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「よう、瀬川!」
 朝のホームルームが終わったすぐに、陽気で大きな声が聞こえ、俺は思わずため息をこぼした。呼んでもないのに村上が俺の席まで来たのだ。
「何?」
「いや、特に用は無いけど」
 それを聞き、俺は村上がいない存在だと思いながら一限目、英語の準備をしようと机の中にある教科書たちをまさぐり英語の教科書とノートは取り出したが、辞書はロッカーの中にあるため廊下に出なければならない。
 俺が立ち上がり廊下に出ると、その後に村上もついてきた。
 辞書はすぐに見つかり教室に戻ろうした所で村上に肩を掴まれた。
「自販機行こうぜ」
「嫌だ、遠い」
 簡潔に断り教室に入るも方から村上の手が離れることはなく、結局、また自分の机までついてきていた。他に友達がいないんだろうか。
「奢るからさー」
「金で人を釣ろうとするなよな」
 俺は顔をしかめながら辞書を机に置き、「高いやつな」と言ったら、村上は何度も大きく頷いた。
 村上と初めて話した時はお喋りなやつで友達も多いものだと思っていたが、あまり他の人と話しているところは見ていない。
 まあ、俺もクラスの人間で話したことがあるのは村上くらいだけど。 
 一階に下りて自販機に向かう途中に一年生の教室を見かけ昨日のことを思い出す。
「仲直りってどうするんだろうな」
 俺の問いに村上は眉をひそめた。
「喧嘩か?」
「まあ、そんな感じ」   
 自販機につき村上は缶コーヒーのボタンを押しながら「仲直りねえ」とおばあちゃんのように呟いた。
「瀬川は?」
「水」
 俺がそう言うと、村上は缶コーヒーを取り出し口から取り出し、そのままペットボトルの水を買ってくれた。
「謝れよ」 
 水を受け取ったタイミングで村上にそう言われ、俺は思わず首をかしげる。
「奢ってくれるんだろ?」
「違う違う、仲直りの方法だよ」 
 村上は笑い、缶コーヒーを口にした。
「いや、謝るつもりではいるけど」 
「じゃあ、いいじゃん」
「それで許してもらえるかな」
「知らん! けど、謝らなきゃしかたないだろ?」
 そうなんだけど、もし許してもらえなかった時、どうするかまで考えたかった。
 結局、授業中やらで色々と考えたが何も浮かばず放課後になってしまった。もう許してもらえなかったら、その時はその時だ。
 帰りのホームルームが終わり、少し間を空けてから音楽室に向かった。
 廊下にピアノの音が響き、もう音楽室に朽木がいるのが分かる。
 相変わらずひどい演奏だけど、なんだろう、どこかで聴いたような……。
 そんなことを思いながら音楽室を覗き、ピアノを弾いている朽木を見て、失望した。初めて会った日のように目を瞑って演奏していたのだ。
 さっきまでの自分が滑稽に思える。何が上手くなりたいだよ、なる気ないじゃん。明後日が予選だろうに何やってんだよ。
 その朽木の行為に苛立ち、同時に裏切られた気分だった。
 もう知らない、あんな奴。瞳には悪いけど、仲直りなんて無理だ。こんな音、聴いてられるか。
「あら?」
 音楽室から立ち去ろうとした時、後ろから声をかけられ振り返り見ると、そこにいたのは音楽の教師である西門先生だった。
「瀬川先生じゃないですか」
 と、謎の呼び方をされた。
「なんですか、それ」
 俺が聞くと、西門先生は口に手を当てながら小さく微笑んだ。
「朽木さんから聞いてますから、知ってますよ」
「あー、なるほど」
 西門先生と話すことはあまりないのだが、先生は俺の手の事情を知っている。
 なんでも俺が小学生の頃のコンクールをすべて見にきていたらしく、恥ずかしい話、俺のファンだったという。
「朽木さんはどうですか?」 
 そう聞いてきて、俺が答える前に西門先生は音楽室を覗き込む。
 中の朽木を見てから、さっきまでにこにこしていた先生の顔が、どこか困った様子になっていた。 
「大変ですよね、朽木さん」
 多分、目をつむって演奏しているところを見て困り顔になっていたけど、何が大変なのか分からない。
「でも、瀬川くんの教えなら間に合いますよね」 
「明後日に、ですか?」
 西門先生は頷き、もう一度音楽室を覗き込んだ。
「今年で最後になるかもしれませんし、私、絶対に応援に行きますね」
 最後、の意味が分からずにいると、さらに先生は口を開く。
「他人事になっちゃいますけど、朽木さんのこと、支えてあげてください」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
 そう言って立ち去ろうとした西門先生を呼び止めた。
「支えろだの、今年で最後だの、何言ってるんですか?」
「だって、朽木さんの目が……」
 と、そこまで言ったところで、西門先生の表情が一変した。同時に俺の顔も変わっただろう。
 目って、何のことだ……。
 お互いしばらく立ち尽くしていたが、朽木の演奏が止まったことに気づき、俺は走って下駄箱に向かった。後ろから西門先生の声が聞こえたが振り返りはしない。
 下駄箱につき、かかとを踏んだまま靴を履き校門を出ても走るのをやめなかった。
 時間がないとか今年だとか、そういうことかよ、おい。西門先生は最後まで言わなかったが、分かってしまう。
「痛っ」
 しっかりと靴を履いていなかったため、何もない道の上で転んでしまった。
 制服のズボンは破れ、膝から血が出る。俺は走るのをやめ、靴をしっかりと履いてからゆっくりと歩く。
 夢中で走っていたため気づかなかったが、もう家の近くまで来ていた。
「父さん!」
 俺は家に入るなり父を呼んだが返事はなかった。玄関に靴もないから、まだ帰っていない事がわかる。
「巽? パパなら晩御飯までには帰ってくるって、何か用だった?」
 俺の声に気づいた母がリビングから顔を覗かせそう言った。
 遅いのはいつもだが、すぐに聞きたいことがある今日に限っては本当に困る。
「いや、なんでもないよ」
 それだけ言い、俺は自分の部屋に入った。
 膝に痛みを感じ、部屋にあった絆創膏を貼る。そのおかげで少し冷静になれた。
 たぶん、今の間がなければすぐにでも父の働いている病院に行っていただろう。それはさすがに迷惑になる。 
 俺はベッドの上に横たわり目を瞑った。
 今すぐ一週間前に戻りたい。そしたら、あの時目を瞑って演奏している朽木に悪態つくこともなかった。
 そしたら、今こうして戸惑い悩むこともなかった。
 そしたら、そしたら……、俺はもう、一生ピアノと関わることはなかったかな。
「ちょっと、外に出るね」
 母にそう言い、俺は家の外に出た。
 出たと言ってもどこかに行くわけではなく、帰ってくる父を待つため家の前にいるだけだが、部屋で待っているといろいろ考えてしまいそうで、こうして外の風を受けた方が落ち着けた。