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 京都 先斗町――
 夜空を仰げば無数の電線が奔るこの路地。時刻はすでに二十時を迎えているが人が多く集まるのは寧ろ、この時間帯である。居酒屋に料亭、茶屋といった様々な店が建ち並ぶため、夜の先斗町はがやがやとした騒ぎ声や店の明かりが所々から漏れている。
 しかし、全ての店が客でいっぱいという訳ではなく、ぽつりぽつりとしか客がいない店も当然ながら存在する。『みづき』もそんな店の一つだった。店自体はそこまで大きくなく、カウンター席が六つにテーブル席が三つだけ。いわゆる知る人ぞ知る居酒屋というもので、訪れる客はもっぱら地元の人たちである。
 現在、店に客はカウンター席の右端から詰めて座っている女性と青年の二人のみ。
 腰元まで伸びている黒髪を結わずに垂らしている妙齢の女性は、藍色の着物を身に纏っている。その藍色の中には月下美人が純白大輪の花を咲かせており、彼女の美貌をより引き立てていた。
 女性の名前は野上(のがみ)葵(あおい)。
 京都の私立野上探偵事務所の創立者にして所長である。
 彼女は猪口の日本酒を味わいながらも、しかし視線は左隣の中性的な顔立ちの青年へと向けていた。
 長い髪をうなじの辺りで束ねて後ろへ流している彼は、白いワイシャツの上から淡い緑のコートを羽織っている。それは黒い袴のような長ズボンと合わせて、書生服を思わせる優雅なコーディネートだった。
 青年の名前は桐壺光(きりつぼひかる)という。
 世間から『探偵源氏』と称されるくらい、ちょっとした有名人の彼は野上探偵事務所の居候にして看板探偵である。
 桐壺はちびちびと猪口に注いだ日本酒を舐めるように飲んでいたが、右からの視線に気が付くと飲む手を止めて葵の方を見た。
「な、何ですか?」
 少々行儀悪く頬杖をつきながら微笑む葵の顔は、すでにほんのりと上気している。どうやら少し酔いが回ってきているようだった。
「桐壺くん、さっきから全然飲まないなって思って。私の奢りだから、別に遠慮はしなくていいのよ」
「遠慮というか……僕がお酒に弱いのは知っていますよね」
「ええ、もちろん分かっているわ。でも桐壺くんが飲んでくれないと、その分、私がいっぱい飲んじゃうわよ。それでも良いのかしら」
「うっ、そうきましたか」
 葵の言葉を受けて、桐壺の表情が困惑に染まる。
 野上葵ははっきり言って酒に強い方である。しかし、ある一定の量を超えると彼女は豹変してしまうからだ。
 葵はにやあと少し不気味な笑顔を浮かべて、
「私がこのまま飲み続ければどうなるかくらい、探偵源氏の桐壺くんには分かるわよね」
「それ、もう脅しですよ」
 桐壺の頭の中で、以前に他の居酒屋へ行ったときの記憶が嫌でも思い浮かぶ。
 酔った葵はべったりとくっついてきた挙句、服を脱がそうとしてくるのだ。桐壺にとってはたまったものではない。
「脅しだなんて……まあ、いいわ。それじゃ、どんどん追加しちゃおうかしら」
 葵は店員を呼ぼうと手を上げる。
 だが、その手に店員が気付くことはなかった。横からスッと伸びてきた桐壺の手に掴まれ、静かに下ろされてしまったからだ。
「待って下さい」
 握っていた彼女の手をそっと放しながら、桐壺はしぶしぶといった表情で自身の前に置かれている徳利を軽く爪で弾いた。
「この徳利は空にしますから、それで勘弁して下さい」
 桐壺の言葉に葵はふふふと笑みを返す。
「あら、桐壺くんにしては思い切ったことするじゃない」
「臨界点を超えた所長には何をされるか分かりませんからね。自分のためにも、所長のためにもここは僕が飲みます」
 一つ息を吐いてから、桐壺は口元へ運んだ猪口をぐいっと傾ける。
 途端に酒が喉の奥へと駆け抜けてゆき、桐壺は慣れない感覚に一瞬顔をしかめた。
 その様子をじっと見つめていた葵だったが、やがて彼女もお酒で喉を潤すと静かに口を開く。
「それじゃあ今夜は私もほろ酔い程度にしておくわね」
「そうして下さい。僕も介抱してあげられそうにないので」
 だんだんと頭がぼーっとしてくるのを感じながら、桐壺は徳利から猪口に酒を注いでゆく。透明でいてどこか神秘的な液体は、猪口の淵に微小な気泡を作った。
 まるで飲んでもらえるのはいつかいつかと待ちわびているようだ。
 しばらく気泡を眺めていた桐壺だったが、彼は意を決して猪口の日本酒を一気に飲み干してしまった。
 それでもまだ徳利の中の酒は十分に残っている。
 はあ、と。桐壺がため息にも似た息を吐いた時、再び葵が口を開いた。
「ねえ、桐壺くん」
「何ですか」
 彼女の声は先程までとは違う、少し低いトーン。真面目な話をするときの声だった。
「ちょっと話は変わるけれど、この前の紫の案件があった日。桐壺くんが帰り道に語ってくれた〝紅夜叉(べにやしゃ)〟のことについて、一つだけ訊いてもいいかしら?」
 紫の案件――紫というのは葵の妹・野上(のがみ)紫(ゆかり)のことだ。
 下がり端の黒髪に、赤い組紐の髪飾りが特徴的な現役女子高校生。おとなしい性格で、姉の葵にそっくりな美しい容貌の持ち主であった。
 しかし先日、彼女が通う府立織巻高校で小火騒ぎがあり、紫はその犯人にされかけたのだ。現在は桐壺によってその容疑も晴らされ、無事に学校生活を送っているという。
 葵と紫を連れて三人で現場へ赴いたあの日。帰り道で話した内容も桐壺はよく覚えていた。
 何故なら、火災の背後には自身が追っている殺人鬼の存在があったからだ。
 耳まで裂けた口とそこから生える鋭い牙。そしてぎょろりとした目が特徴の真っ赤な鬼の面を被り、古ぼけた蓑のような衣装で身を包んだ人物。
 その奇抜な見た目からついた名が紅夜叉である。
 紅夜叉は、自身が関わっていることの証拠にトレードマークの紅蓮(ぐれん)石(せき)を織巻高校に残していったのだ。
 桐壺は猪口を持っていた手をそっと置いた。
「唐突ですね。まあ、構いませんけど。何でしょうか」
「桐壺くんはあの日、紅夜叉の目的は『僕への復讐』だと言っていたけれど、紅夜叉があなたに復讐する理由って何なのかしら。それが気になったのよ」
「ああ、そのことですか」
 葵の意外な着眼点に桐壺は感心する。何だかんだといって紅夜叉のことを思い出すのは久しぶりであった。
 ただ彼自身、紅夜叉のことを詳しく知っている訳ではない。年齢はおろか性別さえも不明であり、その正体を知っている者は誰一人としていないだろう。もしも、それらが判明していれば今頃はとっくに捕まっている筈なのだから。
「そうですね。その理由を説明するには、僕の高校時代のことも話す必要がありますね。長くなりますけどいいですか?」
「ええ。聞かせて頂戴」
 分かりました、と頷いてから桐壺はゆっくりと自身の過去を語り始めた。
「これは以前に所長にも言いましたが、紅夜叉が殺したのは千堂隆二(せんどうりゅうじ)という人です。凶器は日本刀。袈裟斬りの一太刀で千堂さんは亡くなりました。鎖骨、大胸筋を斬られたことによる失血性のショック死ですね」
 まあ、と口元に両手を添える葵の顔はいくらか青ざめていた。それでも彼女はなんとか次の言葉を絞り出す。
「桐壺くんの、とても大切な友人だったと聞いているわ」
「はい。所長には友人と言っていましたが、正確には千堂さんは大先輩なんです。京町組の」
「あら、京町組と言えばあの不良集団のことよね。最近はすっかり聞かなくなっちゃったけれど。それよりも大先輩ってことは桐壺くん……」
 葵の記憶では、京町組とは京都の不良たちが年齢性別を問わず集まり出来たグループである。総員は不明だが、かなりの人数がいたと言われており、よく他の都道府県の似たようなグループと衝突を起こしていたそうだ。しかし、その割にはほとんど騒ぎにならない不気味な集団であった。
「所長の考えている通りですよ。これでも僕、当時はやさぐれていて京町組の一員だったんです」
 少し言いにくいのか桐壺は俯きがちだった。
「京町組はもう存在しません。千堂さんは、その京町組を束ねるトップでした。ですから千堂さんが紅夜叉に殺された後、解散するほかなかったんです。近頃、噂にもならないのはそれが原因ですね」
 喉を酒で湿らせてから、桐壺は葵を目の端に留める。彼女は酒を飲む手を休めたまま真剣な表情で聞いてくれていた。
 桐壺は話を続ける。
「それで、実は千堂さんが殺された日のちょっと前に京町組は兵庫県の不良グループと衝突して前面対決をしていました。その時に京町組の少年が相手方の一人に金属バットで殴られて殺されてしまったんです。京町組の構成員はほとんどが身よりのない人たちでしたが、その子もその内の一人でした」
 立て続けに聞いた出来事は、どれも葵にとっては想像もできないくらいに凄惨で生々しいものだった。
 彼女の心境も知らずに桐壺は話の続きを語り出す。
「でも、話はそれで終わりではありません。本当の悲劇は少年が亡くなってから始まりました。兵庫の不良グループの何人かが日本刀で斬り付けられる傷害事件が起こったんです。当時の不良グループは基本的に鈍器しか使いませんから、明らかにその犯人は他の不良グループの者でもありませんでした。それから数日後、今度は京町組の数人が襲われました。全員一命は取り留めましたが、皆が口を揃えてこう言うんです。『紅い鬼に斬られた』と」
「紅い鬼って、まさか」
 深く頷く桐壺。彼は一度大きく息を吸ってから、
「紅夜叉です。不良たちの間で噂はたちまち広まりました。京町組でもこれ以上被害を増やさないために気を付けようとしていたんですけどね。本当に、その直後でした。千堂さんが殺されたのは」
 不良と言えど仲間思いで良い人だったんですけどねえ、と小さく呟く桐壺。普段の彼を知っている葵には、今の彼が一段と小さく見えた。
「あっ、と……話が逸れましたね。どうして紅夜叉なる者が不良グループを襲うのか。色々考えましたけど、紅夜叉が現れた時期と照らし合わせると、やっぱり少年の死しか思い当たらないんです。ですから、紅夜叉は少年の死から僕たちを恨み、復讐をしているんだと。京町組や他の不良グループの全員が当時、そう結論を出しました。少年の身内はありえませんから、友人ないしは彼の親しい人が紅夜叉の正体だとは思うんですけど。いかんせん情報が少なくて、突き止められずにいる次第です」
 長い桐壺の言葉がやっと切れた。
 葵は久々に休めていた酒の手を動かし始める。
「成る程……色々と語らせちゃったわね。私から聞いておいてだけど、ごめんなさい。思い出すのも辛かったわよね」
「いえ、いいんです。この話ができる人なんて他にいませんし。それに所長が話を聞いてくれて、僕も何だか気持ちが軽くなった気がしますから。しんみりさせちゃったので、一旦お酒に戻りましょうか」
 それだけ告げて、桐壺も徳利を傾ける。とろとろと注がれる酒は猪口の三分の二くらいの所で雫に変わった。
 これが最後の一口である。
 桐壺は口に含んだ日本酒を舌の上で転がすようにしながら、ゆっくりと味わう。苦手な筈の酒だが、今こうして感じる味はとても美味しい。
 そして、この暗くなってしまった空気ごと、彼は一気に飲み込む。確かに酒が喉を通っていく感覚を覚え、彼はその残った余韻すらも目を閉じて楽しんでいた。
「ね?意外と飲めるでしょう?」
 次に瞳を開けたとき、そんな声が隣から聞こえた。声の主へと視線を走らせれば、葵がにっこりと微笑んでいた。
 彼女の手元にある徳利はいつの間にやら空になっており、今置いた猪口にも酒はない。葵も丁度、飲み終わったところのようだった。
「はい。これなら僕でも飲めますね。まだちょっと独特な香りには慣れてないですけど、味はさっぱりしていて好きですよ」
 桐壺が今まで飲んでいたのは、葵が彼のために注文した酒である。なんでも『みづき』にしか置いていない特別な酒なんだとか。
「気に入ってもらえて私も嬉しいわ。やっぱり、このお酒とは相性いいのね」
「どういうことですか?」
 首を傾げる桐壺に、葵は猪口の淵を指でつつーとなぞりながら答えた。
「桐壺くんに飲んでもらったお酒の名前は『光君(ひかるきみ)』。優しい味で飲みやすいから、お酒の苦手な女性でもこれなら飲めるって密かに人気なのよ。女性たちを虜にする、まさにお酒の世界の光君という感じがしないかしら」
「納得です。所長に誘われなかったら、酒場になんて足を運びませんから、光君にも出会えなかった訳ですし。今日はありがとうございました」
「あら。突然どうしたの?」
「言いたくなったんです。それくらい美味しいお酒でした」
 何度か瞬きを繰り返した後、葵は頬を緩めて一言そう、とだけ呟いた。
 その直後、みづきの入り口が開き、がやがやと数組の男性や女性たちが楽しげに笑い声をあげて店に入ってきた。彼らは迷わずに店のテーブル席を陣取り、あっという間にみづきへ活気をもたらした。
 店員が慌てて対応に追われている中、桐壺と葵は目を合わせて小さく頷く。
「そろそろ事務所に戻りますか」
「ええ。でも、その前にちょっと寄り道していいかしら?」
 出し抜けに、そんなことを口にする葵。
 桐壺は黙って、ただ首を縦に振ることしかできなかった。
      
      ◇◇◇
 
 鴨川 岸辺の道――
 二人は『みづき』を後にすると、四条通へ向かって先斗町を歩いた。そして通りの入口まで来ると四条大橋よりも少し手前のところで左へ曲がり、そのまま階段を下っていく。その先には鴨川が流れており、葵は川に沿って伸びている岸の道を歩こうと桐壺を誘ったのだ。
 飲めたとはいえ、アルコールにそこまで強くない彼はほんの少しだがふらつきを感じ、ここまで来る間も転ばぬよう注意しながら歩いていた。
「今日は私に付き合ってくれてありがとう。楽しかったわ」
「いえ、こちらこそ。ごちそうさまでした。それにしても、所長がいう寄り道って川のことだったんですね」
 現在時刻は午後九時を回っているが、鴨川の岸辺は納涼床の明かりが点々と続いているため、間違っても川に落ちてしまうということはない。道もしっかりと整備されており、とても歩きやすい。岸の縁には何組かのカップルがぽつりぽつりと座りながら、川の流れを眺めていた。
「明日も仕事があるから。酔い醒ましもかねて、涼みたかったの」
「いいですね。それじゃあ、ちょっと散歩しましょうか」
 川床料理を楽しんでいる人たちの声にまぎれて桐壺が言う。
 それから二人はしばらく無言のまま今度は三条大橋の方向へと歩いていたが、沈黙に耐えきれず先に口を開いたのは桐壺だった。
「ところで所長。僕のこと、嫌いになりました?」
「えっ」
 質問の意図が分からず、思わず足を止める葵。彼女に合わせて、桐壺も立ち止まる。
「どうして?」
 葵は不思議そうに桐壺を見つめた。彼は苦笑いと共に葵から顔を逸らすと、川の流れに目をやりながら返答する。
「いえ。実は僕が不良だったと聞いて愛想を尽かされたかな……と」
 彼女の反応を確認するべく、桐壺が振り返ったときだった。
 がばり、と。
 藍色の着物が視界を覆い、伽羅に混じって淡い日本酒の香りが桐壺を包み込む。もはや何度目か分からない葵の抱擁だった。
 しかし桐壺は葵の腕の中に自身が収まっていると理解するのに毎回、必ず数秒の刻を要する。その間はまるで金縛りに遭っているかの如く、桐壺は身動きどころか声すら出せない。
 彼が軽い眩暈すら覚えるほど、葵は優しく妖しく耳元で語りかける。
「今まで抱え込んでいた辛い過去のことを桐壺くんは私に打ち明けてくれた。それは、とても勇気のいることだと思うわ。不良だったからなんて理由で私が桐壺くんを嫌いになる訳ないじゃない」
 桐壺はぴくっと肩を震わせる。葵がそっと解放してあげれば、彼の瞳が少しばかり潤んでいた。だが、彼は決して涙だけは見せない。
「……所長。ありがとうございます」
 精一杯の気持ちを込めて、桐壺は心の奥から感謝の言葉を絞り出した。同時にどこまでも、この人に付いていこうと固く誓った。
「それと、これからもよろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げる桐壺。葵の中で、それが初めて彼が野上探偵事務所へやって来た日の光景と重なる。
 別段、あの時から身長が伸びた訳でも、顔つきが変わった訳でもない。しかし、彼が纏うオーラのようなものは確実に変化していた。
「ふふっ。本当に頼もしくなっちゃって」
「えっ」
「あなたが初めて事務所を訪れた日のことを思い出していたのよ。あの時から随分成長したわね。もちろん、探偵として」
 桐壺はぱちくりと瞬きを繰り返しながら、
「そう……ですか。そう言ってもらえると嬉しいですね。あの日、所長に会ったときから、僕の第二の人生は幕を開けたんです。所長も覚えてくれていたんですね」
「ええ、絶対に忘れないわ。私にとっても、あの日は特別だもの」
 ぼんやりとした明かりが頬を照らす中、葵はふと言葉を切った。十分に間を置いてから、桐壺へ改めて向き直る。
「一目惚れって言うのかしら。あの日――出会った瞬間、私は桐壺くんに心を奪われちゃったの。もちろん、その気持ちは今でも変わっていないわ。好きよ、桐壺くん」
 それは、いきなりの告白だった。世間から『探偵源氏』と称される桐壺光の頭脳を持ってしても、予測できない言葉だった。
「ず、ずるいですよ。こんな場所でいきなりそんな言葉……」
 酒の席ですら頬までしか朱くならなかった桐壺が、今では耳までも朱色にしている。どうしても動揺は隠せなかった。
「あらあら、桐壺くんったら。顔を真っ赤にしちゃって」
 恥ずかしさのあまりに俯く桐壺だったが、彼はすぐにその顔を上げる。きゅっと結んだ口元から、葵には彼の緊張がひしひしと伝わってきた。
「仕方ないじゃないですか。初恋の女性(ひと)にそんなことを言われたら、誰だってこうなっちゃいますよ」
 葵にとって彼の気持ちを知るには十分すぎる言葉。加えて、もじもじとした桐壺の仕草が彼女の加虐心をあおった。
「まあ。それじゃあ、初恋のお相手からプレゼントよ」
 えっ、と間の抜けた声が出たのを最後に、桐壺の口は葵によって塞がれる。ただ唇を重ねるだけの口付けだったが、桐壺の身体はどんどん火照ってゆく。
 葵は一秒ほどかけてゆっくりと彼から離れた後、意地悪く微笑んだ。
「ふふふっ。酔った勢いで、ってことにしておきましょうか」
 桐壺は何が起きたのか分からないといった表情で固まっていた。しかし、数秒を経て我に返ると、あたふたとしながら、
「ぼっ、僕、所長と……」
「もう、ウブね。どんな味がしたかしら?」
 一瞬、目を見開いて、すぐに下を向く桐壺。彼は大きく息を吐いて呼吸を整えると、小さな声で答えた。
「……お酒の味がしました」
 彼女はそう、とだけ告げると更に桐壺へ体を寄せた。
「桐壺くん。今日は私に付き合ってくれた上に、色々な話を聞かせてくれて本当にありがとう。改めて礼を言うわ。今の接吻は、この感謝の気持ちよ。何も言わないで、受け取って頂戴」
 やはり野上葵には敵わない。
 心の中でそう呟いた桐壺は諦めたように、こくりと首を縦に振った。
「はい」
 その瞬間から、桐壺の顔つきが普段の引き締まったものへと戻る。同時に、はんなりとした雰囲気が彼を包んだ。
 葵は桐壺が落ち着いたのを確認すると、手でぱたぱたと自身を扇ぐ。
「涼みにきたつもりだったのに逆に熱くなっちゃったわ。桐壺くん、もうちょっとお散歩に付き合ってくれるかしら」
「もちろんです」
 ほろ酔いの二人は再び、止まっていた足を動かし始める。
 鴨川のせせらぎ、川床料理の店から響く騒ぎ声。納涼床の明かりの中、二人のたわいない会話も夜の闇へと消えてなくなっていった。
 
 誰が言ったか玉箒(たまばはき)。払うものは憂いのみにあらず。