとそこに鍵はあった。こっそり侵入して様子をちらっと覗いて帰ろう。泥棒みたいで気が引けるが、直接尋ねるわけにも行かないため今はこうするほかない。鍵を剥がしてから音を立てないように玄関の扉を引いて中へ入る。靴を脱ぐ時間は惜しいので土足で上がりこむことにした。そこまで汚れていないから痕が残ることもないはずだ。都合のいいことに親は居ないようだ。佐川の家は一階が居間で二階に佐川の自室と寝室がある。向かうは二階、と思い階段に足を掛けたところで聞こえてきた音に耳を傾ける。部屋の扉が開いているのかあるいはその音が大きくて部屋から漏れているのか分からないが、耳に入るその声は間違いなく品川の、それも悲痛を叫ぶもののように聞こえた。そして、鞭を打つような音も相まって響く。一体この先で何が起こっているんだ……? 階段を一段上るごとに心臓が高鳴り鼓動は早まる。いやな予感がした。これ以上は知るべきじゃない、今日はもうここで引き上げるべきだ。そう自制しようとする自分の理性を振り切って俺はまた階段を上っていく。
階段を上りきったその時にはもう明らかにその声は耳に入っていた。寝室からだ。階段を上りきった右手側に彼の自室、左手側にトイレ、寝室、洗面所、浴室がある。左に折れて、足音を立てないように近づいていくと、寝室の扉には微妙な隙間が出来ていた。少しだけ開いているそこから中を覗き見る。するとそこには――服を脱がされた品川の姿と黒革のベルトを振り上げる佐川の姿があった。品川に抵抗する様子がないことからこれが初めてではないのだと察した。
何をしているんだ――?
困惑と憤慨が心中に渦巻いた。悲しみが胸を掴みあげ、足をその場に張り付かせる。息をすることが出来なかった。やめさせるべきだろうか、と逡巡する。しかしここで俺が乱入していっては事態をより複雑にするだけのような気がする。品川が迫害されている事実を無視して撤退するのは心苦しいが今は逃げるのが最善策だ。俺は一年前の夏と同じ選択をした。また、逃げ出したのだ。
しかし今度はそれ以降品川との交流が絶たれるということはなかった。俺はこの一年間で二の舞を演じない程度には成長した。俺は翌日、一緒に宿題をやりに図書館に行こうという口実を持って品川の家に出向いた。品川は俺の誘いに応じて出てきてくれたが、図書館へ向かう道中で彼女は一向に口を開こうとはしなかった。沈黙に耐えかねた俺は品川に事実を問いただすことにした。
「なあ、佐川のことだけど」
一瞬眉が吊りあがったが、彼女は拒絶するように口を閉ざしていた。状況が長引くのは好ましくない。先に結論から触れることにした。
「俺、見たんだよ」今度は彼女も無視できなかった。大きく目を見開いて俺をねめつける。
「……何を」今にも掴みかかってくるのではないかという気迫を感じるが、圧倒されないように堪える。
「お前が、佐川に、その、ベルトで殴られているところを」
「何を言ってるのかさっぱりだけど」彼女がこんなにも冷たい表情をするのを初めて見た。でも、その表情をさせているのは他でもない俺自身なのだ。
「だから、昨日見たんだよ。あいつが寝てる部屋で、お前が服脱がされて……」
「そう、見たの……そっか。見られちゃったならしょうがないなあ……」彼女がそう呟く声は震えていた。彼女が悲しげに俯く。
「聞かせてくれよ」そう云って俺は彼女を抱きしめた。「俺、お前に隠し事されるのいやなんだよ。だって」今告げるべきじゃない。理性に歯止めを掛けられて言葉に詰まる。
「だって、何」そんな俺を見上げて彼女は先を促した。目が赤く腫れている。
「……俺、お前のことがずっと好きだった。だから、あいつのこと話してくれよ」意を決してそう云った。
「急にそんなこと言われても……私にはどうしようもないよ」
「別に今はいい。でも、気が向いたら聞かせてくれよ。あいつのことと……あと、返事」俺は顔から火が出そうな思いだった。良く自分でもこんな恥ずかしい台詞をしゃあしゃあといえるものだと思う。そして何よりこういう状況を利用して想いを打ち明けている自分が情けなかった。俺は彼女の顔をまともに直視することができず、彼女に背中を向けた。
「いいよ、今で。あいつのこと、教えてあげる」彼女が俺の背中を掴んでそう呟く。なんか映画とかに出てきそうな場面だな、と思った。映画だったらここが桜の木の下だったり、あるいは雪が降っていたりするのだろうがここはただの歩道橋の下だった。俺は彼女に向き合って頷き、先を促した。
「佐川ね、薬やってるらしいの」彼女が訥々と語りだしたその内容に俺は驚愕を禁じえなかった。
「去年の夏休みの事故で受験失敗したせいでストレスが溜まって、親の財布からお金盗んだりして買ってるらしい。二郎と私が二人で行って二郎が先に帰った日、あのあと私だけ家に入れられたんだけど、そのことを聞かされて私怖くなって帰ろうとしたら引き止められて強引に服脱がされて写真を撮られたあとベルトで叩かれた。一時間ぐらい叩かれ続けて、佐川も疲れたのか『もう帰っていいぞ』って言われた時にはやっと解放されると思ったんだけど、『また明日も来いよ。来なかったらお前の親に写真送りつけるからな』って脅されて、私はそれに従うしかなかった。『飲んだら許してやるよ』って私も薬を飲まされそうになったけどそんな犯罪に手を染めるぐらいなら殴られた方がまだだいぶマシだと思って断った。それがあれからずっと続いてるの。今日もこのあとあいつの家に行かなきゃいけない。今まで黙っててごめんね。でも私が話したことがばれたら何されるか分からなかったから」
「なんで……そんな……」俺のせいで佐川はそこまで落ちたというのか。そして、俺のせいでこうして品川が傷ついている。俺は悔しかった。自分の臆病さが結果的に他人を傷つけているという事実が。あの時に佐川を説得しきれていたならば、あるいは俺も一緒に立ち向かえたならば、結果として悪い方に転がろうとも現状ほどに最悪な結果にはならなかったはずだ。しかし、今更後悔しても遅い。ならば、今俺にできることは目の前の彼女を守ることじゃないだろうか。俺は彼女を現状から救い出す一つの方法を思い浮かべた。
――奴を、殺そう。それしか道は残されていない。奴を殺せば彼女を汚すものはいなくなる。俺に出来ることは、それぐらいしかない。それが、俺の『正義』で、奴が打倒すべき『悪』だ。
「じゃあ、悪いけど。あいつの家これからいかなきゃいけないから。良かったら、また明日会おう?」彼女はそう云って俺の頬に唇を触れさせたあと、駆け足で去っていった。
俺は左の頬に残る感触に胸を高鳴らせながら思った。絶対に、彼女を守らないと。
あれから雨が降るのを待ち続けていた。事故を装って殺害するのが自分の手を汚さずに奴を抹消する方法として最良だという結論にたどり着いたが、如何なる方法が良いかと熟考した結果、雨の日になるべく混雑したホームで線路に突き落とすという結論にたどり着いた。足元が悪い上ため誤って滑る可能性が(そんな前例は聞いた事がないが)ないとは言えないし混雑時を狙えば上手く人波に紛れ込んで逃げられる。もう少し考えればより確実な案も浮かんだだろうが、中学生如きがいくら考えたところでまともな計画が出てくるはずもない。それに無駄な道具などを使って証拠を残すよりも確実でシンプル、条件が揃い次第直ぐに実行に移せる。最寄り駅が混雑する時間帯は通勤通学時の行きと帰り、おおよそ午前七時と午後六時ぐらいだが視界が暗いほうが見られにくいため後者の時間帯を選ぶ。天気予報が夕方の雨を予測した時点で奴に電話を掛ける。電話番号は既に里美から聞きだしてある。何と言って奴を誘き出すかが問題だが「大事な話がある。急ぎの用だ。駅にきてくれ」とでも言えばいいだろう(いや、最寄り駅だとホームの端に立たせられない……。二駅先のK駅に呼び出してから俺が早めに行って、奴が電車を待っているときに背後から――)。奴にとって俺は本来会いたくもない相手だろうがそれは俺としても同じだろうと奴は予測する。その相手が自分を選んで話を持ちかけてきてるという異常事態に、良い意味であれ悪い意味であれ興味を持たないはずはない。少しでも奴が話に興味を持った時点でこちらの勝ちだ。人間は一度でも考えた行動には最終的に従う習性がある。奴は行くべきか行かないべきか迷った結果、最終的には俺の元に現れる。そこで駅にのこのこ現れたところを見計らって背後から――というのが、我ながらに杜撰で不完全な、計画と呼んでいいのかどうかすら怪しい計画だが、これしか方法はない。
天気予報が今週の天気を告げる。火曜から木曜に掛けて全国的に雷雨に見舞われるらしい。台風何号が近づいているだとか言っているがそんなことはどうでもいい。雨さえ降ってくれればいいのだ。火曜から、なら明日、計画は実行に移せる。今日も里美は奴の家に行って身も心も引き裂かれている。もう少しの辛抱だ――俺はそう呟いて明日に備える。
◆◆◆
奴の抹消に成功したのはいい――しかし、なんでこんなイレギュラーが発生するのだ。
俺は品川里美の背中を追い続けながら最悪の気分に囚われていた。
「私、消えて欲しい人がいるんだよね」静かにそう呟く彼女の表情を思い出していた。彼女の告白を聞いた二日後、再び彼女と会った日に彼女はそう云った。あの一言が、俺の殺意を後押ししたのだ。
奴に消えて欲しかったんじゃないのか? これが、お前の望む結末じゃないというのか? いったい俺たちはいつ、何を間違えたんだ……
改札の外に彼女の背中が見えた。彼女はもう逃げるのを諦めたらしく、俺が向かってくるのをただ呆然と待ち受けていた。
「里美、これは……」
「なんで、殺したのよ」怒っているのか、困惑しているのか彼女の感情が読み取れない。そう漏らした声には教科書の一文を音読するかのように感情が篭っていなかった。
「……お前のためだ」
「佐川を殺したら私が喜ぶとでも思ったの」
「だってお前……消えて欲しい人がいるって」
「へえ、まだ気付かないの」
「気付かないって……何がだよ」
「私が消えて欲しいって言ったのはね……二郎、あんたのこと」背筋に戦慄が走った。俺は怯懦に震えていた。目の前の彼女がそれから話したことは全く頭に入ってこなかった。俺は、何か思い違いをしていたのか――?
「分からないよね、自分のことしか考えてないような人には。私、佐川から全部聞いたんだよ。あんたが去年の夏、櫻野川で不良に立ち向かった佐川を見捨てて逃げ出したこと。それから佐川がその不良達に恐喝されて仕方なく仲間になったこと。佐川は無理矢理女を抱かさせられて薬も飲まされて、どんどん理性に歯止めが利かなくなっていった。それでも言ってたよ。俺はあいつが謝りに来てまた三人で笑い会えるのを待ってるって。佐川はね、あんたを最後まで信じてた。なのにあんたがいつまでも来ないから待つのに耐え切れなくて学校を休み始めたの。最初、佐川の家にわたしたちが言った時『帰ってくれ』なんていったけどあれは多分あんたがそれを振り切ってでも『お前を救いに来たんだ』とかそういう台詞を言ってくれるのを期待してたんじゃないかな。まあ結局あんたはあの時もまた逃げ出したんだけど。私をベルトで叩いたのは私が提案したから。佐川、ああ見えて弱いから一人で抱え込むのにも疲れちゃうんだよ。だから私にその重圧をぶつけて少しでも気が晴れてくれるならそれでいいかなって。私がやってること、おかしいと思う? 私はあんたの方がよっぽど狂ってると思うけどね。あんたが私に告白してきた時は信じられなかったよ。なんであんたはこんな状況を利用して善人ぶってるんだ、って言いたくなった。でもそれを利用できると思った。私が佐川に無理矢理そうされてるって言えば善人ぶりたいあんたは佐川の家に無理矢理でも押し入って止めに来るんじゃないかって思った。そうすればその時に事情を説明してあんたが佐川に謝る機会も作れると考えたの。別に私はあんたが何しようと知ったことじゃないけど佐川はあんたにまた来て欲しいって思ってたしね。それなのに、あんたは――結局こういう卑怯な手段でしか状況を打開出来ないのね。ほんと、最低の屑。何で生きてるのよ。あんたが死ねばよかったのに」
涙ぐむ彼女は俺の頬を平手で打って去っていった。
俺の人生っていったいなんだったんだろう――。誰も教えてくれやしないんだろうな。
俺は、去年の出来事を思い出していた。誕生日、二人が俺にくれた腕時計。あの時、俺たちは三人で笑いあっていた。『中学に上がったら俺だけは違う学校になっちゃうけど、いつまでも友達でいような』『何、今更当たり前の事言ってんの』懐かしい声が、頭の中に蘇る。こんなときに、なんで――。
俺は空を見上げた。雨はまだ降り止まない。しかし、頬を伝う雫は、雨粒よりも温かみを帯びた、二度と取り戻せない時間への後悔のようだった。
(了)