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 ……ワタシは一度捨てられたが、また人間に使われている。口が多少悪いことは自覚しており、それでも治らないから捨てられたのだが、なぜかシュトラフ様はワタシのことを悪く言いつつも普通に接してくれる。
 単に気にしていないだけだろうか? いや、確実に気にはしていた。だから彼の日記のようなものにはワタシへの愚痴が沢山詰まっている。もしそれも全て演技で、反抗的なワタシを見透かして嘲笑っているとしたら、彼は相当な悪人に違いない。シュトラフ様は事あるごとに張り合ってくるうえに、ワタシに対して時折、変な目線をくべてくるので好きではないが、彼が犯罪者であって悪人でないことは確かだ。
 …………箱の中で数週間、外に出てから一週間が経って分かってきたことがある。ワタシが捨てられたのは最低でも千年以上は昔の世界だ。けれど未来の異物が捨てられたことによって本来あるべき過去の世界とはもはや全く別の世界となっていた。ワタシ達の影響で、この世界は分岐したのだ。だから捨てても問題無かったのだろう。タイムパラドックスも決して起きない。ゆえにこの世界はワタシ達【慧来具】によって多大なる影響を受けていた。民族衣装などは変わらずにいたが、たとえば食文化や社会は大きく変わっていた。この時代ではまだ食べられていなかったはずのじゃがいもが主食の域にまで達していたり、一部の物が非常に安くなっていた。どこかの戦争で【慧来具】が使われ、蹂躙されたという話も聞けた。
 ――――そして、シュトラフ・トリスタン。強きを砕き、弱きを救う、任侠に生きる義賊。
 彼の情報もやはりあった。本名はアーデルハイト・フォン・フロイデンベルク。この馬鹿馬鹿しいくらいに長い本当の名前は自己紹介のときに教えてくれはしなかった。何故名前を隠したのだろうか。彼の情報は悲しいことにほとんど存在しなかったために分からない。
 ワタシに不備があるから名前を教えてもらえなかったのだろうか。そうだとしたら少し不満な気がした。本当に不満に思っているかどうかはワタシにも曖昧で、自分のことなのによくわからない。
 だから捨てられたのだ。でも、ワタシのことはどうでもいい。それよりも問題はシュトラフ・トリスタンだ。このまま彼が義賊行為を続ければ、ワタシ達……未来の異物が無い世界では1517年に処刑されて死亡する。しかし、異物の存在によって世界があるべき時の流れは早くなりつつある。
 このままワタシが盗賊の道具として一緒に過ごしたら、彼は早死にしてしまうのではないだろうか? 考えすぎだろうか? いや、考えすぎなどではないはずだ。
 ワタシ達、【慧来具】と呼ばれる道具はその全てが時間に干渉して動くという神を恐れぬ冒涜的な存在であり、そして、本来進むべき未来を捻じ曲げる力があったのだ。それによって助かった人もいるかもしれないが、死んだ者もいるだろう。蝶の羽ばたきが竜巻を起こすのならばワタシは何を起こしてしまうのか。恐ろしい。ただ恐ろしい。
 ワタシがシュトラフ様を早々に死に追いやる原因になるかもしれない。あれが死んだところでワタシは悲しみも悔やむことも無いだろう。不完全な負の感情など抱かないだろう。しかし、責任というものがある。それにワタシはワタシの所為で誰かが死んだり、痛めつけられているのを見るのは好きではない。……ワタシはこのままいていいのだろうか。離れなければならないだろうか。また捨てられなければいけないのだろうか。ワタシをまた使ってくれる人は現れるだろうか。まだ情報が少な過ぎる。そんな言い訳を動機に決断を先延ばしにすることしか浮かばなかった。ワタシはどうしたいのだろうか。……見栄だけは張っているが、実際は捨てられてしまう程度の知能と人格しかないワタシにとって、この状況はあまりに難しすぎる。
 ワタシが酷く悩んでいると、シュトラフ・トリスタンはワタシの身長に目線を合わせると、手を差し伸べた。
「どうしたんだ? カノン。酒場の入口で固まっちまってよ」
「情報処理をしておりました。申し訳ございません」
「馬鹿みたいに悲しそうな顔してたけど……本当に大丈夫か? 糞生意気なこと以外なら言ってくれよ。まともな内容なら取り合うぜ?」
 ――――言えない。言えたものではない。もし下手に死の運命に関する発言をして、シュトラフ・トリスタンが本当に早死にしてしまったら、ワタシは一体どう責任を取ればいいか分からない。……正直に物を言えるほどワタシはできた存在ではなかった。ワタシは……ワタシが思っているほど完璧で素晴らしい物ではないのだ。

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 シュトラフ達はカノンの歓迎会も兼ねていつも通りに馬鹿騒ぎすべく、いつもの酒場へと向かった。金銀というものは非常に重く、抱えるほど持っている者は苦しそうに石畳を踏み締めていたのだが、酒場が見えるや否や素っ頓狂な喜びの叫びを上げながら駆け抜けていった。全く子供である。
 シュトラフも全力疾走まではしないが、小走りで酒場まで向かっていく。そして木の階段を数段上がり、入り口の重い扉に手をかけ――――不意に後ろを向いた。理由はなく、ただなんとなくだった。
 シュトラフの背後に、カノンはいた。月夜の明かりに照らされ、涼しげな風に白銀の髪をなびかせている姿は美しく、ずっと見ていたい衝動に駆られたが、そんな欲求をも打ち消されてしまうほど、シュトラフにはカノンが思い詰めているように見えた。シッポも垂れ下がってしまっている。
 シュトラフは心配になって思わずカノンに手を差し伸べた。
「どうしたんだ? カノン。酒場の入口で固まっちまってよ」
「情報処理をしておりました。申し訳ございません」
「馬鹿みたいに悲しそうな顔してたけど……本当に大丈夫か? 糞生意気なこと以外なら言ってくれよ。まともな内容ならなんでも取り合うぜ?」
 カノンはしばし硬直していたが、唐突に首を横に振るうと何事もなかったかのように無愛想な表情を浮かべて、淡々と口を開いた。
「……今なんでもって言いました?」
「確かに言ったが、まともな内容ならって条件を付けてるぞ」
「ではシュトラフ様が滑稽なさまを見て心を安らげたいのでこれからは猿みたいに逆立ち歩きして過ごしてください」
 嫌な予感はしていたが、案の定これだ。心配したのが馬鹿みたいだ。
「……はぁ。それがまともな内容だと思うなら、残念だがカノン、お前はもう手遅れだぜ」
「その手遅れなカラクリにさきほどまで見惚れていたのはどこの誰でしょうかね」
 カノンはニヒルに笑うとシュトラフに歩み寄った。蒼い瞳がじっとこちらを見詰める。シッポはぴくりと動いたり、止まったりと奇妙な動きをしていた。今度こそ負けてたまるかと目を逸らさずにカノンのことを凝視したが、一歩も引かぬ睨み合いになることはなく、気付けば足は後退し、背中で酒場の扉を押していた。そしてそのままバランスを崩し、尻餅をついた。床は木製のため特別痛いわけではないが、若干の土埃が舞い上がり不快である。
「これで15勝2敗ですね」
「それは盛ってるだろ。俺の記憶が正しければカノン、お前は14勝だったはずだぜ」
「ワタシはカラクリです。人間とは違い、一度起きたことを決して忘れません。間違えません。1‰(パーミル)だって過去起きたことを間違えませんよ。それに14も15も変わりないでしょう。圧倒的にワタシが優れていることは確かです」
「うーん…………。本当にさっきのありがとうって台詞と笑顔が嘘みたいだ。あの態度で日頃から接してくれたらいいんだけどな。あのときだけは俺も認めざる終えない。うん、惚れかけたよ。あのときだけはな」
「それは照れ隠しですか?」
「いや、俺は何も隠してはいない。正直に話してる」
 シュトラフが特に深くは考えずにそう言うと、カノンはふっと顔を背け、吐き捨てるようにボソリと、聞こえないように呟いた。
「……偽名のくせに」
 その小さな発言は団員達の喧騒とドタドタと騒がしい物音に掻き消され、シュトラフの耳に届くことはなかった。
「なんか言ったか?」
「いえ、何にも言ってないです」
「……本当は?」
「聞こえないように呟きました。内容が気になりますか? 気になっちゃいますか?」
「そりゃ気になるだろ。けど俺には分かるぞ。教えないだろ」
「正解です。教えないと気になって仕方ないでしょう」
 気にならないはずがない。何を言ったのだろうか……。またありもしない暴言か、皮肉れた発言か……それだったら聞こえないように発言する意味はないか。一体何を言われたんだ……。どうにかして引き出せないだろうか。シュトラフは尻餅をついたまま思考を巡らせ、少し鎌を掛けた。
「……もしかして俺に惚れちゃってその想いをつい呟いちゃったんじゃないか? だから恥ずかしくて俺に言えないんじゃないか? もしそうだとしたら俺の中でカノンは凄く愛らしい存在になる。どうだ? 正直に言ってみろよ?」
「なぜ言わないとならないのです」
「別に言わなくてもいいんだぜ? ただそれは俺が言った事が正しいと認めることになるんじゃあないか?」
「……自分で言ってて恥ずかしくないのですか? 妄想の押し付けですよね? 悲しくならないんですか?」
「全然」
「はぁ……何を言っても無駄ですね。手遅れです。正直に言ってワタシはシュトラフ様を哀れに思いました。埒(らち)が明きません」
 カノンは軽蔑的な視線を向けると、深いため息をついた。どうやらどんなことを言おうとも自身の呟きを明かす様子はなさそうだ。
「……確かにそうだな。それじゃ酔いで言わせるから向かうぞ」
 シュトラフはすっと立ち上がると強引にカノンの手を握り団員達が猥雑に群がる中心へと向かった。
「ワタシは酔いませんよ?」
「どうかな? 自覚は無いかもしれないけど、寒いときとか皮膚が反応してたし、前飲んだときは頬が赤くなってたのを見たぜ」
「それは人間らしい外見を少しでも取り持つためです。実際は寒くても苦しいとは思いませんし、酔いません」
「なら遠慮なく飲んで平気だな。団員達に舐められないようにあれくらいは飲むんだな」
 シュトラフが指差した先では団員達が冷えた体を温めるべく料理を頬張り、水を飲むよりも景気良くビールをがぶ飲みしている。
「リーダー。早く食べないとリーダーの分が無くなっちゃいますよ」
「おっ。それは勘弁だ。てなわけでじゃがいもは貰ったぜ」
 シュトラフは慣れた手つきで皿に盛られた芋を一つ手に取ると二つに裂き、半分をカノンに差し出した。割られた芋は黄金色を覗かせながら熱過ぎるくらいの湯気を漂わせていく。
「ウェイトレス! ビール頼むー!」
 シュトラフが腕を上げ、注文するとウェイトレスの一人はすたすたと近づき親しげに話しかけた。
「かしこまりましたー! ……ところで服をフェイちゃんに着せるから貸してって言ったのに一度も着てないって言ってたわよ!?」
「あっ、やべ」
 シュトラフは慌ててそんなことを呟くとカノンの方をちらりと覗いた。彼女が今着ている衣服はウェイトレスに借りたものだ。後で他の服もいくつか買ったのだが、そのディアンドルがお気に入りらしく、いつもそれを着ている。今もフリルのついたエプロンスカートを揺らしていた。だがその服はフェイに着せるという約束の下、借りた物である。
 フェイにも着せようと思ったが結局、渡してはいない。とりあえず理由を言わなければ何か変な誤解をされてしまう。それにカノンがシッポを理由にスカートの一部に穴を開けてしまったことも謝らなければならない。シュトラフは慌てて口を開いた。
「ええとだな。聞いてくれ。これには深い訳が――――」
 ウェイトレスは話を聞く様子もなく、シュトラフの隣で料理を食べていた少女(カノン)を凝視していた。
「……あら? そんな可愛い子、前にいたかしら? それに貸した服、彼女が着てるわね。んー、もしかして新しく入った子を自慢するためにいることを隠して可愛い服着せてたのかしら?」
「そ、そうなんだよ! こいつカノンって言うんだけど凄い可愛いだろ? どこの国の特徴なのかは分からんが、この白銀色の髪に似合うと思ったんだよ!」
「それでフェイちゃんを利用したわけ?」
「うっ……。正直に説明すると時間が掛かりそうだと思ってな。いや、悪いと思ってる。すまない」
「謝る必要はないわよ。そのかわり正直な感想を述べてあげてね?」
「……? 何に対してだ?」
「察しが悪いわね。フェイちゃんー! 早く姿を見せてあげなさいよ」
 ウェイトレスはカウンターの向こうに声を掛けた。すると普段は頼りがいのあるフェイが恥じらいの混ざった声を響いた。
「こ、これは無理です! 凄いひらひらするじゃないですか……! スースーしますし! 馬鹿っぽい感じがします!」
「馬鹿とは失礼ね。可愛いらしさがあっていいじゃない」
 一体何の話をしている……? ひらひらしてスースーして馬鹿っぽいとは何を示唆しているのだろうか。シュトラフは少しばかり思考していたが、やがて一つの確信に至たると、したり顔を浮かべた。
「あぁ、理解したぞ。フェイが着る服ってボーイッシュなのばっかで全然女っぽい服なかったな。もしかして今着てるのか?」
 鼻息を荒くして答えたのはウェイトレスであった。
「そうよ! さっき誰かさんが扉に寄り掛かって尻餅を着いて間に超高速でお着替えさせたわ! 見たいでしょ?」
 フェイは最初こそは女性らしい姿をしていた時期もあったが、あるときケジメだと豪語して髪を短くしてから男装が普段着になっている。三年前頃からだろうか。すっとした顔立ちをしているので、女性らしい服も似合うことは分かる。しかし期間が空き過ぎてフェイのそういった姿を想像することは難しかった。
「…………見てみたい。似合うんだろうけど、男装が定着し過ぎて想像できん」
 ウェイトレスはシュトラフの答えを嬉々といて受け止めると、再度カウンターの向こう側へ声を掛けた。
「フェイちゃんー! 見たいって言われてるよー!!」
 呼びかけに対する返答は無かった。隣で騒ぐ団員達と【慧来具】によって奏でられるアップテンポな音楽が喧しい。カノンはただ黙って料理を食べながら、じっとシュトラフを睨んでいた。
「恥ずかしがって出てこないわね……」
 ウェイトレスが残念そうに呟くと、騒ぎ歌う団員達のなかから一人が出てくると口を開いた。
「よかったら引っ張り出すっすよ」
「よし、リーダー命令だ。フェイを連れて来てくれ」
「了解っす」
 シュトラフと団員は邪悪な笑みを互いに汲み交わすと、団員はすたすたとカウンターを乗り越え視界外に消えた。数秒後、小さな悲鳴と共にフェイが姿を現した。
 彼女はくすんだ金の髪を揺らし翡翠色の瞳を覗かせた。白のブラウスに、カノンのとは違い鮮やかな緑をした胴衣(ボディス)とスカートを履いていた。紐は赤色が使われておりメリハリが付いている。首にはチョーカーをしていた。子供っぽさが少しばかり残っているように見えたが、肩などは艶やかな肌を露出しており、充分過ぎるほど色っぽさもある。甘く見ていた。普段一緒にいるときが多すぎた所為か、フェイと家族として接してはいたが一人の女性として見た事がなかったため意識してしまいそうだった。
「ええと。うん、凄い似合ってるぜ」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます!」
 フェイは頭を下げると軽やかな笑顔を浮かべた。その表情を直視したシュトラフは思わず頬を染める。ほのかに胸が絞められ鼓動が早くなるような感覚がした。こういうときもクールでいられれば格好いいのだが……自分には無理だ。ウェイトレスと団員の一人がヒューと口笛を吹かせるなか、二人は互いに沈黙し見詰め合う。そんなときであった。
 不意に背後から強い衝撃が走り、シュトラフは数メートル吹き飛んだ。一度味わったことのある耐え難い衝撃――――カノンだ。シュトラフは宙を跳ぶなかなんとか顔を上げた。刹那、覗(うかが)えたのはカノンが澄ました顔をして、脚を上げている姿だった。コンマ数秒後、シュトラフは木の床に体を叩き付けた。それでも今度は自ら回転し、受け身を取って被害を最小限に抑える。最初とは違い、もう気絶することはない。
「痛えっ! いきなりどうしたんだよカノン」
「申し訳ございません。バグです。不具合が原因でつい、体が勝手にシュトラフ様を蹴り飛ばしたのです。誤作動は怖いですね」
 高性能を謳っていたにも関わらず、今度は誤作動だとしらばっくれるのはもはや清々しささえ感じる。唯一の癒しはフェイがあわてて駆け寄り、声を荒らげてくれたことだった。
「ちょ、大丈夫ですか!? なんでいきなり蹴ったんです!? わざとですよね!」
「……なぜでしょう。ワタシ自身にもよく分かりませんが、なんとなく蹴りたいと思ったのです。調子に乗るんじゃねえ的なことを思ったのです。思ったときには蹴っていました。恐ろしいバグですね」
「それって……! やっぱり勝手じゃなくて故意じゃないですか。もうちょっと自制心をですね!」
「それについては申し訳ございません。ところでシュトラフ様。ワタシとフェイ様のどちらのほうが好みでしょうか」
 カノンが軽やかな笑顔で尋ねると、フェイはさきほどまで憤慨していたのが嘘のように、私も気になりますと言わんばかりに目を爛々と輝かせた。
 なぜ唐突にそんな話になったんだ。そんな疑問が過ぎり、一瞬で答えが浮かぶ。――これもカノンの嫌がらせだ。下手を打てば大変なことになるに違いない。それだけは回避する必要がある。……こういうときはどちらのほうが好みだと明確にするべきなのだろうか。しかしそれは片方を傷付けてしまうか? それに酒場の中心でいきなり吹き飛んだからか目線が集まっている。下手な発言をすればどうなるかわからない。しかし思考する時間はもうない。
 シュトラフは思考したが結論付けることができず、とりあえず口を開いた。
「ええとだな……どっちも可愛いと思うぞ? その……今の俺の答えに呆れてポカンとした表情とか仕草とか」
 直後、無言の蹴りが飛来した。今度はただ蹴るだけでなく、脚を分離させ弾丸のごとく飛ばして来たのだ。あまりにも予想不能、回避不能。無論のこと防ぐことなどできるはずがなかった。眼前に超速で近付いてくる蹴りを甘んじて受け入れるほかなかったのだ。
 ――――顔面に鋭い痛みが走り、遅れて熱が生じた。頭が揺さぶられ、視界がぼやける。
「痛い……さすがにこれは…………酷いだろ」
「脚が不具合で射出されてしまいました」
「絶対確信犯だ……」
 生意気という枠を越え、理不尽に達している。あの“ありがとう”という言葉は嘘だったのか? いや、あの笑顔が嘘だとしたら間違いなく何も信じれなくなる。常時素直で従順でいろとは決して言わない。求めない。ただ少しは我慢だとか忍耐だとかそういう言葉を覚えてほしい。覚えて意味を理解したうえで実践してほしい。
 シュトラフは深い溜め息をつくと、すぐ傍にいたフェイに賛同の意見を求めた。
「さすがに蹴ることはないよな。フェイもそう思うだろ?」
「因果応報なんじゃないかと思います」
 フェイは不機嫌そうに声に怒気を込めて返答すると、やがてため息を零して料理を取りに行ってしまった。予想外にも冷たい対応に、シュトラフが呆気に取られていると、カノンはその様子を鼻で笑った。
「哀れ過ぎて涙が出そうです」
「あーもう駄目だ。俺もいい加減怒るぜ?」
 本当に怒ってやろうかと思いキッと眉を細ばめ、頬をひくつかせると、カノンはほんの少しだけ肩を震わせ蒼い瞳を大きくし、怯えるような挙動をとった。そんな様子を見てしまうとどうにも怒る気になれず、勢い良く立ち上がるために手足に込めていた力も虚しく消えていった。
「…………素の時は本当に可愛いのにな」
 シュトラフは心底残念そうに呟くと手で泥を払い、何事も無かったかのように咳をする。そしてふらついた足取りでカノン達から離れ、近くにあった席に座った。すると団員の一人が目の前にビールと小分けした料理を置いてくれた。
「いやはや。ああいうときは適当に誤魔化したりせず、それぞれの名前をあげて褒め称えるのが模範解答ですぞ。ワッハッハッハッハ!!」
「知らねえよ……そんなこと」
 力尽きそうな声でそう訴えると、もう一人の団員がドン! と勢いよく座る。
「リーダーは頼もしいっすけどぶっちゃけ女の人に弱いっすよね。馬鹿にされてもちょっと胸当てられると鼻伸ばして許したり、それどころかちょっと泣く演技をされると大慌てっすもんね」
「……知らん。あとその話は無しだ。思い出させないでくれ」
 シュトラフは思い出したくない思い出を振り払うべく目の前に置かれていたビールを一気飲みし、ソーセージを摘む。ソーセージは歯によって折られると肉汁を散らした。
「人のことをとやかく言うけどな。お前らはどうなんだよ。俺とは違うとでも言いたいのか?」
「そりゃあ、それなりに。ねぇ?」
「いやはや。リーダーもまだまだ青いですな。ワッハッハッハ!!」
 馬鹿にするような口調。舐められている。確実に舐められている。シュトラフは握り拳に力を込め、ドン! と机を叩くと団員達に命じた。
「リーダー命令だ。なら見せてみろ。その違いってやつを」
「仕方ないっすね。見せてあげるっすよ」
 団員の一人は自信満々な様子で立ち上がると、いつのまにそんなものを持っていたのか……ポケットから匂い袋を取り出すと、椅子に座って行儀良くチーズを食べているフェイに歩み寄った。
「フェイちゃんフェイちゃん」
「ちゃん付けしないでくださいよ。何の用ですか?」
「いや、可愛いと思ったからちょっと声かけただけっすよ。いつもより女の子らしくていいっすね」
 団員がからかうように言うとフェイは座ったままスカートの裾を抑え、顔を赤らめる。そこに畳み掛けるように団員は近づくと、ニヤリと余裕そうな笑みを浮かべポケットから取り出した匂い袋を取り出した。
「あ、これ良かったら貰ってくださいっす。フェイちゃんに上げようと思って前々から作ってたんすよ」
「いいんですか? ありがとうございます!」
 フェイはそれを大事そうに受け取ると、うれしそうに一礼すると健気で柔らかな笑顔を見せた。それはカノンがさきほど見せてくれた素直な笑顔と似た自然で愛らしい表情で、一連の様子を眺めていたシュトラフは改めて頬を染める。しかし視線に気付いたフェイはぷいと顔を背けてしまった。
「もしかして怒ってる?」
 シュトラフは窺うようにして問い掛けたが、返事は返って来なかった。代わりにプレゼントを受け取ってもらえた団員は一人ガッツポーズをすると、行きよりご機嫌な様子で戻ってきた。
「どうっすか? いやーやっぱフェイちゃんは素直で可愛いなっぁ」
「なんか怒られちまったが、あれは俺の家族みたいなもんだ。ふざけて手を出したら絶対容赦はしないぞ。……ところで匂い袋なんていつのまに作ったんだ?」
「酒場の子にあげようかなと思って、昼ごろに」
「ふてえ野郎だなお前は」
「でも証明できたっすよね? 違いって奴を」
 団員はニヤリと笑うと、いっそ殴ってやりたいくらいドヤ顔を浮かべた。ちょっと上手く行ったから調子に乗っているようにも見える。
「物で釣っただけじゃねえか。プレゼント貰って嫌がる人などそうそういねえぜ」
「分かってないっすね。あげるときが一番緊張するんすよ」
「フハッハッハ!! んなわけ! あれくらい俺だって楽々だぜ」
「ならやってみればいいっすよ?」
「はぁ? なんで俺がそんなことしなきゃいけないんだよ」
「できないんすか? あーできないなら確かにしたくないっすよね。無理強いするようで悪かったっすよ。謝るっす。ごめんちゃい」
「……できないわけないだろ! やってやる。行動で証明してやるぜ」
「おっ、ノリいいっすね。じゃあ誰にあげるんすか?」
「…………誰だろうな」
 そうは言ってもそこまで候補がいるわけじゃない。渡すとしたらフェイか酒場のウェイトレスぐらいか……カノンか。いやいや、カノンはないだろ。プレゼントなんてあげても調子に乗るに決まってる。『正直になったらどうです? 俺はカノンに惚れているって言ったらどうです?』……なんてことを言い出しかねない。普通の人なら贈り物を貰いでもしたら素直に礼言って感謝するのが普通だろうが、カノンがそう簡単に礼を言うとは思えない。シュトラフが思考していると、団員はひじで小突いてきた。
「何だよいきなり。こっちは渡す相手を考えてるんだよ」
「早く決めるっすよ。フェイちゃんかカノンちゃんかを」
「はぁ? カノン? 無い無い無い! カノンが素直に喜ぶはずないし、そんなことしたら調子に乗らせるだけだぜ。あげるとしたらフェイかウェイトレスだな」
「あ、リーダーが狙わないなら、自分、狙っちゃっていいすか? カノンちゃんのこと。代わりにリーダーはフェ――――」
 瞬間、頭が何かを考える前に気付けば声を上げていた。何かまだ喋ろうとしていたようだが、そんなことお構いなしだった。
「それはダメだ!!」
「え、駄目なんすか?」
「だ、駄目だ! なんか嫌だ! 代わりに俺がやってやる。いいさ、カノンぐらい惚れさせてやるくらい完璧な……なんか、こう、あれを見せてやるぜ」
 シュトラフは蹴られたダメージも回復したのか、すっと立ち上がると、余裕のない笑みを浮かべた。
 ――その日以降、シュトラフは一人で金持ちの婦人を一週間ほど監視し、何事もなく襲撃した。怪我は格好つけて高いところから飛び降りた際に、足を挫いただけである。
「今日は何を買おうかしら!? 貧乏人に見せ付けるのは最高ね。生まれもった格の違いを味あわせることができるもの」
 などと性根の腐った発言を街中で堂々とするような糞女だったため、全くもって罪悪感などない。容姿も衣装や香水でなんとか良くしているのだろうが、フェイやカノンには遠く及ばない不細工だった。婦人の言葉を借りるならば、それこそ生まれもった格の違いという奴だろう。
 そんな素晴らしい性格をした金持ちから、少々貴金属の装飾品を、金の指輪やネックレスなどを頂戴したのち、拠点に帰還した。
 あまりにも仕事が楽だったために、時刻はまだ昼頃で、拠点にはさほど人はいなかった。盗賊といえど人形師や煙突掃除だったりと盗賊以外のこともしているのだ。当然といえば当然だろう。いるのは休憩時間のためダラダラと賭け事に興じる団員が数名と、何が楽しいのか分からないが部屋の隅で棒立ちしているカノンだけだ。
 彼女はどういった訳か、ときおり不安になるくらい一箇所に立ち続けているときがある。長い時は数時間もだ。出会ってからもう2週間以上も経過しているが、依然分からないことだらけだ。
 ともかくだ。プレゼントとなるネックレスは手に入れた。あとはなんとかしてカノンに渡すのみ……なのだが、こういうのはどうやって渡せばいいのだろうか。普通に渡そうと考えていたが、その普通が分からなくなり、シュトラフはその場で狼狽し、右往左往し始めた。
 ――分かってないっすね。あげるときが一番緊張するんすよ。
 この前団員が言った台詞が唐突にフラッシュバックした。何を慌てる必要がある。このプレゼントは特別なことではない。犬にお座りやらなんやらをさせるために餌付けするようなものだ。そう餌付け。特別な意味はない。いわば飴と鞭の甘いほうに過ぎない。
 シュトラフは冷静になるべく大きく深呼吸をした。鼻で大きく息を吸い、口から吐いていく。それを数回繰り返してようやく頭はクールになれた気がした。すると不意に自分とカノン以外のものが視界に映りこんだ。
 団員達たちだ。こちらのことを無視して賽を振る者もいれば、これはいい肴だと言わんばかりにニヤニヤと笑みを浮かべながら眺めている者もいる。そして問題のカノンはどこを見ているのか分からないが瞬き一つせず、冬の空よりも蒼い双眸を見せていた。
 シュトラフはごくりと唾を飲むと、ゆっくりとカノンのもとへ歩み寄った。一歩、また一歩と可能な限り自然に歩こうとするが、その一歩はまるで綱渡りでもするかのように慎重でぎこちないものだった。
「よ、よお。カノン。どうしたんだ? そんなところで突っ立って」
「――――【データ整理の中断】。シュトラフ様こそどうかされましたか? 処刑される直前の囚人みたいな表情と歩き方をなされていましたよ?」
「そ、そうか? 気の所為じゃないか?」
「……どうされたのですか。不自然です。というより気持ち悪いです」
 もう少し婉曲した言い方は出来ないのか。いや、それをさせるために今から行動するのだ。シュトラフはめげずに苦笑いを浮かべ会話を続けた。
「ちょっとぐらい不自然なほうが自然だぜ……多分。そんなことよりよ! 今日ちょっといい物手に入れたからやるよ!」
 シュトラフは強引に話を変えると、バッグから金のネックレスを取り出した。ネックレスは紐の部分が金で出来ており、灯りを反射させ明るく輝いている。中心には獅子の絵が描かれた一枚の金貨が掛けられていた。とても高価なものだろう。
 カノンは気難しそうに視線をネックレスに向けた。しばしの沈黙――――十秒ほど間をおくとカノンはネックレスではなくシュトラフを見詰める。
「……結構な頻度でワタシが頭を分離させていることをお忘れですか? 申し訳ございませんが、いらないです。他の方にでもあげてください」
「そういえばそうだったな……」
 シュトラフは顔を強張らせたまま、肩をうなだれた。
「ワタシは用事が出来たので失礼します。夜には戻りますのでご安心ください」
 カノンが悠然と出口へと向かっていく。シュトラフは反射的に彼女の肩を掴み止めた。
「ま、待ってくれ。確かにネックレスじゃあ不便だな。代わりにこれをやる。受け取ってくれ」
 シュトラフはネックレスをカバンにしまうと、代わりに小さな指輪を手渡した。しかしそれも受け取られることはなかった。
「いえ……。ワタシには必要ありません」
 カノンは受け取った指輪をシュトラフの左手の小指にはめ込むと、今度こそ外へ行ってしまった。プレゼントを渡すことに見事失敗したシュトラフは瞬き一つせずに虚ろな瞳を浮かべていたが、やがて我に返ると力ないため息を付いた。
 直後、シュトラフとカノンのやり取りを終始観ていた団員達が狂ったように腹を抱え、足をバタつかせながら笑い出した。
「ぶはっ……! アハハハハ! やばいっすよ。堪えようと思ったっすけど無理っすよ! フフハ! 最初の下手糞な人形師が操る人形みたいな歩き方もやばかったっすけど、受け取ってもらえなかったときのあの表情と必死さがやばいっす。リーダー、自分で言ったこと覚えてるっすか? プレゼントあげるくらい余裕だって、それどころか惚れさせてやるって断言したのに……くぅ! お腹痛いっすよ!!」
「いやはや! これは一生語り継ぐべき伝説になりますぞ! ワッハッハッハハッハッ――――げほっ!! ごほっ!」
 酔っ払っているんじゃないかと疑えるほどの馬鹿笑いし、中には咽(むせ)てしまっている者もいる。
 シュトラフは肉食動物のごとく凶暴で鋭い双眸で、笑っている輩を睨み付けた。その眼力は凄まじく、一瞬にして静寂が訪れた……が、その必死さとカノンとのみっともないやり取りが相まって逆に吹き出してしまう者も多く、拠点はすぐにやかましさを取り戻した。
 シュトラフはもはや何も言う気になれず、この場に居続けるのも恥ずかしく、逃げるようにして、いつもの酒場へ走っていった。
 ……夕暮れ時の街を亡霊のように歩き進み、酒場の入り口で数分たそがれ、力なく重い木製扉を開ける。
「いらっしゃいませ! 一名様で……って、シュトラフさんでしたか」
「今の俺はただの客だぜ。客として扱ってくれ」
「ではその辺に座ってくださいな」
「適当だな……」
 酒場は普通の客も多く、彼らはわいわいと楽しんでいたが、流石に混ざる気分ではなく、シュトラフは端の方にポツンと座り机に伏せた。しばし何も頼まずに惚けていると露骨に不快そうな顔を見せられたので、まだあまり腹は空いてはいないがシュトラフは注文を頼んだ。
「……ビール1つといつものやつ頼む!!」
「はいはーい!」
 元気な返答をするとウェイトレスはカウンターの奥へと行ってしまった。
 ……ただなんとなくここに来たはいいが、このあとはどうしようか。少なくても諦めるという選択肢はありえない。やり始めたからにはやり遂げてやる。そうでないと団員に負かされたことになる。
 ネックレスと指輪は駄目だったのは渡し方とか以前に単純に彼女が好みでなかっただけかもしれない。しかしカノンの好みが分からない。聞くのも変に恥ずかしいので無理だった。
 シュトラフが思考を続け、テーブルに頬杖をついていると、まもなくして注文した料理と木製コップから溢れ出るほど注ぎ込まれたビールがドン! と音を立てて置かれた。
 料理を運んできたのは以前、服を貸してくれたウェイトレスだ。彼女は活発な笑顔を浮かべると長いブロンドヘアーを揺らしながら、絡むように問い掛けた。
「どうしたのよ。いつもと違って元気がないじゃない」
「俺だって悩むときぐらいある。むしろ最近は多すぎるくらいだ」
「どんな悩みかしら。わたし気になって仕事に手が付かないわ?」
「それが仕事をサボる言い訳か。もっと考えるべきだな」
 シュトラフはそう言うとビールを一気に流し込んだ。それを見たウェイトレスが微笑を浮かべて会話を続ける。
「サボる言い訳が下手糞でもいいじゃない。それより悩みがあるなら教えてよ。ふふ、吐いちまったほうが楽になるぜ……みたいなことあるかもしれないじゃない」
 ウェイトレスは邪悪な笑顔を浮かべているときの大袈裟にシュトラフの物真似をすると、さらにビールを注いだ。酒に酔わせて金と悩みを吐かせる気なのだろうか。だが、いっそウェイトレスの言うとおり悩みを吐いてみるのもいいかもしれないと思った。
「仲間にな。お前は女に弱いとか言われたもんだから、そんなことはないってのを証明しようとカノンにプレゼントを贈ることになったんだよ。それでいざ渡したらだな……。想像以上に淡々とあしらわれた」
「ええと……カノンちゃんってあの凄い綺麗な白髪(はくはつ)の子よね?」
「そうだ。あいつせっかく俺が苦労して取って来たのに……あぁ! 畜生!!」
「そりゃ随分と大変な悩みね」
「笑わないのか?」
「あら、ジョークだったの?」
「冗談じゃない。俺は本気だ。そして俺は一度やると決めたら絶対諦めはしない。どうせやるならカノンが心を込めてシュトラフ様ぁ! って親しみと尊敬の意を込めて言ってくれるぐらいにしたい」
 いや、そこまでは行かずとも、せめて普通に喜んでくれるぐらいのリアクションは欲しかったのだ。
 ウェイトレスは苦笑すると隣に座った。馬鹿にする様子はないがサボりの口実には使われそうだ。だがまぁどうでもいい。シュトラフは話を続けた。
「このままだと俺は、からかってきた団員以下だぜ。あいつらはきちんと受け取ってもえてたからな。まぁ相手がフェイだからかもしれないが」
「あんたは何をあげたのよ。変な物あげたんじゃないわよね」
「これが変な物だと思うのか?」
 シュトラフはネックレスと指輪を取り出すと、ウェイトレスに見せ付けた。
「あら、綺麗じゃない。それって本物の金?」
「偽物なら重さで分かる。本物だぜ。ただ俺は好みじゃないし、フェイは高価なアクセサリーとか嫌いだからお前にやるよ。……カノンにいらないって言われたし」
「え、本当? いいの? やったぁ儲かった! ありがとねー!」
 ウェイトレスの女性は喜んで受け取ると、すぐに身につけてくるりとその場で回転してみせた。
「どう? 似合ってるかしら?」
 別に恋情などを募らせているわけではないが、それでもシュトラフは爽やかな笑顔に思わず見惚れてしまい、思わず視線を逸らした。正直な話、女に弱いのは事実である。
「似合ってるんじゃないか? 俺には良く分からないな」
「なんで疑問形なのよ。失礼ね……。でもこれだったら普通の子は喜ぶと思うけどなぁ……。もしかしてカノンちゃんはフェイちゃんみたいに高価なアクセサリーが嫌いなんじゃない?」
 ……分からなかった。もう一緒にいて2週間とちょっとは経っているが、逆に言えば2週間程度しか経過していないのだ。カノンを理解するにはまだ時間が浅さ過ぎる。
「一体なんだったら受け取ってもらえると思う?」
「私だったらなんでも嬉しいけどなー。うーんなんだろ? あ! そういえばいい物があった! ここだけの話なんだけどね――――」
「お、なんだんなんだ? 聞かせてくれ」
「……料理もう一品頼んだらいいよ」
「巧い商売だな」
「それは掛け言葉かしら?」
「俺がいつ何を掛けたってんだ……? ってそんなことはどうでもいいんだよ。とりあえずオニオンスープを頼むぜ。だから聞かせてくれ」
「はいはーいまいどありー! それじゃ、教えるわね。……街から数十キロ離れたところにアドラー・フォン・フェルディナンドっていう貴族の豪邸があるんだけどね。というか、ここの街の領主ね」
「アドラーねぇ……。ここ最近ちょいちょい名前聞くけど。なんであいつ自分の土地に他の貴族住ませてるんだろうな?」
「知らないわよそんなこと。それでね! そこで働いてる執事が休暇でこの酒場に来たときに言ってた話なんだけど、その貴族は【慧来具】が時代を変えるとかいつも喋ってて、必死になって収集してるらしいんだけど、集めた中にヘアバンドのような【慧来具】があったらしいのよ。光沢のある白くて軽い金属で出来た綺麗な物らしいわよ」
 ヘアバンドの【慧来具】……。確かにそれならカノンに相応(ふさわ)しいかもしれない。純白の髪にきっとよく似合うはずだ。武器系統の【慧来具】を持っていると噂があり、危険ではあるが、やると覚悟を決めたからにはどんなリスクでも負おう。シュトラフは勢いよく立ち上がると料理代にしては多すぎる金を机に置いた。
「ありがとう。それだったらカノンも受け取ってくれるかもしれねえ。これで次にやるべきことが決まったぜ。釣りはいらん。受け取ってくれ」
「太っ腹ね。でもまだ頼んだスープが来てないわよ」
「あ……そうだったな」
 シュトラフは恥ずかしそうに頭を掻くと、再び席に座った。衆知の事実であるが、やはりこの店の料理は美味しかった。
 翌日以降、シュトラフは義賊としての活動はしながらも、対象の観察という重大な仕事をフェイと一部の団員に完全に任せてしまい、自身は街から数十キロ離れたところにあるアドラー邸へ何度も向かっていた。
 街を過ぎて、広大な冬の草原と小麦の種が撒かれているであろう土色の畑の間を進んだ先にあるその豪邸は、街にあるものとは一回り違った。それもそのはず、この地域は全てこの貴族のものなのだ。政策として他の貴族達もこの土地や街にいるだけで、彼らの所有地は全く別の場所にある。あいつらの考えることなんてどうせしょうもないので詳しくは知らない。
 ともかく、アドラー邸は豪華で、威厳ある洒落た玄関や、窓枠は足場にも出来そうなほど出っ張った荘厳な装飾が施されていた。窓の配置からして二階建て、屋根裏部屋付き。使用人は屋根裏部屋で生活しているのだろう。
 ここ数日、監視を続けて一日の動きは把握した。怪しまれない程度にどのような【慧来具】があるかをメイド達に聞いてみもしたが、曖昧な答えが返ってくるばかりで、参考のサの字にもならなかった。大した【慧来具】はないのかもしれない。しかし隠している可能性も否めないので、あまり派手に事を起こすのは良くないだろう。
 犯行を起こすならば、やはり皆が寝入る深夜が好ましい。いつもの通り窓を焼き割って、そこからゆっくりと侵入だ。盗む物が体に身に着けるアクセサリーであってもヘアバンドなら寝るときは外すはずだ。慎重に、音を立てなければ犯行はたやすい。
 シュトラフはおおまかな犯行想像図を脳内に組み立てると、日が沈み夜の闇が空を覆うまで監視し続けた。……随分と冷え込み、指先が凍えるような感覚がする。犯行時刻になったのだ。
 シュトラフは自身の武器であるFE-36を手に取ると、屋敷の窓へと忍び寄った。念のためゆっくりと窓に手を触れて普通の材質かどうかを確かめる。触った限りでは特別なことはなく、氷を触ったかのような冷たさが残るだけだった。……これならたやすく割れる。
 シュトラフはニヤリと笑みを浮かべると、いつものように焼き割り、ガラス片を取り除き、建物内部へと侵入した。
 他の豪邸と比較しても広いと思えるほどの廊下。床には高そうな赤い絨毯が引かれている。だが、晩餐室や玄関ホール、応接室などといった部屋があるというのは絶対に変わらない。自室などは必ず二階にある。一階にプライベートな部屋はないのだ。
「階段は……玄関ホールのほうか」
 シュトラフは足音を一切立てず、暗殺者のような足取りで玄関へと向かった。
 玄関に向かった目的である二階への階段は推測通り玄関にあった。玄関は吹き抜けになっていて、一階から目と耳と勘で探りを入れた限りでは、2階の廊下に誰かがいるような気配はない。
「……これならすぐ終わりそうだ」
 シュトラフはそう呟くと二階へと上がった。二階は一階よりやや狭い廊下が伸びており部屋は六つある。貴族夫妻の部屋と執事の部屋、メイクルームに……あとは客室だろう。どれがどの部屋かは流石に分からなかった。扉はどれも同じで、大人びた濃い茶色の木材が使われている。残念だが執事の部屋なんて書いてある板は無い。
「……直感で行くしかないようだな」
 シュトラフは覚悟を決めると、一番近くにあった部屋から入ることにした。ゆっくりと忍び寄り、ドアノブに手を掛け、扉が軋む音すらあげないように慎重に開く。
「……はずれか」
 部屋にあるのは柔らかそうなベッドに机、椅子……ただの客室のようだった。扉を閉める際に音が鳴るので開けっ放しにしたまま、シュトラフは次の部屋を確かめる。
「……はずれ」
 隣の部屋も客室だった。だがこれは想定内……客室が連続しているのは自然なことだ。問題は次の部屋だ。下手なリスクを負いたくないので婦人の部屋だといいのだが…………。
 シュトラフはごくりと唾を飲むと、次の部屋の扉を開けた。むわりと漂う香水の匂い……。人が寝ているのか膨らんだ毛布。ビンゴだ。十中八九ここは婦人の部屋だ。
  シュトラフは心の中で喜びの声を上げると、目的の品であるヘアバンドの【慧来具】がどこにあるかを探し、すぐに見つけた。机の上にポンと置かれていた。いつもの通り忍び足で進み、足音を立てず、机の前まで向かい、ヘアバンドを手に取った。
 それはFE-36と似たような材質で銀色の軽い金属で作られていた。ただのアクセサリーなのかそれとも特殊な使い道があるのかどうかは分からないが、実際に手に取るとヘアバンドらしからぬ構造があり、違和感を覚えた。スライドで頭のサイズに合わせられるようになっているのはいいが、なぜか耳あてまで着いているのだ。耳あての部分は外側は青色の金属で内側は柔らかな素材が使われている。耳を隠すのがカノンがいた世界でのファッションとして成立しているのだろうか。どのみち綺麗な物であることに間違いはない。宝石や金とは違い、異国情緒……いや、異世界情緒に溢れているというのだろうか。ともかくカノンに似合うこと間違いなしだ。
 シュトラフは期待を込めてヘアバンドのような物を手に取り、すぐに鞄にしまい込んだ。あとは逃げるだけだ。シュトラフは屋敷に侵入する前と同様にニヤリと笑みを浮かべ、部屋をそっと出た。そして階段へ向かおうとし――――反射的に硬直した。
 行きに無かったものが自身の目の前に……二階の廊下の中心に転がっているからだ。それは手のひらほどの大きさをした鉄球のようなものであった。
 ――――すぐに逃げろ! 何かマズイことが起きている!!
 いままで培(つちか)ってきた経験がシュトラフの脳裏に警告を上げた。だが下手に動くのも危険であると、理性が脚を抑える。結果として反応が遅れ、何も出来なかった。いや、逃げていても無駄だったかもしれない。
『警告! 警告!! 設定した時刻をオーバーしております! 設定した時刻をオーバーしております!! 許可されている場合はパスワードを入力してください。繰り返します――――』
 危惧した通り、鉄球は【慧来具】であった。それは甲高くけたたましい音を響かせながら同じ文章を繰り返し発声し始めたのだ。
「っち! こんなのありかよ!!」
 シュトラフは我に返ると鉄球を手に取り一階玄関に向けて放り投げた。だが音は決して収まる様子はない。それに、あまりにもうるさ過ぎた。【慧来具】の発する警報音に紛れながらも、背後から扉が開く音がはっきりと聞こえた。
「侵入者か?」
 響く男の声。シュトラフは慌てて振り向きFE-36を構える。声を発したのは執事のようで、彼は殺しに躊躇のない冷徹な双眸をこちらに向け、ブロンド髪を揺らしながらマスケット銃ではなく未知の銃を構えていた……【慧来具】だ。FE-36と同じ材質に見えるが、それよりも大型の銃だった。大きさは人の両腕ぐらいか。しかし、その辺にあるような銃とは違い無駄がない。FE-36同様に装填はいらないと考えるべきだ。
 二人は互いの持つ凶器に刹那の驚きを見せたが、そんなことお構いなく同時に叫んだ。
「動くと撃つ!! そのまま俺が逃げるまで動くな!」
「動いたら、お前の全身に穴が空くだろう! 武器を捨てて、両手をあげるんだ!」
 その声に躊躇など微塵もなかった。相手は本気だ。いつぞやの銃を構えて脅しをするだけのハッタリ野郎とは違う。
「……早く両手を上げろ。銃を下ろせ。どうせナイフも隠しているだろう? お前みたいのは油断ならない」
「悪いが俺は捕まるつもりはねえぜ」
「本当に死にたいのか? それとも、このおれが人を殺すこともできない弱者だと思っているのか?」
「捕まったらどのみち死刑だろ。広場で見世物にされてさ。そんなの却下だぜ」
「残念だ。【慧来具】を渡せば減刑されたのだが……ならば殺してくれる!」
 両者はほぼ同時に引き金を引いた。刹那、執事の銃は白光の弾丸を放ち、シュトラフの銃は燃え盛る火炎を放った。敵の攻撃はこちらの右腕を掠めた。被弾した部分は綺麗に、皮膚が焼け切れるように消滅した。衝撃が走ると同時、そこから熱と痛み、そして鮮血が溢れ出た。
「アアアア! 畜生、覚悟はしてたけど痛えよ! 畜生!! ……けど執事! お前は俺が引き金を引き続けてる限りこの狭い廊下で俺に追い付くのは不可能だ!!」
 FE-36は依然、まるで炎の壁を作るかのように灼熱の火炎を放っており、耐え難い熱をもった橙の炎が廊下を満たしていた。炎の射程は精々五メートルが限度であったが、風一つない屋内では射程以上の範囲を燃やしている。
 敵の悲鳴や呻き声は聞こえない。炎の所為でシュトラフ自身も執事がどういう状態か分からなかったが、このまま逃走するべく炎を放ったまま移動を続けた。
 だがこの考えは甘かった。勢い盛んに燃え上がっていたはずの炎の中を、敵は悠然と歩いていたのだ。シュトラフは自らの目を疑うも、すぐに納得する回答を得た。よく見ると執事自身はもちろん、衣服や彼の足元だけ、炎が消えていた。一歩、また一歩と敵が歩みを進めると沈火した場所が再度出火していく……相手はそういう【慧来具】を使っているのだ。
 特定の範囲に存在する炎を……いや、もしかしたら光弾や稲妻でさえ逸らしてしまうかもしれない。どういった仕組みで動いているのか理解することは不可能であったが、敵が攻撃に対する防御の手段を持っていることだけは確信できた。
「炎は効かない。それだけは言ってやろう。諦めて武器を放棄するといい。我が主とお前では圧倒的に所有する【慧来具】の数が違う。勝ち目はない」
「俺は勝ち負けとかそういったことは目的じゃねえ。やるべきことは逃走だ」
 シュトラフは無駄なエネルギー消耗を恐れ、すぐに引き金から指を離すと全力疾走した。
 もう目の前には玄関ホールが広がっている。玄関ホールは吹き抜け……階段など使う時間はない。赤い絨毯を踏み蹴り、そのまま跳躍。しかし敵もただで逃がそうとはしない。
 背後で何が起こっているかはわからないが――――髪の毛と衣服、肩の一部を無音の銃撃によって貫かれた。舞い上がる血飛沫。肩に走る鋭い激痛。神経が異常を知らせ、苦しいくらい熱を伝える。弾を受けたことによる強い衝撃によって体は予想外の方向へ吹っ飛んだ。それが不幸中の幸いか、敵の弾丸が頭部すれすれを通過し、屋敷の壁に何発も被弾していた。もし肩に当たっていなかったらそれらは全て頭部を貫いていただろう。しか、バランスを崩したことによってシュトラフは受身を取ることもままならず、落下の運動力によって両脚を強く殴打する。
 それでもすぐさまFE-36のモードを切り替え、扉の鍵に対して発砲。そして扉を押し開き、屋敷の外へと脱出した。だがまだ安心は出来ない。咄嗟に建物内部から見えない位置へと移動すると、近くに草陰に身を隠した。
「……くそ、痛え」
 冬でも身を隠せるほど葉を旺盛に生やしていた植物で、近くにあったのは柊(ひいらぎ)の低木だけであった。その葉は普通の植物とは違い硬く、光沢があり縁(ふち)には鋭い刺となった鋭鋸歯(きょし)があり、それは木材のささくれのように顔や手などの皮膚を切り、傷つけていた。
 さきほどの被弾によって生命の危機を感じてた脳が、痛みを麻痺させるがそれでもまだ痛みは消えない。柊の葉での傷も確かに痛いが、我慢すればいい話だ。それより問題はこのまま撃たれ続ければ致命傷を喰らわずとも失血死する。すぐに対策を取らなくてはならない。
 シュトラフは鞄から小さなナイフを一本取り出すと、それで自らの衣服の一部を切り取り、傷口を縛った。染色もされていない安物の布切れが血で赤く、鮮やかに染まっていく。傷口は熱いが体の芯は冷気に当てられ凍えてしまいそうだった。
 ちょうど脚と肩を縛り終えたとき、執事が屋敷から出て、辺りを見渡していた。探しているのだ。見つけ次第、敵は間違いなく撃ってくる。
 こちらの攻撃は防がれてしまう可能性が非常に高い。もう攻めてはいけない。けれどただ走って逃げてもいずれ撃たれてしまう。しばらく身を潜めるんだ。シュトラフは息を殺して、気配を、寒さによる体の震えさえも抑えて、敵が諦めるのを待ち続けることにした。
 執事は銃を構えたままある程度まで歩くと、すっとその場にしゃがみ、地面にあの忌々しい鉄球を置いた。警報を鳴り響かせてこんな危機的状況と苦痛を生み出した最悪な【慧来具】だ。
「まだこの近くにあの盗人はいるはずだ。探せ」
 執事が鉄球に命令を下すと、無機質で機械的な音声でその鉄球は返事をした。
『了解。【メタリカver1.2】は不審者及び不審物の捜索に掛かります』
 鉄球は周囲を転がって移動し始めた。しかしただ転がるだけではなく、急停止や回転の向きを器用に変え、辺りを確実に捜索している……。数分するとシュトラフの視界外へと消えてしまった。
 この草陰隠れ続けて平気なのか? 一見する限りではここは死角だが、あの鉄球は【慧来具】……どんな手段を使ってこちらを探しているのか予想もできない。今、鉄球がどこにあるかさえも把握出来ていない。しかし今動けば……ばれる。執事は鉄球に捜索させてからその場で棒立ちして動こうとしないが、油断している様子は微塵もない。何か些細な変化が起きれば撃ってくる。鷹のような琥珀色の双眸がそれを物語っていた。
「くそ……鉄球が」
 思考を巡らせていると、鉄球が再度視界内に映り込んだ。それどころか鉄球は段々と近づいてきているのだ。10メートル……8、5、約3メートルの離れた場所で鉄球はピタリと停止し、その場でゆっくりと回転し始めた。シュトラフはごくりと唾を飲む。じっと鉄球の動きを視界にいれ、何かあったらすぐに逃げれるよう脚に力を込める。
『熱反応あり――――脈拍あり。形状……人間。警告! 不振人物の確認!』
「ああ! くそったれ!!」
 シュトラフは立ち上がると同時に地面を蹴り上げその場を跳んだ。1秒未満という僅かなズレをおいて、シュトラフが隠れていた草陰にいくつもの光弾が着弾していく。回避行動は決して遅くはなかったが、それでも敵の弾丸が再び脚を捕らえた。血が地面に飛び散り地面に染み込んでいく。
 自分の肉が焦げてしまったのか不快な臭いが鉄の臭いと共に漂った。脚が予想外の方向に力を掛けられ、ぐらりと体が揺れ転倒。咄嗟に倒れる勢いを利用し回転。受身を取ってすぐさま立ち上がるも意識が混濁した。
 このままだとまずい……。負ける。殺される。
 シュトラフが恐怖の色を顔に浮かべると、執事は無表情のまま口を開いた。
「諦めろ。もうその怪我だ。逃げるのは不可能だろう? おとなしくすれば惨めに凍え死ぬことはない。【慧来具】に殺されるなら、さぞ名誉なことだろう」
「はは……悪い冗談だぜ」
 シュトラフは息も絶え絶えな様子で苦笑いを浮かべると、すぐにFE-36のモードを火炎放射に戻し、引き金を引く。銃口から光が零れると同時、再度放たれた業火は乾燥した枯れ木や落ち葉に燃え移り周囲を勢いよく燃やし始めた。さきほどまで身を隠すのに使っていた柊も音を立てて燃え盛っている。敵は炎の熱と煙は防げるのかもしれないが、あの見えない盾が防ぐのは人一人が限度だ。
【慧来具】が放つ弾丸は文字通り光だ。煙や霧、他の光によって貫通力は減退する。そして視界が妨げられるのは防げないはずだ!! 火と煙でめくらましをし、その間に逃げる。炎が広がっていれば執事も下手に仲間を呼ぶことはできないはずだ。
 シュトラフは炎を広げながら街を目指し草原を進もうとするが、足を止める。
 街からこの屋敷までの距離は数十キロはあった。そんな長距離を逃げる間、火を出し続ければFE-36は間違いなくエネルギー切れになる。ある程度距離を稼いで後は普通に逃げようにもこっちは負傷している。追い付かれる可能性は高い。途中で隠れるかわざと遠回りするにしても鉄球がある限り見つかってしまう。ならどうすべきだ?
 炎が轟々と燃え広がり、背後から執事が接近してくるなか、シュトラフは思考を巡らせた。……迷っている時間はない。あと5秒も時間はない。それを越せば敵は確実に致命傷を与えてくるだろう。決めろ。
 命の危機に瀕した脳は通常の限界を超え、瞬時に生きれる可能性を提示した。
 ……この近くには川がある。それは街のほうまで伸びており流されれば辿り着ける可能性もある。自らが放った炎に焼かれることもない。いや、落ち着け。今は冬だ。もし飛び込めば凍てつくような水が体温と体力を容赦なく奪い取って……死ぬ。
 ――残り3秒。シュトラフは脚を動かしてその場からひとまず逃げようとすることを止めた。脳を少しでも考えることに使うという賭けに出た。すると執事が疑問の声を上げた。
「……諦めたのか? ならお前の頭を確実に狙い撃ってやろう」
 炎の音の中、かすかに地面を踏み締める音がした。それは段々と近付いて来ている。だがシュトラフは逃げる行動にはまだ移らなかった。生きる可能性を求めて考え続けた。
 ……もうひとつの案はあえて屋敷のほうへ戻り婦人を人質に取るというものだ。屋敷内部がどうなっているにしても、メイドや私兵は主人と婦人の避難をしているはずだ。まだそう時間は経ってないので裏口周辺にいるだろう。しかしこれは危険な賭けだ。まだ未知の【慧来具】があるかもしれないし、裏口にいないかもしれない。それに兵士に普通にやられる可能性だって低くはない。
 シュトラフは苦虫を噛み潰すように顔を歪める。一方執事は歩みを止め、3メートルほど離れた場所でゆっくりと銃を構えた。
「最期に言うことはあるか? おれは人を遠慮なく殺せるが、悪いとは思ってるんだ。少しだけだがな。それに、お前を殺すことに変わりはない」
 彼の言葉は耳に入ったが、シュトラフは最期の言葉など考えることはしなかった。体と意思は最後の最後に思い浮かんだ第三の案に全てを委ねることにしたのだ。必要なのは決定的な隙だ。そして運。予想外があれば死ぬ。結局はこれも賭けだ。けれどもう……覚悟はできている。
 シュトラフは険しい表情を浮かべたまま、すっと銃を執事に向けた。その僅かな動作の間に指でレバーを弾き変更し、緑光の線が垣間見えた。しかしそれも一瞬だった。両者がほぼ同時に引き金を引くと、全身が揺らされるほどの金属が重なり摩擦するような、あまりにも不快でけたたましい怪音が鳴り響き、周囲は白い閃光に包まれた。
 FE-36が緑光を放つとき、それは周囲を自分もろともスタンさせる危険な状態であった。閃光こそは目を閉じ頭を伏せたために、目が若干チカチカするだけではあるが、吐き気を催すほどの音によって頭が叩き付けられたかのような感覚がした。
 気付けば頬から血がだらりと垂れている。熱は感じることができた。執事は事前に銃を構えていたがこちらが微動だにしなかったのを見て油断したのだろうか。いずれも幸運であった。あと数センチずれていたら命はなかった。だが感傷に浸っている時間はない。閃光も轟音も一瞬なのだ。この不快な感覚は長くは持たない。
 シュトラフは執事を見据えた。執事は目を抑えて膝を地面につけて何かを叫んでいるが何も聞こえない。あまりにも巨大な音はシュトラフの中で無音を作り出していたのだ。だからかもしれない。スタンの効果は精々数秒ではあるが、その少ない時間のなかで狙うべき標的をすぐに見つけることができた。
 標的は……鉄球(メタリカ)は執事より2メートルほど後ろで僅かに回転しながらその場に留まっていた。あとは、撃ち抜くだけだった。
 シュトラフはFE-36のレバーを押し、着弾地点を示す光の線が赤になったのを確認すると、光が鉄球に当たるように銃を向ける。心臓は高鳴り血を撒き散らし、脚はふらふらと不安定であったが、このとき一切のズレはなかった。指に力を入れ引き金を引くと、銃口から放たれた白い光弾が鉄球を穿き、あまりにも呆気なく鉄球を破壊した。あとは逃げるだけだ。
 シュトラフは踵を返し、死力を尽くす勢いで大地を踏み蹴ると、逃げ切るために駆け抜けた。
 スタン効果はもうすぐ切れるだろう。だがその前に視線を絶って、かつ見つからない場所へ行く必要がある。隠れれそうな茂みはもう通用しない。行くべきは隠れられない場所だ。
 その答えはもう分かっている。あまりにも滑稽で命の危険に晒される場所。冷静に考えて絶対に行ってはいけない場所。
 ――――不幸中の幸いだろうか。いや、屋敷がその場所の近くに建てられたのだろう。決して偶然なんかではない。
 シュトラフが目指した先にあったのは巨大な川であった。川は月を朧げに反射しているが、同時に夜の闇をも映し出して死んだみたいに黒く染まっていた。
 覚悟は出来ていた。飛び込んでやるぞという覚悟と、絶対に生きるという覚悟だ。死の覚悟をする気はそれこそ死んでもない。シュトラフは脚を踏み留めることも、考え直すこともなく、勢いに身を任せると川へ飛び込んだ。水飛沫が立ち、本当だったら音が鳴っているだろうが、スタンによってやられた耳がその音を聞き取ることは決してなかった。
 冷たい……という感覚は一瞬だった。外気が凍て付くほど寒いがために水のほうが生ぬるく温かく感じることができた。このまま潜水し、川の流れに身を任せれば街に大きく近づくことができる。
 水面を立てないように静かに潜る。音は少しずつ聞こえるようにはなっていたが、耳に入る音は全てノイズのように乱れた音だった。水を掻いている音も流れる音もその音だと判断できない。
 地上では執事がいるのだろうか。水中からだとどうなっているのか分からなかった。しかしそれは外から見ても分からない可能性が高いということだ。このまま息を堪え続け、可能な限り距離を離すのだ。川の底まで潜り、イモリのように手で地面を蹴って進んで行く。
 ……おそらく一分が経とうとしていた。どの程度距離を離したか分からないが、息はもう限界に近かった。歯を噛み締め耐えているものの、肺は締め付けられるような痛みを走らせ、脚は身悶えたくなる衝動に襲われていた。
 せめてあと30メートルは離れなければ……!
 シュトラフは片手で口を抑えて自分に何度も言い聞かせた。もはや泳ぎではなく溺れていたかもしれない。見苦しいくらいにもがいて、もがいて、もがいて、頭が真っ白になって体が浮くのを諦めかけたとき、ようやく息をしようと思った。脚に力を込め、川底の砂利を蹴り上げ、水面からなんとか顔を上げる。
「……がはっ! ごほっ!! …………逃げ切った、……のか?」
 シュトラフは行き絶え絶えな様子で辺りを見渡した。現在地が自分でもよくわからないが視界に映るのは夜の闇で、黒々としか映らない地面と山々だけだ。パッと見た限りではあの執事はいない。しかしよく目を凝らしてみると背後のほうで煙が上がっているのを確認できた。まだ距離としてはそこまで離せてはいない。それでも川岸の反対側まで泳げばだいぶ距離を取れる。橋なんて街まで行かない限りそうそう無いからだ。
 足の先が着かないほど深い川もゆっくりと岸に近づくと水面が低くなっていくのが実感できた。さきほどまで豪々と燃え上がっていた炎も、血みどろになって駆け抜けていたのも嘘のようだ。まるで嵐が過ぎ去った後みたいに、静寂が包み込んでいた。
 今にも倒れてしまいそうな体をなんとか動かし、水から上がった。服は大量に水を吸い取っており鉛のように重い。潜り泳いでいた所為か、外気はより凍えるような寒さとして全身を襲っている。あと街まで何キロあるんだろうか……。
 シュトラフは川の流れる先をジッと見詰めた。しかし人工物が見えることはない。シルエットでさえ現れない。それ以前に視界が朦朧と重なり酷く歪んでいる。
 体が震える。けれども指先などは既に麻痺していおり、感覚はとうにない。勝手に動いている。
「くそ。やっぱ川に飛び込むのは…………愚作だった」
 死にそうな声で思ったことをそのまま口にしてみた。しかし自分自身の声も掠れて聞こえる。雑音としてしか認識できない。限界はとっくに越えていた。一歩、また一歩と歩みを進めるだって本当は不可能だった。それでも決死の思いで三歩だけ街へ近付き――――膝を地面に付けた。立ち上がって帰らなくては……死ぬ。脚を動かせ。動け。動け!
 どれだけ自分自身に命じても、立ち上がろうと試みても……無理だった。それどころか膝より上も力が自然と抜けてしまい、倒れるほか無かった。きっとドサリと音を立てて、地面に倒れたのだろう。
 視界が酷く低い場所に移動したことが分かった。胴体や腕、頬は地面と接している感触が曖昧に伝わってくる。外気と比べると暖かいような気がした。瞳を開ける力も残ってはいなかった。体温を奪われ、想像以上に命の危機に瀕していた。
 目を閉じたらダメだ……。二度と覚めることができなくなる。このまま……なんとかして、意識を保たないと…………。ナイフで自分の手を突き刺してでも起きなければ、本当に死ぬ。
 寒さでガチガチと震えていた口も、もはやそんな力もなく半開きになっていた。そのうえ陽気な太陽にでも当てられたかのように眠気が脳を襲ってくるのだ。もう、堪えることはできなかった。閉じるまいとしていた瞳もいつのまにか閉じていた。視界が黒い。数秒後には気付く間もなく意識を失っていた。

 

 ――――暖かい。そんな感覚がした。
 誰かの手が頬に触れている。……感触がある。思考ができる。これが天国というものか? いや、そんなものはない。あったとしても行けるはずがない。行けるところなんて地獄か大地獄だ。きっとそれは悪夢に違いない。煌びやかに着飾った司祭がいうには業火に焼かれるらしいから。ならばこの感覚はなんだ。あまりにも心地よい。まるで大樹にでも寄り添っているかのような感覚がする。……もしかして生きているのか?
 そんな考えが浮かぶと、黒で塗りつぶされていた視界が白い光に照らされているような気がした。
 体は動くだろうか。目は開くだろうか。……シュトラフは恐る恐る目を開いた。ぼんやりと靄が掛かったような視界に木製の天井が映りこむ。どこかから朝日が差しており額が痛いくらいに眩しく感じた。
「…………っ」
「目を覚ましましたか」
 思わず呻き声をあげた直後、もはや聞き慣れた声が響き、見慣れた顔がこちらを覗き込んだ。
「……カノン?」
 シュトラフは今目の前にいる少女の名を不思議そうに呼んだ。
 カノンが見慣れぬ表情を浮かべていたからだ。彼女はその深い蒼の双眸を潤わせ、こちらを怒っているような嬉しがっているような複雑な様子でジッと見詰めていた。白銀の髪は太陽の光を受け、きらきらと輝き揺れている。
「……なぜです? なぜあんな愚かなことをしたんですか? あと少し遅れていたら凍え死んでいましたよ。野垂れ死にもいいとこです。犬の餌になりたいのですか? それに何箇所も被弾した傷があり、血も大量に無くなっていました。なぜです? なぜそのようなことをしたのです? 考える脳みそがあればもう少しマシなことにはならなかったのですか?」
 カノンはあどけない声を鋭く響かせ怒りをぶつけた。しかし声はいつものような気迫がなく、心なしか弱々しい。
 シュトラフはゆっくりと体を起こした。撃たれた箇所がまだズキズキと痛むが、体には包帯が適切に巻かれ、最大限の治療が施されていることが分かる。
「……心配してくれたのか? 治療をしたのは……カノン、お前なのか?」
「ワタシは心配なんてしていません。治療をしたのは持ち主に死なれたら困るのと、そこの桃色娘が馬鹿みたいに泣いていたからです」
 カノンはそっけない態度でそう答えると顔を逸らし、自身のすぐ隣を指差した。そこにはフェイがいた。彼女は目にくまを作り、イスに座ったまま力尽きたかのように眠ってしまっている。
「俺は何日寝てたんだ?」
「三日三晩ずっとでございます。いつまで経っても戻ってこないので周辺を捜索したところ岸辺で瀕死状態のシュトラフ様を発見し、以降ワタシとフェイ様が看病しておりました。いえ、看病してあげました。ですから精々感謝してください。そして二度と…………このような真似はしないでください。コードで電気ショックを行うのはこちらのエネルギー残量も相当食うので二度としたくないです」
 カノンは威圧するかのように低い声でそう警告すると、小さなため息をついた。シッポは不機嫌そうに、もしくは嬉しそうに機敏に動いている。
「悪かったって。心配させて悪かったよ」
「心配なんかしていません。調子に乗らないでください。ワタシが感じているのは怒りでしょうか。あまりにも無責任な行動……人を率いる者がしていいことではないです。それにもう少しワタシの持ち主としての自覚を抱いてほしいものです。皆様、ずっと心配していたのですよ?」
「いや、本当悪かったって。ほら、代わりにいいものやるから許せ……俺の鞄はどこにある?」
 シュトラフは部屋の見回した。部屋には自分が寝ているベッドが一つと椅子と机が数個。しかし机に置かれているものは怪我の治療に使ったのであろうタオルや桶、薬、それになぜかFE-36だけがポツンと置いてあるくらいだ。
「いいものとは……まさかとは思いますがこのヘッドホンを言っているのですか?」
 カノンは呆れた様子でどこかからヘアバンドのようなもの……曰くヘッドホンとやらを取り出した。白を基調とし、なぜか耳を塞ぐ奇妙な構造をしたそれは、カノンにあげるために盗んだ代物であった。
「人の鞄を勝手に弄るなよ……。まぁ、それで合ってるよ。お前に似合うと思ったから、プレゼントするためにちょっと貰おうと思ってな。けど油断しちまった……危うく死ぬところだったぜ」
 シュトラフが苦笑いしながら、自身の身に起きたことを冗談混じりに伝えると、カノンは人形のような顔に寂しげな影を差して、何かに苛まれ苦しむようにか弱い声で言った。
「……訂正します。シュトラフ様。謝罪するのはワタシの方でした。……ワタシが原因ではありませんか。ワタシの所為ではありませんか」
「あ? いや、これは俺が勝手にしたことだからカノンは悪くないだろ」
「しかしその動機はワタシなのでしょう……? やはりワタシは貴方の運命にとってあまりよくない影響を及ぼすのではないでしょうか。ワタシは――いても平気ですか? ――――ここにいても平気ですか? ワタシ達【慧来具】は……未来の道具は、……今ここに存在していても大丈夫なのでしょうか?」
 カノンは吹っ切れてしまったかのようにそう何度も尋ねた。その様子はいままでにないほど思い詰めているように見えた。自らを責め立て、苦しめているような、自身の存在価値さえも疑念する、危うい考えを抱いているように見えたのだ。
 シュトラフはごくりと唾を呑んだ。さきほどまで言葉攻めをしていたのは空元気のようなもので、今眼前に写るあまりにも脆い少女こそが真のカノンなのだと分かってしまった。それに……妙に今の彼女に親近感を覚える。
 好きだとか嫌いだとか――そんな些細なことはどうでもいいんだ。今、初めてカノンのことを深く理解できた気がする。見栄を張って自分を取り繕い、それでもどうしようもなく自己嫌悪に陥る。まるで昔の自分を見ているような気がした。
「……カノン」
 シュトラフは苦しげな顔をして、少女の名を呼んだ。しかし相当思い詰めていたのかその声を耳に入れてくれない。
「【致命的なエラー】……。契約廃棄の設定を行ってください」
「カノン!! いいから黙って俺の言う事を聞け!」
 強く呼びかけると、カノンは蒼く虚ろな瞳をこちらに向けた。その目からあまりにもか弱い雫が流れ、頬を伝い落ちるとシュトラフの手を濡らした。……カノンは人間ではない。人間に可能な限り似せて作った機械なのだろう。しかしこの手に落ちた涙は決して偽物なんかじゃない。
 シュトラフは大きく息を吸うと、カノンの頭にぽんと手を置いた。白銀の髪はあまりにも美しく、そして柔らかい。ゆっくりと髪を撫でると、カノンは怯えるように肩を震わせ、こちらをジッと覗いた。
「俺はお前を捨てたりはしない。平気だ。ここにいても大丈夫だ。お前がどれだけ俺を馬鹿にしようと嘲笑おうと俺はカノンを捨てたりはしない……。まぁ、素直でいてくれるのが望ましいが。いや、それは段々改善してくれたらいい。それでも、もし何か思い悩むようなことがあったら教えてくれよ。隠したり溜め込んだりせずによ」
「…………自分は実名を語らないのにですか?」
 シュトラフは想像もしていなかった返答に驚き、僅かに目を見開いた。
「いつシュトラフ・トリスタンが偽名だと分かったんだ?」
「ワタシの頭にある過去の歴史データから引っ張り出し、探しました。シュトラフ様の本名はアーデルハイト・フォン・フロイデンベルク。この名を知っているのは他に誰がいますか?」
「いや、お前だけだ。その過去のデータとやらに隠している理由は書いてなかったのか?」
「えぇ、残念ながら。あるのはシュトラフ様がしでかした大きな犯罪と……どのように、いつ死んだかの記録だけです。その記録もワタシがいる所為でズレが生じております。全てが早まっているように思えるのです。このままでは貴方が死亡する日さえも近くなってしまう――――ですから、ワタシをお捨てになさってください。まだ未来は修正が効くはずなんです。ですから――!!」
 カノンが段々と声を荒らげまた自身を責めるように目を細めたので、シュトラフは子供をあやすように頭を撫で、大丈夫だ、落ち着いて……となだめた。
「カノンがいた未来といない未来とで比較する必要がどこにある。俺はこの世界の住人だ。それにカノンに会えて面倒臭いだとかちょっと腹が立つことは結構あったが、いないほうがいいなんて思ったことはないし、これからだって思わない。だからなんと言われようと捨てねえぞ。あと名前の件だが…………」
 正直名前のことに関してはこれ以上掘り返したくなかった。が、言うしかないのだろう。シュトラフは息を吐くと、嫌な記憶でしかない実名について小さな声で話し始めた。
「言わなかったのはすまん。ただ思い出したくなくてな。……絶対に誰にも言うなよ?」
 カノンは無言で頷いた。
「――――俺はフロイデンベルクって場所を統治する貴族の息子だったんだ。昔はなんも知らずに贅沢してたのが馬鹿みたいで嫌になる。皆飢えているのに、凍えていたのに、俺だけは贅沢をしていた。そんな自分を捨てたかったから、楽しんでいた奴に苦しみを与えたかったから俺は名前を変えた。それだけだぜ。それ以外に何もない。だから、怒らないでくれ」
「……いえ、こちらこそ申し訳ございません。正直、実名だ偽名だなんてことは少ししか気にしていません。ワタシはただ、その…………」
 カノンのいつもの調子は跡形もなく崩壊し、ただ涙を流す少女しかそこにはいなかった。
 自分で捨てろと言いながら、怖いのだ。しかし捨てられないままでいるのも恐ろしいのだろう。これ以上言葉を酌み交わすことがなくとも、それだけのことは理解できたし、これ以上理解を深める必要もなかった。今やるべきことは人として、男として、シュトラフ・トリスタンとして当然のことをするだけだ。
 シュトラフはカノンの両肩を掴み、面と向き合うと、一点の躊躇い、後悔のない眩い光を灯すかのごとく、凛とした眼差しを据えると、ハッキリとした口調で断言した。
「大丈夫だ。俺がお前を選んだんだ。俺が見つけて、組み立てて、所有者として登録したんだ! それで得しようが損しようが、俺の勝手だろ? それにカノンなんかに運命を変えるなんて、そんな大層な力はあるはずないぜ。自分の顔見てみろよ! そしたら自分が無力だってことが実感できるはずだぜ。だから精々その顔に見合った発言と考えをするんだな」
 シュトラフは全身の痛みを堪えながらベッドから起き上がると、まだ癒えぬ傷に苛まれながらも机に置いてあったFE-36を手に取り、その銃身でカノンの顔を映し出した。銃身は若干分かりにくいがそれでも少女のみっともない泣き顔を写し見せている。
 カノンはしばし銃身に写された自分自身と見合っていたが、やがてボロボロと涙を流したまま小さく笑った。
「――――ありがとう……ございます。シュトラフ様のことを、少しだけ…………見直しました。本当にありがとう、ございます…………!! ただ、それだけしか今は、言葉が出ないのです」
 その言葉が、豪雨の後に現れた虹のように優しげな笑顔が、シュトラフの脳裏に焼きついた。シュトラフは思わず見惚れ、頬を赤く染める。いっそこのまま抱き締めてやりたいような保護欲にも似た想いが込み上げてきたがそれだけはなんとか堪え、たじろいながら何か話題を考えた。
 このままこの話を続けていたら、いずれ我慢ができなくなりそうだったからだ。普段弱さを見せない少女が不意に見せた涙と笑顔はあまりにもか弱く可愛らしかったのだ。
「と、とりあえずそのみっともない涙……顔洗ってから拭いてこい。水が冷たかったらFE-36で沸かしてもいいからよ」
「……分か、了解致しました。5分で戻ります。ここに戻るころには……通常通りのワタシになるように頭を冷やしてきます」
 カノンは涙を拭い、顔をほころばせて笑うとスッと立ち上がった。
「あ、ちょっと待ってくれ。せっかく命がけで手に入れたんだ。どうせならヘアバンド付けてくれよ」
 普段のカノンなら嘲笑して拒否するだろうが、今のカノンはこくりと小さく頷くとゆっくりとそれを頭につけた。白銀の髪が揺れ、ヘッドホンのメタリックな輝きが大人びた印象を受ける。そのアクセサリーを抑える仕草がなんとも可愛らしい。
 カノンは蒼い双眸でこちらを見据えると、その小さな口を開いて可憐げに尋ねた。
「その、似合っておりますでしょうか? もし満足な結果が得られなければ申し訳ございません」
「いや! 凄い似合ってる! 似合ってるぜ!! カノンっぽい色してるし、なんというか……ボギャブラリーが無くてあんま言葉が出ねえが、凄いいいぜ」
 シュトラフは慌てるようにしてそう褒めると、うんうんと何度も頷いた。
「――――なら、良かったです。では行ってきますね」
「おう! 行って来い」
 カノンはヘッドホンを付けたまま、とてとてと部屋を出て行った。その様子にさきほどまでの重い自責の念は感じ取れない。
 とりあえずはもう大丈夫だろう。シュトラフは安堵のため息を付いた。……きっといつものカノンになってくれる。しかしそうなると、またとやかく言われてしまうのだろうか。そう考えると少しだけもったいないことをしたような気がして、脱力感を得ると共にもう一度だけ深いため息を付いたのだった。