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 晴れが続くようなら明日にでも京都へ行こうと言われた。
 ベッドから出し抜けに起き上がり、隣を見遣った。まふゆは片手で膝を抱きながら黙々とスマートフォンを操作している。にわかに頬を染めた、いつもと変わらない横顔だった。
「急だね」
 彼女がスマートフォンから目を離すと、
「ん、ちはるが嫌なら行かないけど」
 少しだけ残念そうな表情をしたのを僕は見逃さなかった。
「嫌じゃないよ。ちょっとびっくりしただけ」
 彼女が再びスマートフォンの画面に集中したのとは反対に、僕はベッドを降りて伸びをした。それからクローゼットの中から明るいスーツケースを引っ張り出すと、
「おぉー、行く気になった?」
 女子高生のような声を上げた彼女に、
「理由を訊いていい?」
 急にしおらしくなった彼女は、
「私たち……付き合い始めてから旅行らしいことしたことないでしょ」
 仕事が忙しいという理由で彼女との外出計画が自然消滅していた。だけれど、昨日から一週間の所定休日で一緒に過ごす時間を作ることができた。そして、どこかへ行きたいね、と話してからもう半年も経っていたことに気付いて愕然とした。申し訳なく思って、それでも彼女の言葉には優しさを帯びていたから、少しだけ許された気持ちになった。
「よし」
 彼女の頭を撫でながら、
「では、京都へ行きましょうか」
 くすぐったそうに、
「はい」と言った。
 もう一度、はい、と言うとにっこりと微笑みかけてきた。

 

 

 まふゆと出会ったとき、僕たちはまだ高校生だった。通学用のバスの中で彼女を見かけ、その整った目鼻立ちやウェーブのかかった長い黒髪が「かわいい子」の雰囲気を醸し出していて、周りの景色が霞むようだった。彼女も僕を見つめ返してきて、若干の居た堪れなさに目を逸らした。このとき、自分でもびっくりするほど胸が高鳴っていた。
 これっきり二度と会えないかもしれなかったから、勇気を出して彼女の隣に座った僕は、どもった喋りになりながらも連絡先を交換することに成功したのだった。
 その日の週末に食事に誘った。
 オレンジの光とランプの薄明に照らされた、こじゃれた店内でお互いにグラスを傾けながら、たくさん喋った。しかし、それが目的ではない。最後に言わなければならないことがあった。
「僕と、付き合ってください」
 陶然としたように彼女は頷いてくれた。
 僕が高校を卒業して販売関係の会社に就職し、一人暮らしをしていた彼女は、いつもバイトを終えると僕の家までやって来た。月光だけの夜の中で、僕たちはしりとりのような長い会話と触れるだけの短いキスを交わしながら、何度夜を明かしただろう。
 彼女が実家を出て半同棲のような生活は二年間続いていた。

 

 

 正面に聳え立つ塔を見て、本当にやって来たのだと実感した。
「わぁ――」
 耳元に届いた感嘆に僕も混ざった。見たものに心を揺さぶられたとき、その大きさに人は感動する。初めて訪れた地なら尚更だ。
「暑いね」
 けれど彼女の情の移ろいは早かった。これは誰も知らなくていい事実だが、肌のベタつきに嫌気が差して主に女性が使うスキンケア化粧品を彼女と併用していた。
 どこへ行きたいかと尋ねたら、彼女は、山登りしたいと言った。
 手元のスマートフォンで検索したら絶好の場所があるようだった。
 地下に降りて、本当にこの電車で間違いないのかと辺りをきょろきょろしながら乗った。
「人すっごいね。新宿駅に負けてないよ」
 ホームを出ると、立派な鳥居に見下ろされた。白い制服姿の男の子たちが、滴る汗を拭いながら正面を指さし楽しそうに声を上げていた。踏切が打ち鳴り、そこに蝉の鳴き声が重なって合唱のようだった。
「お参りはいいの?」
 彼女は首を縦に振ると、すたすたと歩きだした。裾にフリルがあしらわれたノースリーブのブラウスにショートパンツという恰好の彼女に追いつき、隣に並んだところで、無数の鳥居に圧倒された。人の波に倣いながら、異界へ誘うかのように大グチを開ける鳥居の中に入っていった。彼女は眉根を寄せた表情をしていて、考え事かなと思いあえて声は掛けなかった。傾斜が急になったり、長い石段が続くようになってから、彼女が口を開いた。
「なるほど……。確かに山だね」
 首筋や額に汗を浮かべた彼女を気遣いながら登っていくと、疲れたぁ、という悲鳴が聞こえた。頂上は目前だったし最後は彼女の手を引いて山頂に立った。
 僕たちは京都を一望していた。
「これが見たかった?」
 彼女がちょこんと頷くと、徐に手を合わせた。
「お参りは、静かなところでするもんだよ」
 そうかもしれないと思った。僕も手を合わせる。
 テイク、ア、ピクチャー、オーケイ? という声が聞こえて目を開けると、彼女の懇願する姿が映った。彼女との素敵な一枚を撮ってくれた。
「あとは下山かぁ」
「そうだね」
「ちはる」
「なに?」
「……おんぶ」
 まったく、年甲斐もないことを言う。

 

 

 ホテルの受付でチェックインを済ませ、一旦客室に荷物を預けてから地下にあるバーに赴いた。
 カウンター席でお互いにグラスを傾けながら、今日の出来事を振り返っていた。
「聞いて驚きなさい、鳥居、一〇〇二基あったよ」
「数えてたんだ」
 その真偽はこの際問題ではない。彼女が本当に楽しそうに言うものだから、来てよかったと思う。
「なんだが、このシチュエーション、あのときを思い出すね」
 僕は、照れ笑いを浮かべた。