「どうぞ、お弁当です」
翌日、昼休みになったすぐに俺の机の前に朽木がやってきた。
上級生の教室に無言で入れるこいつは度胸があるのか無神経なのか分からない。
朽木は持っていた二つの弁当箱を机の上に置く。
「これ、俺に?」
「そうです」
とりあえず、とても小さいサイズでうさぎ柄の弁当箱を開けてみる。
一つはご飯が詰まっており、もう一つは小学校の遠足で持ってくるようなおかずが詰められていた。
タコ型のウインナーに、綺麗に焼き色が付いた卵焼きがそれぞれ二つずつ入っている。
朽木は俺の前の席に座り、渡された弁当箱と同じものをもう二つ取り出した。
「どうぞ召し上がってください」
「い、いただきます」
拒むのも失礼かなと思いウインナーに手を付ける。
食べ始めてから完食まで全く時間が経たなかった。量が少なすぎる。
だが、朽木を見ると、まだウインナー一つの半分を食べており、ご飯は一割しか減っていなかった。
「朽木はいつもそのくらいの量なのか?」
「ですよ、このくらいです」
これで朽木の背が低い理由は分かった。
「先輩は早食いなんですね」
「いや、お前が遅いだけだ」
量は少なかったが、先程食べたパンのおかげで腹具合は満たされた。
無意識に朽木の手を見ていると、まぶたが重くなっていくのが分かる。
周りの生徒の雑談が子守唄のように聞こえ、今にも眠りそうな時、机に置いていた左手が冷たい何かを感じ、俺は反射的に体を竦めた。
「あ、起きちゃいました?」
冷たいモノの正体は朽木の右手で、手のひらを何度か触られたあとはすぐに離された。
食べ終わっている弁当箱を片付けた後、朽木はわざとらしく一度咳払いをしてから姿勢を正す。
「では、本題に入りますね」
本題とは、どうせピアノのことだろう。
「あー、もう昼休みは終わりだな」
「まだ三十分残っていますよ」
朽木は前の黒板の上にかけられている時計を指差す。時刻は昼休みが終わる三十分前の十二時五十分。
もちろんそんなことは知ってて言ったのだが、どうやら帰ってはくれないらしい。
「なあ、俺以外の奴じゃダメなのか?」
このままだと毎日つきまとわられるかもしれないと思い、先に問う。
「あの演奏は誰かに教わったんだろ?」
「いえ、独学です」
答えは意外なもので、てっきり誰かに教わっていると思っていたばかり驚いた。
「いつから?」
「中学二年からなので二年間……ですね」
その期間であの演奏ができたことにまた一つ驚きが重なる。上手いのは右手だけだけど、独学なら褒められるものだ。
俺が感心していると、朽木は続けて口を開く。
「本当は小学生の頃から弾きたかったんですけど、家はあまり裕福ではなくて……、ようやく買ってもらったのもキーボードなんです」
「まあ、ピアノより安いしな」
「ピアノ教室に通うのにもお金が無くて……」
だから独学なのか。それであの演奏なら昔から誰かの元で教えてもらっていればもっと上手くなっていたはずだ。
今から俺が? いや、この手じゃ教えようがない。
そんな事を心の中で自問自答していると、
「ピアノ、教えてもらえませんか?」
朽木はまっすぐな目でこちらを見て頼んできた。
真剣なのは分かるけど、それを俺に頼んでくるのは間違っている。
「今までのように独学でやればいいじゃないか」
なんとなく口にしたが、その通りだと自分でも思った。
すると朽木は立ち上がり、
「上手くなりたいんです!」
と大きな声を上げた。
「時間がないんです! 最初はただ弾ければいいとか思ってたけど、それじゃダメって」
「お、おい……」
周りを見ると、昨日のように生徒達はこちらに注目している。
朽木は周りなど御構い無しに話を続けた。
「そう思っていたら先輩が現れて……、一昨日の演奏、感動しました」
両手を広げて俺の目の前に出してくる。
「思い出しただけで、止まりません」
小さな手は細かく震えており、頭を下げながらそのまま大きな口を開いてきた。
「私に才能があると思いませんか!」
朽木の真っ赤な顔は今でも破裂しそうで、真剣な眼差しは俺の目をしっかりと捉えていた。
前に両手を出したまま、勢いよく頭を下げた朽木の髪は大きく揺れ結ばれていたポニーテールが解かれた。
「私はあると思っています」
自分で才能があるなんて言う奴、初めてだが、それは嘘ではない。俺はその才能を昨日の連弾で感じてしまった。
だから、俺は教えられない。
「もったいないんだよ」
「な、なにがですか」
「その才能を俺が潰す事になるかもしれない」
「そんな事ありえませんよ」
俺は首を横に振った。
「昨日言ったろ、俺の左手の事」
「それが何か?」
朽木は首を傾げて不思議そうな顔で見てくる。
そんな朽木を見て頭をかいた。
「指導者が弾けないんだぞ、教えられるわけないだろ」
「なら昨日の連弾、どうして右手で弾けたんですか、しかも完璧に」
その問いに答えず黙っていると、朽木は言葉を続けた。
「右手で弾けるってことは、左手で弾けてるのを右手に教えたってことですよね」
アホのような言い分だった。右手で弾けるようになったのは言葉ほど簡単じゃないし、弾けない曲だってある。
そして、それを知らない朽木がこの後言う言葉が、何となくわかってしまう。
「それって、そのまま私に教えてくれればいいだけでは?」
その予想通りの言葉に呆れて、呆れたのに思わず笑ってしまった。
「な、何かおかしなこと言いました?」
そんな俺を見た朽木の表情がまた間抜けで、
「分かったから、その顔止めてくれよ」
「私の顔見て笑ってたんですか??」
笑い終えてから呼吸を整え、
「それで、何の話してたっけ」
「忘れてたんですか……」
困った様子でこちらを見てくる朽木の左手を握った。
豆もできていない綺麗な手、爪はピアノを弾くためにしっかりと短くしてある。
「思い出した、この手にそのまま教えればいいんだな」
「え?」
「違うのか?」
俺の言葉に朽木は大げさに顔を横に振った。
「いえ、ぜひ! お願いします!」
教えてもいいと思ったのは、朽木の言う才能だ。才能があってやる気があるこいつなら、あの演奏を弾けるようになるかもしれない。
もう一度、あの演奏を聴きたい。側でゆっくり聴いてみたい。
それと、こいつに教えてみたくなったのが、一番の理由だ。