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 気がつくと、私は見慣れない山奥の駅に居た。

「ここは……?」

 空は青いのに太陽がどこにも見当たらない。涼しい風が吹いてスカートの裾が揺れたが、しかし風の音が聞こえない。私の耳がおかしいのかと試しに手を叩いてみる。ぱちん、と素っ気ない音が私の耳に届いた。

 駅のホームに立っている私は、目の前に線路が二本通っている事に気付いた。向かい側にホームはない。奇妙だった。この駅からは、どちらか一方に進む電車にしか乗れないらしい。そんな事を考えながら、私は今まで振り返っていなかった背後へと目を向けた。

「……やっぱ、駅だ」

 写真でしか見たことがないような、いかにも田舎くさい無人駅。掲示板らしきボードに貼り付けられた広告は、漢字とひらがなに似ている知らない文字が書かれていた。

 ここはどこだろう、私はどうしてここに居るのだろう。そんな疑問を頭に浮かべた矢先、ふと自分の体が軽いことに気がついた。そういえば、空気がいつもより美味しい気がする。頭の内側を殴りつけるような鈍痛もない。胃液を沸騰させたような不快感もないし、視界が黄色く濁ったりもしていない。

「ああ、そっか」

 私は、自分が死んだということを理解した。

 

 日陰のベンチに腰を下ろし、私は来る筈もない電車を待つ。時刻表も読める字では書かれていなかった。きっとここはもう、私の知ってる世界ではないのだろう。それにしてはどことなく日本的で、来たこともないのに懐かしかった。

 人は死んだらどこに行くのか。病に冒されていることを知ったその日から、私は常々考えていた。でもまさか、こんな駅に来ることになるだなんて。私は生前の予想が軒並み外れたことに苦笑しながら、線路の向こう側に見える風景へ目を向けた。

 空は青く、見渡しても太陽はない。生い茂る木々はよく見れば規則的に揺れていて、どうやら風に吹かれているわけではないらしい。遠くに鳥が飛んでいるのが見えた。鳥、なのだろうか。体はとても大きく、夕焼けのように赤く光っていた。

 私はふと、自分の死を悲しんでくれるであろう唯一の人物について考えた。親も友人も軒並み縁を切ってしまった私だが、あの人だけは私の死を悲しんでくれる気がした。故にこそ、私は病のことをあの人には知らせたくなかったのだが、卑怯にもあの人の悲しみを見ないために死を利用した私としては、あの人の悲しみを想像できることがもどかしく、辛い。

「待っていても電車は来ないよ」

 気がつくと、私の隣には誰かが座っていた。目を向けると、端正で中性的な顔立ちの女性が私の方へ顔を向けてニヤニヤと笑っている。男物の黒いスーツをジャケットまでしっかり着ていて、白一色のノースリーブワンピースを着ている私としては、こんな日差しの中で暑くないのかと思ってしまうが、しかしよく見れば太陽は空に昇っていなかった。

「電車、来ないんですか」

「来ないよ、君が待っている限り」

 そう言って彼女は、おもむろに袖の内側から棒付きのキャンディを取り出す。剥ぎ取られた包み紙の下から灰色の美味しくなさそうな飴玉が姿を見せ、一体それは何味のキャンディなのだろうと気になった私は、彼女がその場にポイ捨てた包み紙に視線を向けた。

「気付いてる? 自分が死んだってこと」

「ええ、まあ、なんとなく」

「それにしては落ち着いてる。普通は戸惑うものだけど」

「私にもどうしてか分かりません。驚かないんです、何故だか」

 風に攫われそうな包み紙を拾いながら、私は彼女の言葉に答えを返す。飴の味はどうやら「イワシ味」らしい。奇抜な味にも驚いたが、それよりも日本語が書かれていることの方が私には不思議に思えた。

「普通と言えば、普通は電車が来るんだよ。この駅には」

「え?」

「君を乗せてはくれないけどね。だって君は帰ってしまうから。覚えていないだろうけどね、君がここに来るのは初めてじゃない」

 私には彼女が言っている意味が分からなかった。いや、意味なんてないのかもしれない。ここに意味のあるものが何かあっただろうか。読めない時刻表に意味などない。この駅にもきっと、意味はない。

「そういえば、貴女の名前はなんと呼べば良いのでしょうか」

「私に名前は無いよ。人が呼びたいように私を呼ぶのさ。私はただの話相手だからね。一人は退屈だろう。好きに呼ぶと良い」

「そうですか」

 会話が途切れると、彼女は私の手から包み紙をすっと引き抜き、唾液まみれのキャンディを包み直した。一度開いた包み紙は二度と元のようには閉じず、まるで不格好なくらげの様に開いた包み紙からは、溶けかけたキャンディが顔を覗かせている。

「新鮮なイワシは畑からいくらでも収穫できるんだ。加工しちゃ台無しさ、君もそう思うだろう」

 私は彼女の言っている意味が全く分からず、答えに困って無視をした。彼女はさっぱり気にしていない様子で、また違う棒付きのキャンディを取り出している。

 沈黙が続き、数分が経った。いや、もしかすると数秒も経っていないのかもしれない。ここに来てから時計は一度も見ていないし、見たとしてもろくに信用できるかは分からない。ここに、意味などない筈だから。

「どうして私は電車に乗せてもらえないんですか」

 無意識の内に、私はそんなことを聞いていた。答えてもらえるかは怪しかったが、彼女はキャンディの溶けきった棒を口から引き抜き、先端を私の方へ向けて話し始めた。

「君にとっての昨日は、私にとっては途方もない昔の事だ。私にとっての昨日は、君にとっては途方もない未来の事だ。君はこの場所で半世紀を私との雑談に費やし、そして今日に帰ってくる。昨日の事だよ、覚えてないだろうけどね」

「あの、私にも分かるように教えてもらえませんか」

「君がここに来るのは、私が数え始めてから七万二千六百二回目。本当はもっと来てる筈さ、最初の頃は私が数えていなかったから」

 やはり私には、彼女の言葉が理解できなかった。

 遠くの空では、大きな鳥が地上に向かって急降下していた。きっと獲物でも見つけたのだろう。あんなに大きな鳥が一体なにを食べているのだろうと呟くと、彼女は決まっているだろう、とだけ答えた。結局なにを食べているのか、答えは教えてくれなかった。

「おっと、電車が通るよ。別に面白いものじゃないから、見なくて良いよ。どうせ何度も見る事になる」

 そう彼女が言うなり、ホームと離れた方の線路を猛スピードの電車が通り抜けた。窓ガラス越しに見えた車内には、人の形をしていない何かが乗っていたような気がする。

「死んで終わりの連中は楽なものだね。同情するよ、君はこの世で一番の不幸者だ」

 ニヤニヤと笑いながら、彼女は頬を猫のようにぺろりと舐める。それがどうしてか、私には妙に懐かしい感覚のように思えた。

 

 ――十八度目の二千六十七年十二月十二日、まだ彼女は救えていない。

 

 一向に停まる気配のない電車の中、座席に腰掛けながら窓の外を眺めてみる。真っ黒な空に煌々と光る太陽だけが白い穴の様に浮かんでおり、ほかには何も見えやしない。ずっとこうだ、この電車の中でふと目覚めたその瞬間から。

「不機嫌そうだね、そんなに帰りたいかい」

 向かいの座席に腰を掛け、軍服姿の男が下卑た笑みを浮かべる。薄汚れた濃い緑色の上着は、所々が擦り切れて内側のシャツが覗いていた。

「無駄な努力だ、結果は同じさ。諦めて死んだらどうだい、楽になれるぜ」

「黙れ」

「死ねば人は無に帰る。それが自然の摂理で世界の法則だ。お前はそれに逆らってる、逆らう力を持っている。だけど考えてもみなよ、君だって死ねば消えてなくなる。助からない女の心配をして狂う必要だって――」

 俺は立ち上がり、男の顔面を蹴りつけた。ここが死後の世界と言うのなら、老いた体も関係ない。力一杯に爪先を叩きつけた男の顔は、しかし血の一滴も流さずに平静を保っていた。

「分かったよ、もうこのやり取りも飽き飽きだ。でも俺だって乗客だぜ。知ってるだろ、電車は駅に着くまで降りられない」

「いつになったら次の駅へ辿り着く。もう数日は経っている筈だが」

「いいや、まだ全然。数日だって、馬鹿言うなよ。今は相も変わらず昨日のままだ」

 意味不明な事を口走りながら、男はやはり下卑た笑みを浮かべ続けている。俺はさっきまで座っていた席へもう一度腰を下ろし、依然として変化のない窓の外へと視線を向けた。

「お前がそうやって今日へ戻って行く度に、お前の恋人は何度でも昨日へ帰ってくるんだ。分かってるのか。お前が殺してるんだよ、死ぬ筈の彼女をな」

「全ては彼女に幸福を与える為だ。こんな結末は認めない、何度でもやり直してみせる」

「常軌を逸した救済の手段を得て、それで何が出来る。何も出来やしないさ、彼女は死ぬんだ、どちらにせよ、いずれはな。運命には逆らえない、人は世界の一部でしかないのだから」

「ならば世界を歪ませてやる。彼女を幸せに出来るのなら、彼女を不幸にする世界など滅ぶべきだ」

「……狂ってるよ、お前」

 軍服の男が吐き捨てた呟きを聞き流した次の瞬間、窓の外に浮かんでいた白い太陽は地平線の彼方へと消え去り、空は一瞬にして眩い青へと色を変えた。見慣れた世界の転換点。もう八万回は見た筈だ。そろそろこの電車は駅で停まる。

「次に会うのは何十年先か、出来ればお前には会いたくないが」

「明日の事さ。いつまでも待ってるぜ、お前が死ぬその日まで」

 山奥の小さな無人駅に電車が停まり、俺は男を一瞥してホームへ降りる。涼しい風が頬を撫で、背後では電車がすぐに走り出していた。

 そして。日陰のベンチに腰掛ける一人の女に歩み寄り、俺は優しく声を掛けるのだ。

「帰ろう、智香。きっと次こそは、君を助けてみせる」

 純白のワンピースを身にまとう、やせ細った愛しのサンドリヨン。そっと触れた肩は蝋の様に冷たく、俺の呼びかけに返事も無い。だが構わない。それでも良い。

 彼女の軽い体を抱きかかえ、俺は人の居ない改札口から駅を出る。そして、気がつくと。

 俺は、またあの忌々しい朝に戻っていた。

 

 ――同情するよ、君はこの世で一番の不幸者だ。

 

 眠くなってきた。そう言って彼女が眠りに就くと、彼女はこの世界から連れ去られていった。十中八九、いつもの男だろう。彼女を助ける為に正気を失った、一途で不憫で救いのない男だ。世界の法則を超越し、時間の流れを捻じ曲げて、たった一人の女が死ぬ運命を変える為だけに全てを犠牲にする狂人。全く、度し難い男だ。

 この駅には電車がやってくる。死者を乗せて発車するそれに、目的地なんてものはない。行き先は虚無だ。その先には何もなく、安らぎもないが苦痛もない。自我も記憶も感覚も失って、全ての苦しみから解放される事だけは約束できる。

 だのに何故、あの男は彼女を連れ戻してしまうのか。あの男がその無駄な努力をやめさえすれば、彼女は不幸な人生をすっかり忘れ、その生をきちんと終えられるというのに。

 メメント・モリ。人はいずれ死ぬものだ。そこに幸も不幸もありはしない。だがしかし、不幸の連続から無へと変わるのなら、彼女にとってそれは幸せではないのか。

 夜の青い空を見上げて、私はきっと帰ってきてしまうだろう彼女の事を待つ。昨日の記憶は綺麗に消えて、彼女は忘れたという事にさえ気づかない。可哀想な乙女よ、どうか安らかに死に給え。私は願う、彼女が電車に乗れる日を。

 死を想え、それが君にとっての不幸ならば。恐れることはない、今以上の不幸などあるものか。

「彼女が死に、お前が死に、そして世界は巻き戻る。狂人よ、彼女の幸福を真に願うならば。先に死すべきはお前だ、死に給えよ」

 私に名前はない。呼びたい名前で呼ぶと良い。私は死者の話相手。駅に佇む女であり、車内で嘲る男である。

 太陽の浮かんだ真っ黒な朝の空を見上げながら、私は彼女の訪れを待つ。

 そして――

 

 ――気がつくと、私は見慣れない山奥の駅に居た。