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 京都駅から南方面の位置にある小さな神社『橋姫神社』には、三つのお面を腰に着ける奇妙な女性がいた。一つ目は髪を右側に流して微笑んでいる女性で、どこか神秘的な雰囲気を出すお面、二つ目はまた違った女性が頬を赤くして泣いているお面、そして三つ目は顔全体が赤く、額から鋭い角が生えており、金色の瞳で睨む鬼のお面だ。その女性は白い生地に黒色の花が咲く、珍しい着物を着て橋姫神社から近くにある橋『宇治橋』で空を眺めていた。
 宇治橋を通る人々は、そんな奇妙な女性には目もくれずスタスタと歩いて行く。それはそうだ。この女性は人間には見えるはずがない存在なのだから。
「……綺麗、ね」
 ほぅ、と小さくため息を吐く女性に一人の男が歩み寄る。シワだらけで少し着崩れたスーツで少し不健康そうな三十代の男だ。その男が歩いて来た方向には一台の特徴的な、だけど見慣れている車が停車している。どうやらその男はタクシーの運転手のようだ。男は見えないはずの女性の瞳を合わせ、小さく頭を下げて女性の隣に立つ。一息吐くと胸元から煙草とライターを取り出して火をつける。ジュ、と煙草の先端に火がついたのを確認して煙草の箱とライターをしまい、スゥ、と一息吸って煙と共に吐く。
「まさか貴女が人のいる時間帯にここに居るとは思ってもいませんでしたよ」
 空に消えていく煙を見つめながら男は小さく呟く。女性はちらりと男の顔を見て、すぐに空に視線を戻す。
「たまには、明るい空を見たいものよ」
 女性の表情はどこか寂しさを含んだ笑みを浮かべる。
 ここ、京都では紅葉シーズンが来る直前の時期で、辺りの緑は少しずつ黄色、赤と染まり始めていた。宇治橋の下にある川も、反射して映る空に赤色が落ちて流れていく。
「……もうすぐ秋ですね」
「ええ、今年もまた京の都が赤く染まるわ」
 女性の赤い瞳が嬉しそうに細める。男は少し呆れながらもまた煙草を吸う。日が落ち始めて色が変わっていく空を見て、ふぅ、と煙と共に息を吐く。
「やはり赤は好き、ですか?」
 そう問いかけると女性は一度目を伏せて、また視線を空に向ける。
「好き、そうね……きっと好きだと思うわ。でも卯の花に染まるのも、桜の色に染まるのも、御空の色も、全て見ていたいわ」
「ずっと見てきていても、ですか?」
「ええ」
 ふわりと風が吹く。女性の長い黒髪が靡き、着物の袖がひらりと舞う。男は短くなった煙草を自身の携帯灰皿に潰して置く。
「……最近外の者が騒ぎ始めているそうです。清水寺では、大量の者が押し寄せて来たとの情報がございますので、橋姫様もご注意下さい」
 それを聞いた女性――橋姫は「そういえば」と何か思い出したような声を出すと、腰にあるお面の内の一つ、鬼のお面を外して川底を見る。
「ここ最近こちらに来る者が多いと思っていたわ。そうね、確か……こんな時間帯が一番多いわ」
 男は周りを見渡すと、橋姫以外誰もいない。この付近に住む住民も、毎日やってくる観光客も、誰一人人間はいなかった。
 男は橋から川を覗くと、水が黒く染まりぶくぶくと沸騰したかのように水が動き、そこから感じる嫌な気配に顔を歪める。黒く染った水から人間の手の形をした黒い影が出て来て低い呻き声をあげた。
「今日もまた多いわ……」
「川の境でこんなに……あちらで何か起こっているのでしょうか」
「さぁ? でもそれはあちら側から後で教えてくれるわ」
 橋姫が川底をじっと見つめていると、だんだん黒い影が這い上がってきた。人間の形をしているが、明らかに人間ではない。全身が黒い影で出来ており、目や口の部分には白くなっている。
 橋姫はどこからともなく二尺三寸の長巻を取り出し、微笑んでいる女性のお面を被り橋の欄干に立つ。白い着物が夕焼けによって赤く見え、長い黒髪がきらきらと反射している。その姿はまるで、この橋を守る神のようだ。
「さて、我の役目を果たしましょう」
 そう呟くと、橋姫はその場で橋を降りた。そして這い上がってきた影を遠慮なく切り込む。切られた影は高い奇声をあげながらも這い上がろうとするがそこから更に切り刻む。
 男は現代の煙草とは違ったパイプ式の煙草を取り出した。ライターで火をつけて吸っていると、そこから出た白い煙がまるで自我を持つように風に逆らってふよふよと動き出す。そしてその煙は橋姫が取り逃した黒い影を捕まえ、身動きが取れないようにする。
「あー、これは裁判受ける前の者達ですね。最近死者が多いですからあちらも溢れるようにいるんでしょう」
「鬼の目を盗んでまで生にしがみつきたいのかしら」
「さぁ、人間の考えなんてわかりませんよ」
 男はパイプを空中で叩くような仕草をすると、カン、と金属音が響いた。すると黒い影――死者を捕まえていた白い煙がまるで縄で縛っているように細くなり、死者が出てきた黒く染った水に連れていく。死者は喚き声を上げながら必死に暴れるが、煙で出来た縄はピクリともしない。煙に捕まった死者は為す術もなく水の中に引き摺り込む。
「そろそろ戌の刻だわ。さっさと終わらせましょ」
 空を見て時間帯を確認すると、橋姫は持っていた長巻をくるくると回してトン、と黒く染った水に突き刺す。すると刺した場所を中心に白い鎖が現れた。白い鎖はそのまま切り刻まれていた死者を巻き付き、ずるずると水に引き摺り込む。最後の死者が引き摺り込まれるのを確認して、白い鎖は黒く染った水の部分に隙間なく巻き付き、一瞬眩い光を放つと黒く染った水ごと鎖は消えた。
 川の水が元に戻り、気づいた頃には人々が橋を渡っていた。男はパイプをしまい、橋姫の傍に近づく。橋姫は川から橋へ飛び移ると、持っていた長巻がその場で淡い光に変わって消えた。
「助かったわ、運び屋」
 着物についた埃を払うような仕草をしながら男――運び屋に声をかける。
「お役に立てて光栄です」
 運び屋は橋の欄干に指で何かを書く。すると、一瞬空気がピシッと何かを貼ったような動きがあった。
「これで少しはマシになったかと思います」
「……本当に貴方は、不思議な存在ね」
 橋姫は小さく微笑むと、くるりと背を向ける。
「それでは、我は帰ります」
「はい、今日もありがとうございました。宇治橋の守り神よ」
 ちりん、とどこからともなく小さい鈴の音が聞こえると、橋姫は宇治橋から姿を消した。運び屋と呼ばれていた男は駐車しているタクシーの車に乗ると、車内でこの時代には珍しい巻物を開く。そこには『二十時、天ヶ瀬ダムにて一人の女性のお客様。飛び降りの水死体なのでタオル数枚用意』と書かれていた。男は後ろの座席を見ると、座席に濡れないようにするためにバスタオルが数枚、タオルが十枚以上置かれていた。再び巻物に視線を戻すと、胸元にあったボールペンで小さい四角にチェックを入れる。
「さて、行きますか」
 車のエンジンをかけて、男はそのまま次の目的地――天ヶ瀬ダムに向かった。