読書設定

文字サイズ

背景色

フォント

方向

「くはっ……!」
 背中から叩き付けられるような感覚とともに、口から空気が逃げ出す。
 カーテンの隙間から入り込む朝日が、少し暗い部屋を照らしている。
 軽く乱れた呼吸を整えながら、俺は寝たままの状態で頭だけを動かし、壁に掛けてある時計へと目を向ける。
 午前五時二十二分。
 いつも起きる時間より明らかに早く、今からもう一度眠ろうとしても目が冴えてしまっているので、それも無理そうだった。
 仕方ないので、体を起こそうとしたところで、力がまったく入らないことに気が付いた。
「……ああ、そっか……」
 そこで俺はようやく、自分がなぜこんなにも早く起きてしまい、冷や汗をかきながら体に力を入れられないのかを理解した。
「俺は……また回帰したのか……」
 自分を納得させるように、そして確かめるように、俺は一人つぶやく。
 しばらく自室の天井を見つめ、体に力が入ることを確認してから、上半身を起こす。ベッドから降りて首の汗を軽く拭き取り、窓辺へ向かいカーテンを開ける。
 朝の日差しとは思えないまぶしさにまぶたを一瞬閉じ、目が少し慣れたところで窓を開ける。
 少し冷たい穏やかな風が吹き、俺の部屋の中まで新鮮な空気を運ぶ。
 俺はベッドの方へと戻り、着ていた服を脱ぎ、少し早いが学園の制服へと着替えることにした。制服に着替え終えた後、小さく溜め息を吐いてから自室を出て、階段を下りリビングへと向かう。
「さて、今日の弁当はどうするか……そういえば、桜織は今日朝食いるのかな……」 
 俺は部屋に戻ってスマホを手に取ろうとしたところで体がフラつき、慌てて腕を机に置いて体を支える。軽いめまいもするが、落ち着いたところでスマホで幼馴染みへメールを送る。少ししてから『食べに行くから作っておいて』と返事が来たので『了解』と返す。
 台所で朝食と弁当の用意をしながら、俺はあることを考えていた。
 俺が持つ不思議な力――回帰の能力。
 いつ、どこで、どうやって手にしたのか、俺自身わかっていない力。ただ、わかっていることもある。
 それは、力の代償と性質。
 まず、この回帰の能力を使用した際の代償は、俺の命。
 命というものが目で見ることも、量で測ることも出来ないため、正確なことまではわからないが、寝起き時の体に力が入らなかったことや、先程のめまいやフラつきなどがいい例かもしれない。
 そしてこの力の性質は、回帰する前の記憶を持ち越すことが出来ないということ。俺自身が〝回帰した〟とわかっているにも関わらず、俺はこの先未来で起こりうることを覚えていない。
 それともう一つの性質、先の性質と多少矛盾する『日付を跨がない時間』なら記憶を持ち越せるということ。つまり、今の俺が昨日に回帰したら、今俺が考えているという記憶は持ち越せない。しかし今日の朝起きて窓を開ける前に回帰したのなら、覚えていられるということだ。
 そもそも、こういった知識が今ある時点で矛盾が発生している。
 けれど、そこで俺は一つの可能性を思いつく。
(持ち越せないんじゃなく、思い出さないようにしているとしたら……?)
 さらに考えを巡らせようとしたところで、リビングのドアが開かれる音によって俺の思考は断ち切られる。
「おはよー、優十」
「ああ。おはよう、桜織」
 入って来たのは腰まで届く長い茶髪を持つ、俺の幼馴染みである火ノ神(ひのがみ)桜織。この町にある刻時坂神社で巫女をしている少女。
「朝も少し暑くなってきたね~」
「まあ、もう七月だからな」
 今日の日付は七月二日 月曜日。
 俺たちが住んでいるこの町はそこそこ田舎なので、都会などに比べると涼しい方ではあるが、夏であるということに変わりはない。
「制服で来たってことは、今日はこのまま学園に行くのか?」
 桜織の服装は半袖のセーラー服であり、学校の鞄もちゃんと持って来ていた。
「うん、そうだよ。というか、だいたいいつもそんな感じでしょ?」
「ま、一応の確認だよ」
 桜織がこうして家にご飯を食べに来ることはよくあることだったりする。
 俺の両親は数年前から単身赴任中であり、桜織の方は数年前に他界してしまった。
 なので俺たち二人は実質一人暮らしの状態であり、小さい頃から仲が良かったこともあって、互いに協力しようということになったのだ。なので、桜織が俺の家に泊まっていったり、俺の方が桜織の家に泊まることもある。
 桜織は神社の方の仕事で、朝食はともかく弁当などを作る時間があまりないため、俺と桜織、二人分の弁当を俺が用意している。夕食なんかも基本的には俺が作っているが、負担になり過ぎないように、桜織が適度に料理を作ってくれることもある。
「おお! 今日も優十のご飯は美味しそうだね」
「いつもとあんまり変わらないだろ。とりあえず、冷める前に食べよう」
 桜織の言葉に少し苦笑いしながらも、俺は内心でそう言ってもらえることを嬉しく思っていた。
 向かい合って席に就き、二人で「いただきます」と言ってから朝食の時間が始まる。
「今日のお弁当はなーに?」
「ミートボールに卵焼き、スパゲッティ、プチトマトとレタスに、デザートで軽く凍らせたパイナップルだよ。ああもちろん、卵焼きは甘くしてあるよ」
「さすが優十、わかってるね~」
 ニコニコと微笑みながら、俺が口にした献立に桜織は満足そうに頷く。
 それからしばらくとりとめのないことで談笑をし、食器を洗ってから俺たちは一緒に学園へと向かう。
 俺たちが通う綾野色学園は、俺の家から十分ほどで行ける距離のところにあり、いつもどおりの時間に出れば遅刻することはない。
「おはよ、優十に火ノ神も」
 教室に入ったところで、友人である紬原柚紀が声を掛けてきた。
「ああ。柚紀もおはよう」
「おはよ~、紬原くん」
「今日も二人一緒に登校か。夫婦仲は変わらないみたいだな」
「違うから、アホ」
 俺は柚紀の肩を軽く小突く。
 いつものことではあるが、桜織は少し頬を赤く染め、俺はそんな桜織の顔を横目で見た後そっぽを向く。桜織にはバレないようにしているが、きっと俺の頬も少しだけ赤いだろう。事実、柚紀が「素直じゃないなー」みたいな顔で俺のことを見ていた。
 別に俺と桜織は付き合っているわけでもないので、柚紀のようにからかいたくなる気持ちもわからんでもないが、なんとなく、もう一発柚紀のことを小突いてから俺は席に向かった。
 それからしばらくして、担任が教室に入って来てホームルームが始まる。
 そこで俺は、教室の中で一つだけ空いた席を見つけた。
「ねえ、優十」
 ホームルームの最中、隣の席である桜織が小さな声で話し掛けてくる。
「唯ちゃん、今日は休みかな?」
「いや、どうせいつものところだろ。後で見に行ってみるよ」
「ん、わかった」
 担任からの連絡事項が説明され、ホームルームが終わった後の休み時間、俺は席を立ち階段を上って屋上へ向かう。
 ドアノブを捻って扉を開けると、視界には夏の青空が入り込む。そしてわずかに目線を下げると、そこには屋上に設置されたベンチに座る一人の少女の姿があった。
「やっぱりここにいたのか、蛍坂」
 俺はベンチに座る少女――蛍坂唯に近付きながら、彼女に声を掛ける。
 チリン、と彼女が着けている鈴の髪飾りが、心地良い風に揺られ音を奏でる。
 蛍坂は閉じていたまぶたをゆっくりと持ち上げ、透き通るような緑がかった瞳が俺を見据える。
 当然ながら彼女も学園の制服を着ており、長い黒髪を鈴の髪飾りでツーサイドアップにしている。
「優十……今日も呼びに来たの? それと、名前でいいって前から言ってるでしょ」
 ちゃんと正面から俺を見てくれているので、会話をする気はあるようだが、あんまり動く気はないようだった。
「そうだよ。桜織が心配してたぞ」
 蛍坂は俺や桜織と同じクラスであり、俺が先程目を向けた空席だった場所の使用者が彼女なのだ。成績は悪くないが、今みたいに気まぐれで授業やホームルームをボイコットしては、ここで空を見上げていたりする。
「もう少しこうしていたいけど、桜織が心配してるなら戻ろっか」
 ベンチから立ち上がった蛍坂は俺の横に並び、俺たちはともに教室へ戻る。
「何度も言うけど、名前で呼んでよ」
「蛍坂」
「そんなわかりきったごまかし方しないでよ。苗字って意味の名前じゃなくて、下の名前、
唯って呼んでよ」
「………」
「相変わらず、か……」
 別に呼びたくないだとか、呼ばない理由があるわけでもないのだが、なんとなく、蛍坂の名前は本当に必要なときに呼ぶべきな気がするのだ。
「もうずっと前から言ってるのに、毎回……いつも呼んでくれないのね……」
 そんな蛍坂のつぶやきを耳にして、俺はわずかな違和感を覚えながら歩くのだった。

 

「優十ー、お弁当食べよ~」
 昼休み、俺が今朝桜織に持たせた弁当箱を取り出しながら、桜織が席を立ち上がって声を掛けてくる。
「ああ。それと……」
 俺は教室をぐるりと眺め、蛍坂の姿を探す。
「私ならこっちよ」
「おわっ⁉」
 探していた少女が俺のすぐ隣にいたことに、思わず少し飛び退いてしまう。
「……失礼な反応ね。いつものところでしょ? 行きましょう」
 蛍坂は髪飾りの鈴をチリン、と鳴らしながら、先に歩いて行ってしまう。
 俺と桜織は慌てて蛍坂の後を追い掛け、下駄箱で靴を履き替えて学園の裏庭へと足を運ぶ。そこには円形のテーブルと四つの椅子が木の日陰になるところに置かれていた。
「今日も遅いですね、三人とも。待ちくたびれましたよ?」
 四つある内の一つに腰を掛けていた、深い紫色の長い髪に左の耳上辺りに白い花の髪飾りをした少女、紫遠寺凪咲が俺たちに気付き読んでいた本から顔を上げる。
「それは先輩が授業に出てないから、そう感じるだけですよ……」
 先輩は俺たちより一つ上、つまり三年生である。成績優秀でスポーツも出来、容姿端麗という文武両道を地で行く大和撫子であり、学園を運営している紫遠寺財閥の娘で理事長代理などの肩書きも持っているほどだ。
 しかし、時偶授業に出ないことがある。特に四限目や、週明けにサボることが多いようだった。
「それでも、紫遠寺先輩はテストの成績を維持出来るからすごいですよね」
 蛍坂が置いてある椅子に座りながら、そう言葉を口にする。
 彼女のその感想には俺も深く同意する。実際、テスト前などにはよく先輩にわからないところを教えてもらったりするのだが、先輩の教え方は非常にわかりやすく、俺の面倒を見てくれているにも関わらずテストの成績は落ちないのだから。
 俺と桜織も椅子に腰を下ろし、持っていた弁当を広げる。
 この裏庭で俺たち四人は雨の日以外いつも昼食をともにしていた。きっかけは俺が先輩と出会い、時々弁当を突き合い、そこに桜織を誘って蛍坂も……といったところがざっくりとした経緯である。
 ちなみに、蛍坂は同い年と年下のことは名前で呼ぶが、先輩だけは苗字で呼ぶ。
「あ、今日も凪咲先輩のご飯美味しそうですね」
 卵焼きをもぐもぐしながら、桜織が先輩の弁当の中身を見て感想を口にする。
 確かに、先輩の弁当はすごく豪華だ。いつものことではあるが。
「そうですか? 私は桜織のお弁当の方が美味しそうに見えますよ」
「えへへ~、優十が作ってくれるご飯、すごく美味しいんですよ♪」
 幸せそうに自慢する桜織を見て、先輩はくすくす笑いながら「惚気ですね」などと言う。蛍坂の方は、少し呆れたように口元を緩めていた。
「そんなに美味しいなら、私にも一口分けてよ、桜織」
「えー、唯ちゃん自分のあるじゃん」
「桜織って結構食い意地張ってるよね」
 蛍坂の感想に俺も同意だが、そこまで美味しそうに食べてもらえると、作った側としても素直に嬉しかったりするので、あえて言うまい。
 交渉の結果で、桜織はおかずを一つあげる代わりに、蛍坂も桜織におかずを一つ渡すということで落ち着いたようだった。
 そして俺の視線に気が付いた蛍坂が、俺のことを見てくすりと笑った。
(ひょっとして、口元が緩んでたか?)
 自分の顔は自分では見れないし、今ここに鏡もないので確かめようはないが、たぶん緩んでいるのだろう。嬉しいのは事実でもあるので。
「私も食べてみたいですから、今度優十には四人分のお弁当を作ってもらいましょうか」「…………マジですか?」
 俺の問いに先輩は「どうでしょうね」と微笑しながら答え、桜織と蛍坂はくすくすと笑っていたのだった。
 これが、俺の日常。
 なにかしら特別なことなどない、ただありきたりな日々。
 しかしそれ故に、俺にとっては掛け替えのない尊い刹那。
 ずっと変わらないでほしい、終わらないでほしいと祈る。
 そしてここが、俺が戻りたいと思った日溜まりだった。
 それから適当に談笑していると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、俺と桜織、蛍坂の三人は教室へ戻ることにした。
「あ、優十。ちょっといいですか?」
 椅子から腰を上げ、教室に戻ろうとしとしたところで、俺は先輩に呼び止められた。
「ん? はい、いいですよ」
 俺は桜織たちに先に戻っていて構わない旨を伝え、俺は先輩と二人でその場に残る。
「それでなんですか、先輩」
「いえ、優十はなにか相談したいこととかありませんか?」
「急にどうしたんですか?」
 先輩が訊いてきたことがあまりにも脈絡のないことだったので、思わず俺はそう尋ね返してしまう。
「今日の優十は、どこか疲れているようでしたから。それに、あまり体調も良くはないのでしょう?」
「………」
 さすがというべきか、やはり先輩はとても聡い。
 桜織や蛍坂には気付かれなかったことなのに、先輩はこのたった十数分の間で気付いたのだから。しかし、俺のことを話すわけにはいかない。そもそも、話したところで俺の回帰能力を信じてもらえるかわからないし、代償がある以上、俺も安易には使いたくない。
「……大丈夫ですよ。俺は平気です」
「……そうですか……相談や愚痴ならいつでも聞きますからね」
 そう言ってくれた先輩にお礼を言い、別れの挨拶をしてから俺は裏庭を後にする。
 教室に戻ろうと階段を上っていると、俺は不思議なモノに出くわした。
 三つの段ボールを重ねて持ち、前が見えなくなった状態で恐る恐るといった感じに、階段をゆっくりと手探り――もとい、足探りで下っている。
 身長的に恐らくかなり小柄な女子だろうと思った。腕がぷるぷるしていて、見てるこっちが心配になってしまう。
 そんなことを考えていると、その段ボール(女生徒だと思われる)が階段を踏み外し、「ふえ? ふわあああ⁉」という悲鳴とともに、俺の方へと落ちてくる。
 段ボールは女生徒がバランスを崩した際に横へ投げ出されていたので、俺はなんとか女生徒の落下コースへ入りって受け止めようとしたのだが、俺もそのまま力に押されて階段の踊り場へ背中から叩き付けられる。
「ぐっ……!」
 背中をぶつけたすぐ後に頭も床にぶつけ、思わず呻き声を出してしまう。
「うぅ……」
 腹や胸の上に重みを感じることから、なんとか女生徒を庇うことは出来たことに少し安堵する。
「あう……危なかったぁ……」
 のそり、と女生徒は体を起こす。
「ふに……? え、あれ……?」
 女生徒の瞳は俺のことを捉え、そして俺を下敷きにしていることに気付いたようだった。
「あわわわ……⁉ ふわああああああああ⁉ ご、ごめんなさいっ、だいじょうぶでしょうか⁉」
 少女は慌てふためき……というより、泣きそうになっている。
「あー……いや、ごめん」
「謝られてしまったのです⁉ ひょっとしてどこかお怪我されましたか?」
 なんだか悪いことをしているような気分になり、なんとなく謝ってしまったのが、なにやら誤解させてしまったようだった。
「大丈夫、怪我はしてないから」
「それは良かったです……」
 心からそう思っているらしく、小柄な女生徒は胸に手を当てて安堵の溜め息を吐いた。
「それより、君の方こそ大丈夫か?」
「はい、はるの方はお陰様でだいじょうぶです。あ、はるは胡十吹遥っていいます。一年です」
 そう名乗った小柄に長い白髪でアホ毛が特徴的な少女は、俺の上からどいて手を差し出してくれる。しかし身長差的に無理そうだったので、手を振って大丈夫と伝えてから自力で立つ。
「俺は月神優十。二年生だよ」
「ふにゃ⁉ センパイだったなんて、本当にすみませんでした‼」
「ああいや、気にしなくていいよ」
 何度も頭を下げられていると、階段の上の方から聞き慣れた声が俺の耳に届く。
「あれ、優十? それにはるちゃんも」
 見上げると、上の踊り場のところに桜織が立っていた。
「あ、桜織センパイ」
「すごい音がしたけど大丈夫だった……て、はるちゃんやっぱり……」
「あう、落としてしまったのです……」
 下りてきた桜織が段ボールの惨状を見て軽く溜め息を吐く。
「桜織、知り合いなのか?」
「あ、うん。よくうちの神社でお参りしてくれる子だよ。それより、大丈夫だった? 二人とも」
「はるはセンパイのお陰で平気です」
「俺も、特に問題はないよ」
「なら良かった。もうすぐ昼休みも終わっちゃうから、三人で片付けよう」
 段ボールの中身は落ちた際に軽く散らばってしまっていたので、俺たち三人は手分けして入っていたものを回収する。
「ありがとうございました、桜織センパイ」
「うん。それじゃあ気を付けてね、はるちゃん」
「はい! 同じ失敗をしないよう、努力します! センパイも、本当にありがとうございました」
「お礼は必要ないよ。気を付けてな、胡十吹」
「遥って呼んでくださいです」
「あ、ああ。またな、遥」
「はい!」
 そう言って、最後に満面の花を咲かせた白い少女は、軽やかな足取りで去って行った。

 

「ごちそうさまでした、と」
「はい、お粗末様でした~」
 その日の夜、俺は桜織とともに夕食を摂っていた。
 今朝と同じように場所は俺の家だが、晩ご飯は桜織が作ってくれた。
「それにしても、桜織のカレーは相変わらず美味しいな」
「そんなことないよ。優十が作ってくれる方が美味しいよ?」
「自分で作ったものより、人に作ってもらったものの方が美味しいんだよ」
 カレーは誰でも作ることが出来る簡単なメニューではあるが、それ故に工夫を加えればその美味しさは変わってくる。その点、桜織は俺なんかよりよっぽど作るのが上手いと思う。
「それで、今日は泊まっていくのか?」
「うん、今日はそうしようかなって」
「神社の方は平気なのか? もうすぐ夏祭りだろ?」
「ほとんど準備しなくちゃいけないものは終わってるし、あとは町の人たちが手伝ってくれるから、大丈夫かな」
 この町では七月七日が夏祭りの日であり、七夕と併合して行われる。
 神社の娘である桜織は毎年祭りの準備に忙しく、俺も手が空いたら桜織の方を手伝うようにしていた。
「夏祭り、今年はみんなで行こうね」
「ああ、そうだな。蛍坂に先輩、それに遥もかな」
「浴衣まだ着られるかな……」
「去年もそんなこと言ってたけど、大丈夫じゃないか?」
「うん……でも、その……ね? 胸がまた少し……」
「……またなのか?」
 俺の問いに、桜織は少し頬を染めながら小さく、こくん、と頷く。
 桜織はかなりスタイルが良く、先輩ほどではないがかなり胸もある。
 中学二年の終わりぐらいから一気に成長し始めて、今もなお成長中らしい。先月の中旬頃にも同じことを言っていた。
 ちなみに、ずっと近くにいた俺的には、どうしても目がそこへ行ってしまい、たまに桜織と話しづらくなったときがあった。今はお互いある程度慣れて、そこまで気まずくなることもなくなったのだが……。
「あんまり見ないでよ……」
 桜織が頬を赤くして上目遣いでそう言ってくるので、俺は慌てて目をそらす。
 どうやら、無意識の内に桜織の胸に目が行ってしまっていたらしい。
「さ、皿は俺が洗っとくから、先に風呂入っていいぞ」
「う、うん。それじゃあ、お願いしちゃうね」
 なんともぎこちない会話だったが、嫌な感じはなく、少しくすぐったいと言ったものだった。
 俺は桜織とのこういう時間が好きだった。彼女ととりとめのない話をしているだけで、俺はとても満たされていた。
 幼い頃からずっと一緒にいた、俺にとって誰よりも大切な人。
 幸せな時間。変わることのない世界。そういう無上の幸福を抱いていたかった。
 不変の世界の夢を、ただただ繰り返していたかった。