読書設定

文字サイズ

背景色

フォント

方向

 この旅行中に言わなければならないことがある。それはとても言いづらいことで、本当は旅行に来る前に伝えてしまいたかった。仕事が忙しい広大と、半年前から決めていた二泊三日の京都旅行。日程を決めて旅行会社に二人で行ったときはまだ、こんなに言いづらい伝えたいことなんてなかった。
「涼香、はいお茶。あ、お腹空いてない?」
 新幹線の席に座るとホームで買ったお茶を手渡してくれる。広大は優しい。いつも私のことを気にかけてくれる。友達にはこんなに素敵な彼氏離したらだめだよと言われていて、私もそう思う。
「久しぶりだな、京都。付き合い始めたころはよく行ってたのにな」
 真っすぐに私の目を見るから、思わず目を反らしてしまう。どうしてそんなにじっと目を見るの? なんて心の中で思ってしまう。広大はなにも悪くないのに。
「そうだね、楽しみ~! ごめん眠いから寝るね」
「うん。あ、これかけな」
 広大が自分の上着を掛けてくれた。私は目をつぶる。
 いつあれを言おうか。本当に言ってしまっていいのだろうか。広大を傷つけてしまわないだろうか。
 広大と初めて行った京都を思い出す。周りから聞こえる京都弁や祇園のメインストリートである花見小路通、みかん味の八つ橋。ひとつひとつを丁寧に、思い出す。
 広大を傷つけるに決まっている。でも、悪いのは私だ。どうしたって言わなくてはいけない。もうだらだらと先延ばしにはできないのだ。

 

 京都は不思議と落ち着く。景色や空気が優しく感じて心地いい。
 渡月橋を広大と並んで歩く。時折向かいから来る人を避けながらゆっくりと風に吹かれた。
「涼しいなぁ、もっと暑いと思ってたからさ。歩きやすくていいね」
 当たり前なんだけど、広大がいつも通りで、いやいつもよりも楽しそうに弾んでいる声が胸に刺さる。
「あの、すみません。写真を撮っていただいてもよろしいですか?」
 私たちと同じく二十代半ばくらいのカップルが広大に声を掛けた。笑顔で了承する広大はカメラを受け取り、後ろに下がる。橋に寄りかかり肩を寄せ合う二人を私は眺めた。
 あぁいつか、私と広大もこうやってこの場所で写真を撮ってもらったなぁ
 いまではその写真がどこにいってしまったかわからない。どうしてそうなってしまったんだろう。
「もう一枚撮りますよー」
 広大が明るい声で言う。人懐っこくて知らない人とでもすぐに打ち解けてしまう。私には広大のおかげで増えた友達も多い。
「ありがとうございます。あ、よかったらお二人の写真も」
 そう言ってカップルが私たちを交互に見た。私は少し戸惑ったが、じゃお願いしますと広大は嬉しそうにした。
 私と広大も橋に寄りかかった。広大の肩が触れる。
「初めて来たときもこうやって撮ってもらったよなぁ」
「うん、私もさっき思い出してた」
「懐かしいよな、俺あの写真、手帳に挟めてるんだ」
「え、そうなの? 知らなかった」
「そりゃなんか恥ずかしくて言ってなかったし」
 広大が鼻をすする。
「……言ってないことなんていっぱいあるだろう? 俺も、涼香も」
 時が止まったような気がした。男の、撮りますよーという声が遠くに聞こえる。
「それ、どういうこと」
「ほら、前向いて」
 私の声を遮り、広大は前を指さした。
「涼香、ずっと前から決めてた旅行なんだ。楽しもうよ」
 広大の声がどこか冷たい。そこに感情が感じられなくて、戸惑う。
 カメラの方を向き、「はいチーズ」男の声がした時、思い出した。初めて来た時に撮ってもらった写真では、広大が私の肩を抱いていた。でも今、広大は手を前で組んでいる。私たちの間には少しだけ距離があった。

 稲荷駅の改札を出るとすぐに、真っ赤で大きな鳥居が目に入る。伏見稲荷大社に初めて来たときは二人で、すごいねすごいねと興奮したものだ。今日は二人の間に会話はない。
 千本鳥居を黙々と歩く広大の後を追う。広大の背中が他人に思えた。恋人のはずが、もう気持ちはないのだなと分かった。お互いにいつから好きだという気持ちが薄れてなくなってしまったんだろう。
 気持ちが薄くなるにつれて、私は広大に優しく出来なくなってしまった。笑うことも騒ぐことも億劫になってしまった。でも広大は私にずっと優しかった。想いがないのにめんどくさがらずに優しくしてくれた、笑ってくれた。広大は、私が好きだった人は、すごいなぁと他人事のように思った。
 広大の背中に、少しずつ少しずつ追いつけなくなってきた。もう限界なのかもしれない。
 いまここで言うべきなのかもしれない。

 広大、ごめんね。私、広大とは別に付き合っている人がいるの。その人がね、結婚しようって言ってくれたの。六つ上の人でね、本当に優しいの。広大のこと世界一優しい人だって思っていたけど。広大のこと世界で一番好きだと思っていたけど。その人と出会ったのは三か月前。それでもう結婚なんて言ってバカみたいかもしれないけど、そうなるときは遅かれ早かれそうなるんだなって思った。だからその、広大とこの旅行を決めた時は本当に広大のことが大好きだった。

 立ち止まって広大の背中を見つめた。好きだった背中。片思いの時は、憧れた背中。両想いだと知ってから、その背中に抱き着くことが好きになった。
 私は深呼吸をした。
 好きだった人の名を呼ぶために。
 

「広大」

 振り返ったその人は、泣いていた。