読書設定

文字サイズ

背景色

フォント

方向

 三番線に飛び込もうとした、そのときだった。

 がたん、ごとん。
 七月十八日の午前七時三十七分。
 十八と少しの人生の終焉に拒否反応を起こし、体と本能が全力でホームへ戻ろうとするのを心と理性が引き止めていた。目の前はスローモーション。喧騒は遠くへ。向かいのホームでスマホを弄る茶髪の女子高生が視界を横切る。遅刻じゃん、僕もだけど。なんてどうでもいいことが頭の隅でぐるぐる回る。心と体のつりあいでぴくりとも動かない僕の体は、とがった石ころがごろごろ転がる線路内へ倒れ込んでいく。接近する列車の重みで線路が軋む。ガラガラと車輪は回り、鉄の塊は一直線で僕のもとへ。きっと一瞬で終わらせてくれる。
 ――そう思っていたのだが。
「だめ」
 右手首に冷たいものが触れたかと思うと、ぐいと引かれて僕の体は倒れ込みかけの斜め60度で静止する。白い布が視界の端をかすめた。ぜいぜいと激しい呼吸音が背後から。僕の心臓は生死の境にたたされたせいかドクドクとうるさい。そのうちキーンと耳鳴りがして、それでも倒れこもうと、僕は意地を張った。

「だめ、だめです。死んじゃだめ」
 と、息を切らした誰かが言う。
 僕はぎゅっと目を閉じ、振り返りもせず、しっかりと僕の手首を掴む冷たい手を振り払おうとする。僕の腕に重心を持っていかれて、ふたりしてぐらぐら揺れる。一本の腕で支えきれなくなってきたのか、両手で必死に、誰かは僕を引き止める。
「邪魔しないでくれよ」
 声が震えていた。
「邪魔したわけじゃありません」
 対して向こうの声はいやに澄んでいて、なんだかよくわからないものが胸の奥で湧き上がる。
「じゃあなんだって言うんだ? 偽善も程々にしてくれ。もう嫌なんだよ」
 我ながら泣きそうな声で言うものだ。笑い飛ばしてやりたいくらい情けない。
「そっちこそ勘違いも程々にしてください」
 吐き捨てるように言った誰かの手から逃げたくて、僕はもがきたかったはずだった。
 なのにどうして、僕は前に進むのをあきらめているのだろう?
「人のために何かできるほど私は清らかじゃない」
 わからない。誰かの声があまりに痛くて。聞いているだけで痛くて痛くて。
 それが君の痛みなのか僕の痛みなのかわからなくて。
「だから」
 ――泣いてしまう、このままじゃ、きっと。

 そう、思った。

「だからあなたを放っておけないんですよ」

 なんで。
 一気に体を引かれ、僕は後ろに倒れ込みかけた。
 刹那、がーっと音がして、電車が目と鼻の先を掠める。
 必死に食い止めていたはずの涙がぼろぼろこぼれ、遠ざかっていた喧騒が耳に舞い戻る。「もう、今日は死ぬのは無理だな」と僕は考え、自然と止めていた息をもう一度、はじめた。
「私は――――」
 ぐずぐず、体中の悪いものがあふれ出すみたいに、涙が流れて。呼吸をして、泣いて、体中を温かいものが流れていくような感じがして。嫌になるくらい生きてることを実感してしまう。
 どこから来たのかわからないなにかのせいで膝から崩れ落ちそうで、涙は止まらないのに、僕を殺してくれなかった電車はあっけなく停車した。
「私はあなたに生きていてほしい」
 ドアが開き、乗客がおりて、のって、耳とざわめきが擦れあって不愉快。でも、張本人であるプラットホームの客人たちは、僕らのことなんて気にも留めていない。
「誰かのために生きるあなたに、誰かのために死んでしまうあなたに」
「どうして」
 絞り出した声は、声と言うにはお粗末すぎるほど掠れて聞き取りづらくて。
「秘密」
 背後から聞こえた囁くようなまっすぐな秘密は、僕がもうしばらく生きてみようと思うのに過不足ない好奇心を生み出した。

 立ち止まる僕らのすぐそばでドアが閉まり、駅員が僕らに、電車から離れるよう注意を施してはじめて、僕は場所を変えようと思った。それと同時に誰かは僕の手をひっぱる。僕は引かれるがまま、誰かと一緒に二歩ほど後ずさってまた止まる。うるさかったはずの自分の心臓も誰かの呼吸音も、喧騒にまみれて微かになっていた。
 僕は涙を拭い振り返る。こすった目はうまく世界を映せなくて、瞬きをくり返す。
「とにかく今は君と話がしたい。でも、場所を変えよう」
「わかりました」
 さっきまでより少しだけ柔らかい声でそうつぶやくと、誰かは両手の力をゆるめ、右手を離して額に浮いた汗を拭った。相変わらず息は上がったままだし、左手はやんわりとではあるが、僕の右手首をつかみ続けている。まるで「にがさない」とでも言われているみたいで、なんだか安心する。自然と顔をほころばせていた自分に驚いた。まださっきの涙が乾ききっていないのに、もう笑う。感情の移り変わりは緩やかな方だと、自分では思っていたのだが。

 時間がたつにつれ、しだいに視界がクリアになっていく。
 僕は、僕の自殺を安易に阻止した誰かに目を向ける。

 そこにいたのは、少女だった。
 ――なんて綺麗な目をしているのだろう?
 初めに感じたのは、それだ。
 右目に眼帯をつけているので、周りに見えるのは左目だけだ。しかも、彼女は僕の方なんてまったく見てはいない。それでも、青みがかった綺麗な白目と、闇夜を濃縮還元したみたいにまっくろな大きな瞳に、惹かれない人はいないと言い切れる。
 くすんだ駅構内の壁、ガムのこびりついたホームの床でさえも、その瞳に写れば美しいものであるかのように錯覚してしまうくらい、彼女の目は綺麗だった。

 次に感じたのは、漠然とした希薄さだ。全体的に細い。そして白い。
 よくこの華奢な体一つで僕を支えたものだ。右手首に感じる僅かな震えと上気した頬からするに、相当無理をしたのだろう。まったく、放っておけばいいのになんだって――まあ、今はそんなことはどうでもいい。
 ひざ丈、ノースリーブのシャツワンピース。右目につけた眼帯。どちらの白さも、少女の肌とさして変わらない。髪は長く、重力に従順、混じりっ気のない黒一色。斜めにかけたシンプルな鞄も、瞳も黒で……ああ、染まった頬以外に色がない。あどけない。無垢で危うい。顔立ちが幼いくせに表情は大人びている。今にも消えてしまいそう。

 彼女は、そう、儚くて、――美しい? そんなんじゃ、足りない。
 この世に存在するありったけの美しいものぜんぶでも、きっと彼女には勝てやしないだろうし、
 この世に存在するありったけの称賛の言葉ぜんぶでも、きっと彼女を形容できやしないだろう。

 まさに筆舌に尽くしがたき候。きっと、どんなに優れた表現技法でもっても『これ』は表せない。写真でも動画でも、同じように無理だろう。目の前にしなきゃ、否、目の前にしてもわからない人にはわからないのかもしれない。一定の感性を持つ人間が、彼女を『正しく見ること』。そこではじめてわかるのだ。線路に身を投げようとした屑の腕をつかむ、たかが十代前半の少女がいかに――いかに、鮮烈で不確かかということが。

 こんな、美しいからはみだした美しさを何と呼べばいいか、まだ十八の僕にはわからない。
 でも、誰かを見てこれだけたくさんのことが頭を巡ったのは初めてだった。
 ――――この少女はどうしようもなく綺麗すぎて、こんなに綺麗なものがあるなら、そう。僕なんて存在しなくていい。でも、同時に、この少女を見ることも思い出すこともあたわぬこととなるのなら、死にたくない気もしていて。
 僕は思考をまとめて、ため息にして吐き出した。気付いた少女が僕を見る。
「行こうか」
 僕はそう言いながら、少女から目を逸らそうと努力した。でも、無理だった。僕を見る少女の目から目が逸らせない。少女の瞳の中の僕の表情まで子細にわかってしまうほど、僕は少女を見つめている。なっさけない顔だな、ほんと。
「どこに?」
 少女はそう言い首をかしげる。長い髪がさらさらと肩からおちる。僕はそれをぼんやりとながめ、言う。
「ついてきてくれ」
 僕は踵を返し、歩き出す。少女はそんな僕のことを、慌てて、ずいぶんと細い脚で追いかける。
 手首はいまだに掴まれたままで、僕らは二人して不自然な体制で前に進んでいた。それでもかまわず僕は歩く。
「ねえ、どこに行くんですか?」
「さあ」
「さあって……あ、学校は?」
「休みの連絡はいれた」
「自殺するからって?」
「んなわけ」
 自分の状況がわかっているのかいないのか? 少女はかるく冗談を飛ばす。答えつつ後ろを見て、何度目かのため息をつきそうになり、おさえた。歪んだ顔。本人はどうやら笑っているつもりらしいのだが、どうやったって泣きそうにしか見えない。どうやらこの生き物は笑い方という物を知らないらしい。……とはいえ、僕に何ができるでもないのだが。

 さて、僕は先程「ついてこい」と言った。しかし、実を言うと行き先はとくに決まっていない。でも、これ以上この空間で、狭義の意味でのふたりきりは耐えられなくて、僕は頭の中にこびりついた先程の少女の顔をふりはらいながらせかせかと足を動かした。

 たとえば煙が煩わしいとして、がむしゃらにそれを振り払ったとして、結局煙は晴れず混ざるだけに終わる。意味などない。わかっていても、僕は気休めに腕を振る。結果息が上がってよりたくさんの煙を吸い込むことになっても、咽て目に涙が浮かんでも、僕は腕を振る。
 じつのところ僕はその煙を煩わしいだなんて思っていないのだろう。
 だから、僕は腕を振る。