基礎文章作法
テーマ「現代もの」
『プロポーズは天満橋で』著:倉田いちか
電車の揺れに眠気を誘われながら、俺はスマートフォンに視線を落とした。桃色の縁に囲まれた液晶画面を指先でタップすると、ロック画面に写る笑顔の自分が目に入る。
「俺、めっちゃ綺麗やん」
思わず漏れ出た言葉は、『まもなく天満橋、天満橋です』という車内アナウンスが掻き消してくれた。
俺は表示機に映し出された『天満橋』を一文字ずつゆっくりと確かめたあと、再度スマートフォンに視線を移した。暗くなってしまった画面に、いつもより口角の上がった俺の顔が映る。
綺麗だ、と自分でも思う。陶器のような真っ白な肌に黒髪のウィッグがよく映えているし、天に向かって伸びた睫毛は美しい扇状のフォルムを維持している。強い女を象徴するような真っ赤なリップも、俺の顔に自信を与えてくれる一つの要因だ。
でも、今の俺はまだ未完成。俺を完成に導いてくれる最後のピースは――。
『天満橋、天満橋です』
真っ黒な画面から顔を上げる。どうやら目的地に着いたようだった。
席から立ち上がり、カツカツとヒールを鳴らしながら電車を降りる。周りの視線が刺さるのは、きっと俺が美しすぎるせいだろう。
足早にホームの階段を下ると、今日のために新調した黒いワンピースの裾を踏んでピリッと破ける音がした。最悪だ、急がずエスカレーターに乗っておけばよかった。
ワンピースをプリンセスのように持ち上げて階段の残りを下る。エスコートしてくれる王子様は、きっとカフェで俺を待っている。
人ごみに流されながら南口の方へ向かう。日曜日の昼下がりだからか学生が多く見受けられて、『大学の友達に会ったら嫌だな』と少しだけ不安に苛まれた。
考え事をしながら歩いていると、数メートル先に見慣れた看板が見えてくる。『MOON BUCKS』の看板が掲げられたそのカフェは、遠目からでも分かるほど繁盛していた。
俺の王子様が待っているはずのカフェ。そう思うだけで、見慣れているはずのムーンバックスが一際輝いて見える。恋は盲目とはこのことだ。
ムーンバックスの前で立ち止まり、店内を覗いて彼の姿を探す。いつも猫背で、天然パーマなことを少し気にしている彼。度の強い黒縁メガネで顔を隠してるけど、ふとした瞬間に見せる笑った顔が可愛い。
オシャレな店内に似つかわしくないその人は、窓際のカウンター席でウトウトと舟を漕いでいた。
俺ははやる気持ちを抑えて入店すると、レジに並ぶ行列を掻き分けて彼の元へ向かう。見慣れた猫背の隣の席には、黒いリュックが何食わぬ顔で座っていた。
「矢島(やじま)せーんせ!」
背中をぽんっと叩いて声をかけると、矢島先生の肩が大きく跳ねた。弾かれるように振り向いた顔はまだ半分眠っていて、口元にはだらしなくよだれが垂れている。
「なんだよ、紫(し)温(おん)か……」
矢島先生は安心したように笑うと、よだれが垂れていることに気が付いて恥ずかしそうに袖で拭った。こういう抜けているところが好きなのだと、矢島先生への想いを再確認させられる。
「なんだよって、矢島先生が呼び出したんやろ?」
黒いリュックを退かしてもらって矢島先生の隣に座ると、彼は「ごめんごめん」と後頭部を掻きながら、俺の目の前にムーンバックスのロゴが描かれたグラスを置いた。
「……キャラメルマキアートやん」
「お前高校のときよく飲んでただろ? 一応俺が呼び出したわけだし、奢りだよ」
矢島先生は自然な仕草で俺の頭を撫でる。触れたところから侵食するように身体が熱くなっていって、俺はそれを振り払うように矢島先生の手を頭の上から退かした。
「子ども扱いせんといて。俺もう大学生やで?」
わざとらしく眉をひそめて抗議すると、矢島先生は寂しそうに笑って「そうだよな」と呟く。いつもなら「まだまだ子どもだろ」とか言って揶揄ってくるところなのに、今日の矢島先生は少し変だ。
「で、今日はなんで呼び出したん? 矢島先生から声かけてくるなんて初めてやん」
紙ストローを口に咥えながら問いかけると、矢島先生は歯切れ悪く「ああ」と答えて髪の毛の先をくるくると指先で弄んだ。これは言いにくいことを伝えるときの矢島先生の癖だ。高校生のとき何度も留年の危機を告げられたからこそ知っている、俺だけの秘密。
「報告もかねての相談なんだけど……。俺さ、来月から東京の実家に帰るんだよ」
俺は目を見開いてグラスから顔を上げた。
大好きなはずのキャラメルマキアートが、なんだかとても苦く感じる。口の中でふやけた紙ストローが不快で、跳ね上がった髪の毛ををくるくると絡めとる矢島先生の指先は、もっと不快だった。
「そう、なんや……」
絞り出した言葉は店内の喧騒にかき消されそうなほどか細く、情けなく震えていた。
「紫温が寂しがると思ってギリギリまで言わなかったんだ。お前は、特別だからさ」
特別。俺がずっと欲しかった言葉だ。しかし、その言葉一つで無邪気に喜べるほど俺はもう子どもじゃない。俺の『特別』と矢島先生の『特別』の意味が違うことくらい、とっくに分かっているから。
「それで、相談ってなんなん。あ、俺とはもう会えないとか? 女装男が知り合いだなんて家族にバレるわけにはいかないもんな」
捲し立てるようにそう言うと、矢島先生が突然テーブルをバンッと叩いて「それは違う!」と声を張り上げた。グラスの半分を占めていた薄茶色の液体がたぷんと揺れて、『こぼれる』と反射的に思う。
「自分のこと悪く言うのやめろって、高校のときも散々言ったよな。俺はお前のこと女装男だなんて一度も思ったことない。紫温は紫温だろ?」
泣きそうに震える声が耳に入って、グラスに向いていた意識が矢島先生に移動する。視界の真ん中にいる矢島先生の表情は歪んでいて、それが矢島先生自身の感情からくるものなのか、俺の視界が涙で歪んでいるのかは定かではなかった。
「そんなん分かってる。分かってるけど、矢島先生がいないと俺はあの時のネガティブな俺に戻ってしまうんや! クラスメイトに『気持ち悪い』って言われてた頃の俺にっ……!」
俺は立ち上がって矢島先生の肩を揺さぶった。
あのとき、俺のことを助けてくれたのは担任の矢島先生だけだった。だから今回も、駄々をこねれば矢島先生がずっと俺の元にいてくれると考えてしまったのだ。「子ども扱いせんといて」なんて言いながら、結局俺はあの頃のまま成長できていない。
「ごめん、大阪にいることはできない」
深く頭を下げられて、俺は力が抜けたように背の高い椅子へ逆戻りした。はっきりとした矢島先生の言葉を聞いて、東京行きの新幹線が片道切符であることを察してしまったのだ。
「なんでか、聞いてもいいん」
か細い声で問いかけると、矢島先生は顔を上げて「もちろん」と頷いた。そういえば『相談』があると言っていたことを脳裏に思い出したが、俺にとってはもうどうでもいいことだった。
「俺、来月東京で結婚式を挙げるんだ。それに来てくれないかと思ってさ」
矢島先生の言葉を理解するのに、数十秒の間が空いた。とにかく俺は溢れ出そうな涙を抑えるのに必死で、それ以外のことを考える余裕がなかった。
「結婚するなんて一言も言ってなかったやんっ……!」
喉の奥に何かが詰まっているように声が出しづらくて、矢島先生にぶつけた言葉も涙も全て、キャラメルマキアートの水面に吸い込まれてしまう。
「ごめん、帰京のことと一緒に話したかったんだ。嫌なら無理してこなくていいから――」
「行くに決まってるやろ! 新婦さんと見間違うくらい綺麗な格好して、矢島先生に俺と結婚しなかったこと後悔させてやるわっ!」
矢島先生の言葉を遮るようにして叫ぶと、真円になった双眼が俺の泣き顔を貫いた。
「お前、もしかして俺のこと――」
「もう言うことないやろ! 終わったならとっとと奥さんのとこ帰れや!」
俺は有無を言わさず矢島先生を立ち上がらせると、愛おしい猫背に両手をついて出口の方まで押し出した。周りの視線が刺さるのはきっと、俺の泣き顔が美しすぎるから。そうに違いない。
「鈍感オヤジ! 東京で幸せにならんかったら、すぐに新大阪行きのチケット送り付けてやるからな!」
最後の罵倒は、もはや罵倒でもなんでもなかった。自動ドアの向こう側に立つ矢島先生の返事も待たずに、俺は足早に店内に戻る。
「他のお客様のご迷惑になりますので――」
席に戻るまでの道中で店員に話しかけられたが、俺はそれを無視して窓際のカウンター席に向かった。
「矢島先生なんて大嫌いやっ……」
テーブルに突っ伏して呟いた言葉は、もう矢島先生には届かない。残されたのは不細工な俺と、ほろ苦いキャラメルマキアート。俺は顔の横に無造作に置かれたスマートフォンを手に取って、真っ黒な画面に指がめり込むくらい強い力でタップした。
ロック画面に映るのは、綺麗な笑顔を浮かべてマフラーに顔を埋める俺と、隣で控えめにピースをして困ったように笑う矢島先生の姿。
『春になったら大学の入学祝いになんでも一つ言うこと聞いてやるよ』
ツーショットを撮った真冬の日。なんでもないことのように軽く言われたその言葉を、俺は今日まで大切に胸の中に閉まってきた。
「俺と結婚してください」
用意していた一世一代のプロポーズは、生まれることもないまま俺の頭の中で渦巻いている。
(了)