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 時は九月。京都地方は嵐山、竹の小径の藪の中。芸能神社におわします、天宇受売(あめのうずめ)はご多忙の只中(ただなか)にあられた。彼女は娯楽を司る女神である。ではこの季節、神がなにゆえ忙しくするか。それは来たる十月に控えた神無月にて、古今東西八百万の神々が、島根、古くは出雲の国へと会するためであった。神々は十月のあいだ出雲大社に寿司詰めとなり、仕事をするかと思いきや、やれ飲めや歌えや、ともっぱら宴のみを催す。というかそもそも、神無月に出雲で神がどうの、というのは中世以降の俗説である。つまりこの神々ども、その俗説にいわば乗っかる形で、どんちゃん騒ぎたいだけである。
 で、その宴の際。芸・能・娯楽これらに長ける天宇受売は、宴席の盛り上げ、いわば賑やかしを担当するのが常であった。
 だがやはりこんなことを千回近くもやってると、おのずとネタが尽きてくるもの。特にここ数年の宴は『ハズレ回』などと呼ばれ、とりわけ一昨年に行われた『第一回・利き水素水グランプリ』の不評たるや凄まじいものであった。神無月だてらに社に帰る者が出たほどである。
 困ったことに、現在に至れど打開の方途はてんで見つからない。そういう時こそ不運ばかりが重なるもので、つい先ごろの九月の初旬、日本列島の土手っ腹目掛け、当年最大の台風が直撃。京の神々もご多分に漏れず、事後対応に忙殺されていた。
 こんなんでネタなんざ作れっかよ。と天宇受売は薙ぎ倒された竹林を眺め、嘆息。更に重ねて憤慨し、それ以上に焦った。第二回・利き水素水だけは回避せねばならず、しかしてその方策は頑として浮かばない。
 藁のごとく圧し折られた竹が一路に続くさまは、まるで天を衝く水牛の轍のようであった。「モォー」とその鳴き声を幻聴し、彼女もまた「もぉお」と叫ぶ。引退の二文字が彼女の胸に去来した。それを皮切りに、種々の思考が彼女の瞼の裏を駆けた。
 神って引退するとどうなんのかなー。でも人って「人を引退するとどうなる」とかあんま考えないよねー。いやでも人間って動物だし、意味とか考えなくても良いのかな。その点、私ったらあなた。娯楽を司らなあきまへんの。生きとることが仕事やねん。かっこええなあ。いつか言ったろ。 まあそれは置いといて、神が引退したら消えちゃうんですかね? 最悪消えるならいいとして、四次元に浮いてるチリみたいになったらやだよね。誰にも信仰されないし、死ねないし、ずっとこんな調子でいろいろ考えて、しまいに発狂すんだろね。いや、マジで嫌だな。誰か! 助けて!
 
  〇
 
 喫茶店。なんとまあ珍しいことに、レスラーのように逞しい男と、チンアナゴのように痩せた男とが、二人掛けの席で語らっている。前者は白のランニングシャツ姿で、よくもまあ九月にもなって、といった闊達な印象である。後者は濃紺のパーカーを着込み、目を離すと夜闇に消えていそうな、薄弱な印象であった。
「ああ、そういえば羽衣。芸能神社って知ってるか?」
 タフガイが痩せ身の男に話しかける。痩せて覇気の無いチンアナゴ。どうやらそいつを羽衣と言うらしかった。タフガイの方が、スー、と音も立てずコーヒーを啜る。それに比して羽衣の方は、スティックシュガーを入れるか入れないか、ミルクを入れるか入れまいか、など手元でちょこちょこやっており、なんだか少し落ち着きがない。コーヒーに慣れていないようである。遅れて彼も答えた。
「いや分からん。日本の神話ってなんかショボくてさ」
 タフガイはすぐに反応を見せず、カップをゆっくりとソーサーに置いた。それから、まあそうよな、と机上のスマホを手に取った。弄り始めて三秒後、羽衣の鼻先に芸能神社のホームページが突き付けられる。ネット黎明期じみて濃厚な配色のページである。トップページには、参拝に来た芸能人らの写真が掲載されていた。どれも各方面で有名な者らであるのだが、羽衣はそれを見てもドードー鳥のような阿呆面を浮かべている。
「浜ちゃんと東野は分かるだろ」
「ああホントだ」
「だろ。で、ここ、娯楽とか芸能の神様が居るっぽいからさ。お前ここ行ってみれば?」
 と聞くと羽衣、苦笑交じりに右手を振り振り、いや神様ってアナタ笑、と、馬鹿にしたいけど友人の手前本気で馬鹿にするわけにもいかない、といったアンニュイな顔をした。タフガイは怒るでもなくカップを手に取り、静かに
「でもまあ、そんな気分じゃないの?」
 と言った。羽衣の苦笑は問いに答えられず、ゆっくりと閉口していった。どうやら彼は今、猫の手でも神の手でも借りたいような、娯楽関係の悩みがあるらしかった。

 

 彼、羽衣本司の職業は「ウェブライター」と呼ばれるものだ。そのものずばり、インターネット上で記事を書く者のことである。彼は特定の会社と契約を結び、賃金をもらって記事を書いている。
 羽衣が書く記事のジャンルは、いわば娯楽記事とも呼ぶべきものである。記事の企画、文書、図画像で以て読者を笑わせるという、現代の大衆娯楽の一つだ。そして今の世ではこれが非常に受ける。何せネット上の記事であるから、文書を持ち歩く必要もなく、寄席に木戸銭を払うでもなく、どこでも娯楽を享受できるからだ。これほど手軽な手慰みは他に例が無い。日夜多くの老若男女が、様々な娯楽記事を読んでいるのであった。
 こういう訳で羽衣の年収も、けして高くはないが悪くない。何より肉体を酷使することがなく、虚弱な羽衣にとって、そこは天職と思える職場であった。
 
 だが現在、彼は大型のスランプに嵌っていた。これがどういう類のスランプか。
 まず彼にとって一番の恐怖とは、自分の記事が鳴かず飛ばず、駄記事としてネットに捨て置かれることである。そうすればいずれ、人件費削減として解雇されてしまう。これを天職と信ずる彼は、その可能性を極度に恐れた。
 そこで彼は、一般受けのいい定型に沿って記事を書こうと志した。一部、突飛な芸風で人気を博すウェブライターは居る。しかし悲しきかな、彼らの奇異さに憧れるあまり、何者にもなれない半端者たちもまた、星の数ほど存在する。彼はそれに倣わず、一定の食い扶持を確保しよう、と考えたのであった。
 それからしばらく、彼はネット・書籍問わず、娯楽に関しての種々のハウツーを、皿のような目で読み込んでいった。これは実直な結果に繋がった。羽衣もといウェブライター『ハゴ作』は、本を読みこむたびに人気を微増させ、やがて彼は中堅ライターと言う最も望むべき立ち位置に君臨した。努力の末に手柄を掴む。その様は立派であった。
 しかし時が経つにつれ、段々と自分のプロ意識、およびネタの底が見えてきた事を、彼は薄々と気づいていた。好きでもない行動を自身に強いる、というのは疲れるもので、それをストレスと認知してしまったが最後、徐々に身が入らなくなってくる。読むはずの本は部屋の一画に積み上がり、それでも金を貰ってるから、と半ば流すように読む。まずまず人気があるもんだから、『わが社の宣伝記事を云々』と頼まれるのでそれを書く。別に興味のない会社の製品だろうが、何とかこれを賑やかさなければならない。彼の目はどんどん虚ろになった。
 彼の中のアイデンティティは既に摩耗していた。それでもそれを続けるうち、やがて彼は、己の内にハゴ作という見知らぬ男が住んでいるような、幻惑的な気分に墜ちた。彼は自分が何をしていて何をするべきか、てんで分からなくなったのである。
 
 
 とこんな訳があったらしく、羽衣は芸能神社のホームページを半ば胡乱げに、半ば縋るような目つきで見ていた。
「ううん……。しかし京都は遠いな」
「新幹線使えばすぐだろ。東京駅から二時間くらい?」
「今ってそんな早いのか」
 言うが早いか、タフガイは東京駅~京都駅間の交通ルートを調べ、素早く画面に表示した。
「安い日だと片道一万か。行けるけど……、京都って神社以外に何があんだよ」
「いやそれが一番の売りだろ。あとは山とか川とか和菓子とか」
「ふーん」
「まあ東京には無い物ばっかでしょ。気分転換にはなるべ」
「気分の問題なのかなあ」
「いやまあ精神科の問題だろうけど」
「行きたくねえからお前に相談したの」「そりゃ聞いた」「そうだった。まあ、気になったから行ってみるわ。あんがとな」「うい」
 などのやり取りをし、羽衣は二人分の代金を置いて、燦々と光る夜の街へ繰り出した。
 
  〇
 
 数日が経っていた。しかし台風の影響は強く、倒木の撤去を後に回された芸能神社は立ち入り禁止となっていた。天宇受売は、四角く囲った境内の中をパタパタ、歩くなり時たま駆けていた。やはり妙案は思い浮かばず、いよいよ以て神無月まで二週を切った。これはえらい事態である。芸、お笑いというものは、思いついたらば完成、などという物ではない。そのアイデアを幾度も工夫、検討し、それを体に馴染ませるには時間が肝要なのだ。そこへきて、二週間未満という時間は些か短く、そもそも原本のアイデアがないのだからこれは大変なことだ。
 敢えて練習不足の芸を見せ、その滑稽さで笑いを取ってやろうか。とも彼女は考えたのだが、それ一本で乗り切れるほど短い宴ではない。というか、一月分も滑り倒すのは彼女の沽券に関わってくるところであった。こうなるともう、これまでの人気コーナーを引っ張り出すしかない、と思って宴会のバックナンバーを調べているところ、唐突に、コオン……。と、鹿威(ししおど)しにも似た音が軽やかに響いてきた。続いて、たのもおう、などと道場破りのような挨拶も聞こえてくる。ここを芸能道場と勘違いしたのではなかろうか。まさか神主である訳はないので、天宇受売は訝しがって、そろそろと境内の前、賽銭箱と鈴がぶら下がる辺りを、障子戸を少し開けて見た。
 男が居る。どうやら賽銭を投げた様子で、ひし、とこちらを睨んで顎に手を当てている。何かを考える様子である。そうするとやがて意を決したように目を瞑って手を合わせると、その思念を本殿へ響かせてきた。
 曰く、
「ああああああああ」「もう嫌だこんな生活」「昔みたいにお笑いを見たい」「面白いってなんなの」「最近の編集長厳し」「ハゴ作って誰だ」「ハゴ作退散!」「僕を面白くしてくださあい」「新幹線 座席固くて 腰痛い」
 などと橋桁の下の落書きほどに意味の分からん祈祷を続け、絶えず雑多な意思をなだれ込ませてくる。忙しい時期にこんな事をされたので、天宇受売は非常に苛立った。苛立ったので、脳裏に沸々と言葉が湧いた。
 曰く、
「ああああああああ」「うっせえなこいつ」「立ち入り禁止っつってんだろ」「そこを勝手に入ってきて何なの。これ何? こういう世間知らずに限って、『神社行ったけどご利益なかった(笑)』とか言いやがんだよな」「ある訳ねえだろ馬鹿野郎。ルールを守れ」
 現況のストレスも相俟って、彼女の不満は爆発寸前であった。そんな事情を知る由もない男は今や、「お金ももっと欲しいなあ」「あ、宝くじが当たりますように」とか、もはや芸能も娯楽も関係のないものまで捧げ始めていて、天宇受売、怒りのあまり一瞬だけ我を失った。
 気付いた時には遅く、じゃかあしいわ小僧、との自分の声音が、境内周囲で残響していた。風鳴りが止み、竹林の鳥が一斉に飛んだ。焦って男に意識を向けると、何故か両腕を左右一二〇度ほど持ち上げて、前方の虚空を真顔で見つめている。気でも触れてしまったかと思いきや、男は尋常な瞳を左右に動かし、何かを警戒するような様子である。どうやら何らかの打算を以て、そのYの字姿勢を維持しているようだ。
 はて、と彼女は思った。普通、立ち入り禁止の場所に入って祈願などをしていた場合、彼方から怒声が聞こえてくれば、逃げ帰るのが相場ではないか。しかし、待てど暮らせどこの男、謎のポーズで直立しつつ、風に応じて微震するばかりである。ふと、男の思考が耳に入ってきた。
 曰く、
「撒けたかなあ」
 と言っている。意味が分からず、彼女は混乱した。撒いたか、というのは何かから逃げ、追手の姿が見えなくなってから言う台詞ではなかろうか。しかし彼は逃げも隠れもせず、唐突に茫と突っ立って、神木のごとく根ざしたままに、撒いたか、と言っているのだ。と、ここまで考えて、彼女は驚くべき真実に気付いた。
 男、羽衣本司は、樹木への擬態を試みているのである。
 天宇受売は呆れるというより驚いた。見れば見るほど男の瞳は純粋そのもので、どうやら本気でそれを為そうとしている様子である。よもやここまで阿呆な人間が居たとは。きっとこれまでの人生で鬼ごっこすらやったことがないか、或いは樹木に擬態して鬼を撒いた経験があるかだが、おそらくは前者であろう。この男。あらゆる競争、あらゆる摩擦、その他軋轢の一切を回避してきた、広大無辺なローション溜りのような人生であったに違いない。嘆かわしいのか平和でよろしいのか見当がつかない。
 しかし何というか、真面目な顔で阿呆を晒すというのはなるほど、古風だが面白い。それに擬態と言う観点についても斬新である、と彼女は思った。どうにかしてこの間抜けのエッセンスを、神無月の出し物に応用できないだろうか。彼女の頭は高速で回転した。
 これは後に『神無月擬態大賞グランプリ』、『島根横断隠れ鬼対決』、という名企画へと繋がるのだが、今の世には関係のないことである。
 
  〇
 
 いつぞやの喫茶店。マッチョな男と細い男が、箱入りの生八ツ橋を山分けている。
「んでそっからは怖くなって逃げちゃったんだけどさ。あの変なオバハンの怒鳴り声で、何か迷いが吹っ切れたんだよね。俺の悩みなんざ小っちゃかったわ、って」 
「そりゃ良かった。不思議なこともあるもんだな」
「だろ。あの後の企画も通るようになってさ、結構頑張れそうだわ。ありがとな」
「うぃ」
「八つ橋うめえな」「三個目くらいで飽きて来るけどな」

 神と人。普段触れ合うべくもない彼らの、ほんの一点の交流が、両者の悩みを解決に導いた。そのようなことはつゆ知らず、彼らは平和に暮らしましたとさ。