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 今日は休日で学校がないため、双子のリクとロクは自室で好きなように過ごしていた。二人で一つの自室は幼少の頃に比べれば狭くはあるが、元々が子供には広すぎるくらいだったので、中学生になった今でも窮屈ではなかった。
 二人は一緒に何かをするでもなく、かといってどこかへ出かけることもなく同じ空間に収まっていた。
 弟のロクはノートと参考書を広げてペンを持ち、机に向かい合っていた。後ろを見ると、兄のリクは壁に背をつけて、本を読んでいる。参考書でも、授業で使っているノートでもない、娯楽の本だ。
 ロクは眉間にしわを寄せ、再び机の上のノートに顔を向けた。
 兄のリクはとても頭がよかったが、弟のロクはそれほどではなかった。そのため、日々、優秀な兄と比べられている。
 もちろん、リクも何も努力をしていないわけではないが、ロクは兄の倍の努力をしている。それでも並び立つことは未だ叶わない。
 ロクは休みの日もこうして勉学に励んでいるのだが、その端でただ気ままに過ごす兄の気配を身近に感じるのはどうにも居心地が悪い。気が削がれるのはもちろん、惨めな気持ちになる。
 本当は一言、いや、一睨みでもしてやりたいが、敵視しているのが自分だけであることを痛感するのは、更に惨めになるので、目に見える結果を出して見返すまでは何もしないと決めていた。
「はあ……」
 とはいえやはり、後ろの気配に落ち着けない。
 忙しなく動かしていたペンを止め、手放す。
 気分転換をしようと飲み物を取りに立ち上がったときだった。視界がぐらりと揺れた。ロクは突然のことに驚き、変だなと思いながら、左右に揺れる視界に合わせて、体を傾ける。立ち眩みか、寝不足からきた目眩だろうか。こめかみの辺りに手をあて、足の裏に意識を向けて地面を確かめた。
 それでも、視界は揺れる。それに合わせて体も傾ける。
 どこからか小さな物音が聞こえた。
 ロクはすぐさまそちらを見た。
 棚の上の写真立てがカタカタと音を立てて足を震わせている。
「え?」
「ロク!」
 兄の鋭い叫びに振り返ったときだった。ガダガタとそこら中の家具が震え始めた。
「地震だ!」
 リクはふらつくロクの元に駆け寄った。リクも揺れに足を取られていたが、体当たりをするような形でロクの腰に手を回し抱いて、そのまま机の下に押し込めた。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
 リクの体当たりによって机の足に打った背中が多少痛んだが、今はそれどころではない。
 揺れは収まるどころか激しさを増している。
「揺れがでかいな……。ロク、奥の机の足を押さえろ!」
 そう言ってリクは手前の机の足を手で床に押さえ付けた。兄の言うことをすんなりと聞くのは癪だったが意地を張っている場合ではない。ロクも同じように奥の足を掴み、床に押し付ける。ガダガタと音を立てて動こうとする机を二人は必死に押さえ付けた。
 正面からガタン、とひときわ大きな音がした。それから、ガシャンと何かが割れる音もした。棚が倒れ、写真立ての硝子が割れたのだろう。
 今度は遠くで、重そうな音がした。地響きのようなそれは、立て続けに聞こえ、また先程よりも沢山の硝子が割れる音が聞こえた。
 ロクはその音を聞いて、食器棚が倒れたのだと思った。そうして食器棚の姿を思い出しその大きさを考えると、他にも冷蔵庫や衣装箪笥が倒れても可笑しくはなかった。
 そのとき、ロクははっとした。この部屋にも、大きな衣装箪笥がある。そして配置は、今二人が砦としている机の正面だ。
 ロクはリクの顔を見た。何とか机を押さえ込もうと苦悶の表情を浮かべている。足元を見た。机から足が半分ほど出てしまっている。屈んでいる体の半分も机の外だ。
 机とリクの隙間から、部屋の様子を辛うじて見ることができた。
 やはり、床の上には棚が倒れ、その上にあった写真立ても割れて硝子が散乱している。
 何かが軋む嫌な音がした。それは遠くない場所から聞こえた。嫌な予感がして、ロクは正面を見た。衣装箪笥が扉を開閉しながら、大きな図体を揺らしている。
 そして段々とこちらに傾いて、重心が扉側にかかり完全に移動すると、迷うことなく二人の方へと傾く速度を上げた。
 棚の影がリクの背に覆い被さる。
「リ……!」
 ドンッ
 兄の名を呼ぼうとしたリクの声は、ぶつかり合う衝撃音にかき消された。その音は、箪笥の上部が机に当たったことで発せられたものだった。兄の体を下敷きにしたことで、箪笥は床に付かなかったのだ。
 それほど大きな音ではなかったが、ロクにはその音が、遠くで聞いたどの音よりも重いものに感じられた。体の奥底に、まだ響いている。今も、兄の骨が軋む音が聞こえそうで恐ろしかった。
「リ、リク……」
「……ロ、ク……」
「リク!」
 リクは辛うじて生きていた。息を荒げて、必死に呼吸をしている。
「無事、か……?」
「僕のことよりお前だろ! 待ってて。今、箪笥をどかすから!」
「無理、だ。俺、たちの力じゃ……到底どかせやしない……」
 途切れ途切れに話すリクの言葉に耳を貸さず、ロクは箪笥をどかそうとした。
 衣装箪笥が倒れたときの大きな揺れを最後に、揺れが徐々に収まってきたため力は入れやすかったが、それでも箪笥はびくともしない。
「……ロク、もう、いい……」
「よくない! 全然よくない! 僕がお前に助けられるなんて、そのせいでお前が……そんなの全然よくない?」
「はっ……意地っ張り……」
「何とでも言え!」
 大分揺れが収まり、辺りは最初に聞いた小さな物が振動する音だけになった。
 静まった部屋の中で、ロクはリクの荒い呼吸を聞きながら、ひたすら箪笥を押していた。
 そのとき、どこからか聞きなれた声と言葉が聞こえた。
「リクー! ロクー!」
「どこにいる! 返事をしてくれ!」
 それは父と母の声だった。
 リクは懸命に叫んだ。
「父さん! 母さん! こっちだ?」
「リク、ロク! いるのね!」
「今そっちにいくからな」
 ああ、よかった。
 もう揺れはない。父と母も助けに来てくれた。
「リク、もう大丈夫だよ。僕たち、助かるんだ!」
 ロクはまだ机の足を掴んでいるリクの手を握った。力一杯握りすぎたせいか、その手は白く、冷たい。
「もういいんだ。揺れは収まった。あと少し、あと少しだけ頑張れば……」
 ふと、静かだと思った。外で両親が損壊した棚や硝子を掻き分けているのだからそんなはずはないのだが、なぜだか静かに思えた。
「ね、ねえ、リク……」
 何か話してはくれないかと、リクに視線を向ける。項垂れたまま何も言わないリクに、背筋にゾッと嫌なものが走った。
「ひっ……」
 か細い悲鳴を上げたのは母だった。それから父が言った。
「今、箪笥をどかす」
 ロクが全力で押しても動かなかった箪笥は、父がやっとの思いをして動かすことができた。
「ああ、なんてこと……」
 母はその場に泣き崩れた。父は何も言わず、固く目を瞑った。
 ロクは目の前のリクの姿を見た。足が、あらぬ方向へ曲がっている。
 早く病院へ連れて行かなくては、とは思わなかった。
 部屋の中は変わらず静かだった。自分の呼吸と心臓の拍動だけが伝わってきた。
 もう、ここに彼はいないのだと、わかってしまった。
「母さん、あの……」
 母がこちらを見た。目が合った瞬間、ロクの心臓はより大きな音を立てて脈打った。
 その目は涙に濡れているのに、射るような、それでいて探るような視線だった。
 品定めをされている。
 父を見ると、閉ざしていた目蓋を開き、こちらを見ていた。
 両親は待っているのだ。ロクの言葉を。
 何のために待っているのか、ロクにはわかっていた。
 ロクは口の端を歪めたがすぐに戻して、真剣な眼差しで両親を見つめた。
「……ロクが守ってくれたんだ」
 視線を落とし、リクの亡骸を見る。
「地震に気付くのが一瞬遅れた俺を、ロクは庇ったんだ。
 今も昔も、リクとロクは瓜二つの双子だった。顔も背格好も仕草までよく似ていた。鏡写しのような二人は両親でさえ見分けられないほどだった。そのため、小さい頃の二人は、それを利用していつも周りを騙して遊んでいた。
 唯一の違いは内面だった。
 兄は賢く快活だった。弟も聡明ではあったが、兄とは違いあまり積極的でなく弱気だった。
 兄は大人しい弟をいつも守った。周りから見ればいい兄だっただろう。それが弟の心をさらに苦しめているとも知らずに。
 ロクが顔を上げると、母に抱きしめられた。父も傍に寄り、二人の肩に手を置いた。
「悲しいことだけど、あなたが無事だっただけでもよかったわ……」
「ああ、ロクは立派だ」
「うん。俺もそう思うよ」
 二人の手の生ぬるさは気持ち悪いが、心は軽かった。
 守られて生き残るなんて格好悪い。ましてや彼に庇われるなんて。
 健気な弟は優秀な兄を庇って死んだのだ。そして誰もが望む兄だけが生き残った。それで大団円だ。
 ロクにも利益はある。弟の評価はこの瞬間に最大になり、この先下がることはないということだ。
 ロクという中身が変わるわけではないが、弟の死を目の前にした兄の成績が下がろうと、周りは同情するだけで咎めはしないだろう。何より、比較する身近な存在はいない。
 ロクは部屋の惨状を軽く見回した。二人でも十分な広さを保っていた部屋が、今は足の踏み場もない。
 この際、改装してしまうのもいいかもしれない。
 ここはもう、一人部屋なのだから。