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 記憶はやがて摩耗していく。
 時が経つごとに記憶にある彼女の笑顔が過去のものになっていく。
 今ではもう彼女がどんな顔をして、どんな風に笑っていたか、思い出すことができない。

 

               ***

 

 短大を卒業し、目当ての企業に就職できたのは幸運だったけれど、待っていたものはただひたすらに地味な事務作業。ふと我に返ると本当にこれでよかったのかと思考が鎌首をもたげてくる時がある。僕の心の中には決まって何か寂寥としたものが、蟠りとして心に残る。
 かつての級友は今の僕を見て何を思うのだろう。

 

  カナ @×××××××  3日前
  今週の土曜! 我らが母校! 鎌倉高校体育館でライブやっちゃいます! もちろん無料! かかるのは交通費だけ(笑)。OBと後輩ちゃん、みんな集まれええええいい!
  拡散もとむっ!
  リツイート9 お気に入り1

 

  ユリ @×××××××   3日前
  カナっち! おひさ! てかライブってマ? いくいくー! 

 

 ツイッターの画面を閉じる。仕事以外にやることがないんだ。大学生の彼、彼女らと久しぶりに会うのも悪くない。少しだけ行くのを躊躇ってしまったのは、ライブの主催者が、複雑な事情を抱えているからだ。

 

 思うようにならないと、やはりイラつく。
 残業二時間。今日に限って。
 手荷物をまとめ、会社を出る頃にはナイトシティ。
 上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。身軽で、気が楽になる。
 新宿駅で人の波に逆らってたどり着く、小田急藤沢行き。駆け込み乗車。

 

  カナ @×××××××  3時間前
  まもなくスタートだぞおおお! みんなちゃんと来てる?(笑)。盛り上がっていくぞおおおおおお!

 

  ケン @×××××××  2時間前
  もち! 来てるぜええええ! めっちゃ本格的じゃん! すげぇなおい! 

 

  マサ @×××××××  2時間前
  やっぱいいなあ! こういうの! どんどん盛り上がっていこうぜ! うええええええええいいいいい!

 

  ユリ @×××××××  1時間前
  みんなおひさ(笑)。この感じ、ぜったい共有したい! まだ来てない人いるよね? 急かせ急かせええええ(笑)。

 

  カナ @×××××××  8分前
  まだまだライブは長いよ! みんな来てくれるといいなぁ。

 

 藤沢駅で乗り換えようとしたら、人身事故で足止めをくらう。なんて日だ! 仕方がないので、母校まで機械的に足を動かす。
 妙に緊張している自分に愕然とした。身体は正直だ。
 もう一度、会うべきなんだと思う。彼女に。1秒でも早く。
 驟雨の中、僕は駆け出す。

 

「……はぁ。……はぁ。……はぁ」
 全身がベタついて不快極まりない。校門は人がまばらだった。敷地内に入ると、音が振動となって僕の身体に纏わりついた。だいぶ遅くなったけれど、間に合った。
 体育館の入口に立つ。曲が止み、拍手が起こる。在校生がほとんどの中、級友の姿も見受けられた。皆、ステージ場に釘付けだ。僕も目を凝らす。
「みんなああああ。ここまでつきあってくれてありがとおおお! さあ! 次がラストだよ!」
 歓声が止まない。当たり前だ。筆舌に尽くし難い、いい雰囲気なんだ。
「んんんんんんん。どうしよっかなー」
 ステージ場の彼女と、僕は目が合ったのかもしれない。
「おっ、おっ、おおおおおお! よし、決めた! 即興で! みんな聴いてくれええええ!」
 驚いた。彼女の独唱に。自然と手拍子が起こる。僕も、混ざる。

 

     腕をさすって 片目を開けて 映える君の残像

     海に沈む   記憶の結晶  夏空を見上げる

     初心な君が  抜け落ちたまま  その頬に触れた

     垢ぬけた   新しい君が  恋しくて

     秘密だよ   同じ夢を見たこと  

          思い出してさ  恥ずかしくなるなんて

     秘密だよ   同じ夢を見たこと

          笑いながら   体温を感じる

     Ah――   Ah――

     何億回  考えても  お似合いの言葉が見つからないよ

     何億回  行動しても たどり着けないんだ

     だからせめて  また次会う日まで

     愛してる

 

 なぜだろう。僕は泣いていた。
 自然に涙が流れることなんてない。何か理由があるはずなんだ。
 考えながら、僕は立ち去った。

 

 僕は呆然と立ち尽くしていた。七里ヶ浜で。
「見つけた」
 彼女の声だ。見遣った先、長い黒髪が揺れている。少し見ない間に大人びたおもて。僕はドキッとした。
「……うん」
 彼女が砂浜を歩き出した。なんとなく、僕も追随する。
「来てくれてうれしい」
「……遅くなった。なんか、ごめん」
「いいんだ。君、泣いてたでしょ。まん……ぞくっ」
「……え、なんで泣くの?」
「うんっ? なんでもない」
「……」
「……」
「ファ―ストキス、覚えてる? やっぱ誰もいない海は最高だね」
「……そうだね」
「もう一度、訊きますっ。わたしを恋人にする気は?」
 僕は目を逸らし、やがて彼女の瞳を見る。二度繰り返した。
「……ないよ」
「それはもうすぐわたしが、この世界から消えるから?」
「……高校の時から、君がそんな言い方をするから、怖いんだ」
「…………」
「……何かあるんだね。お互い直接的な表現は避けてるけど、僕は君を失いたくない」
「          」

 

               ***

 

 ただ意地として忘れないことがひとつだけ。
 彼女はもうこの世界にはいないけれど、僕は不思議な話として完結させない。
 悠久に誓う。僕は彼女を想い続ける。