あれから一週間後のことだ。
土曜日の朝、俺はいつも通り早くも遅くもない朝の時間に起きた。
「おはよう」
リビングにいる父に挨拶をすると、俺を一瞥にして、「ああ、おはよう」といつもより少しだけ低い声で挨拶が返された。
父はいつものパンツ姿ではなく、土曜日にもかかわらずスーツを着ていた。
「今日仕事なの?」
「……ああ」
なんだか機嫌が悪そうだな。
「あれ、母さんは?」
この時間なら起きているはずなんだが、リビングに母の姿は見えない。
母が寝坊しても怒ったりはしない父だから、機嫌が悪い理由はそれではないと思うけど、こういう父といるときは気まずくて仕方ない。
「まずい」
だが、すぐに理由はわかった。
「あ、俺がコーヒー淹れようか」
どうやら自分で淹れたコーヒーがまずかったようだ。
父は口につけていたマグカップをテーブルに置き、小さく頷いた。
自分の分のコーヒーも淹れ、父の向かい合わせでコーヒーを飲んでいると、
「今日は学校に行くのか?」
唐突に聞かれ、行く予定ではなかったのですぐに答えられなかった。
だが、もしかしたら朽木が来るかもと思い自分の中で行くと決め、父にもそう言うと、「へぇ」と特に興味がないような返事が帰って来た。
「それじゃ、行ってくる」
「うん」
父を見送った後俺も制服に着替え、特に急ぐこともないのでゆっくりと学校に足を運んだ。
「まあ、いないか」
朽木がいることを少し期待して音楽室に入ったが、姿はない。
窓を開けてからピアノ椅子に座るが、どうも弾く気にはならなかった。
来ないかもしれない、来ない可能性の方が高いのに、朽木を待っている自分がいて、そんな自分が心地いい。
窓から入ってくる風の匂いが懐かしく、あの日の演奏を思い出させる。
だからだ。今弾く気にはならないのは、朽木としか弾く気が起きないからだ。
よし! もしあいつが来たら夜まで付き合ってもらおう! あいつが来たら……。
「先輩!」
ふと俺が入り口を見ると、そこには口角が限界まで上がっていた朽木が立っていた。
「お、おお」
そんな声しか出なかった。
まさか来るなんて、期待はしてたけど、来てくれるなんて。
「どうしたんですか? いつもより変ですよ?」
「う、うるさい! 今日は俺も弾くからな」
俺は椅子をどかし、左側に立った。朽木も右側に立つと、小さく笑った。
「来年、二人羽織で出てみませんか?」
そんなことを言う朽木を馬鹿にするように笑い、
「朽木が考えそうな、アホ、な考えだな」
そう言うと、朽木は「本当に出ますからね」と唇を尖らせた。
少しの沈黙の後、俺と朽木は目を合わせ、お互いすぐに鍵盤に目を向けた。
「……先輩」
「ん?」
鍵盤に目を向けたまま会話を続ける。
「私、先輩に言わなきゃいけないことがあるんです」
「なんだよ」
「今日で、目を開けて演奏するの、最後にします」
それを聞いて思わず朽木の方を向いてしまいそうになったが、今朽木の顔を見たらいけないと思った。
「……そうか」
「あっ、怒らないんですね……」
朽木は俺が目のことを知らないと思ってるんだろうけど、俺知ってるんだ。だから、怒れるわけないだろ。
「じゃあ、今日は一日中、私に付き合ってくださいね」
鼻声のくせに無理して声を明るくしているのが分かる。それでも、俺は朽木の顔を見ないで、鍵盤に目を向けたままでいた。
「……ああ、分かってるよ」
一度目を瞑り、唇をかんだ。
今日で最後なら、少しの暇なんてない。
「好きなタイミングで弾いていいぞ」
鼻を啜る音が聞こえた後、朽木は「いきます」とだけいって、鍵盤を叩き出した。
二人きりでの最後の演奏会が、幕を開けた。