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 九月十日月曜日。本日、修学旅行二日目。二泊三日の中で一番大事な二日目だ。そんな大事な日にほとんどの生徒がホテルに缶詰め状態になっていた。理由は天気だ。現在九時四十一分、朝食時から報告されていた天気は大雨警報に変わっていた。計画によっては朝食後すぐにホテルを出発する班もいた。彼らがホテルを出てそう時間が経たないうちに雨脚は強さを増し、その正体を現した。
 二神結人(にかみゆいと)が所属するB組の五班も他の生徒たちと同じようにホテルの玄関前で足止めをくらっていた。多少の雨なら雨具を所持しているはずなので教諭たちも黙って見送った。だが、大雨警報となると話が違ってくる。またホテル周辺の京都市に避難勧告が出されていた。さすがに折り畳み傘一本で暴風雨へ飛び込もうとする生徒たちを黙って見送る教諭はいない。警報が発令されてからホテルを出ようとする班は教諭たちに全部止められていた。これから更に酷くなりピークを迎えるようで、警報がなくなるまでホテル待機となった。
 フロント前のロビーでぼんやり外を眺めていた結人の隣からぼそっとつぶやく声がした。
「雨やば」
 そちらを見ると、宮澤夢真(みやさわゆま)が同じように外を眺めていた。彼女も五班の班員だ。
「なんで台風……」
 一人で愚痴る夢真。長い黒髪に隠れて加の状の表情は分からなかったが、呟いた声はとても悲しそうだった。修学旅行の一日目はクラス移動だった。二日目の今日は班の自由行動なのだ。班員ほとんどが行きたい場所がないということで、自由行動の予定は夢真を中心に立てていた。夢真には行きたいところがあったらしく班みんなが「じゃあ、夢真の行きたいところでいいよ」と彼女に任せていたのだ。
 しばらく騒がしかったロビーはいつの間にか静けさに包まれ、大半の生徒たちが部屋へと戻ってしまった。五班も粘って残ってはいたが、台風は弱まる気配すら見せなかった。ロビーにいてもすることもなく「暇だ」「携帯の充電がー」など言いながら部屋へ戻った。二人の教諭がロビーにいて台風前に出かけた班と連絡を取り合っている。その横でぽつんと夢真はずっと外の様子を眺めていた。
「ん」
 結人が自販機で買ってきたココアを夢真の前に差し出した。
 夢真はココアと結人の顔を交互に見てから「……ありがとう」と受け取った。しかし、受け取ったものの夢真は両手で握ったままココアを飲もうとはしなかった。
「部屋に戻らんの? 」
「うん」
 か細い声で夢真は頷いた。どうやら台風が治まるまでロビーにいる気らしい。
 結人は知っていた。
 宮澤夢真が誰よりも修学旅行を楽しみしていたことを。事前学習のときに夢真が結人にあることを告げていた。
 〝わたし、修学旅行初めてなんだー〟
 夢真には持病があった。もちろん、薬は欠かせない。とは言っても、比較的軽いもので日常生活に支障が出るということはない。しかし、中学生の頃は修学旅行の前に発作が起こって参加できなかった。中学を卒業してからは大分落ち着いて発作も起こらず、高校の修学旅行に参加できたのだ。既に行ったことのある京都へ興味を示さなかった班員たちと違って夢真にとっては初めての京都だった。だからか、彼女は一生懸命になって予定を立てて班員たちとの思い出を作ろうと必死だったのだ。
「……飲めば」
 結人が促すと、夢真はまた悲しそうに笑って缶のプルタブに触れた。
「身体は大丈夫なの」
 視線を落として夢真は答えた。
「平気」
 夢真は自身の手の中にあるココア缶を見つめていた。声が震えていたのは気のせいだろうか。こんなにも落ち込む夢真を結人は見たことがなかった。
「さっきさ、調べたんだけど」
 結人も視線を落としたまま低い声で言った。
「雨……昼でやむみたいだよ」
 途端に夢真が結人を見た。黒い大きな瞳に見つめれて結人は思わず、顔を逸らす。
「ほんとに? 」
 細い指が結人の袖を掴んだ。
「ああ」
「そっか」
 結人は横目で夢真を盗み見る。
 あんなに涙しそうだった夢真は今日一番の笑顔を浮かべていた。夢真が本当に嬉しそうにしていて、たった一言で彼女はいつもの宮澤夢真に復活していた。
 結人の言ったとおり、雨は昼時にやんだ。台風は既に過ぎ去っていて風が少し強い程度だった。警報は解かれ、教諭たちの許可も出た。ホテルで待機していた生徒たちが続いてロビーに訪れ、出かけていった。結人たちの班もホテルを出発し、京都駅へ向かった。
「よかったな」
 夢真に言うと、彼女は目を細めて微笑んだ。結人は自身の鼓動が跳ねる音を聴いた。
 なんだか頬が熱い。心臓の音がうるさい。夢真の顔がまともに見られなくて、結人は顔を逸らしてしまった。
 京都駅に到着すると、問題は起こった。
「オレ、伏見稲荷行きたーい」
 班員の男子、佐藤がそんなことを言い出した。
「はぁ? 太秦でしょ」
 女子、木村も負けない。
 両方とも予定にあった場所だ。しかし、一日で組んだ予定は台風で変更せざる負えなかった。門限もあるので、移動時間と見学時間を計算しても二つが限界だった。せっかくだから外で昼食を済ませたいという班一致が出た。そうすると二つ回るのはさすがにハードになる。それで、見学は一ヶ所にしようとなったのだ。
 事前学習では無関心だった班員たちは夢真の熱意もあって次第にこの日を楽しみにしていたのだ。自然と行きたい場所ができて当たり前だった。
 佐藤の主張に同じく友人の金井が乗っかる。しかし女子もひるまなかった。木村に加え、佐々木も援護する。両者を見て夢真はおどおどするだけで困惑一色だ。
「結人、お前も伏見稲荷だよな!?  千本鳥居見たがってただろ」
 結人にまで火の粉が飛んできた。
「うっそ! 二神はチャンバラ見たいって言ってたから」
「俺で揉めないでくれよ」
 あきれて結人はため息を吐いた。
「予定は宮澤が立てたんだろ。だったら、宮澤が決めればいいじゃん」
 そう言って結人は夢真の方を見た。夢真に視線が集まる。明らかに動揺し始めた夢真。
「いいよ、宮澤が一番行きたかった場所に行くよ」
 半全員の視線が集中する中、夢真は小さな声で答えた。
「……下鴨神社」
 一瞬の沈黙の後、佐藤が「神社じゃん」と呟いた。木村も「何かすることある? 」と佐々木に視線を移す。夢真がしゅんと肩を落とす。
「文句言うな、ほら行くぞ」
 ぶーぶー言っていた班員たちは渋々、後をついてくる。
 申し訳なさそうに夢真は結人の後ろを歩いていた。
「宮澤、気にすんな」
 振り向かずに結人は告げる。
「お前は悪くないよ」
 電車に乗ると、佐藤がすかさず言ってきた。
「もう別行動でよくね? 」
 それに対して佐々木も同意する。
「それぞれ行きたいところ行った方が楽しいよ」
「班行動は厳守って先生がいってただろーが」
 結人が注意しても佐藤たちは聞く耳を持たなかった。
 結局、昼食も別々で済ますことになり、別行動になった。佐藤と金井は伏見稲荷へ、木村と佐々木は太秦へと向かった。取り残された結人と夢真は一緒に下鴨神社へと行くことになった。
 下鴨神社へ行くにはバスに乗り換える必要があった。バスの中で夢真はずっと結びついていた口を開いた。
「ごめんね、わたしのせいで二神くんまで」
 きっと神社に興味のある若人は少ない。高校生は特に。結人には夢真がなぜ下鴨神社へ行きたかったのか気になっていた。
「別に、俺は初めから神社行くつもりだったし」
 本音を言えば、この状況は結人にとって幸運だった。
 前から気になっていた女の子と同じ班になっただけでも恵まれているのに、二人きりで行動しているなんて。班行動が厳守でも二人だけで行動しているカップルもそれなりにいた。
「本当にわたしとでよかったの? 」
 そんなことを訊いてくる理由が分からなかった。
「なんで? いいに決まってんじゃん」
「……そう」
 少し頬を染めてうつむいた夢真。それを見て、結人は胸の中が温かくなるのを感じた。彼女には笑っていてほしい。ずっと嬉しそうにしていてほしい。楽しいと感じていてほしい。
 下鴨神社に着いたのはいいものの、台風の影響でほとんどの場所が封鎖されていた。直後でもあるし仕方がない。結人たちは見学可能な場所を探しながら中を前進した。
「そういえば、昼食べてないね」
 思い出したように結人が言って「あ」と夢真も声を上げた。
「どうする? 神社見た後にどっか行く? 」
「行く! 」
 元気に答えた夢真は子どもっぽくて結人はつい笑ってしまった。
 下鴨神社は世界文化遺産でところどころに説明書きが立てられていた。台風で道に濡れた跡が残っていた。木の枝も散乱していて、まとめられている。湿った匂いがして涼しい風が吹いた。
 奥に行けば行くほど被害は大きく、いたるところに立ち入り禁止と記されていた。
「せっかく来たのにあんま見られなさそうだな」
「来られただけで充分だから大丈夫」
 大きな鳥居があり、その先には一本道があった。幅は大型トラックが通れそうなくらい広い。野良猫がふらりとやってきて道を横切っていく。
 道の奥は天気のせいもあって薄暗い。妙な気配を感じた気になって不気味さが増した。神社などはそういう気分にさせる。
「夜とか、怖そう」
「確かに」
 独り言だったのに結人の言葉に夢真はいたずらに笑った。
「ねぇ、宮澤はなんで下鴨神社に来たかったの」
「好きな小説の舞台が京都なの。主人公たちは下鴨神社によく立ち寄るの」
 「――だからね」と続けた彼女は結人の目に今にも消えてしまいそうに映った。
「彼らがそんなにも立ち寄ってしまう下鴨神社はどんな場所なんだろうって」
 小説にあった場所だからと、自分も訪れてみたいと、そう願った女の子の夢はとても小さなものだったかもしれない。もしかしたらお伽噺だけの場所だったかもしれない。
「ずっと来たかったの」
 発作が出てしまえば、遠出は難しくなる。今回も常に体調を気遣っていたのだろう。身体が弱い女の子が願った場所だった。
「やっぱり本殿まで行ってみる? 」
 祈祷や社内見学は予約制だったので無理だった。
「え、でも、台風のせいで本殿への道は行けなかったよ」
 彼女の好きな小説の中では本殿の描写があったらしい。結人はやっと念願の場所に辿り着けた夢真にもっと下鴨神社を堪能してほしかった。結人自身も詳しいわけではない。それでも、彼女に願った場所を見せてあげたかった。
「行けるところまで行ってみよ」
 結人たちは来た道を引き返して本殿への道を進んだ。坂を上り人気のない場所まで来る。
 本殿へは階段を上らないと行けない。しかし、肝心の階段へ続く道が封鎖されていた。
「二神くん、ありがとう」
 夢真は肩で息をしていた。持病があるのだ。坂が多かった道で夢真の体力も限界に近かった。これで発作が起きてしまえば本末転倒だ。
 気づけば、空が暗くなり始めていた。
「帰ろっか」
 夢真の言葉に頷いて結人はもと来た道を歩き出した。
 境内の中におやすみ処があり、そこで休んでからホテルに戻ることにした。
 木造の横長椅子に赤い布がかけられている。そこに二人で腰かけた。
「二神くん」
 結人は夢真を見た。
「今日はありがとう」
 疲れているはずなのに宮澤夢真は笑っていた。
「ごめんな、無理させて」
 夢真は首を横に振る。「楽しかったよ」と今日感じたこと、思ったことを教えてくれた。結人は黙って夢真の話を聞いていた。
「――だから、二神くん」
 夢真は目を細めて、優しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
 結人はあの時感じた胸の温かさを思い出した。彼女が向ける笑顔が自分だったらいい。彼女を笑わせられるのが自分だったらいい。彼女の隣りにいるのが自分だったらいい。
 彼女と同じ時間を過ごすのが自分だったらいい。
 結人が夢真の名を口にした。

「俺、宮澤が好きなんだ」