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 四限目の終了を告げるチャイムとともに、クラス中の生徒たちから「腹減ったー」「後は午後だけだー」などの声が聞こえてくる。
 座学が好きな人だろうと、実技が好きな人だろうと、この自由な憩(いこ)いの時間は待ち遠しいものだろう。
「優十、裏庭いこ~」
「ああ。……あれ、蛍坂は?」
「唯ちゃんなら先に行ったよ。あと、今日ははるちゃんも誘ってみたから」
「俺は別に構わないよ」
 席を立ち、二人で裏庭へと向かう。そしてそこには、俺たち以外のメンバーが全員揃っていた。
「あ、センパイに桜織センパーイ!」
 その中で、小柄な白髪アホ毛の少女が俺たちに気付き、元気に手を振ってくる。
「はるちゃ~ん」
 桜織はそんな後輩に、負けず劣らずの笑顔で手を振り返す。
「優十とも知り合いだったの?」
 蛍坂は俺と遥が既知の仲だったのが意外らしく、俺の方に尋ねてくる。
「ああ。って言っても、昨日知り合ったばっかだけどな」
 出会った経緯については説明するのが面倒だったので、特になにかを言ったりはしない。蛍坂の方も、別段聞く気もないようであった。
 自己紹介も済んでいるようで、先輩と遥は楽しそうにしゃべっている。
 遥の分の椅子もすでに用意してあり、みんなそれぞれの場所に座り、新しいメンバーを加えての昼食が始まった。
「それで、優十。私たちの分のお弁当は作って来てくれましたか?」
「え、昨日の話本気だったんですか?」
「いえ、もちろん冗談です」
 先輩にとってはたぶん、この手の冗談は軽い挨拶代わりなのだと思う。
「わぁ……桜織センパイから聞いてましたけど、センパイのお料理、すごく美味しそうです」
「ん、そうか? そういう遥は、購買のパンなんだな」
「はるがお料理を作ってしまうと、お料理が汚料理になってしまうのです」
「誰が上手いこと言えと……」
 しかし実際にしょんぼりしているところを見るに、きっと料理は壊滅的なのだろう。今度なにか作り方を教えてあげてもいいかもしれない。
 しかし今はなにも出来ないので――
「それじゃあ、卵焼き一つ食べてみるか?」
「いいんですか⁉」
「ああ、もちろんだ」
 けれど卵焼きを遥に渡そうとしたところで、遥は弁当ではないので箸もなければ卵焼きを置く場所もない。仕方ないので、卵焼きを食べやすいサイズに切って、箸で挟んで遥の方へ運ぶ。
「はい、あーん」
「あーん……はむっ」
 そして俺と遥のそんなところを見ていた女子三人……先輩は新しくいじるモノを見つけたといったように微笑し、桜織はむっとした表情を浮かべ、蛍坂からはなにやらジト目を向けられる。
「ふわああぁぁ……すごくふわふわで、それでいてとろっとしていて……美味し過ぎですセンパイの卵焼き!」
「口に合ったようなら良かった」
 遥の感想に内心嬉しく思っていると……。
「優十、私にはしてくれないんですか?」
 先輩がどこかニヤニヤした表情でそう言ってくる。
 どう見てもわざと言っている。明らかに、この場に一波乱もたらそうとしている。
 そしてそんな先輩のセリフを聞いていた桜織が――
「凪咲先輩はダメです! 優十、わたしが先! わたしにも卵焼きちょうだい!」
「いや、桜織は自分のがあるだろ⁉」
「はぁ……優十、桜織が言ってるのはそういう意味じゃないから。それと、紫遠寺先輩もわざわざ引っかき回さなくても……」
 そんな風に、いつもどおりの温かい昼食の時間は過ぎていった。

 

「えっと、ここはテストに出すから覚えておいてね」
 六限目である最後の授業、誰もが昼食後の睡魔と格闘しており、ある者は轟沈され、またある者は舟を漕いでいる。
 そんな中、最後の科目である日本史の担当教師は授業を続けていく。
「そういえば、みんなは知ってるかしら、この囲川町の現人神と龍神伝承」
 気分を変えようとしているのか、日本史の女性教諭はそんなことを訊いてくる。
 起きている生徒はその問いに「あー、知ってるー」や「いや、全然知らない」などと、それぞれ反応を示す。
 現人神と龍神伝承――それはこの町に古くからある伝説。
 遙か昔の時代、この町に一柱の龍神がやって来て、大雨を降らして作物を収穫出来なくさせ、川の洪水を呼び起こして村人から住処を奪っていった。それは何日にも渡って続き、村人たちが絶望する中、この町の土地神が現人神として姿を現し、龍神を撃滅したとされる物語のこと。
「昔からこの町に住んでる人なんかは、結構知ってるんじゃないかしら。ちなみにその現人神は天照時之蛍神と呼ばれてるわ。日本の歴史すべてを知っておけとは言わないけど、これくらいは覚えておいてね」
 女性教諭の言葉が終わるのを見計らったかのように、六限目の終了のチャイムが鳴る。
 帰りのホームルームも終わり、荷物を整理していると桜織が俺に話し掛けてくる。
「優十、今日はお祭りの準備があるから先に帰るね。あ、夜は優十の家に行くから」
「ああ、了解。頑張れよ」
「うん!」
 そう言って最後に手を振ってから、桜織は駆け足で教室を出て行った。
「さて、と……俺も帰るか」
 誰ともなしにつぶやき、俺は教室を後にする。
 下駄箱で靴を履き替え、周りの生徒たちと同じように校門へと向かう。
 日は傾き始め、空は徐々にオレンジ色へと染まり始めていた。
 やがて人の数が減り、家までの道を一人静かに進んでいく。
 一人で帰るのは久しぶりな気がするな、などと思いながら帰路を歩いていると、唐突なめまいに襲われ、平衡感覚が失われていく。
(くそ……油断、した……)
 頭の中で毒づきながらも、俺はなんとかして体勢を保とうとしたが、膝から力が抜けてそのまま地面に倒れてしまう。
 立ち上がろうとして腕に力を入れようとするが、まったく入らない。それどころか、どんどん意識が遠退いていく。
「え、優十? なんで倒れて――っていうか大丈夫⁉ ねえ、優十‼ ……もしかして、脱水症状? それとも……そんなことより優十を早く運ばなきゃ」
 その少女の声が、俺の耳に届いた最後の言葉だった。
 それから、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか……。
 少しばかり意識が戻ったとき、俺は自分が寝かされていることを目を開けなくてもなんとなく理解出来た。
 そして俺の額の辺りに、冷たく、けれど優しい人のぬくもりのようなものを感じた。
「これは……かなりひどい状態ね……」
 どこかで聞いたことのあるような、ないような少女のものらしき声が耳に入る。
「削った命の量が尋常じゃない上に、記憶を強引に封じてるせいで記憶がいくつか壊れてる……。どうして記憶を封じてなんて……いや、無理もないよね……何度も手を伸ばしたけれど、すべて失敗した……。むしろ、優十がまだ諦めていないのが、私はすごいと思うよ。もう何回繰り返したのかわからないのに、優十はまだ折れてない。私は頑張ってなんて無責任な言葉しか言えないけど、ちょっとだけ……私の応援の気持ちを受け取って」
 声の主がそう言うと、体がとても軽くなる。激しい頭痛が治まっていく。
「今の私に出来ることは、これくらいかな……。それじゃあ、ゆっくり休んでね」
 誰かが腰を上げて去って行こうとする気配がする。
 俺はせめて名前を聞きたくで、その人物を呼び止める。
「きみ、は……だれ……?」
「私? 私は……」
 少女らしき人物は少し考える気配を出してから、こう答えた。
「私は、天照時之蛍神。覚えておかなくていいよ」
 その言葉とチリン、という鈴の音を最後に聞き、俺の意識は再び深い場所へと沈んだ。

 

 次に目を覚ましたとき、俺が寝ている横には私服姿の桜織が座っていた。
「あ、起きた? 体調は大丈夫そう? お腹は空いてない?」
 俺は桜織に支えてもらいながら上半身を起こす。
「体調はもう大丈夫。腹は空いてるかな」
「なら、軽くなにか作るね。お粥でいい?」
「ああ」
「わかった。少し待っててね」
 それから数分して、桜織がお盆にお粥が入った容器を載せて運んでくる。
「はい、あーん」
「いや、一人でも食べられるから……」
「いいの。倒れてた人は大人しく看病される」
 不思議と今はもう全然平気なのだが、倒れた事実を言われてしまうと反論出来ない。
 俺はしぶしぶ桜織にお粥を食べさせてもらい、食欲を軽く満たした。
「それにしても、びっくりしたよ。優十が道端で倒れてるんだもん」
「ごめん、心配掛けたよな」
「本当だよ、もう。……でも、ちゃんと無事でいてくれたかたら、許してあげる」
「ん、ありがとう」
 しかし、俺が桜織に心配を掛けたのは事実であり、本当に今回のことは反省しなくてはいけない。
 回帰能力の負担が、いつの間にかここまで溜まっているとは思っていなかった。
「さて、と。俺はもう帰るな」
「大丈夫? 家に泊まっていってもいいんだよ?」
「本当に大丈夫だって」
 そして俺は玄関まで桜織に見送られ、自身の家へと向かった。
 家に着いてから自室へ行き、荷物を置いてから私服に着替えてベッドに寝っ転がる。
 今日はこのまま寝てしまい、朝にでもシャワーを浴びようと考えていたのだが、眠気はいつまで経ってもやって来ない。
 なぜなら、俺は一つのことを頭の片隅で考えていたからだ。
 それは、先程桜織の家で目覚める前の、靄がかった記憶。あのとき、確かに俺の近くには誰かがいたのだ。けれど、俺はその人の声、しゃべり方も思い出せない。
 たった一つだけ、耳に残っている鈴の音以外は。
 俺は体を起こし、一階に下りてから家を出る。それから夜の町を歩き、俺はなんとなくある場所へと足を向ける。
 そこは町でそこそこ知られている場所の一つ――火時ヶ淵。
 刻時坂神社の前を通り、奥へ進んでいけば自然と行ける場所だ。
 この囲川町は田舎の方ではあるが、民家などの建物は別段少ないというほど少なくはない。なので夜に出歩いたとしても明かりは十分にあるが、しかしこちらの方になると話は変わってくる。
 俺は月の光を頼りに、夜道を歩いて行く。そして、多くの木々に囲まれていた道が一気に広げ、俺の視界に無数の淡い緑色の光が飛び込んでくる。
 火時ヶ淵一面を照らすのは、夜空に浮かぶ星々のような蛍たち。ここ火時ヶ淵は蛍が多く繁殖する場所であり、毎年少なからず観光客が来たりもしている。
 そして淵に架かる赤い橋の欄干に、和服を着た一人の少女が腰掛けていた。
「あれ、優十。珍しいわね、こんな時間にここで会うなんて」
 薄紫と赤を基調とした和服を纏う、長い黒髪をツーサイドアップにしている少女――蛍坂は俺のことに気付き、こちらに軽く手を振ってくる。
「ああ、そうだな。というか、おまえはなに酒なんか飲んでんだよ未成年」
 蛍坂の右手には朱色の盃が握られている。どう見ても、酒を飲んでいるようにしか見えない。
 俺の言葉を聞いた蛍坂は、太腿辺りまで露わになった足をぷらぷらさせながら軽く首を傾げ、納得したように「ああ……」とつぶやく。
「これ、ただのサイダーだよ?」
 そう言って反対側に置いてあったのか、一本のペットボトルを俺にも見えるように置く。
 確かに、コンビニなどでも売っている普通のサイダーの容器だった。
「なんでわざわざ酒っぽく飲んでるんだよ……」
「細かいことは気にしなくていいの。今日は月もきれいだし、世界の美を味わってるの」
 蛍坂の言葉に釣られるようにして、俺は顔を夜空へと向ける。
 雲もなく、月は天できれいに輝き、そして蛍は地上の星々のように夜を照らす。
「ねえ、優十。昼間の授業のこと覚えてる? 現人神と龍神伝承」
「ああ、覚えてるよ。それがどうかしたか?」
「あの話には続きがあるの。伝承では現人神が龍神を斃したことになってるけど、正確にはほとんど相打ちだった。天照時之蛍神……は長いから、時神でいっか。その時神は龍神を滅することが出来なかった。だから代わりに、龍神の体を砕き魂を切り刻んである場所に封印した」
「それ、ひょっとして火時ヶ淵のことか?」
「そう、正解。滅することは出来なかったけど、強い封印を掛けることは出来た。だからそれで上出来だった。……たった一つの誤算がなければ」
「誤算……?」
 まるで見てきたかのように語る蛍坂の言葉を、俺はオウム返しで尋ねる。
「龍神の魂を封印した際、龍神の最後の抵抗でこの町に呪いが撒かれた。その呪いは町の人々を蝕んでいくもので、本来なら、この呪いも時神が祓うべきだったけど、時神にはそこまでの力が残ってなかった……」
 あまりにも実感のこもった言葉に、俺はただ黙って耳を傾けることしか出来なかった。
「呪いの数は全部で五つ。その呪いの効果は手にした者の後悔を具現する、というもの。そして何千年も前、一人の少女がその呪いの存在に気付き、呪いすべてを集めて自身の存在ごと消滅させようとした」
「……それで、どうなったんだ?」
「……呪いの消滅は失敗に終わった。なぜなら、呪いをすべて集められていなかったから。少女は呪いが全部で五つなんて知らなかったから、無理もないことだったんだけどね。そして呪いは再び町に散った」
 それで終わりなのか、蛍坂は口を閉じて天を見上げる。
「月はまだ、満ちていない……」
 蛍坂がそうつぶやきいた後、少し冷たい風が俺たちの肌を撫でる。
 風に揺られ、鈴の髪飾りがチリン、と音を響かせるのだった。

 

   § § §

 

 時間は流れ、七月七日の土曜日。いよいよ今日が夏祭りである。
 とはいえ、祭りが始まるのは夕方頃からであり、それまでは運営側の最後の準備や打ち合わせの時間となっている。
 そして俺はというと、桜織の手伝いのために刻時坂神社へと来ていた。
 毎年のことではあるので、準備などの手順はもう熟知している。それに手伝いといっても、桜織が神楽舞で使う道具を運んだり、屋台の準備に少し手を貸す程度である。
 そしてここにはもう一人、俺と似たような理由で神社へ来ている人物がいた。
「それじゃあ、今日はよろしくね、はるちゃん」
「はい! 桜織センパイのために、はるは頑張ります!」
 長い白髪の少女――胡十吹遥はアホ毛を揺らして元気に返事をする。
 遥は今回、桜織の神楽のときに横笛の手伝いとして声を掛けられていたそうだ。
「それじゃあ優十、はるちゃん、今日はよろしくね」
「ああ」
「はいです!」
 こうして、俺たちの夏祭りのための準備が始まった。
 まず俺たちは神楽舞で使う道具を取りに、神社の倉庫へと向かう。
 桜織が使うものは練習などで使っているため、もう出してはあるが、それ以外の道具はまだ出されていない。
 桜織と遥には神楽用の衣服を持ってもらい、俺はそれ以外の道具一式を持って神楽殿へと運ぶ。
 桜織に指示された場所に道具を置き、俺が道具を並べている間に二人はそれぞれの衣装へと着替える。
 十数分ほど経ってから、衣装に着替え終えた二人が戻ってくる。
 遥の方は普通の巫女服を着ている。一方桜織は巫女服の上に千早と呼ばれる薄い白絹のものを羽織っており、天冠という頭飾りもしている。
「軽く通してやってみるから、優十は端の方に座ってて。はるちゃん、準備はいい?」
「はい、だいじょうぶです」
 遥の返事を聞いた桜織は無言で一つ頷き、神楽を舞う最初の位置へと行く。右手には神楽鈴が握られている。
 しばらくしてから、桜織はゆっくりと動き始め、神楽を舞う。遥も桜織の動きに合わせて横笛の旋律を奏でる。
 桜織が腕を動かしたりするのと同時に、手に持つ神楽鈴が重なった音を響かせる。
 本来なら太鼓なども加えて舞ったりするのだが、今桜織がやっているのは刻時坂神社特有の舞だ。なんでも、鈴の音は町に厄を近づけさせずに祓うことを意味し、横笛の響きは天照時之蛍神に対する感謝と敬いを意味するらしい。
 桜織の姿に見とれていると、いつの間にか神楽は終盤となっており、鈴の一振りを最後に神楽は終わる。
「どうだった、優十?」
「問題ないと思うぞ。去年よりもきれいになってたしな」
「そっか。じゃあ大丈夫かな……他の準備もあるし、これくらいにしよう」
「わかった」
「わかりました」
 それから二人は着替えるために別の部屋へ戻り、二人が着替え終わった後、遥は先に他の屋台の手伝いに向かった。
 俺はもうこれといってやることもないので、夕方までのんびりさせてもらおうと思う。
「それじゃあ、また夕方にな」
「うん、また後でね」
 一時的な別れの挨拶をしてから、俺は神社の階段を下ろうして、桜織に呼び止められる。
「優十……!」
「おっと。なんだ、桜織?」
 俺が尋ねると、桜織は言うかどうかを迷う素振りを見せ、少しの間沈黙する。
「優十は……もし、わたしが助けてって言ったら、助けてくれる?」
 どこか不安と希望を織り交ぜた瞳を、桜織は俺の方へと向けながらそう口にする。
「桜織が助けてほしいなら、俺は桜織のことを助けるよ。当然じゃないか」
「………」
 俺の返答を聞いた桜織は、嬉しくもあり、それでいてどこか寂しそうな表情をした。
「そっか……」
 このとき俺の奥底で、なにかがざわついた。
 それは本能が、魂が警鐘を告げているかのように……。

 

 太陽が沈み始め、ひぐらしが鳴き始めた夕方、刻時坂神社の鳥居の下に俺たちは集まっていた。
「それにしても、毎年結構人が集まりますね」
 そう言ったのは、黒にあじさい柄の浴衣を着た先輩。そして他にもいつものメンバーがここには揃っていた。
 みんなとは昨日、あらかじめ夏祭りに行く約束をし、集合場所と時間を決めておいたのだ。
「この町では一番大きなお祭りだから、当然と言えば当然でしょ」
「毎年すごく楽しいです」
 蛍坂は水色に朝顔柄の浴衣を纏い、遥は赤に椿の柄の浴衣を着ている。
「準備してる側からすると、そう言ってもらえると嬉しいな」
 遥の言葉に、桜織は笑顔の花を咲かせる。
 桜織はピンク色に白の百合の花模様の浴衣を着ており、いつもよりきれいに見えた。
「……? どうかしたの、優十?」
「え、あ……いや、なんでもないよ」
 無意識の内に桜織に見とれてしまっていたらしく、俺は慌てて首を振る。
「優十も素直じゃありませんね。とりあえず、回りましょうか」
 先輩の提案にみんな頷き、俺たちは祭りへと繰り出す。
 色々な屋台を見て回り、定番なものから以外なものまで、俺たちは祭りを楽しんだ。
 遥の希望で金魚すくいに行き、なぜかしら蛍坂が金魚に逃げられるということがあった。射的の屋台では誰が一番景品を取れるかで勝負をし、屋台のおじさんを泣かせた。腹が減ったのでたこ焼きを買ったら、横から桜織に一つ食べられたことなど、様々なことがあった。
 そしていよいよ、桜織の神楽舞の時間がきた。
 桜織と遥の二人は準備のために神楽殿の方へと向かい、残りの俺たち三人は神楽殿の前まで来ていた。
 しばらくすると、昼間見た衣装を纏った桜織が姿を現す。桜織の姿は昼間のときよりもずっときれいで、そして神々しかった。
 桜織はゆっくりと神楽を舞い始め、同時に遥の横笛の音色が響き渡る。
 威圧感があるわけでも、閉塞感があるわけでもない。しかし今の桜織の姿はどこまでも荘厳にして静謐。それは一つの極致。
 誰もが呼吸することを忘れ、その圧倒的な神々しさに魅せられる。
 無謬の聖域で、少女は夜闇の中で神楽を舞う。
 最後の神楽鈴の重なる音が響くとともに、永遠のように思えた刹那の時間は幕を引き、
少し遅れて、観客たちから大きな拍手が贈られ、夏祭りのメインステージは終わりを告げた。
「本当に素晴らしかったです、桜織、遥」
 戻ってきた二人に、先輩が最初にそう声を掛ける。
「ほんと、思わず息をするの忘れてたもの」
 そう言う蛍坂はまだ余韻が残っているのか、あまり多くを語らない。
「いえいえ、はるはなにもしてないのです」
「そんなことないよ。はるちゃんだったから、あそこまで出来たんだよ」
「その言葉だけではるは満足です」
 みんなそれぞれ興奮が収まらないのか、とても楽しそうにしている。
「でも、実際蛍坂と先輩の言うとおりだと思うよ。昼間とは全然比べものにならないほどすごかったよ」
「ほんと? それなら良かった」 
 桜織ははにかむように笑い、少し頬を朱色に染める。
「それじゃあ、そろそろ帰ろうか」
 俺はみんなに聞こえるように言い、俺たちは帰路に就く。
 この素晴らしい日々がずっと続く、変わることなどない、俺はそう思っていた。
 しかし、このとき俺は忘れていたのかもしれない。
 終わりとういうものは、ただ必然として訪れることを。