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 合唱部の練習があるため瞳に音楽室を追い出された。
 今は朽木と帰路を歩いている。
 さっきの瞳の言葉が相当効いているのか、学校を出てからずっと俯いて喋らない。
「前見ないと危ないぞ」
 空は段々と暗くなり、電灯が少ないこの道は足元が見えづらくなる。
 まあ下向いてるなら足元は見えてるだろうし、前は俺が気にしてればいいか。
 なんて考えている側から。
「きゃっ……」
 朽木が高い声と共に左腕に重く柔らかい物が倒れこむ。
「ほらみろ」
 案の定、朽木が足をもつれさせ俺に倒れこむ形となっていた。
「あ、れ?」
「おいおい、大丈夫か?」
「……なんか、ロマンチックな展開ですね」
「心配して損した」
 だが、朽木は俺の腕から離れることなく、制服の袖をギュッと掴んでいる。
「伸びるだろ」
「じゃあ、手を貸してください」
「はぁ?」
 だが、朽木は別にふざけて言っているわけではなく、何か困っている様子に見えた。
「わ、私、暗いの苦手なので……」
 勝手に俺の小指を握ってくる。その手はとても柔らかく、豆一つない綺麗な手だった。
 まあ、これくらいならいいか。
「あの時の演奏、できませんでしたね」
「さっきの連弾か?」
「はい、不思議なくらい合いませんでした」
「だな」
 それ以前に、朽木は技術不足だ。瞳の言った通り俺の演奏にミスはなく、朽木にしっかりと合わせていたし、焦

ったリズムにも調整した。
 だが、朽木の右手はそれに応えてはくれなかった。
 大きなミスはないものの、瞳のように弾ける人間からしたら朽木の演奏を上手いとは言わない。
 そして俺の集中力もだ。本当にあの時の連弾を再現しようとしたら、余計なことは考えずに弾くことになる。朽

木の演奏に合わせようなど思わなかっただろう。
 一昨日での連弾はお互いの集中力も最高潮に達していた。たぶん、一度経験したからか意識 して集中できてい

ないんだろう。
 あの時の俺の集中力と、朽木の右手が重なれば。
 それが朽木一人で弾けるようになったら、どれだけ素晴らしい演奏になるか。
「そういや、今日の昼に上手くなりたいけど時間がないって言ってたよな」
「あ、そんなこと言ってましたっけ」
「自分で言ったんだろ」
 朽木は苦笑しつつ左手で髪をいじる。
「あー……、国際コンクールに出たいんです」
「今年の?」
「そうです」
「それって今月……、時間がないのはそういう事か」
「……ですね」
 はっきりしない口調で返事をしてくる。
「それで、できれば本選に出てみたいなぁ、なんて」
 高校生の実力が分からないから瞳基準で言うと、今の朽木では予選すら危ういだろう。
「来年じゃダメか? 今から週に一回でも教えていけば本選に出場できるかもしれないし」
 俺の意見に朽木は大きく首を横に振る。
「なんとかお願いします! 今年ので本選に出たいんです」
 気合の入った声でそう言われては、やめたほうがいいとは言えない。
「まあ、出るだけ出てみてもいいと思うけど」
「頑張ります!」
 左の小指に朽木の力が加わる。
「明日は土曜日だけど、キーボードで練習するのか?」
「いえ、学校でピアノを借ります、合唱部は平日活動だけなので」
 俺はすぐに明日の予定がないことを確認し、
「分かった、なら俺も行くよ」
「当たり前です、教えてくれなきゃ困ります」
「生意気なのか謙虚なのか」
 そんな会話の途中で三叉路に差し掛かり、
「では、また明日です」
「ああ」
 俺の小指から手を離した朽木は右の道に手を振りながら歩いて行く。その道は電灯も多く、 暗くはないので怖

がっている様子はなかった。

 

 左の道を数分歩いたところで、赤い屋根の俺の家に着いた。
「ただいま」
「あら、随分と遅い帰りね」
 挨拶と共にリビングへ行くと、エプロン姿の母が丁度テーブルに食器を並べている所だった。
「ははーん?」
 母は不気味な笑みでこちらを見る。
「なんだよ、気持ち悪いな」
「もしかしなくても、女ね?」
 食器から手を離し両手をクロスさせながら小指を立ててくる。
 俺に友達がいないからか、少し帰りが遅くなるといつもこうだ。
「パパみたいに妊娠させたらダメよ?」
「……いや、ありえないから」
「いやん」
 母さんは十七歳で俺を産んだ、今は三十四歳で父は四十五歳。
 なんというか、色んな意味で母さんは若い。
「ちょっと、ピアノ使うけど、いいか?」
 リビングの端にあるアップライトピアノを指差すと、母は驚いた顔をしたあと徐々ににやけ顏になっていった。
「まあ、まあまあまあ!」
「な、なんだよ……」
「いいえ! 弾いて弾いて! レズギンカ弾いて!」
 手を合わせながら勢いよく近づいてくる母から逃げるようにピアノ椅子に座った。
「言っておくけど、左での弾き方を確かめたいだけだからな」
 鍵盤蓋を開け、鍵盤に息を吹きかける。
 母が手入れをしていてくれていたのか、埃が被っていることはなく、五年前の様に綺麗な状 態だった。
 久しぶりのはずなのに、つい最近の様だ。この匂いも。
 振り返り礼を言おうと思ったが、ニコニコ顔の母を見てその気は失せた。
「弾いてやるよ」
 せめて演奏で返そうと思い要望のレズギンカを弾くことにする。
「やった! ご近所の方も呼んでくるわ!」
「やめろ!」
 母を黙らせてから鍵盤に右手を置く。
 親指から小指にかけて二回ずつドレミを叩いてから、俺は深く息を吸った。
 音に問題はない。
「……よし」
 小声で呟いてから指を跳ねさせていく。
 早いリズムから始めて、崩すことなく上々に演奏できている。
 さすがに左手でのメロディーがない分満足いく演奏はできないが、これはこれで……。
 「あっ」
 俺は右手を鍵盤から離し音を止める。
「止めちゃうの?」
 母はいつの間にか側に椅子を持ってきており、それに行儀悪く足を組んで座っていた。
「さっきも言ったけど、俺は左を確かめたかったんだよ」
 気分が高揚していて目的を忘れていた。
 これから朽木に教えていくとなると、左の演奏を右手で教えられるようにならなければなら ない。ピアノを辞

める前は右手で左も練習していたため、ある程度は弾けるが、弾けるだけ で上手いとは言えないだろう。
 それに朽木が弾きたい曲を聞いていないのも盲点だった。
 もし右手で弾けない曲だったら、俺自身が練習しなければならない。
 悩んでも仕方なく、
「とりあえず、何か弾こうかな」
「蝶々!」
何曲か母の要望に応え、ピアノに恵まれた一日を終えた。