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 ――それは風が強く吹いている日のことだった。
 
 ぱたぱた、と。スミレは一心に背後をついてくる彼女の手を取るなり、
「チヤ、はぐれないようにね」
 と、朗らかに微笑んだ。
「はい。ありがとうございます」
 チヤはこくりと頷き、スミレの手をぎゅっと握り返した。
 現在、彼女たちが歩いているのは帝都の街――浅草近くの歓楽街は雑踏に溢れかえっており、下手をすれば本当にはぐれてしまいそうな肩摩轂撃とした世界である。
 開襟シャツの男性や、袴姿の女性たちがひしめきあっている様に驚いているのか、チヤは歩きながら辺りをきょろきょろ見回していた。
「浅草、来るの初めて?」
「えっ」
 突如、チヤに歩調を合わせながら、スミレが問う。
「はい。大勢の方が往き来する場所である、というのは聞き及んでいたのですが、これほどまでとは……」
「そっかぁ。チヤの家は、そうだよね。無理言ってごめん」
 チヤの父親は爵位を持つ軍人であり、その家柄はスミレの通う女学校でも有名だった。そんなお嬢さまを、スミレは幾度なる手紙のラブコールで、とうとうその心を開かせた。そして本日、共に浅草を遊楽するまでの仲に発展したのである。
 申し訳なさそうな表情をするスミレに対し、チヤは真面目な表情を返す。
「いいえ、お姉様。私は今日という日を幾日も前から待ちわびておりました。これは箱入だった私が初めて、自らの意志で選んだことです。その勇気を与えてくださったお姉様には感謝してもしきれません。どうか私を、いつまでも可愛がってください」
 エスという関係――先輩や後輩、友人とも違う特別な絆の繋がり――に〝永遠〟はない。チヤが受け入れてくれたあの日を始まりとして、確実に別れという終わりがやってくる。その辛さに、果たして自分は耐えられるだろうか。
 ふと、そんなことを考えながら、スミレは天を仰ぐ。
 清々しい青空に、淡い雲が浮かんでいた。
「そうだねえ。いつまでも……」
 吹きつける風に髪を揺らしながら、スミレがチヤの手を引けば、彼女は不思議そうに小首を傾げた。
「お姉様?」
「ううん、何でもない。それより、行きたい場所とかある?」
「行きたい場所、ですか」
 チヤは押し黙った。必死に考えているようだったが、咄嗟に思い浮かばなかったのか、彼女もまた視線を上にやって――その途中で止めた。
「あの、それでしたらお姉様」
「なあに」
「私、あちらの建物が気になります」
 チヤがすっと手を一方向へ伸ばす。
「あちらの建物?」
 呟きながら、スミレは彼女が指し示す方へ目を凝らした。すると、そこには大きな塔の姿があった。
 赤レンガによって造られた八角柱のような外観は、高さにして約五〇メートル。三十三年前の当時、流行っていたらしい眺望ブームに乗っかって作られた十二階建ての高楼。
 浅草十二階こと凌雲閣である。
「ああ、十二階かぁ」
「はい。近くで見てみたいです」
「なるほど……」
「駄目ですか?」
「駄目じゃないけど、正直チヤを連れて行っていい場所ではないと思ってる。あそこの周辺はいかがわしい店が多いらしいからね」
 分かりやすく肩を落とすチヤを目にして、スミレはうーんとしばらく唸った後、小さな声で言った。
「でも、近くに行くだけならまあ……」
「よろしいのですか」
「……うん。ただし、わたしの手を絶対に離さないでね。いい?」
 チヤは途端にぱあっと表情を明るくさせた。
「はい!」
 嬉しそうに笑って、チヤは首を縦に振る。
 二人は進路を凌雲閣にとった。弾む足取りで、赤い塔を目指す。こうして十数分の散歩を楽しんだ後、彼女たちの目の前にようやくそれは現れた。
 巴里の凱旋門を思わせる白亜の入り口に『凌雲閣』の黒い文字。チヤは両手を合わせながら、そびえ立つレンガ塔を見上げ、目を輝かせる。
「わあ、凄いです!」
 先ほど遠くから見ただけでも凄みは十分伝わってきたが、今改めて赤レンガの外壁から感じる荘厳さはそれ以上のものだった。
「私、感動……」
 しました――と言おうとしたチヤがふと、口を閉ざす。
「えっ」
 スミレも素っ頓狂な声を上げた。
 揺れている。横なのか縦なのかは分からないが、とにかく地面が激しく波打っているのだ。地震である。きゃーっ、という誰かの悲鳴が聞こえてきた。
「チ、チヤ!」
 スミレは強くチヤを抱き寄せ、二人でぺたりと地面に座り込んだ。いや、正確には揺れの激しさで立っていられなくなった。
「お姉様!」
 揺れはさらに激しくなった。とうとう座っていることもできなくなり、スミレは泣きつくチヤの頭を撫でながら、共に地面に横たわる。二人は声を出すことも出来ず、ひしと抱き合いながら息を殺していた。
 揺れは収まらない。
 これは世界の終わりだろうか。ぐるんぐるんと身体が揺さぶられ、身動きが取れない。周囲の悲鳴は止まず、ガラガラとどこかの建物が崩れたのであろう音が聞こえる。自分はここでチヤと共に死ぬのだろうか。まだまだ色々、一緒にやりたいことがあったのに。
 ――と、スミレが死を覚悟した直後。
 目と鼻の先にあった凌雲閣の九階辺りに亀裂が入り、猛烈な勢いで崩れ落ちていった。ズン、という衝撃と共に、ひと際大きく大地が轟く。ばらばらになった赤レンガの破片が飛び散り、その幾つかは投石の如き威力となって、チヤの頭部を庇っていたスミレの手に当たり、切り傷と痣を作った。
 生きているだけで奇跡。もう少し建物に近づいていたら、落ちてきた破片に潰され、即死だっただろう。そんな背筋が凍るような思いに、スミレは息を呑んだ。
「チヤ……」
 強く抱きしめられ、チヤはスミレの腕の中で、揺れが収まるのを必死に祈った。そんな彼女の思いが通じたのか、しばらくして揺れは収まった。
 しかし、スミレもチヤも起き上がることができなかった。身体が地震の揺れを覚えてしまったのか、揺れが収まっても尚、二人は揺れが続いているように感じたのである。
 そうして二人がようやく起き上がったのは約一分後のことだった。
「チヤ、大丈夫?」
 肩を揺すればチヤは涙目のまま、しっかり頷く。それを確認すると、スミレはチヤを立ち上がらせた。そこで二人は固まった。
 帝都の景色が変わっていた。
 近くにあったはずの建物や塀はそのほとんどが倒壊し、その瓦礫の下敷きになっている人々の姿がいくつもあった。そして、あちらこちらで真っ赤な炎と白い煙が上がっており、それらは風にあおられて、今も被害を拡大している。悲鳴も絶えず木霊していた。
 まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。終末と呼ぶに相応しい有り様だった。
「……お姉様」
 スミレは自身の着物の袂を握ってくるチヤの手を再び取った。赤い血が手の甲に滲んでいることも彼女は忘れていた。
「とりあえずここから離れよう」
 いつまた地震がやってくるか分からない。凌雲閣がその際にまた倒壊する可能性もあり、ここに留まっているのは大変危険である。
 唯一残っていた冷静な部分がそう判断し、スミレは速足でチヤを連れて、来た道を引き返し始める。チヤはそれに従うことしか出来なかった。
 どこに向かおうと、決して景色が変わることはない。行き場のない不安と恐怖に襲われながら、二人は火の手から逃げ続けた。その間も彼女たちを嘲笑うかの如く、大地は幾度も揺れる。
 今や帝都は完全に死の街と化していた。
 そんな中、先輩と後輩の関係を越えた少女たちは歩くのを止めなかった。
「チヤ、手を離さないでね」
「はい、お姉様……」
 繋いだ手と、築き上げた赤い絆に一抹の希望を託して。
 
 ――それは風が強く吹いている日のことだった。