夏休みに入り、約一週間が経った。
今年の春に小学五年生になった三河伊織（みかわ いおり）は、隣の家に住む中山花蓮（なかやま かれん）と彼女の両親と共に上野に来ていた。
仕事優先の伊織の父親に代わって、普段は花蓮の両親が伊織の面倒を見てくれている。いつもは食事を作ってもらう程度なのだが、今日は中山家が出かける為、前日に一緒に行こうと誘われた。
目的は東京国立博物館だ。花蓮の父親――慎志（しんじ）が行こうと提案したらしい。花蓮たちは博物館なんてつまらないだろうと妻の美央（みお）が反対したそうだ。しかし、その博物館では今、体験型の展示があると知り、伊織と花蓮に行きたいか聞いて花蓮が面白そうだと答えて決定した。ちなみに伊織は花蓮の意見に合わせた。
（あいつが楽しければそれでいいし）
伊織は数歩前で両親と手を繋ぐ花蓮の後ろ姿を見て、思った。すると花蓮が伊織の手を握って引っ張り、慎志と美央の後ろを歩き始めた。
「博物館って、何があるのかな。恐竜の化石？」
「……場所によると思うけど。訊かなかったの？」
「うん」
「……そう」
花蓮の堂々とした返事に、伊織は呆れてしまった。
前を歩く二人が信号で止まる。二人の間から前を見ると、門があった。その横には人だかりが出来ている。
なんだろうと思ってよく見ようとした時、歩行者用信号が青に変わり、花蓮が伊織の手を再び引っ張って歩き出した。花蓮の両親が正門の左側に行って足を止める。
「ここで待ってて」
「ええ」
美央が頷くと、慎志が公園の方を見ている花蓮の頭を撫でてから人だかりの方へ行った。伊織がじっとそれを見ていると、数分後に慎志がチケットを持って戻ってきた。
（入場券？ かな）
「はい、二人も」
慎志が美央にチケットを渡してから、子ども二人にもチケットを渡す。そして四人は中に入った。
前には茶色系の大きな建物があり、右側には白い建物がある。敷地内に入って左側と左斜め前に道があった。どこに続いているのかは分からない。
慎志が美央に手を振って、一人で先に行ってしまった。伊織と花蓮がお互いを見合って首を傾げる。疑問を口に出したのは花蓮だった。
「ママ、パパはどこ行ったの？」
「一人で見に行ったのよ。私たちはまず、本館に行きましょ。そこに体験型の展示があるみたいだから」
美央が微笑んで言い、花蓮の手を繋いだ。花蓮がこちらを見て手を伸ばすので、伊織は渋々彼女の手を握った。
入口からまっすぐ進み、三人は本館に入った。入ってすぐ、真正面に二階へ上がる階段があった。その右、奥、斜め左には展示室がある。入口のすぐ左側にはお土産屋らしきところもある。
「えーっと……あっちかしら」
美央がきょろきょろと中を見回してから、階段の右奥に歩を進めた。
そこへ進んで行く途中、大きな声が聞こえた。その後に波のような音が響く。驚いた花蓮が美央の後ろに隠れて涙目になる。
「ママ、今のなに？」
「何かしら。きっと、行ってみれば分かるわよ」
「こわい」
花蓮が美央の腰に手を回して顔を付ける。薄暗い中に突然叫び声と波の音が聞こえたら驚くだろうが、怖がる程だろうか。伊織が考えていると、美央が苦笑してしゃがみ、花蓮の頭を撫でる。
「大丈夫よ。お化け屋敷じゃないんだから。ほら」
美央が花蓮の頭を優しく撫で、手を握る。そしてゆっくり歩き出した。
声と音の正体を見た花蓮が目を丸くする。声は台に乗った少女の、マイクを通したもの、波の音は動く冨嶽三十六景の映像だ。次の少女と波の映像を見てみると、大きな声を出せば出すほど、大波になることが分かる。
「怖くないでしょ？」
「うんっ。あたしもあれやりたい」
「じゃあ、並んでらっしゃい。見ててあげるから」
美央が花蓮の手を放す。花蓮はもう一度頷いて、列の一番後ろに並んだ。並んでいる人は伊織や花蓮と年が近そうな人や、制服を着た中学生くらいの少年少女ばかりだ。割合としては少女が九割だ。
（あの人は……高校生なのかな）
花蓮の三人前に並んでいる男性を見て首を傾けた。中学生にしては少し背が高いように見える。伊織の家の近所に住んでいる高校生はまだ夏休みではないから、彼が個人的に来ている可能性はないだろう。
（あ、大学生かな。……大人でもやるんだ）
伊織はその辺に大人より、少し髪の長い男性をじっと見つめていた。服は黒っぽい。腕を組んで波の様子を見ている。
「そういえば……」
入口の近くで五人くらいの女性がいたのを思い出した。その時、丁度後ろからその後に彼女らが来た。リュックを背負っている人、鞄を肩にかけている人、眼鏡をかけている短髪の人と後頭部でハーフアップにしている人や、四人より少し背の低い人がいた。
「これ何やるの？」
「あっ、声の大きさで波の高さが変わるんじゃない？」
「あー……なるほど」
「ねえ、あれ、宮野君じゃない？」
「確かにー。こういうのやるの、彼らしいね」
「しほりん、やらないの？」
「何であたしなんだよー、恥ずかしいじゃん」
五人が指しているのは、伊織が見つめていた男性のことのようだ。彼の番が来て、マイクに向かって叫ぶ。内容はよく分からなかった。
「おー。大波だ」
「どれくらいの声で大波になるんだろう」
「あ、見て。最後尾の女の子かわいい～っ」
「あっ、ホントだ。こっち向いた」
「顔めちゃくちゃ好みなんだけど」
女性陣が花蓮を見て、テンションを上げている。大人はよく分からない。
（変な人たち……）
「伊織ちゃん。花蓮の番みたい。大波になるかしらね」
美央が伊織の隣にしゃがんで花蓮を見ている。伊織も女性たちから花蓮に視線を移動した。
「……うーみー?」
花蓮がすうっと息を吸って、大声で叫んだ。間があって、波が動く。一度小さく動いてから、画面の上の方まで波が上がった。花蓮が喜びながら二人のもとへ戻ってきた。
「ママ！ 大波だった！」
「よかったね～」
「うんっ。いおりちゃんはやらないの？」
冗談じゃない。
咄嗟に口に出そうになった言葉を飲み込んで、首を左右に振った。
「大声を出すのは得意じゃないから」
「そっか。じゃあ、次に行こっ。あっちにもなんかあるみたい」
花蓮が伊織の手を引っ張って隣の部屋に入る。そこには大きな台があり、紙と三種類の判子らしきものが置いてあった。先程の五人の女性の中で、リュックを背負った短髪の人がスタンプを押しており、その後完成したものをハーフアップの女性に渡していた。
（完成したものを、なんで渡してるんだろう。要らないのかな）
「いおりちゃん、いっしょにやろう」
「あ、うん」
花蓮に視線を戻した伊織は頷いて、花蓮の隣に立ち、橋の絵が書いてある用紙を取った。裏はハガキになっているようだ。スタンプは黒い雲と小雨、薄い色で斜めに降る雨、濃い色で真っすぐに降る雨があった。花蓮が雲のスタンプを押すのを待ってから、伊織も押した。
「ねえねえ、いおりちゃんは三つ全部やる？」
「花蓮は？」
「全部やりたいけど、真っ黒になっちゃうかなあ」
「真っ黒にはならないと思う」
「じゃあ全部やろうっと」
花蓮は斜めに降る雨のスタンプを取り、ぎゅっぎゅっと体重をかけて押す。それを伊織に渡し、まっすぐに降る雨のスタンプも同じように押した。
「できた！ ちょっと暗くなっちゃった」
「雨なんだから、暗くなるだろ」
「そうだっけ？ そうだよね」
「ぼくもできた」
伊織はスタンプを元の位置に戻して、完成した絵を眺める。本当に降っていたら、びしょ濡れになりそうな程の大雨になった。
「大雨だね」
「大雨だな」
「二人とも、完成したのね。見せて」
「うんっ。はいっ」
花蓮が伊織の手から用紙を取って、しゃがんだ美央に渡した。美央は二つの絵を見比べて、目を細めた。伊織が花蓮の絵を見てみると、彼女の方は、二回目と三回目に押したスタンプが雲のスタンプより上に押されていた。
「ズレてる」
伊織がボソッと言うと、花蓮がきょとんとしてから絵を見比べてあっと声を漏らした。
「いおりちゃん、上手。あたしの、雲から降ってない」
「そうね。でも、いいんじゃない？ 世界で一枚の絵だもの」
「世界で一枚……なんかカッコいい」
「そうかな」
伊織が首を傾げて言う。すると花蓮が再び声を漏らして、今度はなぜか眉をひそめた。
「いおりちゃんのは上手に押せれば出来るから、世界で一枚じゃない？」
「どうかしら。確かに上手は人は他にもいるかもしれないけれど……伊織ちゃんのと全く同じのは出来ないと思うわ」
「じゃあ、いおりちゃんのも世界で一枚しかないね！」
「そうね。……あら、これ、まだ乾いてないわ」
美央が二枚の用紙を鞄に入れようとして、手に付いたスタンプに気付く。
「かわくまであたしが持ってる」
「ぼくも持っておきます」
「ありがとう。じゃあ、次に行きましょうか」
「うんっ」
花蓮は首を大きく縦に振って、美央から自分の用紙を受け取る。すぐに歩き出して、次の部屋へ行ってしまった。伊織と美央が慌てて追いかけると、彼女は回転する着物の女性に釘づけになっていた。見返り美人図の女性がくるくる回っているだけのようだ。なぜそんなに見入っているのだろう。
「花蓮」
「あっ、いおりちゃん。見て見て、お姉さんが回ってる」
「お姉さん……」
実際に生きている人ならともかく、なぜ人形相手を「お姉さん」と呼ぶのだろうか。
伊織が返事に困っていると、見返り美人の回転が止まった。すると花蓮は興味をなくしたのか、先に進んでいく。再び回転を始めた見返り美人には目もくれない。
（飽きるのが早いな）
「伊織ちゃん、私たちも行きましょう。あの子、迷子になっちゃうわ」
「はい」
美央に優しく手を握られて、伊織は足を動かした。
次の部屋は映像が流れていたが、花蓮はこれに興味がないらしく、さっさと行ってしまった。追いかける側の伊織には、映像を見る暇もない。
「花蓮」
伊織が花蓮を追いかけ、〈茶の湯〉と書かれた場所に行った時、彼女は部屋の奥にある器をじっと見ていた。なんだろうと思って隣から覗くと、人気のネズミのキャラクターに似た器が五つ置いてあった。ネズミの耳がこちらを向いている状態だ。
「片身替釉洲浜形向付（かたみがわりゆうすはまがたむこうづけ）？」
（何に使うんだろう……）
「あれ、いおりちゃんだ」
隣からたった今、伊織に気付いたような声が聞こえ、伊織はハア、と息を吐いた。
「花蓮、先に行かないでくれ。迷子になったらどうする」
「ここから出なければ、いつか会えるかなって」
「そんなこと言って、実際迷子になったら出て他のところに行くだろう」
「すごい、なんで分かるの？」
実際そうするなら、そうならないように努力してほしい。
伊織はため息を吐いて、花蓮の手を握った。彼女が迷子にならないためには、こうするしかない。
「いきなり走るなよ」
「はーい。あれ、ママは？」
「後ろからのんびり行くって」
「疲れちゃったのかなあ」
花蓮が心配そうに入口の方を見る。もし美央が疲れているなら、その原因は花蓮の自由行動が八割を占めるだろう。
「まあいいや。次に行こう」
花蓮がにこっと笑って伊織の腕を引っ張る。伊織は美央がちゃんと付いてきていることを確認してから足を動かした。
〈武士の装い〉というところでは、花蓮は布直垂（ぬのひたたれ）に興味を示した。直垂そのものにではなく、「ひたたれ」という言葉が面白いと笑っていた。
（刀とか鎧とか色々あって、なんで直垂……）
伊織が呆れていると、身を乗り出して直垂を見ていた花蓮がばっと振り返った。なぜか満面の笑みだ。
「……何」
「『ひたたれ』っ。なんか、命令してるみたい」
「どういう意味だよ」
「えー？ なんか、座ってお辞儀するみたいな。昔の人が偉い人にやってたやつ」
土下座のことだろうか。とりあえず、「ひたたれ」は命令形ではない。
「花蓮、刀とか鎧は見ないの？」
「こわいから見ない」
「別に斬られるわけでも動くわけでもないのに」
「こわいこと言わないで！」
伊織が呟くと、花蓮が涙目で耳を塞いだ。花蓮はホラ―系が苦手だったと思い出して、伊織は彼女の頭を撫でた。
「動かないから、大丈夫だよ。次に行こう？」
「……うん」
花蓮が耳から手を放して、伊織の手を握る。そのままぴたっと体もくっつけてきた。歩きづらいが、自分の言った言葉が彼女を怖がらせたのだから、仕方ない。
〈能と歌舞伎〉というところでは、二人が知識がないというのもあって、歩きながらざっくりと見るだけになった。しかし次に行く前のところに一つのお面があり、花蓮がびくっと肩を震わせた。
「あっ」
「お面？」
伊織がそれに近付いてお面を手に取る。小面（こおもて）と言うらしい。試しにお面を付けて花蓮を見てみた。
「目がこわい～」
「目？ ……ああ」
花蓮に言われて改めてじっとお面を見てみる。目が細い所為か、少し気味が悪く感じるような気がする。
「早く進もうよ」
「分かった」
伊織はお面を元に戻して花蓮の後に付いていった。
全ての部屋を見終わって階段で美央を待っていると、また五人の女性が歩いてきた。
「あのお姉さんたち、スタンプのところにいたよね？」
「いたね」
「遠足かなあ」
「どうだろう。……あ、来た」
伊織はこちらに来る美央を見付けて、花蓮の手を繋ぐ。花蓮が走りかけたからだ。腕を引っ張られる形になった花蓮の上体が後ろに倒れかける。伊織はその体を支えて元に戻した。
「走らない約束」
「そうだったね」
「二人とも、お待たせ。楽しかった？」
二人がずっと持っていた用紙を受け取って鞄に入れながら、美央が尋ねる。
「『ひたたれ』が面白かった」
「直垂が？」
花蓮が面白いと言った理由を知らない美央は、微笑んだまま首を斜めにしている。
「『ひたたれ』という発音が面白かったみたいです」
「そうなの？ ひ、た、た、れ。……面白い、かしら」
美央が苦笑して、直垂を連呼している花蓮を見る。伊織は花蓮似歩み寄って彼女の口を手の平で塞いだ。
「ふぁに？」
「博物館では静かに」
「今更ー？」
「下は少し騒がしかったからいいけど。ここは見てる人もいるし」
花蓮の声が今よりうるさい時もあったが、その時は周囲に人がいなかったので置いておく。
「そうだね。じゃあ、下に行こう。おみやげ見たい。ママ、おみやげのトコ行きたい」
「そうね。行きましょ」
美央はにこりと笑って階段を下り始める。花蓮がそれに続き、その後に伊織も下りた。
ミュージアムショップには、様々なものが売っていた。入って右の棚には、厚い本などが置いてある。真ん中の台には箱に入ったお菓子や、ストラップが置いてある。
「あんまりかわいくないね」
「そうだね」
「二人とも、いいのあった？」
「んーん。かわいくないから、いらない」
「そう。残念だったわね。じゃあ、帰りに公園の屋台で何か食べましょうか」
「！ うんっ」
花蓮が美央を見上げて笑う。美央も微笑んで彼女と伊織の頭を撫でた。
「それじゃあ、外に出ましょうか。パパも見終わったみたいだから」
本館以外に三つ程建物があったのに、もう見終わったのかと伊織が驚いていると、それを察したのか、
「なんか、思っていたより面白くなかったみたいなの。私たちの方が楽しめちゃったわね」
と、美央がふふっ、と笑って耳打ちをしてきた。
