読書設定

文字サイズ

背景色

フォント

方向

 生まれてから今までで一番の思い出は何か、と尋ねられたら、俺は“家族旅行”と答える。
 友とささやかに祝った誕生日も、ケーキを手作りしたクリスマスも、たった一度だけ家族で出かけた、その思い出には敵わない。
 だから、今の俺は旅行に行かない。電車に乗ると、今はもう見ることのできない、母親の笑顔を思い出してしまうから。

 目が覚め、全身が座席ごと細かく揺れているのが分かるまでに覚醒すると、自身が電車に乗っているのを思い出した。
 それも市内を循環する電車ではなく、県を結ぶ新幹線だ。レールの上を高速で走る機体の内側は、揺れはあるが振動は大きくなく、いつの間にか眠っていたらしい。
「真田くん。大丈夫?」
 隣から高くて綺麗な鈴の音が聞こえる。否、一緒に新幹線に乗った女性の声だ。およそ人から生まれたとは思えないほど美しい空色の瞳がやはり目を引く、高校時代のクラスメイト、渡月汐(とげつしお)である。その頃は対人恐怖症でこうして誰かの気を遣うことなどできない性格だったが、卒業前にそれを克服、さらにかけがえのない友達を作ることができたようで、今はかなり明るく前向きになっている。
 その陰の功労者である俺の前では、未だに緊張してしまうのは仕方ないと思う。
「朝早かったからさ。少し寝たからもう平気だよ」
「そっか……。その、二時間は、眠っていたので……」
 丈の長い白いワンピースの袖を指先で触りながら呟く彼女の言葉で、俺は窓の外を見る。新幹線が前へ走るごとに線のように流れていく景色は、いつの間にか東京の街並みではなくなっていた。人の住む敷地を残したまま、自然が少しずつ増えてきている。少し視線を上げれば、山が背景に追加されていた。
「だいぶ寝てたのな、俺」
 腕時計で時間を確認し、旅の時間を無駄にしたことに少し後悔。それを察してしまったのか、渡月の声がまた心配をはらんだものに変わる。
「あ、あの。帰り道も、この車に乗るらしい、ので……」
「いや、都会から徐々に変わってく景色を見たかっただけだからいいよ。それと、これは車じゃなくて新幹線。電車な」
「シンカン……セン?」
 渡月が首をかしげる。肩に触れる烏羽色の髪が柔らかく揺れた。
 彼女は新幹線を知らない。否、厳密に言えばそれ以外にも。飛行機や船、馬車など、普段使わないようなものは何一つ知らないという。
 留学生だろうか。いや違う。例え海外にいたとしても、飛行機を知らないわけがない。それも、二十歳にもなってだ。彼女のそんな姿を見れば、きっと誰もが記憶障害やその類の何かを疑うだろう。或いはただ無知なだけか。
 だが、俺だけは知っている。俺だけ、というのは、ただ真実を知った俺が公表していないだけであって、つまり今後も彼女次第では真実が表に出ることはない。
 端的に言えば、彼女は異世界人なのである。
 それも、今から五年前にこの世界にやってきた、伝承でおなじみの『魔女』だ。
 俺がこれを公表しない理由の一つに、こんなことを公表したところで信じる人など魔女信仰でもない限りはないだろうと、そう思っているからである。
 まあそんな感じで、異世界から現れやっと自身の近所に関する知識を定着させたばかりの彼女は、自身にとって関りの薄いものを記憶する暇がなかったわけであり、初めて乗った新幹線が動き出した途端に慌てふためいて涙目になったことは内緒である。彼女はそういったからかいが通用しないのだ。
 そんな彼女が、近所の商店街のくじ引きで『京都一泊二日旅行』なるものを当ててしまったのだから、これもまた驚きである。そして今回彼女に付いてきて欲しいと頼まれたため、旅行が苦手と突き放しては可哀そうだと思い、こうして二人旅をしているわけだ。
「新幹線。言葉で説明するのは無理なんで、新幹線ってこんなもの、として覚えてくれ。どうせ生きてるうちに五回も乗らないものだからな」
「シンカンセン……。白い、ケドウ……」
 ケドウとは、彼女の故郷で『姿形がどこまでも大きいもの』という意味の単語らしい。これは最近知った。最後に聞いたのは彼女がゴジラの映画を観たとき、ゴジラに向けて言っていた。
「そ。多分あと二時間くらいで着く」
「楽しみです……」
「そりゃよかった。宿の券は持ってるな?」
「はい」
 困り顔で宿泊券を見せる渡月。彼女にとって、人生初の遠出なのだから、やはり不安もあるのだろう。いつもなら俺が人並みにはしている知識でどうにかなっているが、生憎旅行は俺にとっても二度目のことで、右も左もの右がわかっているくらいの知識しかない。
 だから昨晩徹夜して京都のスポットなどを調べていたのだが、これが今日の朝の眠気の原因だったりする。
「真田くん……。あの、着いたらどこに……」
「昼ごはんの場所は決まってるから、着いたら乗車券買ってバスに乗ろう。渡月がお腹空いてなければ、まずはこの荷物を下ろしたい」
「分かりました。あの、お腹はまだ、平気です」
 そうか。それだけ返して、以後新幹線での会話はなくなった。新幹線が京都駅以前の駅に初めて停車したことにより、いよいよかと渡月が縮こまったことが原因のひとつである。そして俺もまた、子どもの手を引いて電車をプラットホームを歩く家族の姿を見て、母の姿を重ねてしまっていた。
 無言が続くこと十数分。ついに俺たちは、京都に到着した。

 京都の街並みは東京のそれと似ているものがあるが、まるで違う。都会と自然が共存しており、街路樹が多くの通りで青々と茂っている。さらに入りくねった東京の道と比べても、京都のそれはひどく整理されている。綺麗な直線と直角しかない道は、地図の上から見ても思わず感動してしまう。
 そしてそれは、俺だけではなかった。
「っ……!!」
 言葉すら出ず、目を輝かせる渡月。京都に因んだ姓を与えられながら、京都は初めてだという事実が皮肉に思えて笑えてしまう。駅前はだいぶ混雑していて、駅前で立ち止まっているのは迷惑だと思ったので取り敢えず歩くことにした。
「んじゃ、行きますよ」
「は、はい!」
 間隔を開けた二度目と初めて。幸先を心配したわけだが、その後は案外すんなりとことを運ぶことができた。駅を出て少し歩いた場所で電車の一日乗車券を二人分、それを二日分なので四枚買い、近隣のバス停へ向かう。東京と似て非なる街並みを眺めながら、五分ほどで到着した場所は宿泊予定のホテルだ。一瞬入るのを躊躇いそうになったり、場所を間違えていないか心配しつつ、当選した券を受付へ。
「緊張してるか?」
「は、はい……。なんだかその、こんな場所に来るとは思っていなくて……」
「はは。渡月のおかげでこんな高そうな場所来れたんだし、ちゃんと楽しむんだぞ?」
 力強くうなずく渡月はまだ緊張しているらしい。彼女は感情がよく顔に出る。
 受付で宿泊券を提示し、合鍵代わりのルームキーを二枚もらう。うち一枚を渡月に渡そうとしたが、失くすかもしれないからと渡月が拒んだため二枚とも俺の財布の中にしまった。エレベーターで四階に行き、指定された部屋へ。
 ルームキーでドアのロックを解除して開けると、スイートルームとは言わずともそれなりに高級感のある部屋が広がっていた。大きなシングルベッドが二つ横に並んでいて、既に敷かれていた掛布団は一目見るだけでもふかふかしていそうだ。女子と一緒の部屋というのは気にならない。
 滅多に泊まることのない部屋を満喫したいのはやまやまだが――、
「……お腹空いたよな、ごめん、早いとこ行こう」
「ぅ……ごめんなさい」
 渡月の腹の虫が可愛らしい音を立てたのをきっかけに、俺たちは必要最低限のものだけを持って部屋を出た。

 小さい頃に行った場所は不鮮明ながら覚えている。母に手を引かれ、父の背を追った記憶を頼りに、京都を周る。この旅行は、俺の過去への克服にもなっている。
「美味しかった……」
「だな。湯豆腐だったっけ。あれが一番だったな。今度家で挑戦してみよう」
「真田くん……お豆腐作れるの?」
「まんまは流石に。近しい味に、近しい味くらいならできるかも」
 昼食は京都の西方面、嵐山で済ませてきた。食べた者は和風料理をいくつかと、京都の名物である湯豆腐だ。旅行をしなかった身としては京都だから美味しい、という感覚は分からなかったが、一品の量は明らかに足りないと感じるほど少ないのに、総量はだいぶ満足することができた。
 時刻は午後三時過ぎ。まだ空は明るい。
「そういえば渡月、さっきどこか行きたいとこあるって言ってなかったか?」
「う、うん……、いい、かな」
 いいも悪いも、元を辿れば彼女が主役である。俺の思い出旅行は言ってしまえばサブ要素でしかないのだ。
「というわけだから、渡月。今回は渡月に付いてくから、好きな場所行っていいぞ」
「で、でも……迷わないかな……」
「いや。流石にそれは俺が修正するから。何も丸投げはしないから安心してくれ」
「そうだよね……。うん、それじゃあ、行きます」
 おずおず、といった感じで歩き出す渡月の背中を見て、改めて彼女の精神的成長ぶりに関心しつつ、あまり離れると迷われても困るので、後を追いかけた。

 京都の街並みは現代の建造物と自然が共存しているようなつくりであるが、所々に歴史的に名のある建築物があったりする。バスに揺られつつ窓の外を眺めていると、それは見事な寺が解放されており、参拝者で賑わっているのが見えた。ただ、少し小雨が降っているらしく、折り畳み傘を差す人がちらほらといった感じだ。
「あれはいいのか?」
「あ、うん。後で見に行こうかな……」
 どうやら後回しらしい。目的地は聞かされていないし、言及する気もないので、そのまま彼女の気の向くままに従うことにする。
 バスを降りたのは京都駅。降りた俺たちは数分の徒歩移動となった。
「……なあ渡月。あれ、さっき俺たちの乗ってたバスだよな、確か」
「そ、うだね。まだ降りなくても良かったのかな……」
「今同じこと言おうと思ってた。ま、バス旅なんてつまらんからいいんだけどさ」
 信号前で止まり、遠ざかっていくバスの尻を見送る。そういえば、バスのデザインは別段格好良いものではなかったな。
「んで、あとどれくらい歩く感じ?」
「あの、もうすぐです……」
 そういった渡月が次に「あ。あれです」と目的地を指さすまで五分。しかもその先、反対車線にあるのは、森林公園のようなものでも、歴史的建築物でもない。
 端的に言って、ホテル街のような所だった。
「え。あのホテル嫌だった?」
「!! ち、違います。そうではなくて……」
 ホテル街――ホテルが並んでいるかは分からないが、一軒のホテルとそれに似た建物が固まっているためそう呼んだ――へ向かう渡月。昼食前に乗ったバスでも見えた場所だが、あそこに何か特別なものがあるとは思えない。
 ただ、それは一般ピーポーの話である。彼女は魔女。きっと、魔力的な何かとか、そんなものを感じたのだろう。歴史のある町だし。
 いざ目の前まで来ても、やはりあるのは現代の建物ばかり。飲食店もあるみたいだが、やはり目を引くほどのものはなかった。
「……まさか迷った?」
「あ、合ってます!」
 なるほどここまで言うのなら間違いではないのだろう。渡月に付いてホテル街を歩いていると、最中に膝くらいの高さの石碑が置かれていた。
 そこには、縦文字で“本能寺跡”と彫刻されている。
「……ここで、いいのか?」
「本能寺の、跡、なんだって」
「そ、そうだな。うん。これは知ってる」
 思い出す。この石碑は、いつか見たことがある。例えば、このてのものが好きな父に連れられたりとかで……。
「渡月はさ。こういうの好きなのか?」
「うん。学校でやったの、覚えてて。それに……」
「それに?」
「私の力……使えるかもしれない……ので」
 言われて思い出した。渡月の正体は魔女であり、扱う力の片鱗も見せてもらったことがある。
「……まあ、いっか。幸い人通りもないし。でも、力使ってどうすんの?」
「……」
 問いただすと、目を逸らされた。言いたくない事情でもあるのだろうか。敢えて踏み込まないことにする。
「少し、待ってて……」
 そう言って渡月は、石碑に手を触れ目を閉じた。
 彼女の持つ力。死者に干渉し、声を聴く力。生者と死者を最後に繋ぐことができる、とても美しい魔法である。ただ、魔力のない俺にその光景を見ることはできない。俺から見えるのは、石碑に手を置いて目を瞑る渡月の姿である。
 俺が知っている彼女の力はここまで。これで片鱗だというのだから、全力を出せば死者蘇生すらできそうな気がしてきた。ただ、倫理的な問題でそれは阻止させてもらう。
「ちなみにだが、今なに見えてるの? 武士?」
「いえ、その……死んでから期間が長すぎているので……あっ」
 渡月がそのまま、小さく声を上げる。何かを見つけたのか、そのままの姿勢で俺に左手を伸ばしてきた。
「あの、真田くん。手を……」
「……手?」
 突然の申し出だった。年齢も年齢だし、例え童貞だろうが女子に触れたところで欲情云々の感情は湧かないが、一体こんなことをして何をするのだろうと思いつつ、彼女の手に自身の左手を重ね、握った。
 直後。視界が外側から侵食されるように黒ずむ。光を失った瞳は、わずか数秒で何も映し出さなくなった。もし今手を握られていなかったら、恐怖のあまり震えていたかもしれない。
 ――ところで、声が聞こえてきた。優しく、ひどく懐かしい声だ。
「……母さん?」
 姿はない。あるのは薄白いモヤが空間に広がっているだけだ。しかし、その声は間違いなく母のもので、“タカちゃん”と紡いだ。タカとは隆(たかし)のことで、俺の下の名前である。
「母さん、母さんなのか!?」
 ――ええ、そう。大きくなったのね……タカちゃん
 母らしき声――否、母の声は、昔と変わらず優しかった。

 視界に光が蘇る。闇の中にあった白いモヤはもうなくなっており、現代建築の中にある石碑が目の前に鎮座している。
 どうやら渡月の魔法が影響しなくなり、現世に帰ってきたようだ。瞬きを何度もして視界のぼやけを直し、まだ手を握っている渡月を見た。
「あれは……? 渡月の魔法なんだよな?」
「うん……。お母さんとの思い出があるって、前に言っていたので……」
「あぁ、なるほど」
 どうやら、気を使わせてしまったみたいだ。気にしていない風を装っていたのに、いつの間に顔に出ていたのだろう。
 暗闇の中で俺は、亡き母と話をした。姿はなく声だけだったが、それでもあれは間違うことなく母のもので、気が付けば俺は、またあの包み込むような母の声に縋りそうになってしまった。
「真田くん。お墓参りのとき、とても寂しそうにしていたので……」
「気を使わせちまったみたいだな……。いや、なんか、ありがとう」
 まだ母のことを完全に吹っ切ることができたわけではないが、彼女のおかげで最後に話をすることができた。話の内容は――人目もはばからずな光景で恥ずかしいから伏せるが、まあ泣きついて愚痴をこぼしてたということだ。
「さて。まさか京都に来て、こんな体験をするとは思わなかった。気持ちはすげえ嬉しかったけど、ただでさえ魔力自体残り僅か、なんだろう?」
「そう、だけど……、いつも、心配をかけさせてしまっているから……。日頃の感謝ということで……」
「……ま、それならいいかな。改めてありがとう、渡月。今度こそ、渡月の行きたい場所に行こう」
「はい……。あの、いくつかあるのですが……」
「おう。明日もあるからのんびり行こう」
 喉元過ぎれば、なのだろうか。母と話をしたことが、もう昔のことのように思える。時刻は四時を少し過ぎたところで、まだ時間はたっぷりある。その後は神社仏閣に自然の景色を夜まで観光して一日を終えた。