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 Googleマップが、案外適当に座標を示しているということに、紗月玲は憤りを感じていた。市民バスというものは、大体両車線に走っているもので、バス停というのも、同じ名前のものがほぼ平行に設置されているものだ。それに対して、Googleマップはその両車線のどっちともつかない、道路のど真ん中に赤いピンを差したものだから、出発時間ギリギリでバス停に到着した彼女は、本来乗るはずだったバスを、その反対側のバス停から見送ることとなったのだ。
(そもそも、観光地行きのバスだったらもうちょっと本数増やしなさいよ、まったく)
 それに加え、バス停からだと目的地まで歩いて三十分かかるのだが、次にバスが来るのは一時間後であった。そのため、せっかちな彼女はバスを待つことなく、自分の足で山道を進むことを選択したのであった。
(だいたい、師匠が悪いのよ。自分の用事を弟子に押し付けるなっての)
 ちなみに、彼女が目指していたのは、日本は京都府京都市右京区、繁華街から離れた平凡な住宅地の奥にそびえる山々の奥深く、山道を進んだ先に、朽ち果て、苔むした巨人の如くひっそりと全容を現す、愛宕(おたぎ)念(ねん)仏寺(ぶつじ)である。
(あーあ、こんな事なら最初からタクシーでも呼べばよかったかしら――うん?)
 だが、彼女の不遇は全てが何者かに仕組まれたものであったのだろうか。バスに乗って山を登っていたら、きっと彼女は、かつて京都を覆い尽くさんとしたほどの巨大な邪悪が、この山に身を潜めていることになど気付きはしなかっただろう。

 玲は基本、自由奔放かつ好奇心旺盛な性格である。そのため、気になった場所には足を踏み入れなければ気が済まないもので、それは時に、いつの間にやら開店していた喫茶店であったり、今まで気が付きもしなかった小さな神社であったり、はたまた、不気味な品々が並ぶ骨董品屋であったり、様々である。
 そして今回も、愛宕念仏寺へと続く山道から枝分かれした、常人であれば足を踏み入れるはずの無い細い獣道の奥で、木漏れ日すら差さないほど不気味に生い茂った木々の中央にそびえる扉の無い大きな蔵にたどり着いたのは、そういった彼女の性格故の出来事である。
(屋根から漏れ出してるわね……)
 一昨日の台風の影響だろうか。蔵よりも背の高い、十メートルはあろう大木が途中から折れて蔵の屋根に倒れていた。
(嫌な気を感じたから来てみたけど。ひとまず寺の人間に聞いた方が良さそうね)
 一見して邪悪なものが封じられていると確信した彼女は、着古した革ジャンを翻し、獣道を引き返そうとする。だがその時、彼女を突如として突風が襲い、ケープで整えてきたショートカットの髪型を台無しにしていった。
(警告ってとこかしら。ていうか、前髪ぐちゃぐちゃじゃないのよ! もう! 誰だか知らないけど、今度やったらはっ倒すわよ!)
 
「いやはや、遠いところをご苦労さんです」
「いえいえ、仕事ですから」
 蔵を見つけてから数十分後。境内に千二百体もの二頭身の羅漢像がそこかしこに置かれた愛宕念仏寺の、その仏堂内で住職を前にして、玲はダメージジーンズを履いてきたことを後悔していた。正座しているため、剥き出しになっている膝の頭が床に直接あたって悲鳴を上げているのだ。
「神崎さんは元気にしてはりますか?」
 気さくな住職は、玲に背を向けて年季の入った木製の箪笥から何か探している。
「ええ、弟子に仕事を任せて、沖縄にバカンスに行くくらいには元気ですよ」
「はっはっは、あの人らしいですな」
 銀フレームの丸眼鏡を掛けた、七福神の恵比寿のような笑い方をする住職は、おっこれだこれだ、と目当ての物を見つけたらしい、
「それでは、こちらが依頼されてた品です」
 住職は玲の向かいに正座し、彼女の前に小さな巾着を差し出した。
「それにしても牝鹿の角とは……お師匠さんの次の標的は一体なんでしょうな」
 興味深そうに前のめりになって質問する恵比寿は、まるで狸の様だ。
「さあ、最近は直接会ってないので、何とも」
「そうですか、残念ですなあ。あの方の話はいつも摩訶不思議ですから、楽しみにしていたんですが」
「それなら今度はあの人をここまで引っ張ってきますよ」
「はっはっは! ほんなら、その時までこの楽しみは取っておきましょうか」
 山の麓まで届くんじゃなかろうかという程大きな笑い声が、境内に響き渡った。
「ところで恵比寿さん。一つ聞きたいことがあるのですが」
「苗字でなくて、萬歳で構いまへんよ。それで? 聞きたいこととは?」
「この近くにある、扉の無い蔵の事なんですけど」
「おや。あの蔵の事をご存じで?」
 萬歳は感心したように眼鏡を掛け直す
「此処に来る途中でたまたま見つけたもので」
「しかし、あの蔵の事は私も良く知らんもんで、かなり前からあそこに在るいう事くらいしか教えられませんなぁ」
 本当になにも知らないように見えるが、その目はどこか浮ついている様子だ。
「本当に、それしか知らないんですか?」
 だが、その微細な違和感を、玲は見逃さなかった。
「ええ、これ以上教えられることはなにも――」
「本当に?」
 疑惑の目は、より一層鋭く深まり。萬歳を見透かすどころか、その先の仏壇まで透視する勢いだ。そんな鷹のような玲の眼光に観念したのか、萬歳は、はっはっは、と破顔し
「弟子というのは、やっぱり師匠に似るもんなんですな。その目にはかないまへんわ」
「では、やっぱり知ってるんですね?」
「ええ、知ってますとも。なんせ、あの蔵を作ったのはわたしの一族の者ですから」
「は?」
 真実を追い求めた末の驚愕の返答に、さすがの玲も困惑した。
「今からだいたい八百年前、つまり平安時代のことですな。そん時に、芥川龍之介の『羅生門』で描かれたような飢饉が、実際に京都を襲ったらしいです。そして、その原因とされたのが、いわゆる餓鬼の一種でして、そやつを封じ込めるために作られたのがあの蔵でして。それを代々管理してきたのが私の一族っちゅうわけです」
 なるほどそういうことか、と玲は小さく頷く。
「ちなみに、屋根が壊れているのはご存じでした?」
 はい、と萬歳は険しい表情でゆっくり大きく頷き
「ですからあの蔵の事はあなたには伏せておきたかったのです。いくらあの方のお弟子さんとはいえ、あなたのような若い女性に、あんな危険なものに首を突っ込んでほしくなかったですから」
 その言葉を聞いて玲はカチンと来た。
「心配してもらわなくても結構です。こんな小娘だって、一人で十分やれるので」
 しかし、彼女のささやかな反抗を受けた萬歳は、それを案外あっさり認めたらしく、優しく微笑んだ。
「ええ、確かに。あなたはただの小娘なんぞではないようです。さっきのあの目、あの目は立派な祓い屋の目ですよ」
 コロコロと主張を変える萬歳に、玲はどうも調子が狂う。だが、少なくとも自分が認められていることには、嬉しさを感じた。
「では、餓鬼の討伐、手伝ってもらえますか?」
「ええ、かまいまへん」
 かくして、玲は再び餓鬼の封じられたあの蔵へ――
「あっ……」
「? どうされました」
「あ、足が」
「はっはっは! 一人前の祓い屋といえど、可愛いとこもあるもんですな」
 向かうのは、痺れた足が治った後の事である。

「さっきよりも濃くなってる」
 二人が蔵に着く頃には日も傾き始め、蔵の周囲はより一層不気味に闇の色を濃くしていた。
「神崎さんから聞いてはいましたが、ホントにはっきりと見えてはるんですね」
「ええまあ」
 険しい獣道を、脂肪で重くなった身体で歩いてきた萬歳は、手ごろな倒木を見つけると腰を下ろした。
「この蔵、どこか中に入れるようなところは無いんですか?」
「ああ、それやったら」
 よっこらせ、と重い身体を起こした萬歳は蔵の正面に立ち、のっぺらぼうの壁を何やらいじくりだすと
「一見、入口なんてないように見えますが、実は――」
 ガコッという音と共に、まっ平らな壁だと思われていた部分が左へスライドし、実際は引き戸であったことが判明した。
「ここから、定期的に中の様子を確認できるようになってはるんですよ」
「なるほど」
 感心しつつ、玲は入口から中の様子を窺う。真っ暗闇で何も見えない。がしかし、
「なにかいる……?」
 蔵の最奥を見つめながら、彼女は何者かの気配を感じ取った。
「え? 動物やろか?」
 萬歳も右手で眼鏡を整えながら、玲と肩を並べて奥をじっと見つめる。するとその瞬間、見つめた先でボッと小石ほど火の玉が発生し、こちらへ向かって飛来してきた。
「うわっ!」
 それを、萬歳は腰を抜かして地面に倒れたおかげで奇跡的に避け、
「あっぶな」
 玲は火球の軌道を読み、半歩引いて左へ流した。すると蔵の奥で、餓鬼を封じ込めていたのであろう桐箱の上に腰かけている何者かがまた手元に火を発生させたことで、その正体が明らかになった。
「いつか俺を討たんとする者が現れるとは思っていたが、まさかこんな小娘とはな。人間どもは俺を舐めてるのか?」
 右手で火球を放って掴んで手遊びしている何者かに向かって、玲はなんのためらいもなく歩み寄っていき
「れ、玲さん! 気を付けて!」
 萬歳の心配も意に介さない様子で、玲は蔵の奥に潜んでいた者に対して挑発を掛ける。
「餓鬼のくせに案外元気じゃないの。腹減ってんじゃないの?」
 彼女はずんずんと進んでいき。
「ふっ。手に取った食い物は全部燃えちまう。けど、八百年近くも生きていると、いい加減諦めもつくんだよ」
 ついに化け物の手が届くところまで来た。
「それじゃ、一体何を楽しみにして生きているのかしら?」
「三大欲求には、食欲以外にも睡眠欲と性欲があるだろう?」
「へー、それじゃ日がな一日ここでぐーたら寝てるわけね」
「ああ、普段はそうだな。だが、せっかく八百年振りに女が来たんだ。しかも、はっきり俺が見えてるらしいしな。しばらくお前で楽しませてくれよ。気骨のある女は嫌いじゃないぜ」
 立ち上がった餓鬼は玲の顎を取り、自身の手前に引き寄せる。
「悪いけどあんたみたいなガリガリ、お断りよっ!」
 餓鬼の誘いを振った玲は、右脚を上げ化け物の横腹に渾身の蹴りを見舞った。
「グゲッ!?」
 ゴキッという鈍い音と共に餓鬼の体は吹っ飛び、玲から見て左の壁に叩きつけられた。
 飢えによって浮き出たあばら骨が、下腹に近い方から何本か折れているのが見て取れる。
「お前っ、一体何者だ……」
 玲は床に伏した餓鬼に近づき、ボロボロになったその身体を見下ろす。
「あんたらの仲間のせいで魂の半分を奪われた女よ」
 そして、スニーカーを履いた足で思い切り餓鬼の頭を踏みつけた。
「ぐぎゃああああああああああ!!」
 頭を潰され、自らが燃え盛る炎となった餓鬼は、断末魔の叫びを上げながら灰となって散っていく。
「そうか、お前が、あのお方の」
 こうして、意味深な言葉を残して、かつて京都を襲った邪悪はこの世から消え去ったのであった。
「玲さん、あなたは……」
「仕事は済んだんだし、早く帰りましょ」

 すっかり日が沈んだ頃、JR阪急嵐山線・嵐山駅の北口ロータリーに一台の黒のカローラが停まり、革ジャンを羽織った若い女性が助手席から降りた。
「それじゃここでお別れですな」
「わざわざ送って頂いてありがとうございます」
「かましまへんよ。この時間じゃバスは出てへんし、暗い山道を一人で歩かせるのも心配やったから」
「今度来るときは、師匠も連れて来ますね」
「ええ、楽しみにしてますわ」
 この後、彼女は京都で夜を明かし、その翌日、沖縄の師匠の元へ頼まれていた品を届けに行った。
 そして、彼女は師匠の口から失った半分の魂の在り処に関する手がかりをつたえられるのだが、それはまた別の機会に話そう。