読書設定

文字サイズ

背景色

フォント

方向

 手術室の傍で椅子に座り、何度目だ。これは、何度目の一回目だ。一回目が、一体、何度繰り返せば俺は望んだ答えに辿り着けるのだ。

「――――」

「――――、――」

「――、――――。――――」

 何も聞こえない。知らん。分かっている、聞かずとも分かる。だから聞きたくない。

 やかましく響く院内放送に呼び寄せられ、白衣を纏った有象無象が集まってくる。向かう先は知っている、だから驚かない。驚けない。そして奴らは俺に絶望を叩きつける。それも知っている。もう既に、何度も見てきた。

 彼女の病名は、聞いたところで理解できなかった。ただ、治療が凄まじく困難なもので、手術を行っても助かる確率は著しく低いということだけは、皮肉にもすぐに理解できた。

 脳に腫瘍がある。ならばなんだ、取り除け。肉が骨に変わる。だからなんだ、食い止めろ。内臓が死んでいる。それでなんだ、蘇らせろ。

 俺はただ何もできず、沈黙したまま椅子に沈んでいるだけ。ここに腰を下ろしてから、どれだけ時間が経ったのか最早、数えることすらままならなかった。

 手術室から医者らしき男が出てくる。ここは病院だ、そりゃあ医者だろう。だが顔色

が悪い、俺ほどじゃないだろうがな。

「――――」

 聞きたくない。結果は知っている、聞くまでもない。だからそれを改めて俺に伝えるな。

「――失敗した」

 最後に一言を呟いて、俺は懐からナイフを取り出した。目の前の男が戸惑った様子を見せながら後ずさる。何を怖がっている、今まで俺がお前を殺したことなど一度もないだろう。

「やり直しだ」

 躊躇なく自分の喉笛を引き裂き、俺はそのまま、赤黒い沼に沈んで忌々しい朝へと戻っていった。

 これで、五百二十九回目。

 

 何度繰り返しても病室へ通うことに慣れないのは、弱った彼女を見るのが怖いからだろうか。まるで機械の一部かのようにいくつもの管に繋がれた姿は痛々しく、それらの管が辛うじて彼女を生かしていることを考えれば、いかに不安定な命だろう。

「……ただいま、智香」

 目を覚まさない想い人に声をかけ、ベッドの傍らに椅子を引き腰を下ろす。病院の連中は彼女がいつ死ぬか分からないなどと脅してくるが、俺はもう知っている。彼女が死ぬのは今日から数えて二日後、時間はおおむね手術直前から手術中の約四時間以内。回避する方法は未だに見つかっていない。

 彼女の頭側に置かれたモニターには心電図が表示されていて、数値としては正常な状態を示している。これもいつも通り、何も変わりない。変化がない。また同じことの繰り返し。

「恨むぞ、私は……君がずっと黙っていたことを」

 違う。恨むべきは彼女じゃない、俺の方だ。なぜ気づかなかった? 同居人の不調をどうして察してやれなかった? 髪型の変化だとか化粧の仕方だとか、そんな分かりづらいものじゃない。立って歩くことすら辛かっただろう彼女のやせ我慢を、なぜ俺は見抜けなかった。

 点滴の流れる音すらも聞こえてきそうな静寂の中、俺までも死体になった気分だった。なにをする気力も湧かない。そもそも生きる理由がなくなるのだ、そんな男を生きているとは言わない。疲れていないと言えば嘘になる、もう十分に俺は頑張ったはずだ。それが徒労であったという喪失感を無視さえすれば。

「……ない」

 ありえない。

「認めない」

 信じない。

「君は生きるべきだ」

 俺を殺すその日まで。

「幸せになるべきだ」

 君が過去を忘れるまで。

 彼女に生きていてほしいと願うことは利己的か? 俺の生きる理由が欲しいから、彼女を生かそうと躍起になっているのか? だったらどうした。それが、足を止める理由になるのか? いいや、ならないね。俺はそうやって今まで生きてきた。

「たとえ、それが俺のわがままだとしても……私は、君を」

 必ず、幸せにしてみせると誓った。まだその約束は果たせていない。

 ならば永遠に繰り返そう。何度でも、俺の心が折れたとしても。受け入れがたい結末はなかったことにすればいい。望ましい結末がただ一つ存在すればいい。

 我が愛しのサンドリヨン、薄汚れた灰被りのままで終わらせてたまるものか。

 俺の望みが叶うまで、君を決して手放すものか。

 

 手術室の傍で椅子に座り、手術の結果を待つ。彼女の手術、彼女にとっては一度目の、俺にとっては何度目かも分からない、予定調和の行き止まり。

 今までに起きた「事故」の原因は取り除いた。麻酔医、執刀医、助手――手術に関わる医者が誰もが一度ずつはミスを犯した。責めるつもりはない、それが起こりうるだけの回数は繰り返してきた。だがそれでも、彼女はまだ死に続けている。

 病院を何度か変えたことがある。やはり一番良いのは市内で最も評判の良いこの病院だったが、助けられないのではそんな違いは微々たるものだ。最新の機材が揃っていて、腕の良い医者が居て、だからなんだ。結果が全てだ。

 院内放送が鳴り響き、専門医の呼び出しが起こる。今度はなんだ、もう嫌でも顔を覚え始めたぞ。室井が心臓、新崎が神経、出合が脳だったか。いや、どうでもいい。覚えたところで、何の役にも立たない。

 慌ただしく、何人もの医者が手術室に出入りする。不安げな目を俺の方へ向けるな、哀れんでいるつもりか。ふざけるな、さっさと彼女を治せ。俺が望んでいるのは彼女が無事に治療を終える未来だけだ。

 またいつもの医者が、青い顔をして出てくる。もうそんな時間か。段々、心が既知に侵されている気がして怖かった。彼女が死んだと知らされることに、なんの痛みを感じなくなることがなによりも怖い。

「非常に申し上げにくいことですが」

 言わなくて良い、知っている。俺は医者の話を最後まで聞かずに、懐から取り出したナイフをそいつの左胸へ深々と突き刺した。返り血が生温かい。悲鳴が聞こえる、看護師が見ていたか。どうでもいい、どうせ何の意味もない。

「なぜだ、理不尽にもほどがあるぞ。神とやらが一枚噛んでいるのなら、クソが、この世で最も優れた信仰は無神論だ」

 他人の血で汚れたナイフを自分の喉に突き刺し、えぐった。これでまた戻る。一度目もそうだった。また忌々しい朝を見る。

 彼女が初めて死んだ時、俺は翌朝の始発電車に飛び込んだ。そういえば、明日を見たのはほんの三回程度か。ならば次に明日を迎えるのは、彼女を助けた後で良い。

 これで、七万二千五百七回目。気が狂いそうだ。だがまた戻る。

 

 ベッドから飛び起きる。隣で寝息を立てているはずの彼女に目を向ける。

 ああ、まただ。

 どうして、これより前には戻れないんだ。

 

 智香が死んで、俺も死ぬ。そうして忌々しい朝へと帰る。繰り返し、繰り返す。

 次で何度目だ、分からない。だがもう、医者を信用して任せるのは限界だ。腹いせに医者を殺した回数はもう数えていない、数えたくない。

 心が凍っていく。死に鈍感な心になっていく。

 時間なら無限に等しく用意されていた。俺が彼女の死に耐える限り、俺には時間が残されていた。時間が戻るのは、彼女が死んで、俺が死んだとき。俺が死ぬまで、それは起きない。あの忌々しい朝へ俺が帰るのは、二人が共に死に屈したそのときだ。

 ならば探し続けよう、彼女が生き延びる方法を。彼女が死んだ後に、寿命の限りを使って探し続けよう。見つからなければまた戻ればいい、そうしてまた探し続けよう。

 俺が死ぬまでに発展した医療技術を過去に持ち込むか、それともオカルトにでも頼ってみるか。どうせ世界はあの朝へ帰る、今や世界は俺の実験室だ。

 認めない、こんな結末は。彼女が死ぬなど許さない。やり直そう、何度でも。その瞬間が来るまで永遠に繰り返そう。

 十八度目の二千六十七年十二月十二日、まだ彼女は救えていない。だが、そろそろ視力が弱ってきた。このままでは研究に支障が出るし、下手に延命するのも時間の無駄だ。

 さて、あの忌々しい朝へ帰ろうか。