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「くはっ……!」
 背中から叩き付けられるような感覚とともに、肺から空気が逃げ出す。
「……今日は、いつだっけ」
 起き上がってスマホを開き、今日の日付を確認する。
 七月七日土曜日 七時三十二分。
「今日は夏祭りの日か……となると、神社に行って桜織の手伝いをしないとな」
 俺はスマホをベッドに置いて部屋を出る。朝食を済ませた後部屋に戻り、閉めたままだったカーテンを開ける。
 空は青く澄み渡り、少し暑くなり始めた風を運んでくる。
「……大丈夫」
 今の世界は冷たさなどなく、温かい。虚像などではなく、確かに実在する世界。
 ならば、問題ない。
 なにを成すべきかは、覚えていない。けれど、覚悟と決意は魂が覚えている。
「よし……!」
 声に出して気合いを入れ、俺は今日のための準備を始めた。

 

「んぅ……」
 朝の日差しが障子の隙間から入り込み、眠っているわたしのまぶたを刺激する。
 しかしわたしはそこで、わずかな違和感を覚える。
「…………え?」
 不思議に思い眠気の残る重いまぶたを開け、そして音が出そうなほど勢いよく体を起こす。
「なんで……」
 ベッドに座ったまま、わたしは自分の体を見下ろす。
 両手があってちゃんと動く、人より少し大きいかなと思う胸もあり、太腿も視界に入る。
 つまり、わたしはまだ生きている。
(でも、なんで……わたしは確かにあの夜、ちゃんと術を成功させたはずなのに)
 優十を巻き込まずに術を成功させ、自身の存在ごと呪いを因果から消滅させた。その記憶もちゃんとあり、そしてそこから先の記憶がないことも自覚出来る。
 ならばなぜ、わたしは今生きているのだろうか。
 顔を上げて辺りを見回す。
 間違いなく、わたしの部屋だ。他のどこでもない、火ノ神桜織の部屋。
 一瞬死後の世界であることを疑ったが、そんなこと有り得るわけがないと、わたし自身が理解している。
 わたしは死んだのではなく、火ノ神桜織という存在を因果から消滅させたのだ。つまり、死ぬ以前に生まれてすらいないことになる……はずだった。
 けれど今現実に、わたしはこうして生きている。となれば、疑うべきは一つ――
(呪い……わたしの『後悔』じゃない。じゃあ、優十の……?)
 あらゆる不可能を可能にすることが出来るのは、それぐらいしかわたしは思いつかない。
 そしてそれが意味するのは、呪いが一つではなかったということ。
(じゃあ、優十もわたしと同じ回帰の力を……?)
 なんとなく、予想はしていた。何度繰り返しても、わたしは優十を巻き込んでしまっていた。どうあがいても失敗してきた。
 優十本人はなにも覚えていないようだけど、きっと彼は本能でわたしのことに気付いてくれたのかもしれない。それが嬉しくもあり、同時に悲しくもある。
 とても優しい大好きな人と、離れなくてはいけない。むしろこっちがわたしの『後悔』なんじゃないかと思うが、結局起こることはさほど変わらない。
〝巻き込んでしまった〟にしろ〝離れたくなかった〟にしろ、優十がいなければ成立しな後悔ならば、呪いはどうあってもわたしを優十がいる時間へと連れ戻す。発生する現象は繰り返しであり、後者の方が永続性が強い分厄介だったかもしれない。
 そこでわたしは、はたと気付く。
(ひゃっとしてわたし、優十に恋してる……?)
 今まで意識していなかったが、気付いてみるとそうかもしれない。むしろわたしのために頑張ってくれている人を好きになるなという方が、わたし的には無理だ。
 つまり――
「~~~~~~~~~~っ!」
 思わず顔を枕に埋めてしまう。このまま掛け布団をかぶってしまいたいぐらいだ。
 自覚するというのが、これほどまでに厄介だとは思ってもみなかった。
(これじゃあ、ますます離れたくなくなるよぉ……)
 きっと今のわたしの顔はすごく真っ赤だろう。わかっているから見たくないし、恥ずかしくなってしまうから、さらに顔が熱くなる。
「ふぇ~」
 思わず変な声を出してしまう。
 心臓の鼓動が速く、とてもうるさい。どれだけ押さえ込もうとしても、まったく静かになってくれない。
「うぅ……優十はずるいよ……」
 我ながら、あまりにもひどい責任転嫁だとは思うが、その彼もいないから許してほしい。
 治まらぬ鼓動の中、優十だけは絶対に巻き込まないと、確かな覚悟を胸に刻んだ。

 

 準備のために呼ばれていた時間の二十分前に家を出て、十分前ぐらいに神社に着くようにする。予定どおりの時間に神社の階段前に着くと、見知った小柄な少女の姿があった。
「おーい、遥ー!」
 声を掛けると、相手も俺のことに気付き、手を振ってくる。
「あ、センパイ!」
 長い白髪にアホ毛が特徴的な後輩が、軽く走りながら俺の方やって来る。
「センパイも神社にご用ですか?」
「ああ、まあな。遥も神社に用事か?」
「はいです。今日はお祭りなので、その準備のお手伝いと桜織センパイの神楽舞でやる、横笛の予行演習です」
「つまり、今年の神楽舞の横笛は遥が吹くのか?」
「はい、桜織センパイにお願いされたので」
「へぇ……あ、先に神社に行こうか」
「そうですね」
 俺と遥はともに長い階段を上り、神社へと向かう。
「センパイ、なにかいいことでもありましたか?」
 階段を上っている途中、遥が唐突にそんなことを訊いてくる。
「……? 別に、特にこれといって覚えはないが……なんでそう思ったんだ?」
「いえ、今日のセンパイはこう……自分の中の光を見つけた、みたいな顔をしてるので」
「変わった表現をするな。まあ、今ならどんな困難にも打ち勝てる気がするけど」
「センパイは強い人だから、きっとだいじょうぶです」
「いや、俺は強くなんてないよ。むしろ、ずっと弱いよ」
 絶望に打ち勝つだけの強さがないから、回帰による前回のことを思い出せないのだ。
「強さなんて、人それぞれです。弱さもまた強さです」
「弱さもまた強さ、か……」
「はい。自分が弱いとわかっている人は、きっと誰にでも優しく出来ます」
 長かった階段を上り終え、大きな鳥居を潜ると、境内を掃除している見慣れた巫女服の少女がいた。
「桜織ー」
「あ、優十。それにはるちゃんも、いらっしゃい」
 俺たちのことに気付き、桜織は動かしていた手を止める。
「今日はよろしくね。はるちゃんは、私と一緒に神楽舞の最後の練習。優十は、倉庫に入ったままの道具を運ぶのを手伝って」
「ああ、了解」
「はいです」
 桜織は持っていた箒をしまい、俺たち三人は倉庫から道具を取り出し、神楽殿へと歩いて行く。
 神楽殿は普段、三方の壁をすべて閉めているのだが、今は今日が祭り当日ということで開いている。
 桜織たちが着替えに行っている間、一通り道具の用意を済ませてしまう。
 倉庫に入ったままの道具と言っても、本当にちょっとした小物や桜織たちが使う衣装だったりしたので、運ぶのにさほど苦労はしなかった。
 しばらく待っていると、それぞれの衣装に着替えた二人が戻ってくる。
「それじゃあ、優十は端っこで見てて」
「ああ」
 言われたとおり端の方へ行き、桜織のことを眺める。
(ん……?)
 桜織のことを見ていると、彼女も目だけでこちらのことを見ていることに気付き、目が合うと慌ててそらされてしまった。
 疑問に思いながらも、桜織はゆっくりと神楽を舞い始める。
 横笛の旋律が響き、いくつもの鈴の音が重なり合い反響する。
 神々しくも、年相応の少女の空気を纏い、神楽を舞う。故に人の心を惹き付け、なにものにも劣らぬ美しさを魅せる。
 どこかで見たことがある。しかしそのときとは絶対的に違う、わずかな未知。
 かつて見たときは、ただ神々しいだけだった。
 けれど、今は――
(きれいだ……)
 そう、心から感じたのだ。
 気付けばそれは刹那のこととなっており、最後に鈴を一振りし、神楽は終わる。
 そのことを、あまりにも名残惜しく感じてしまう。
「ど、どうだった?」
 わずかに頬を赤く染め、上目遣いで訊かれるので思わず鼓動が速くなる。
「あ、ああ。すごく、良かったよ」
 自分でも、もう少しなにか言葉があるだろうとは思ったが、このときの俺にそんな余裕はなかった。
「そう、良かった……」
 少し恥ずかしそうに微笑する、あまりにも少女らしい笑顔に、俺の心はただ彼女に惹かれていた。
「大丈夫そうだし、今はこれくらいでいいかな。はるちゃん、お疲れ様。着替えに行こっか。優十はここで待ってて」
「あ、ああ……わかった」
 なんとかそれだけを返し、俺は二人が出て行くのを見送った。
 二人が戻ってきた後、遥は颯爽と祭りの手伝いに向かってしまい、俺は特にやることもないので、夕方までゆっくりさせてもらおうと思い、神社の鳥居のところまで桜織と来ていた。
「それじゃあ、また夕方にな」
「うん、バイバイ」
 桜織にそう告げてから、身を翻し一歩を踏み出そうとしたところで、わずかに引っ張られる感覚がした。
 後ろを肩越しに見ると、桜織がちょこん、といった感じで軽く俺の服の裾を掴んでいた。
「……桜織?」
「え……あ、ごっ、ごめんね。なんでもないの……」
 頬を赤くして顔を横に振る桜織の姿は、どう見てもなんでもないようには見えない。
「優十は……もし――」
 桜織はなにか言おうとしたとこで、その口を閉じてしまう。
 まるでその続きを、言いたくないかのように。
 けれどそのとき、俺の脳裏にノイズとともに一つの場面が蘇る。

『優十は……もし、わたしが助けてって言ったら、助けてくれる?』

 それはいつかの、遠い遠い……古い約束。
 ずっと前に交わし、何度も破っては再び誓ってきた、果たさなくていけないこと。
 だから、今度こそ果たそう。
 これを最後にする……そういう誓いと覚悟の意味を込めて――
「なにがあっても、絶対に桜織を助けるよ」
 桜織のことを抱き締めながら、俺はそう告げる。
 破ることを許さない、自身の戒めとする確かな誓い。
 俺の言葉を聞いた桜織はしばらく黙っていたが、やがて小さく優しい声で、
「無理だけはしないでね」
 そう、言ってくれた。
「わたしは、大好きだよ……優十のこと」
 その言葉を聞いた瞬間、どくん――と、心臓が揺れた。
 今ようやく確信し、自覚した。
 俺は彼女との時間を幸せに感じ、いつまでも一緒にいたいと、ずっとそう願ってきたのだから、俺が導き出す答えもまた――
「俺も、大好きだよ……桜織」
 

 日が傾き、ひぐらしが鳴き始めた黄昏時。
 俺たちは刻時坂神社の鳥居の下に集まっていた。
「それにしても、毎年結構人が集まりますね」
 黒にあじさい柄の浴衣を着た先輩が、少し困ったように言う。
「人が多いと歩きづらいですけど、お祭りは楽しいですから我慢です、凪咲センパイ」
 赤を基調とし、椿の絵柄の浴衣を着た遥が、先輩を元気づけようとする。
「結構大きな神社だとは思うんだけど、町の人が集まるとやっぱり狭くなっちゃうね」
 ピンク色に白百合の花模様の浴衣を纏った桜織が、困ったように笑う。
「はぁ……。まあ、お祭りは楽しいもでのすから、仕方ありませんね。あ、忘れるところでした……どうぞ、優十」
 そう言って先輩が俺に差し出してきたのは、銀色の懐中時計。
「これは……」
 当然、見たことがない。いや、思い出せそうで思い出せない。
 けれど、俺はそれを手に取る。
 刹那、流れ込んでくる様々な情報。繰り返したこと、終わりの誓い。
「昨日、昼食のときに優十が座っていた椅子にあったので、優十ので間違いないですよね?」
「はい、わざわざありがとうございます、先輩」
「いえ、構いませんよ」
 そうして、俺たちは屋台を回り始める。
 射的では遥が欲しがったものを、俺と桜織、そして先輩の三人で協力して景品を手に入れた。遥は狐のお面を買ったり、桜織は売っている髪飾りを眺めたり、先輩は俺と一緒にそんな二人を見守っていた。
 途中でりんご飴やかき氷を買っていると、あっという間に桜織たちの神楽舞の時間になった。
 二人とはいったん別れ、俺と先輩は神楽殿の前まで行く。
「ここなら、よく見えますね」
「はい」
「優十は、もう桜織の神楽舞は見たんですか?」
「ええ。今年はすごいですよ」
「くす、それは楽しみです」
 しばらく待っていると、桜織と遥の二人が出て来る。
 遥が横笛を吹き始め、桜織も神楽を舞う。
 桜織の姿はやはり神々しく、けれど年相応の少女らしさがあり、完璧でない故に、なによりも美しく輝いている。
 奏でるは鈴と横笛のアンサンブル、灯り照らすのは焔の光。
 その中心に立つのは、美麗な舞姫。
 なによりも花々しく、なによりも明るく、そしてなによりも妖しく人の心を惹き付け、決して離さない。
 そして鈴の最後の一振りにて、神楽舞は幕を引く。
 静寂の中から湧き上がる喝采。
 今宵、これほどまでに美しかったものはないだろう。

 

 神楽舞が終わった後、桜織たちと合流して神社の階段のところまで来た。
「それでは、今日はこれで。みなさんお休みなさい」
「また月曜日に、です」
 そう言って、先輩と遥は神社の階段を下っていく。
「それじゃあ、バイバイ、優十」
「ああ、またな」
 俺と桜織もそう言葉を交わし、俺は階段を下る。しかし、俺が向かうのは家がある方の道ではなく、もう一つの方……つまり、火時ヶ淵へ繋がる道へ。
 どれくらい待っただろうか。天に浮かぶ赤い月を見上げ、悠久とも刹那とも言える時間を待った気がする。
 そして、このときがきた。すべてが終わり、始まった……円環が生まれたとき。
「優十……」
 聞き慣れた声が聞こえ、俺はそちらの方に顔を向ける。
 そこには、巫女服を着た俺の幼馴染みである、火ノ神桜織がいた。
「よ、桜織」
「なんで、優十がここにいるの……」
「さっき言ったばっかじゃないか、またなって」
「でも……! 今までずっと、こんな場面はなかった……‼」
 桜織は、なにかを堪えるように叫ぶ。
「すっと、優十がわたしに追いつくだけだった……! それも、ようやく前回で終われたと思ったのに、なんでまた……」
 桜織にとっては、ようやく終われたはずだった。けど、それを俺の都合でもう一度なかったことにした。
 前回のことが、どれだけの失敗を重ねた果てで得られた桜織にとっての成功だったのかは、今の俺にはわからない。ただ、俺にだって、なくしたくないものがある。
「俺は終わらせる。この永遠に続いた繰り返しを、常夏の日々を。だから桜織、もう一人で消えないでくれ。呪いを消す必要も、回帰する必要もないんだ」
 今日の夜を乗り越えれば、それですべてが終わる。
 しかし――
「ダメだよ……呪いはどうあってもその人の後悔を具現する。つまりね――」
 俯いて涙を流す桜織の足下が、淡く輝き理解出来ない文字の羅列が浮かび出す。
「わたしたちの意思に関係なく、禁術と回帰は発動する……」
「な……⁉」
 因果関係の強制化。つまり、俺がここに来た時点で俺と桜織の回帰が強制執行される。
「桜織ッ‼」
 俺はなにも考えず、ただ彼女に手を伸ばす。
「……っ! ダメだよ優十‼ わたしにはもう回帰出来るだけの命が残ってない‼ それに優十も……!」
 桜織が俺に向かって叫ぶ。お互いに、回帰出来るだけの命の残量はもうない。
 それでも、俺は手を伸ばす。
「手を伸ばせ! 桜織‼」
「ダメ……」
「桜織‼」
「来ないで……ッ‼」
 まずい、そう思ったときには遅かった。明確な拒絶によって、俺は時間の流れへと弾き出される。
 なにもない空間、流れる水の中にいるような感覚。
 このまま桜織の回帰を完成させるわけにはいかない。もう命の残量もないのに回帰してしまったら、きっと次のとき桜織は無事では済まない。
 ならば――
「戻れえええええぇぇ‼」
 押し流される感覚の中、俺は自身の回帰を発動させる。
 けれど、戻るのは今より過去ではなく、ついさっきまでいた場所――桜織がいる場所へ。
 俺の回帰能力は自由なときに使え、自由な時間に回帰出来る。しかし、今の俺は桜織の回帰に対して鬩ぎ合うのがやっとである。因果関係上、桜織の方が強いのは当然だが、このままではジリ貧だ。
 鬩ぎ合うだけでは意味がない。となれば――

「唯‼」
 
 こんな場面で、最も頼れる少女の名を呼ぶ。
「もう、なんでこんなときに名前で呼ぶのよ」
 どこの世界でもない、時間の流れそのものであるこの空間に、虚空から神御衣を纏った少女が姿を現す。
「このままじゃ俺が押し負ける、だから時間を止めてくれ! 出来るな⁉」
「こんなときのために力は蓄えておいたけど、そこから先は私でもなにも出来ない可能性もある。なにか手は考えてあるの?」
「ああ、問題ない」
「……わかった」
 そう言うと、唯は両手を合わせて胸の前で握りしめ、そして彼女が手を開くと同時に緑色の光の粒子が飛び散る。
 瞬間、ありとあらゆる時間の流れが停止する。
「あの炎が見える?」
「ああ」
「あそこが、桜織のいる場所。行って」
「わかってる」
 俺は両膝を曲げ、前にジャンプするようにして進む。
 視界の真ん中で輝く炎、そこが桜織のいる場所。
 暗闇に迷っても。進むべき道を照らしてくれる、俺の篝火。
 迷うことなく突き進み、そして俺はそこに辿り着く。
「なんで、戻ってきちゃうかな……」
 開口一番、桜織は泣きながらそう俺に言葉を投げる。
「そんなの、桜織が大切で……大好きな人だからだよ」
 俺の言葉を聞き、桜織は俺に抱きついてくる。
「わたしだって……っ、そんなの同じだよ……! だからっ、だから優十だけでもって思ったのに……!」
「ごめん。でも、桜織がそう思うなら、俺だって同じなんだよ。桜織だけでもって」
「わかってる……! わかってるけどぉ……‼」
 そう、たとえわかっていても譲れない。俺だって同じ気持ちだから。
 そこで、虚空から唯が姿を現す。
「ごめんね、二人とも。私のせいで、二人を巻き込んだ……」
「唯ちゃんは……悪く、ないよ……」
「ああ。誰も悪くない。強いて言うなら、全部龍神が悪い。でも、今はそんなことを言っている場合じゃない」
「でも、どうするの……優十?」
 桜織が訊いてくるので、俺は至極簡潔に答える。
「俺と桜織が生まれる前まで、俺が回帰させる」
「え……」
「ちょっと待って、そんなことしたら」
 桜織は驚いたような顔をし、唯は慌てて口を挟む。
「これなら、呪いは俺と桜織の体内には入っていない。その間に、唯が残り二つの呪いを回収する。それですべてが終わる」
「でも優十、そんなことしたら……」
「優十と桜織が、出会えなくなるかもしれない……」
 桜織と唯が口からそう言葉を漏らす。
 そう、俺がやろうとしてるのは、可能性を無限の零地点へ戻すこと。つまり、ありとあらゆる可能性が存在し、今の俺と桜織が出会えている可能性に至るかはわからないということだ。
「もう、これしか方法がないんだ。これなら、俺が回帰で死ぬ前に命を生まれる零地点に飛ばせる。だから、唯。頼む」
「でも……」
「待って! そんなのイヤだよ! 他に方法が……」
 慌てる桜織の頭に手を置き、俺は優しく桜織の頭を撫でる。
「大丈夫。なにがあっても、必ず会いに行く」
「優十……」
「唯、力を貸してくれ。俺だけじゃ足りないかもしれないから」
「……わかった」
 そう言って、唯はパンッ、と両の手をまるで祈るように合わせる。

「高天原に神留まり坐す、皇が親神漏岐神漏美の命以て八百万神等を、神集えに集え給ひ。神議りに議り給ひて、我が皇御孫命は」

 紡がれるのは、神が使う言霊。
「優十、わたしは……」
「大丈夫だって。今度こそ、ちゃんと約束を果たすから」
 涙を流す桜織のことを、俺は抱き締めながら優しく言葉を掛ける。

「種種の罪事は天津罪国津罪許許太久の罪出む此く出ば、天津宮事以ちて天津金木を本打ち切り末打ち断ちて」

 時間が流れ出す。桜織といられるのもあとわずか。
 ならば、必要な言葉だけを語ろう。
「桜織はさ、俺の篝火だったんだよ」
「篝火……?」
「ああ。たとえ暗闇に迷っても、俺が進むべき道を照らしてくれる。今までずっと諦めずにいられたのは、桜織が俺の道を照らしてくれたからだよ」

「今日より始めて罪と伝う罪は在らじと」

「だからさ、待っててくれ。桜織がいてくれたら、俺は迷うことなく君のところに行けるから」
「優十……! わたしは、離れたくないよ!」
「俺もだよ。でも、生きてなくちゃ、会うことも出来ないだろ? だから――」

「今日の夕日の降の大祓に祓へ給ひ清め給ふ事を諸々聞食せと宣る」

 止まっていた時間が、動き出す。
 俺は再び、ゆっくりと回帰を発動させる。
 こんな結末、俺も本当は認めたくない。だけど、これが今出来る最善で最後の方法。

「禊ぎ祓え――」

 必ず会いに行く。今度こそ破らないから、

「――輪廻転生」

 だから、また会えるそのときまで、さようなら……桜織。