星は下からの明かりに霞んで見えず、月だけが白銀に煌めく夜空の下。
時刻は午後五時。夕日に染まる都会の街を歩く人の姿は、心なしか忙しなく。
にわかに暖かな風が吹き、皆厚着と薄着の中間の服装をしており。
道の端に屯(たむろ)する人を除けば、皆足音だけを響かせて歩いていた。
「夕飯どうするかな……」
綺麗な銀の髪を靡かせた十八の少年、六井エリトは人混みに紛れ。
黒のリュックサックを背負い、のんびりと帰宅していた。
十八歳──高校三年間の卒業式を今日無事に終え、その日の夕方。
というのも、卒業式にお世話になった教師全員に挨拶をしていたからであり。
同級生同士で卒業を祝う謝恩会、お別れ会に誘われたが、丁重にお断りを入れ。
謎の校章が胸に入った制服で身を包み、ローファーでコツコツと地面を叩くように歩く。
「……なあ。夕飯どうする?」
エリトの口が開く。彼の隣には、彼より頭が一つ半分離れた十六歳の少女──エリカ。
世間に溶け込みそうな黒髪を灰色のパーカーで覆って隠し、スウェットにスニーカー。
フードをとってキャップを被ればヒップホップダンサーにも見えそうな着こなしをして。
「ん? お兄ちゃんの手作りご飯が食べたいです」
男勝りな容姿の彼女は、年相応にへらりと笑った。
「いや、まあ。手作りなのは当然なんだけど。そうじゃなくて、献立」
「あ、じゃあソース焼きそば。味は濃い目がイチオシだよ」
「了解。じゃあ玉ねぎと麺……あぁ、キャベツも買わなきゃだ」
「でも良いの? 今日はめでたい卒業式なのに」
「いいさ。高校の卒表なんて、大した祝い事じゃあない。それに、エリカが食べたいって言うなら、喜んで作らせてもらうよ」
任せろ──そんな調子で笑う兄に、しかし妹は。
「……じゃあ、一ヶ月後はその分祝うから」
ムッとしそうなのを耐え仕方ない、と頷いた。
一週間後──四月十日は、兄の誕生日なのだ。
日頃からお世話になっている兄に、少しでもお祝いの言葉と。
出会ってくれてありがとう(・・・・・・・・・・・・)──いつも恥ずかしくて言えなかった、その一言を。
「分かった。じゃあ、楽しみにするよ」
「言っても一月後だけどねん」
「今その話題を出したの、エリカなんだけど……」
呆れたように笑う銀髪の兄と、満足気に笑う黒髪の妹。
歩く先では信号が赤く発光しており、数人の人集(だか)りが出来ていた。
二人はその最後尾で止まり、信号に挟まれた、車の通らぬ道を眺める。
車道の信号機は、黄色に変わる気配を見せず。
横断歩道を横切る車は、自転車すら無かったのだが。
何に洗脳されているのか、その道を渡る人の姿一人としてなかった。
だが──遂に待ちきれなかったのか、短気なスーツの男が、赤信号を渡り始める。
それを始まりとして、信号待ちの何人かが彼に続くように横断歩道を渡り出す。
勿論渡ってない方が大半で、背中を見せて去っていく人らを睨みながらも、健気に。
大通りすら車の通りが一瞬無くなり、その場が僅かに静まり返ったその一瞬。
向かいの信号機、コンクリートで造られた円柱の根元が、微かに。
しかし誰の目で見ても分かるくらい、白く輝いた。
時間にして二秒ほど。信号が青に変わる頃には、明かりはフェードアウトしてしまった。
「なあエリカ。今の見えたか?」
「ん? ごめんお兄ちゃん。前の人の頭が邪魔で見えなかった」
「そっか。いや、さっき向こうの信号の足元が光ったような……」
しかし、エリカはおろか、周りの人一人すら、それを注視する人はおらず。
信号の色が変わり、前に立ち止まっていた人が歩き出し、二人もそれに並ぶ。
いつの間にか背後にも人が溜まり、先の疑問は既に僅かに消えかかっていた。
代わりに訪れたのは窮屈さと、鬱陶しさ。
だが後者を感じていたのは兄ではなく──。
彼の右側で密かに俯き、何かに耐えるように拳を握るエリカ。
衝動──タチの悪い彼女のそれ(殺意)を理解したエリトは、彼女の拳に手を添える。
「……大丈夫だエリカ。俺はここにいる」
その温もりに震えは微弱になり、小さな声で、ありがとう──と。
微かに目を潤ませたエリカは拳を開き、兄の大きな手をそっと握り返した。
そうして何事もなく、白と黒の道を渡りきり、対岸の道へたどり着いた、そのとき。
目を潰す程の輝きが、二人の身を包んだ。
▲▼
果たして、気が付くと森の中にいた──なんてことがあるのだろうか。
それも、右も左も自然が淘汰され尽くした、都会の中心を歩いている最中にである。
森を歩いていたところ、気が付いたら自室の寝室で横に──なんて夢を見たことはあるのだが。
逆パターン。つまり……つまり、何だ?
まさかどこぞの国にトリップしたのか、あるいはここまでが一連の夢なのか?
先程の夕焼け模様からは時間の進んだ、にわかに明るい群青色の下の深い森。
十メートルはありそうな木の群れに、複雑に絡み合った枝葉が天を覆って隠している。
ひんやりと冷たい風が走り、都会の下とは打って変わる涼しい気温に肩を震わせた。
だがエリト。正体不明の出来事に苛まれながらも、見事落ち着いていた。
「エリカ、大丈夫か?」
「む、無理無理。何これどんな状況!? 異世界召喚とかアニメ事象!?」
昔からアニメや漫画が大好物だった妹も、流石の驚きよう。
やはり創作物は所詮創作物で、転移や召喚はさておき、実際に起こるとは普通思わない。
そうして慌て、うずくまる妹の存在が、故に兄の精神を落ち着かせてくれていた。
だが、曲がりなりにも十六歳──本来なら高校一年生に相当する彼女は。
一本の木の根元で胸を押さえ、深く息を吸い、長く吐く。これを繰り返すこと、五度。
「──よし復活! お兄ちゃん、もう大丈夫だよ」
「ああ。それじゃあまず、この状況をどうするか考えるか」
「おけおけ。この手の分野は私に任せて」
つい今しがた震えていたエリカが、今は立ち上がり、エッヘンと胸を張って。
スマートフォンのライトで四方を簡単に眺め。宣言する──。
「お兄ちゃん。紛うことなき森だよここ」
妹よ、それは分かっている──その言葉を、ぐっと飲み込む兄。
そんな兄に対し、スマートフォンの液晶を睨みながらエリカ。
「でも、やっぱり異世界って可能性あるよ。スマホ、ネットに繋がらないし」
「海外に行けばあり得るけど……いやいやいや。日本の首都に住んでる俺らが、飛行機も利用せずに行ける訳もないよな」
落ち着くことは出来たが、疑問は残る。
どうやってここに来たのか。ここはどこで、都会で見たあの輝きはなんだったのか。
エリトは何となくで察する。きっとあの光が、日本とこの森を繋いだのではないか。
そう結論付けようとして、ため息をこぼす。
──よくもまあ、そんな夢のような解釈が出来るよなぁ。
日本を生きて十数年。嫌という程思い知ったのは、残酷なまでの夢と現実の格差。
世界の現実(じごく)を前に、兄は生きる人形と化し。妹は世界から目を逸らし。
いや。だからこそ、こんな夢のような出来事を──。
ある日突然世界が変わるなどと、非現実的なことを、認めたくなってしまった。
そうであったら嬉しい。そうであって欲しいと。それはまるで、夢見る少年少女のように。
意識とは裏腹に、内心からフツフツと湧き上がる何かを年相応に抑えて、兄は言う。
「取り敢えず、今日はここで野宿かな。エリカ、見張りはしておくから寝ていいぞ」
「うえぇっ!? 折角の異世界だよ、お兄ちゃん? ちょっとだけ散歩……やっぱいいや。森に出てくるモンスターは強いって常識だし、従いますとも」
渋々、と言った感じではないが、仕方ない、と。
すぐ近くの木の根──硬い土の地面より僅かに隆起したそれに、頭を乗せて寝転んだ。
「んじゃあお兄ちゃん。後は宜しくぅ……」
エリカは寝付きが良く、早い。
何の誇張でもなく、三十秒あれば夢の世界へ行くことができるほど。
果たして、すぐに訪れた妹の寝息をBGMに座り込んだエリトは。
目の前の大木に向けて、言った。
「誰かは分かんないけど、エリカを助けてくれてありがとう」
▲▼
──ねえ、悪役さん。
少年は小さな悪魔に微笑みを傾ける。
滑小さな広場の、孤独なブランコには、雨風を凌ぐものはなく。
そこへ座り、漕ぐことも、傘を差すこともせず。
いたずらに雨に身を濡らす悪魔に、小さな傘を差し出し。
──キミの帰る場所は、ここじゃない。こっちだ。
そうして少年は、自分と一回りも小さい、孤独な悪魔の手を取った。
▲▼
朝。
気が付けば既に昇っている太陽は、地平線と天上の中間にある。
陽の光は大陸全土に注がれ、それは鬱蒼とした森の中にまで。
複雑に絡み合う枝葉の間を通り抜け、細い光の柱が何本も差し込む。
受動的に迎えるものの中では、久しく陽気で心地良い朝だと。
目を覚ましたエリトは、しかし疑惑の表情を浮かべた。
彼の背中に当たる感触が、●妙にふわふわしていることに。
「……どこだ、ここ?」
寝ぼけているのだろうか、なんて逃げ道を用意してみたが、徒労。
木材で造られた丈夫そうな屋根に、視界に差し込むは●窓からの日差し。
明らかに森ではない場所で、エリトは大きなベッドに横になっていた。
隣では妹のエリカが心地良さそうに眠っている。
最優先して確認したいことを終えたエリトは、次に頬を叩く。
もしかしたら夢かもしれない──そんな可能性に賭けてみたのだ。
「……ま、そんなワケないよな」
簡素だが確認終了。というか、夢オチ展開は半ば諦めた。
現実ならばそれはそれとして、彼の中で沈みかかっていた疑問が再浮上する。
「んで、ここどこだよ……」
彼のいる空間は、謂わばRPG界隈における宿屋に酷似している。
天井から壁から、床に家具までのほぼ全てが木造。
七畳程度の一室には、中心に脚の高い机と、それを二脚の椅子が挟んでいる。
部屋の隅には彼の背丈の半分ほどの押入れが二つ、同じものが横に並んでいて。
端にある背の高い観葉植物が、部屋の彩りをどうにか整えていた。
(異世界……というか、ゲームの世界?)
眼に映るものは現実味が薄く、しかし妹の存在が、これは現実だと。
そう、自らに結論を突き付けた、そのとき。
エリトから見て部屋の奥、簡易的な木製のドアが、コンコンと軽快に鳴った。
「は、はい」
突然のことに一瞬肩を震わせ、中へ促す。
エリトの声に続き、ドアは外側から静かに開いた。
そして現れたのは──美少女だった。