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  場所はとある豪邸の談話室。気品溢れる赤絨毯が引かれたその部屋には孔雀石で作られた波模様を描く翠色の長テーブルといくつかの豪勢な椅子が並べられ、そこにはそれ相応の身分であろう人々が座っていた。壁にはおそらく高名な画家が描いたであろう絵や、威厳のある古時計が掛けられている。
 座っている人に仕えているのであろう執事やメイドは部屋の隅で重苦しい表情を浮かべて立っていた。その中にはシュトラフと死闘を繰り広げた執事の姿もある。
 しばし時計の針と微かな物音のみが支配していたが、長テーブルの短辺に当たる席に座っていた男は不機嫌そうに顎髭を弄り、老化によって出来た白髪を掻きながら口を開いた。
「よく集まってくれた。今回呼んだのは他でもない。我が街に蔓延る盗賊共をいい加減に処分したいと思ってな。自分の領地があるのにわざわざ懇願して我が土地に拠点を建てる君たちにお願いしたいのだよ。いや、命令か? 盗賊処分に協力しろ」
 普通貴族は自分の領地に拠点を建てる。他の領地に住むなどということは内側から攻撃され、崩壊する可能性がおおいにあるために普通であれば絶対に行われない。しかしシュトラフ達がいる街ではそれが平然と行われているのだ。
 白髪の男はそのことについて言及すると同時に、あまりにも高圧的な態度で命令した。贅沢意識及びプライドの高い貴族はそれが癪に障ったのか、一人の比較的若い男が煽るように反論した。
「嫌ですねえ。確かに貴方様の土地に拠点を構えているのは事実ではありますが、それ相応の対価は既に払ってるではありませんか? 金貨何枚でしたっけ? 我々がいるというだけで貴方様は普通の領主の何十倍も儲かっているではありませんか。それなのにこれ以上何を望むのですかあ?」
「お前たちは既に分かっているのだろう。……特定の土地にしか使用可能な【慧来具】が出現しないことを。それを入手するために多額の金を支払ってまで居座っているのだろう」
 白髪男の発言に椅子に座っていた全員が図星を突かれたかのごとく驚き、動揺した。男はニヤリと微笑むと寛大な態度でこう述べる。
「いや、いいのだよそれで。【慧来具】は貴重ではあるが集めるとなると骨が折れるからな。それに多額の金も貰っている。ただ使い方が分からないものがあれば売ってくれないか?」
「使い方が分からないものは操作が、それこそ我々には理解できないのでは?」
「そう思うだろう。だが、理解する方法がある。教えないがな。まぁ【慧来具】の話は後にしようじゃないか。本題に戻ろう。あの盗賊共(ムシ)……シュトラフ・トリスタンだったか? あれを処刑台送りにする方法は考えてある。協力を断るなら我が領地から出て行ってもらうだけだ。そのときは金も返したっていい まぁ同盟みたいなものだ。悪くないだろう。これをキッカケに結束を固め南方へ進出するのもいいかもしれない」
 もう誰もたてつくことはなかった。いいだろうと、上機嫌に頷く者もいれば若干不服そうな者もいたが、白髪男は気にする様子もなく話を続ける。
「何日前だったか……我が屋敷に盗賊が入ってきてね。惜しくも仕留めそこなった上に屋敷の一部が焼け焦げてしまった。それでも数日では治らないような傷をそこの執事が与えた。彼らはしばらく活動できない……」
「それでどうしろというのだ?」
「その間に近くの村を襲ってくれ。行商人を襲撃しても構わない。ただ襲った際にシュトラフ・トリスタンの名を語れ。それが下地だ」
「自らに領地で略奪を起こすなど愚行の極みではないか」
 なぜ彼が自らの土地を荒れさせるような真似をするのか理解しかねた彼らは怪訝そうに首をかしげた。白髪男は不快感を露わにし、舌打ちをしながらも捕捉を入れる。
「シュトラフ・トリスタンは弱を救い強を挫く、糞生ぬるい反吐が出るような信念を持った盗賊だからこそ村人や町人に逃走を手伝われ、匿(かくま)われる。これは捕まえる側にとって不利だ。だから盗賊は所詮盗賊だと教えてあげるのだよ。奴らに任侠など無かったと思わせるのだよ」
「たかが盗賊一人のために領地を荒れさせるのか?」
「たかが……? 奴らは【慧来具】を持っている。あれが一つあるか無いかでこれからの戦いや生活は大きく変わるぞ。聞いた話だと彼らはたやすく炎を出す道具やレンガを粉砕する何かを持っている」
 そんなものがあればどれだけ今後を有利に進められるだろうか。もし【慧来具】への対処を怠れば、荘園貴族の力はすこぶる落ちることになるぞ。白髪男は小声でそう付け足すと、テーブルを強く叩き恍惚として笑った。
「そしてもうじき行われる謝肉祭(カーニバル)のメインデッシュとしようじゃないか。数を味方にしてしまえば後は我々が【慧来具】を使って魚を捕まえるみたいに追い込むだけだ。簡単だろう。フハハハハハハハハハハ!!」
 白髪男の高笑いが部屋に響き渡った後、会食を行ってから解散となった。屋敷に残っているのは白髪男とそれに仕えるメイドや執事などの使用人だけだ。
 使用人達は貴族達の食事によって出た皿などを忙しく洗い、テーブルクロスなどを新しいものに変えるなか、屋敷の正面玄関が不意に開き、肩の辺りまで伸びた黒く艶つやかな髪を揺らし、人形のように端正な顔立ちで、どことなく無機質な緋色の瞳を持つメイド服を着た少女が入ってきた。
 白髪男はそれを見ると嬉々として尋ねる。
「よく戻ってきたぞクインテット。さっそくやってくれたか?」
 クインテットと呼ばれた少女はぎこちないお辞儀をすると嬉々として答える。
「はい、こちらクインテット。現在地はアドラー・フォン・フェルディナンド様の目の前。そしてこう伝える。命令通り郊外の農村を略奪してきた。それとクインテットは長いのでクイントと呼んでください。とボクは伝える。送ってください」
 クイントと名乗る少女の口調に対して、白髪男改めてフェルディナンドは若干不快そうに額にシワを作るも、気にしない方向で話を続けた。
「あぁ。すまんなクイント。だがわしのこともフルネームで呼ばず短縮してくれて構わん、あとその喋り方はどうにかならんのか?」
「人間。ボクの初期設定がこういうものなのだ、とボクは伝える、送ってください」
「……今日はもう充電してくれて構わん。数日は待機だ。……フハハハ。あの盗賊を殺せば奴の銃も人形も全てわしの物だ。【慧来具】は……いままでの戦の価値観を変えるぞ」

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 シュトラフが目を覚ましてから約二週間が経過した。
 しばらくは安静にしていろとのことで、ベッドでずっと寝させられていた。部屋は適当な荷物と見慣れた天井、壁……ガラスのない木製の格子窓はあるが、冷えるとよくないと言われ軍事用3Dプリンターで作られた珍妙なカーテンによって外も見れなくなっており少しばかり息苦しい。
 それに体を動かせないためか腿の筋肉がだるい感覚がした。しかし、このことを訴えるとカノンにもフェイのも死ぬよりは百倍マシだと言われてしまった。怪我は放置すれば出血死しかねないものであったらしい。それをカノンの治療……電気なんたらなどという技術とフェイ達の看護のおかげで一命を取り止め、幸運にも特別な後遺症もなかった。
 カノンはこの事件が起きて以来、随分と優しくなった。皮肉な物言いは相変わらずだが、こちらが傷口を触っていると、心底不安げに大丈夫ですかと聞いてくれたり、昼食はワタシが作るんだと言ってフェイと喧嘩もしていた。
 一方で、フェイの様子も大きく変わった。なんだか妙に距離を置かれたり、惚けたようにこちらを見つめ、心配して何度か声を掛けると、ビクリと肩を震わせ、裏返った声で返事をするようになった。随分と苦労と心配を掛けさせたから、疲れているのかもしれない。
「やっぱ無理させてるよなぁ……」
 シュトラフが一人心地に呟くと、隣で立っていたカノンが尋ねる。
「フェイ様のことですか?」
「カノンにもだけどさ。なんかフェイの反応が鈍かったり、辺に距離とられて不安なんだよ」
「……本当に原因が分からないのですか?」
「疲労だろ? だから無理しないでくれって言っといてくれないか?」
 シュトラフがそう頼むと、カノンは軽蔑の眼差しを向けた。
「直接聞けばいいではありませんか。今もこの会話盗み聞きしてますよ。彼女。ではご対面」
 カノンは嗜虐に悦を得るような、邪悪な笑みを浮かべると、軽やかな足取りで部屋の戸を開けた。ギギギと立て付けの悪い音が響くと、顔を真っ赤にしてうろたえるフェイの姿が目に入った。
「あ、シ、しゅ、シュトラフさ、ん! どどどうしたんですか!?」
「フェイ。最近その……調子変じゃないか?」
「へ、変って!? 何が変なんです!?」
 フェイは喰らいつくように声をあげ、くすぐったそうな顔を浮かべる。
「いや、やっぱりおかしいだろ。辛いなら無理すんな。ほら、いつも言ってるだろ。もっと俺を頼ってくれって。こんな状態だからフェイに苦労させちまっただろ? けど、俺だってフェイが心配なんだ。だから――――」
「つ、つらくないです! これは、そんな風邪とかじゃなくて!! もっと、こう……!! しゅ、シュトラフさんの馬鹿!」
 フェイは張り裂けそうなくらい大声を上げると、ごしごしと顔を拭い、脱兎の勢いで部屋を出て行ってしまった。
「……どうかしたのかな。俺、変なこと言った?」
「ワタシには搭載されていない感情である可能性が高いです」
「自称搭載されてない感情が相変わらず多いな……。逆に何なら搭載されてるんだ?」
「それは女性に対して下着の色を尋ねるのと同義なのでは?」
「その理屈はおかしい」
「理屈ではありません。シュトラフ様のために分かりやすく説明しますと、教えたくないということです」
「教えたくないなら仕方ないな。諦めよう。しっかし、困ったな……。カノン、よければフェイにさ、看護ありがとう。けど無理はしないでくれって伝えといてくれないか?」
「ワタシを経由するのもあまりオススメできませんが……まぁいいでしょう。了解致しました」
 カノンは柔らかな笑顔を浮かべ、一礼すると、てくてくと部屋を出て視界外へと行ってしまった。
「あれ、カノンに頼んで平気だったかな……」
 一人部屋に残されて、冷静に考えてみるとあまり懸命な判断ではない気がしたが……もう手遅れである。何度かカノンの名前を呼んでみたが、返事が返ってくることはない。
「……寝るか」
 シュトラフはしばし呆然と部屋の向こうを見詰めるも、やがて諦めることにした。

 ――――一方その頃、半分涙目で部屋を出て行ったフェイは勢いのまま拠点を飛び出した。
 しかし皮膚を切り裂くような外気に当てられ我に返り、周囲を右往左往したあと玄関近くの壁に寄り掛かって頭を抱える。
「……なんで私逃げちゃったんだろ。次シュトラフさんに会ったらなんて言えば…………」
 フェイが深刻そうに顔を俯かせ独り言を呟いたとき、ギィと金具の音を響かせて玄関の扉が開く。
 扉を開けたのはカノンだった。彼女はフェイを視界(レンズ)に捉えると淡々と告げる。
「フェイ様伝言でございます。いつも面倒ありがとう。ただ、無理はしないでくれとおっしゃっておりました」
「ほ、本当ですか?」
「ワタシには嘘を言う理由がございません。もしご本人に直接言いにくいことでしたら、ワタシが伝言として伝えますが、どう致しますか?」
 カノンがなんともなさそうにそう尋ねると、フェイは表情を曇らせ、懸念で堪えたのか自身の服の胸の辺りをぎゅっと手で抑えた。
「やはり何か悩みがおありでしょうか。もしよろしければ言ってくださると助かります。シュトラフ様にでも、ワタシにでも。そうすることでワタシは与えられた命令を全(まっと)うすることができますので」
 フェイはその発言を聞くと、自身の服をより強く握り締め、ジッとカノンのことを睨む。そしてゆっくりと口を開いた。
「も、もしですよ? 私が――ええと、その…………」
 しかし手足が震え、口はまごつき言葉は途切れ途切れになってやがて消えてしまう。カノンはそれに対して何か言うこともなくただ見守っていた。
「……あ、やっぱりこの話はいい――です。そ、その代わりシュトラフさんに…………私のことをどう思っているか聞いてもらっても……いいですか?」
 吹き荒(すさ)む風がゆらゆらと髪をなびかせるなか、フェイは瞳を閉じて、怯えるように腰を低くして尋ねた。
「構いません。質問しておきましょう。他に何かありますか?」
「そ、その!!」
「はい、なんでしょう」
 フェイが声を大きく上げ、緊張した赴(おもむ)きで頬を紅潮させるなか、カノンは落ち着いた様子で耳を傾ける。
「カノンさん……シュトラフさんのことを――その……ど、どういう風に思ってますか? 前より刺々(トゲトゲ)しさがないというか……優しくなったなって思って、きき気になっちゃいまして……」
「どうとおっしゃられましても、もう少し具体性がないとどう答えればいいかがワタシには分かりません」
 フェイはしおらしく体を縮めると、沈黙してしまった。紅潮を越え冷や汗のようなものをかいていた。小さな手を胸に当てていたがために伝わってくる脈動は、着実に高く高くなっている。それでも彼女は何度も深呼吸をし、冷たい空気を気道へ取り込むと、僅かに冷静になったときにおぼつかないながらも改めて口を開いた。
「その……。カノンさんは、シュトラフさんのこと――――好き……とか?」
 カノンはほんの僅かにではあるが頬を赤らめ、蒼い瞳を見開いた。しかし小さく咳をすると、あくまでも平静な態度を保ち答えた。
「ワタシには好きだの恋だの愛だのという低俗な想いや感情はありません」
「て、低俗なんかじゃ――!」
 フェイが思わず感情的になって言い返そうとするも、カノンは台詞を遮って話を続けた。
「ですが――! ワタシというプログラムが造られてから4年と8ヶ月13時間21分19秒20……もの時が経っておりますが、シュトラフ様のところへ来て、過ごしてから初めて『楽しい』と『悔しい』という感情を――――既存のデータとの比較などではなくワタシ自身の心で理解することができたのです。そのことを考慮するとシュトラフ様は大切な人物です。彼と一緒にいればワタシは人間と寄り添えるような心を持てる気がするのです」
 カノンは祈るようにゆっくりと目を閉じると小さな手を組んだ。白い髪がなびくと、僅かに赤い頬が少し目立つ。その様子は年頃の少女そのものであった。
「…………」
 カノンのおしとやかで、あまりにも堂々とした姿を眼前にして、フェイは思わず閉口した。彼女も自覚がないだけで、ひたむきな想いを持っているんだと理解出来たからだ。それでも既に芽生えていた対抗意識が彼女の口を動かしていた。
「わ、私はシュトラフさんと何年も一緒にいるんです! かか、家族みたいなものですよ! そうです! ですから私から見ても大切な人なんです!! カノンさんが来るまでは現状維持でもいいかなって考えてましたけど……二番は嫌です。だから、ま……負けませんから!!」
 フェイは震える手でカノンを指差しながらそう言い終えると、茹でたタコのごとく赤くなった顔を恥ずかしそうに両手で覆い、石畳を踏み蹴り、どこかへと駆け抜けようとする。
「フェイ様」
 カノンに呼び止められてフェイはぴくりと足を止める。
「な、なに?」
「あなたのおっしゃったことをワタシはきちんと理解は出来ていないでしょう。しかし勝負事であればワタシも負けません」
 フェイはカノンと再度向かい合うと、石畳を一歩踏み締める。そして唾をごくりと呑み込んで、ハッキリと声を響かせた。
「2月の頭、謝肉祭(カーニバル)があります。本当は皆で騒ぐお祭りですけど……この際そんなことは無視です。そこでシュトラフさんと二人で踊れたほうを勝ちにしましょう!」
「負けたほうは何かペナルティなどはありますか?」
「……罰とかはいらないです。これは私が勇気を出すための宣言です! 覚悟を決めるための決意表明です!!」
「了解致しました。それはそうと、もし街のほうに行かれるのでしたら黒パンを買ってきてほしいのですがよろしいでしょうか?」
「……いいですけど、夕食は私も作りますからね!」
「構いません。シュトラフ様は二人前が一人前の様子ですので。ではワタシは別の作業をしてまいります」
 カノンが深々と頭を下げたので、つられるようにフェイもお辞儀をした。それからお互いに踵を返すとそれぞれが行くべきところへと向かった。

 ――――さらに数日が経過した。カノンとフェイが何かを競っているようだったが、二人の看護のおかげで瀕死の重態も見る影もないほどに回復できた気がする。肩の傷も異常な早さでほぼ治りかけている。
「そろそろ歩いても平気でしょう。リハビリをかねて街を一歩きしませんか?」
 おそらく太陽が真上にある頃、カノンは部屋に来るなりそう提案した。
 シュトラフはベッドの上で手足を伸ばし首を回すと、こみ上げる喜びを抑えつつ尋ねた。
「……それ本当か?」
「いくらオツムが無いとしても考えてみてください。嘘を言う理由がないではありませんか」
「いや、あるぞ。俺を騙してこれで28勝3敗ですね……ってドヤ顔で言うとか」
「どうやらまだ寝ていたいようですね。ではワタシは失礼します」
 カノンはくるりと踵を返し、てくてくと部屋を遠ざかっていく。
 あぁ、卑怯だ。そんなことをされてはこちらが下に回らざるおえない。元々じっとしているのは性分じゃないんだ。いい加減、街の活気に混ざりたい。
 シュトラフは慌ててカノンの方に手を伸ばした。
「待ってくれ! 俺が悪かったから! そろそろ外の空気が吸いたいんだよ!!」
 カノンは歩く足を止めるとこちらを振り向いて、仕方ないですねとばかりに口を開いた。
「そんなに外に出たいのですか? しかしワタシはとある作業でとても忙しいのですよね。どうしてもお願い致しますと言うのであれば考えてあげないこともないですが……どうされますか?」
 やはりこちらが下に回るとカノンはうざいくらい調子に乗り出す。しかし彼女の要求を呑まなければ外には行けない。最初から行くなと言われればおとなしくするのも仕方ないと思えたのに、こうも期待を持たせられては……諦められない。
「……くそっ。た、頼む」
「【エラー】声をうまく聞き取ることが出来ませんでした。もう一度おっしゃってください」
「嘘つけ絶対聞こえてやがる」
 シュトラフは舌打ちをしてカノンを睨んだ。だがその程度でカノンが臆することもない。しかしこのままやすやすと屈してはまた何勝何敗がどうのこうのと言われるに違いない。
 シュトラフがどうしたものかと無駄に苦悩していると、転機は第三者の介入という形で現れた。
 建て付けの悪い不快な音を響かせつつもガチャリと開く玄関扉。すっと肌を震わせる寒風と共に入って来たのはフェイだった。
「話は聞かせてもらいました。カノンさん、忙しいようでしたら私がシュトラフさんと一緒にリハビリ? というものをしましょうか? そうすればカノンさんは何も気に兼ねることなく忙しい作業に集中できますよ」
「おお流石だ! ナイスだフェイ」
 何も考えずにそう口走ってから、フェイの笑顔にどことない悪意が篭っていることに気付いてしまったが、気にしないことにした。が、悪意の矛先にいたであろうカノンは心底悔しそうに頬を数回ピクつかせ、近くに置かれていた拳ほどの石を手に取るとそのまま握り砕いた。
 なぜか弾丸が爆ぜる音がカノンの華奢な手から轟き、砕けた破片のほとんどが握力によって砂のように零れ落ちていく。文字通り人並み外れた破壊力を目にし、シュトラフとフェイが沈黙すると、カノンはシッポをご機嫌に揺らしてフェイと同様の笑顔を浮かべた。
「時間が掛かると予想されていたゴミ掃除がただいま完了致しました。こんな偶然はそうそうないでしょうし、仕方が無いのでワタシもご一緒しましょう。これで16勝3敗です」
「……あ、うん。分かった。と、とりあえず外行く準備するから」
 シュトラフは顔を引き攣らせたまま、うんうんと頷いて近くにあった鞄を肩にかけ、ベッドの横に丁寧に並べられていた靴を履く。そしてテーブルに畳まれていた服を手に取った。
「よし、行こうぜ。久々に酒場の店主に顔見せねえとな」
 シュトラフは意気込んで楽しげな笑顔を浮かべながら約一週間ぶりの外へと足を踏み出した。――――今日は麗らかな日和なようで、振り仰げば雲一つない澄み切った青空を窺うことができた。これで暖かければ最高なのだが、凛とした寒さはまだ無くなっておらず体を震わせている。
 シュトラフは機嫌よく重い扉を開けて酒場へと入ると、見慣れた木製テーブルやカウンターが視界に入った。それなりに人はいるがいつもとは違い、どことなく嫌な空気だ。
 ウェイトレスも普段とは違い妙にかしこまった表情を浮かべた。嫌悪まではいかないが、良くない感情をもって見られている感覚がする。
「……何かあったのか?」
「フェイたちからは何も聞いてないの?」
「いや、特には」
 シュトラフがそう返答すると、フェイは顔を俯かせ心底申し訳なさそうに口を開いた。
「いまはシュトラフさんは安静にしないといけないので、衝動的な行動をしないように教えないでいました。……ごめんなさい。そしたら言うタイミングが分からなくなっちゃって」
「俺のことを考えてくれたなら謝る必要なんてない。むしろそんなに考えてくれてありがとう。ただ今こそその隠し事を言うタイミングだぜ。何があったんだ?」
 フェイはありがとうございます、と言って一礼するとその隠し事を説明し始めた。
「どうしてか分かりませんが、シュトラフ・トリスタンが農村や通り掛かった行商人から略奪を行ったという噂が立っています」
 そんな馬鹿な。こちとら一週間はベッドの上で安静にしていたんだ。それに怪我がなかったとしてもそんなことは絶対にしない。弱を挫くなんてクズがすることだ。強きを挫くからこそ任侠であり義賊だ。
「俺は寝てたぞちゃんと」
「それは知ってます。ですから!! きっと誰かがシュトラフさんの名を騙っているんです! 許せないことに。でもそんなこと言ったらぶっ飛ばしてくるとか無茶なこと言って出て行っちゃいそうだったので隠していました。……ごめんなさい」
 シュトラフはさきほどまでの陽気な表情を一転させ真顔になった。ピシリと酒場の空気が張り詰めると、自動で音楽を流す機械がおどろおどろしい曲を控えめに流し始める。
「ウェイトレス、見ての通り俺はこんな怪我人だ。正直言ってまだ走るのも辛い」
 シュトラフはそう言って脚の弾痕を見せた。傷はそれなりに回復しているが、それでも痕は一生残り続けるに違いない。
「それは聞いてるわ。正直ちょっと疑ったけど、あんたの顔見たらあんたの偽物が悪さしてるって思ったわ。だってもてはやされたいものね? それによく考えたら、目撃情報と特徴が一致しないもの」
「分かってくれて嬉しいぜ。ただ俺の名前が使われてるってことは俺が原因でもあるはずだ。その目撃情報ってどんな奴だ? なんでもいいから情報がほしい」
 ウェイトレスは演技掛かった低い声で、大袈裟な素振りをしながら答えた。
「……人を人と思わぬ立ち振る舞いで、パンチで家を壊したそうよ……。村の男総勢で止めようとしても腕の力だけで吹っ飛ばされたとかなんとか。夜の闇に紛れる漆黒の髪に、恐ろしい紅い目をしていて、夜のなかぼんやりと……光っていたとか。ちなみに怪我人は結構出てるけど死者は出てないらしいわ」
 人の形をして、無機質で躊躇いの無い。腕から何かを放ち建物を一瞬にして破壊。男達をたやすく吹っ飛ばす馬鹿力。こんなことができるモノなど限りなく少ない。けれどこれらの情報は敵の正体の核心だ。条件を全て満たす者がすぐ隣にいる。違うのは瞳の色だけだ。
 シュトラフは冷や汗を拭いながら、カノンのほうにゆっくりと目を向けた。彼女の表情が変わっている様子はない。単刀直入に聞いても大丈夫だろう。
「なぁカノン……。お前の友達にさ。赤い瞳の奴っているか?」
「友達ではありませんが、後継機かワタシ同様に試作型の可能性がありますね。つまり犯人はワタシと同じ人型のアンドロ……ではなく【慧来具】の可能性はあります」
 考えられる敵としてはもっとも危険な部類であることは確定的だった。馬車に轢かれても平気だと豪語し、腕からは弾丸の嵐を爆ぜる……。仮にそいつに遭遇しても正面切ってやりあうのは無茶そのものだ。……それ以前にそいつが次にどこを、いつ襲うのかだって分からない。やはりもっと情報を掴まないとどうしようもなかった。
「……フェイ、襲撃された村の場所とか分かるか?」
 シュトラフの問いにフェイは深刻そうに表情を険しくさせると、不安の影を差した。責任を感じ心が疼いて、胸が悪くなるような感覚がヒシヒシと伝わってくる。
「もちろん調べました。行動するときが来たらすぐに動けるようにと思ったので。正確にいうと村ではなく、ただの郊外ですがある種の村のようなコミュニティを取っていた場所ですね。行商人や乞食でさえも襲われたという被害情報があるので、実際は相当かと……」
 フェイは顔を深く俯かせた。外に出る前までの悪戯げな笑顔とはまるで別人のようだ。人一倍正義感と責任感が強いから、真摯に問題を悩み、自責しているのだろう。
「ありがとう。フェイ。お前は悔やむことはない。こうしてやれることをやってくれたんだからな」
 シュトラフは幼い子供でもあやすかのようにフェイの頭にポンと手を置いた。フェイは顔を隠すように俯いたまま、
「あいがとうございます。その……そう言ってくれると嬉しいです」
 と、か細い声で答えポーチからいつもの地図を取り出すと、襲撃があったという場所を指でなぞった。合計で10箇所ほどで、無差別的、しいていうなら貴族や司祭には手を出していない。やっていることはただの盗賊だ。法則性も感じられなかった。しかしカノンは何かを察したらしく、地図の一点、南西方向にある小さな村落を指差した。
「次襲われる場所はここです。襲撃場所にはいくつかの法則性があります。ワタシの脳内に組み込まれている犯罪予測ソフトがここを示しました。99.9%間違いありません」
「もし違ったら? どう責任取ってくれる」
 シュトラフが冗談めかしてそんなことを聞くと、カノンは素面のまま即答した。
「何でも言うことを聞きましょう。素直に」
「何でもか。フハッハッハ! そりゃいいこと聞いた。んじゃ、襲われる予定地に向かうか。数時間は歩くことになりそうだけど」
「…………ワタシには何もないのですね」
 カノンはいつもの仏頂面で、残念そうに呟いた。どうしてか髪を艶めかしく弄り、しおらしいため息をつく。必要以上に大人を気取って、何かを訴えかけているような気がした。
 こんな状況で一体何をしてほしいのだと思い、どうかしたのか? とでも声をかけようとするとキッと鋭く睨まれる。
「……カノン、何か文句があるなら口で言え」
「なんと酷い殿方でしょうか。せっかく素晴らしい情報を提供したのですが……。おかげで文句も要求もたった今消え失せました。そして同時に自己嫌悪のお時間です。ワタシの学習機能は急成長し続け、エラーを吐き続けているのです。今も現在進行形でです。それなのにシュトラフ様はまったく成長なさらない……哀れ、哀れです。ワタシが」
 何が気に入らなかったのかさっぱり分からない。半ば八つ当たりをされたような感覚だ。
「あーはいはい、アワレアワレ。とりあえず被害現場に向かって見ようぜ。スープはお預けだ」
 シュトラフは微笑を浮かべ、そそくさと酒場を後にしたが、ウェイトレスに腕を掴まれ引き止められる。
「二つ言いたいことがあるわ。一つは彼女のプライドのためにも言わないでおくけど」
「なんだそれ? 勿体振(もったいぶ)んなよ」
「自分で理解しなさいよ。それともうひとつの言いたいことっていうのはね――――酒場入って、何も注文しないのはマナー違反じゃないかしら?」
 ウェイトレスは挑発的な笑顔でこちらの顔を覗く。何か食って、金を払えと訴えかけているのは明らかだ。……確かに何も頼まないのも迷惑だが、怪我をする前も似たような手口で何かを食べた気がする。
 色々考えることはあるが、シュトラフはとりあえずスープだけ頼んでから、カノン曰くこれから襲われる村に向かうことにした。
 ――――酒場を出て、赤レンガの屋根をした建物と巨大な川に挟まれた石畳の道を歩き続けること五時間弱。次第に建造物や人通りも減っていき、代わりに畑や樹木の割合が多くなっていく。いや、それどころか辺りを見渡しても畑と森ばかりだ。良く言えば長閑、悪く言えばどこか寂しげである。
 道もいつのまにか石畳ではなく砂利になっており歩き辛いことこの上ない。加えて久々に歩いているがために体はすぐに疲弊し根を上げている。
 休憩を挟むことなく歩き続けていくとやがて視界に畑以外の人工物が映り込んだ。レンガや木で造られた細い台形型の建物に四枚の巨大な板のようなものがゆっくりと時計回りに旋回している。……風車だ。ようやく村が見えてきたということだ。
「見ろフェイ! ようやく村だ! 長くて辛い道のりだったけどようやく着くぞ!!」
 シュトラフは若干大袈裟なくらいに嬉々として眼前に映る建物を指差すと、すぐさま足を速めた。
 四方は手の付けられていない草原から、土色をした畑へと変わり、進む先に木造の小屋が沢山建っているのが見えた。
 村が襲われている、または襲われた様子もなく見た限りでは長閑そのものだ。どうやらまだ無事みたいだった。
「まだ無事みたいだな。いつ襲われるんだろ。やっぱ夜か?」
「おそらくは夜かと。夜のほうが村人の制圧などが楽です。それとフェイ様。ワタシとシュトラフ様はそれなりにいい武器がありますが、フェイ様はナイフだけでしょう? ですので、作っておきました。どうか受け取ってください」
 いつのまにそんな物を用意していたのか。カノンはフェイに見慣れない物を手渡した。
 それは片手に収まる大きさで、形としてはシュトラフさんの持つFE-36に似ていた。色は緑や茶、土色が混ざっている。引き金に銃口……用途としては銃器なのだろうが、片手に収まる大きさまでコンパクトにした銃器はまだ実用態勢に入ってはいない。しかし【慧来具】を入手したという情報はない。
「これは一体……」
 フェイは怪訝そうにカノンに尋ねた。シュトラフは自分も気になるということを伝えるべく適当に頷く。
「軍事用3Dプリンターで作った拳銃でございます。あくまでついでに作っただけですが。そしてこれが弾丸です。この銃は護身用であり、威力は高くありません。それに一発しか入りませんが、無いより百倍マシでしょう」
 カノンはそう言って小さな袋を寄越した。紐を解いて中を覗くと、マスケット銃で使う球体の弾丸とは違い、先端が丸みを帯びた円柱状の弾丸が数十個ほど入っていた。
「盗賊団員の一人が鉛職人でしたので、彼の工房を借りて私が作りました。材料は金属屑だったり、銅貨だったりです」
「ど、どうやって使うんですか?」
「装填方法は銃身をスライドして、そこに弾丸を入れるだけです。これが安全装置ですので、撃つ時のみは解除します。撃つときは両手で、骨を使って持ちます。そして狙いを定めたら……撃つ」
 カノンは操作の説明として、発砲までの一連の行動を素振りで説明した。渡された張本人であるフェイは気難しそうに唸り声をあげていた。
「俺の分はないの?」
 シュトラフが物欲しげに目を輝かせるのを見て、カノンは鼻で笑った。
「残念ながらシュトラフ様に武器はいらないでしょう。男に武器を与えると、誇らしげになってろくなことがありません」
「いやいや、そんなことないだろ。あーいいなー俺もほしいけどなぁー」
「ほら、さっそく武器に心を奪われて、目的を忘れかけているではありませんか。さっさと行きましょう」
「忘れてないっての」
 ……やるべきことは村人達を説得し、夜までに避難させることと、撃するための準備を行なうことだ。シュトラフは決意を固め、恐ろしく真面目な表情を浮かべる。そしてゆったりと進むバイクと、頼れる二人と共に村へと足を踏み入れた。
 村は至って普通だった。風車が一軒に木造の小屋が数十軒、それと石造りの小さな教会が一軒ほど建っており、家々や井戸、広場への道は砂利で出来ている。畑は土色のところもあれば、家畜用の餌としてビートを育てている場所もあり、その部分だけは1メートルほどの高さの葉が緑々しく生い茂っていた。
 シュトラフは村全体を眺めた後、教会を指差して言った。
「手分けして話をつけよう。俺は普通のやつらと交渉するから、カノンとフェイは教会を頼む」
「了解致しました」
「了解です!」
 二人はそう言って教会の方へと向かって行く。そんな彼らを見かけた村人達は、余所者が来たという事実や、一見すると黒光りした珍妙な物体であるバイクの物珍しさに惹かれてか、畑仕事や羊の乳を搾ることを中断し、素朴な服を揺らしながらが近寄ってきた。
 純粋な好奇心のみで近づいた者もいれば、こちらを怪しんで睨む者もいたが、最初に話しかけてくれたのは幸いにも前者の方であった。
「行商人の方……ではありませんね。服装からしてもしかして司祭や説教師でもないですし……もしかして楽師や吟遊詩人の方ですか?」
 日常を非日常にしてくれる何かが来たと思ってくれているのだろうか。間違えではないが、運んできたのは凶報だ。娯楽ではない。
「残念だが商い屋でも教えを広める奴でも、旅をする音楽家でもない。俺達は伝言と、この村を助けるために来た」
「はぁ。助けるために……ですか?」
 好奇心から話してくれた村人達も、怪訝そうに表情を曇らせた。風が吹くとどこかでピシリと音がして、緊張感が増したことを実感させられる。
 けれどここで楽師だと嘘をついては、これからやるべきことに支障が出てしまう。致し方ないだろう。シュトラフは臆することなく話を続けた。
「近頃、周辺の村や行商人が襲われている。いままで襲撃された場所から予測すると、次襲われるのはここなんだ」
「そんなこと言われても……我々にどうしろと? それに、失礼ですが証拠はおありで? 少女二人を引き連れたメッセンジャーを信じろというのは、正直いかがなものかと」
「信じなければ後悔するのはそっちだ。それに俺が嘘を言うメリットがない」
「そう言われてもなぁ……」
 村人達の反応は薄い。当然といえば当然だろう。いままで賊に襲われたことがあったか否かは不明だが、自分達のような人が現れたのは間違えなく初めてだろう。……向こうも対応に困っているのだ。
「確かに俺の言う事が信用できないのも分かる。しかしな、このままだと襲われたときに――――」
 信じておけばよかったと後悔することになるぞ、そう言おうとしたときだった。突如としてガラスが砕け散る音が鳴り渡り、一瞬遅れて甲高い銃声と爆発音が轟いた。衝撃凄まじく大地が揺れる。あまりの突然の出来事に、村人達が反射的に悲鳴をあげていた。
 ――――襲撃が来たのか? しかし夜に襲われるのではなかったのか?
 思わずシュトラフもその場で硬直してしまったが、すぐに頭は冷静になった。
 ……カノンとフェイは無事だろうか? どこで爆発した? 何が起きた? きちんと把握しなければならない。瞬時に沸き立つ疑問と不安を振り払い、早急にすべきことを判断するために、シュトラフは達観して周囲を見渡した。逃げ惑う村人、畑のほうにいた人も、一心不乱になって村から離れて行く。爆発したと思われる場所はすぐに見つけることができた。……教会だ。石造りの教会から土煙が舞い上がっていた。
 しかし、それ以上に重要な存在を発見してしまった。……人々の中に一人だけ、逃げようともせずに、悠然と立っている者がいたのだ。薄汚い茶の外套を羽織ながらも、靴は革靴やボロ靴などではなく、黒光りした金属で造られた重厚なブーツを履いていた。甲冑の一部というわけでもない。見たことも無い材質の靴だ。そしていつぞやの執事が使っていたものに酷似した、拳ほどの大きさの金属質な球体を五つ、自らの周囲にふわりと漂わせているのだ。十中八九【慧来具】に違いない。
 シュトラフはすぐさま近くの家の壁を使い、死角に隠れしゃがみ込んだ。木造の壁に背中を押し付けながら、慎重にその異様な人物の様子を窺った。
 顔は外套によってほとんど隠れてしまっていたが、ちらりと黒い髪と整った鼻や口元が確認できる。靴で身長を盛っていることと、頭巾やヴェールなどではなく、まるで旅装束のような格好で頭を隠していたことが相まって、男にも見えたが、輪郭を見る限りまだ歳若い少女のようにも思える。
 それも普通の格好をしていれば男共に言い寄られてもおかしくないほどの容姿だ。しかしフェイの男装を見慣れていなければ、男だと思い込んだままだったかもしれない。
 シュトラフが様子を見続けていると、やがて強い北風が吹き荒んだ。冷気が体に染み渡ると同時、顔を隠していたフードが捲(めく)れる。肩の辺りまで伸びた黒く艶つやかな髪、人形のように端正な顔立ちで、緋色の瞳はまるでガラス玉のように無機質で透き通っている。
 シュトラフは思わず顔を青ざめた。彼女の真紅の双眸を視界に入れた途端、銃口を突き付けられたかのごとく、背筋が凍りついてしまったのだ。
 指先が痺れる。言いようのない恐怖が頭を塗り潰し、本能が逃げろ、逃げろと何度も叫びだした。
 ……黒い髪、紅い瞳という外見の特徴。それにこの世のものとは思えない恐ろしさを纏っているという事実も、酒場で聞いた情報と合致している。
 ――――今、目の前にいる奴こそが、シュトラフ・トリスタンの名を騙る襲撃者なのだ。
 シュトラフはなんら違和感を抱くこともなく、そう確信することができた。
 カノンはレンガの壁をいともたやすく粉砕してみたが、目の前の存在はどれほどの力を持っているかは分からない。人並みの少女程度の可能性だって僅かにあるわけだが、それ以上の可能性が極めて高い。もしかしたらカノン以上の力をもっているかもしれない。
 まずはこのまま隠れて、余裕があれば後ろから撃ってしまおう。相手が敵ならばどんな手段を使おうと勝てばいいのだ。安全を考慮するならば結果が全てである。可能な限り助けられるものは助けたいが、どちらかを選べというのならば、遠慮なく助けたいほうを選ばせて貰う。
 シュトラフは数メートル先にいる敵への対処を決め、一人頷いた。
 彼女はしばし、散歩でもしているかのように軽やかな足取りで不規則に歩いていたが、不意に立ち止まり、誰もいないところで誰かと話を始めた。
「――――了解。これより地点ベルタから地点シャルロットへ向かう。同時に目的を行なうべく、これより、フレミングの使用を行なう。とボクは伝える。送れ」
 シュトラフは冷静に今の状況を判断し、しばしの間、息を潜めておこうとも考えたが、そうしているわけにもいかなくなった。
 さきほどまで少女は何かを優先するような事もなく、不規則に歩いていただけであったのだが、なんらかの連絡を受けてから教会の方へと歩み始めたのだ。
 それと同時、彼女の周囲を漂っていた五つの金属球から、固い物がぶつかり合うような音が鳴ると、蒼く輝く稲妻が放たれ、近くに建っていた家屋に着弾した。空気が振動し、目も開けていられないほどの衝撃により、一瞬にしてその家は煌々と燃え上がり、崩れ落ちてしまったのだ。
 しかしそれだけでは満足できなかったのか、彼女は両腕を別の家に向けた。するとガチャリと重厚な金属音が鳴り、カノンが壁を粉微塵にしたときと同様に、人間であれば骨に該当するであろう黒混じりの鋼色をした金属棒がスライドし突き出た。
「対象――――家屋。これより任務遂行のために破壊活動を行なう。発射(フォイエル)!!」
 刹那、額に痛みが走るほどの閃光が走り、連続的に銃声が響き渡った。爆音が繋がり続け、家屋が砕け散る音さえもかき消して、地割れのごとく大地が揺れる。敵がどんな顔をしてこの破壊をしているかなど、見ている余裕すらなかった。破壊の標的にしたのは両腕を向けていた先に存在した建物だけではなかった。彼女を中心にして周辺一帯の建造物が弾丸と稲妻に穿かれ、貫かれていく。
 まるで嵐の直撃を受けたかのようだった。いや、それ以上だと断言してもいいだろう。
 シュトラフが隠れる場所を提供していた建物も例外なく無慈悲な力によって砕かれた。木片が降り注ぎ、体中にぶつかっていく。細かな破片が治りかけていた肩に突き刺さったのか、温かな水が滴る感覚がする。
 ……このまま逃げなければいずれ下敷きにされてしまうかもしれないが、今飛び出せば……撃たれる。蜂の巣どころか残骸が残るかもさだかではない。
 移動することもままならず、シュトラフがジッと堪えていると、崩れ落ちた巨大な木材が頬を掠めた。思わず目を見開いた。あと少しでも位置が悪ければ死んでいた。
 鈍い痛みと寒さがじんわりと体に染み込むと、痺れるような感覚のみが残り、嗅覚、視覚、聴覚はあらゆるものを捉えるべく鋭く敏感に変化した。このままではあの忌々しく、背筋が凍るほどの殺気と圧倒的なまでの蹂躙が、教会へと向かってしまう。絶対に仕留めなければならない。限りなく不可能に近いことではあるが、そうしなければより悲惨なことになる。
 ――――弾丸の嵐が止んだ瞬間、いや、弱まった瞬間でもいい。一瞬の時間を縫って敵に近付き、【慧来具】には【慧来具】だ。FE-36をゼロ距離で放つ。
 シュトラフは呼吸の音さえも抑えながら、ゆっくりと気を窺った。もはや意識は目の前にいる敵にしか存在しない。崩れ落ちる家屋のことも、落ちてくる破片も意識の外に追いやった。
 鋭く、しかしじんわりと伝わる発砲音。響く強振。全身をもって敵が攻撃の手を弱める瞬間を感じ取り、その時を待つのだ。心臓が強く脈打つ。煮えたぎるような熱をもった鮮血が体を循環していることが分かる。シュトラフは息を止めた。
 ……そして一本の細い糸の上を歩いているかのような緊張が、最高潮に達したとき、敵の弾丸の嵐が止んだ。破壊の音が消え去り、村人の悲鳴の音さえも聞こえない。……もはや戦場の跡地となったであろうこの場を静寂が支配した。
 刹那、シュトラフは大地を蹴り上げ、縮めていた体をバネのように跳ね上げると、眼前に写る敵めがけて放たれた弾丸のごとく駆け抜けた。
 幸運にも少女はこちらに背を向けていた。これなら気付かれても一瞬の隙ができるはずだ。
 シュトラフは余裕のない笑みを浮かべながら、白い銃身を抜き出すと、銃を突きつけ、躊躇なくに引き金に指を入れようとした。
 しかしできなかった。指に力が入らないのだ。何をされたかも理解できなかった。じんわりと手、腕と体全体が痺れ、銃を持ち続けることさえも困難になっていた。
 銃がぽとりと力無く地面に落ちたときにはもう、脚は立つ力さえも維持できず、シュトラフは糸の切れた操り人形のごとくその場に倒れた。視界に少女が履いている金属の靴と土の粒だけが映り込んだ。
「…………何を、した?」
 シュトラフが尋ねると、少女はしゃがみ込んで、こちらの顔を覗いた。眼前にあどけない童顔と、こちらを見詰める紅い瞳が映し出される。
「ボクの周りに浮いている機体。Fleming-Zeron-MarkⅤにはスタン能力もある。キミの存在は生命探知でだいぶ前から把握していた。自分から飛び出してくれると信じていたよ。とボクは伝える。送れ」
「……その送れってなんだよ」
「そっちが喋っていいよっていうメッセージだよ。とボクは伝える。送れ」
「お前、俺の名を騙って何してるんだ……? お前は誰だ?」
「何をしていたかは言っては駄目なんだよね。けれどボクの名前を言ってはいけない決まりはないから教えてあげよう。ボクはカノン型アンドロイドの五番機、クインテットだ。いい名前だろう? と、ボクは伝える。送れ」
「カノン型……?」
 自らをクインテットと名乗ったその【慧来具】は誇らしげな様子で見下すような視線を当てていたが、シュトラフの呟きを聞くなり、不快感を露わにして、片腕で首を力強く掴み持ち上げた。
 カノン同様に人並み外れた力を持っているようで、体はいとも簡単に持ち上げられる。首に伝わる圧迫感。まともに息ができないほど締め付けられ、吐きたくなるような嗚咽がした。目には自然と涙が溜まってくる。
「あぐっ……!? 離せ…………!!」
 必死の思いで声を出すも、喉仏が動くだけで苦しいばかりであった。痛みと異物感に耐えられず、何度も咳が出そうになるが、それさえも強靭な握力に押し潰される。
 このままだと窒息死……いや、首を圧し折られる。絶対に生きてこの状況を脱しなければならない。まだ死にたくはない。いずれ殺されてしまうかもしれないなどと覚悟していた自分はもういない。地獄も大地獄も無も全てお断りだ。
 シュトラフは足をばたつかせ、クインテットの腹部に勢いよく膝蹴りを入れた。が、微動だにもしない。ならば首を絞める華奢な手を引き剥がそうと考え、腕に鋭く爪を立てるも反応はない。痛みという感覚そのものがないのかもしれない。
 せめて小指だけでも引き剥がし、骨を折ってやろうともした。しかし見た目が人間の少女なだけでその本質は【慧来具】だ。根本的に人間と違う。どれだけ力を込めても小指一本さえ動かすことはできなかった。
「抵抗、無駄。分かるよね? と、ボクは伝える。……にしても、名を騙る云々と言っていたところから察するにキミがシュトラフ・トリスタンか。まぁ外見はある程度知っていたよ。ここで出会えたのは偶然? 必然? と、ボクは尋ねる。そして伝える――――」
 クインテットは一呼吸挟むと、気味の悪い薄ら笑いを浮かべた。反して、双眸は親の仇でも見ているかのごとく憎憎しげに殺気立ち、瞳の底で獰猛な嵐が渦巻ている。
「ボクはカノンのような失敗作ではない。彼女の悪い点を解消したのだ。分かるよね? 脆弱なシステムエラーもおこさない。所有者に過剰な暴行を加えることもない。ボクこそが完成品なんだ。クインテットの名より、カノン型に反応するというのは失礼極まりないだろう? と、ボクは伝える」
 どうやらカノンの名前を声にしたことに怒っているようだった。首に掛かる力が段々と増していく。彼女の細い腕から伝わる力と感情が、こちらを殺そうとしているのだ。
「ボクはカノンのような失敗作ではない。彼女の悪い点を解消したのだ。分かるよね? 脆弱なシステムエラーもおこさない。所有者に過剰な暴行を加えることもない。ボクこそが完成品なんだ。クインテットの名より、カノン型に反応するというのは失礼極まりないだろう? と、ボクは伝える」
 どうやらカノンの名前を声にしたことに怒っているようだった。首に掛かる力が段々と増していく。彼女の細い腕から伝わる力と感情が、こちらを殺そうとしているのだ。
「もう抵抗する力もないだろう。20秒以上は経過しているんだ」
 クインテットは耳元でそう囁いた。彼女の言ったことは紛れも無い事実で、抵抗する力も、カノンを失敗作呼ばわりしたことを訂正しろと呼びかける声さえ出せない。
 シュトラフは虚ろな目でクインテットを睨み、意識だけは失わないように歯を食い縛り続けた。
「頑張っているけれど、無駄だよ。無駄無駄。人間がこの状況で脱出する術などあるだろうか。いや、ない」
 …………何秒経過しただろうか。力も出なければ、段々と思考に霧が掛かったかのように、全てが朦朧となていく。そんななか、無意識のうちに生きて逃げるために川に飛び込んだときのことを思い出していた。続けざまに深夜の街を駆け抜ける光景や食事を共にする光景が脳裏に浮かび上がる。
 この状況を抜け出すべく、脳が過去の記憶を振り返り、生きる道を探しているのだ。だが、首を絞められた状態から脱出する手立ては浮かばない。
 今度こそ駄目なのではないだろうか。このまま意識を失って、終わってしまうのではないだろうか。そう考えただけで瞳を開けることさえ困難なほど、意識は遠のき、そのまま眠りにつこうとしていた。
 それでも脳は記憶を漁り続け――――ある記憶に辿り着いた。絹などとは比較にできないほど白く美しい髪。全てを見通すような深い蒼の瞳がこちらを見上げている。……カノンだ。本当は脆く、か弱い少女であるべきだったにも関わらず、強靭さを持ってしまったがゆえに弱さを押し込んでしまった……繊細で、可愛らしい……大事な存在。
 自分が死んでしまったら、カノンはどうするだろうか。怪我を負っただけでも涙を流して自責したのだ。想像もしたくない。今この身に置かれている状況よりも苦しむかもしれない。それとも案外、余裕そうにしているのだろうか? ……もう自分が原因で誰かが、カノンのような人が涙を流すのはこりごりだ。
 シュトラフは気力のみで瞳を大きく見開いた。瞳孔が急速に縮む。意識が飛ぶのを抑えるために、歯はいつのまにか頬の内側を噛み締めていた。口の中に痛み血の味が充満していく。
「…………カ、ノン」
 シュトラフが死力を尽くして呟いた言葉に、クインテットは激昂した。
「その名を出さないでよ。聞きたくもない。と、ボクは伝える」
 首の骨が軋み上がるほどの力が掛かる。口の中に感じれた痛みも味も遮断され、脳が酷く揺れていた。それでも今ほど安堵を覚えたことはない。
 シュトラフは嬉しさを隠し切れず笑顔を浮かべた。その双眸に映し出されていたのは、クインテットの歪んだ表情と、カノンが真に怒りを見せる姿であった。
 クインテットはカノンの存在に既に気がついていたのだろうか。カノンの方を向くこともなく、しかし内に秘めたココロを露わにした。
「ボクはカノンの駄目なところを全て改善したはずだ。けれど駄目。どうしてか分かるよね? 最低限の人工知能だけあればいいものを、キミをベースにしたからこんな醜くて偽物な人工知能(ココロ)まで付いたんだ。これは余計な物だ。無駄。過剰、ゴミ! こんなものはゴミだ! ……いらなかった!」
 溜まりに溜まっていた負の感情が声となって空気を振動させるのが分かる。同時に、クインテットはシュトラフの首から手を離した。
 シュトラフは立つ余裕もなく、再度地面に伏せさせられる。落下の衝撃もおぼろげにしか感じ取れず、水に浮いているかのようだった。それでもなんとか体を起こし、二人のやり取りを見届けた。
 カノンは切歯しながら軽蔑と怒りに満ちた瞳でクインテットを睨み据えていたが、それは哀れみへと変化した。
「お気の毒です。ワタシは人工知能(ココロ)があってよかったと心の底から思います。おかげで捨てられた。だからこうしていられるのです。ワタシはこれほどまでに運命に感謝し、同時に怒りを覚えたことはありません。ワタシの心は、偽りではない。本物です。ワタシはゴミではない」
「意味を分からないことを言うな。いますぐスクラップにして――――」
 クインテットは腕から展開された銃口を突きつけたが、唐突にピピピという場違いな音が響くと、一瞥して腕を下ろし、会話を中断した。
「こんな時に通信か。…………了解。……悪運に恵まれたようだね。ここは撤収してあげよう。次はない。賊は賊らしく断頭台で処刑してやる。と、ボクは伝える。送れ」
「逃がすと思いますか? ワタシは下位互換かもしれませんが、あなたをスクラップにしてみせましょう」
「逃がしてくれるとも。こうすればね、とボクは伝える」
 直後、宙に浮いていた鉄球……フレミングの一つがシュトラフの胴体部に着地し、微弱な電気を伝えた。それはさきほど首に掛かったような凄まじいエネルギーではなかったはずだ。しかし体の内側が震え、シュトラフは一瞬にして呼吸も不可能な状態に追いやられた。痛み以上の苦しさと危機感を覚え、冷や汗が数秒も経たないうちにだらりと流れ落ちていく。
 最初にやられたスタンとかいうものをまた受けたのだろうか? あのときも気付けば手足が痙攣し、何も出来なくなっていた。もしそれを喰らったとしたならば、今どこかが機能しなくなっている? 
 シュトラフは目を瞠(みは)って、両手で胸部を押さえたが、どうしようもないことだった。その数秒後には視界が黒ずみ、歯を食い縛ることもできずに、朦朧としていた意識は閉じてしまったのだ。