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 真夏、放課後、ゲリラ豪雨。
「今日は校内のワックスがけがあるので文化部は活動がありません。雨がすごいので、運動部も各顧問に活動の有無を確認してくださいね」なんて担任の言葉を悠々と無視して図書室の鍵を開けた私は、たどり着いたカウンターの中で自分の図書カードを探していた。
 クラス全員分のカードを手の中でぱらぱらとめくりながら窓に吹き付ける雨水を見つめ、ふと、傘を忘れたことを思い出す。とはいえ、どうにかしようにも折り畳みは先週壊してしまったし、傘を貸してくれるような友達もいないし、そもそも校内に人がいないし、学校の傘を借りるのは気が進まない。走って帰るのが安牌かとも思ったが、せっかく図書室の鍵をくすねてまで借りに来た本を濡らしてしまう可能性を考えると何とも言い難い。
「いっそ止むまで校内に居ようか」等と思いつつ、見つけ出した図書カードに作品名と日付を書いて貸し出し印を押す。何にせよ、職員会議が終わるまでに図書室の鍵を返却する必要がある。バレたところで初犯なので厳重注意が精々だろうが、鍵の管理が厳重になると今後ふと出入りしたくなった時なにかと面倒だ。
 本を鞄に仕舞い、そそくさと図書室から出る。かちゃりと鍵を閉め、さあ鍵を返し戻しに行こうと踵を返した。
「こんなところで何をしているのかな?」
 ――ら、目の前に人がいた。
「もっとちゃんと気配出してください、死ぬかと思ったんですけど。……穂澄先輩」
「あはは、ごめんて。……ていうか、死ぬかと思ったにしてはいつもの鉄仮面だったねー」
 「さすが美恵ちゃん」と、にこにこ目の前でほざいているのは、諸所の都合により私が居候中である穂澄家の長男、『穂澄 千尋(ほずみ ちひろ)』先輩。ちなみに、死ぬかと思ったのは割と本音だ。
「なに? また鍵くすねて忍び込んでたの? 言ってくれればいくらでも手伝うのに」
「先輩には関係ありません。それより、先輩こそこんなところで何してたんですか」
「何って……美恵ちゃんを探してたんだよ?」
「は? 死んでください」
「理不尽!」
 軽口を交わしながら職員室に鍵を戻しに行った後(扉のすぐ脇に鍵置き場があるのは防犯上どうかと思う)、二人揃って昇降口を出る。さっと見回せばあたりは一面水たまりだ。「我こそが傘を持たぬ下々の民をずぶぬれにすべく地獄の底から這い上がりしゲリラ豪雨その人なり」とでも言いたげな雨の勢いに私はため息をつき、すぐ隣でフーセンガムをぶくぶくふくらませながら折り畳み傘を開く穂澄先輩の脛をノールックで蹴り飛ばした。
「痛ッ! 突然何するの!」
「脛を蹴りました」
「いやうん、それは知ってるよ!? 俺は理由を聞いてるんだけど!」
「ここで問題です。私が傘を忘れたのは誰のせいでしょうか」
「えっ、自身の過失では?」
 明らかに意識的なキメ顔で言われて腹が立ったので、「地獄に落ちろ」ともう一度脛を蹴る。
「ごめんて!」
「『ごめんて!』じゃありません。先輩が朝、『今日は午前にさらっと降って午後は晴れるってさ~』とかほざいているのを真に受けたばかりに私は今日傘を持って来なかったんです。正解は穂澄先輩です」
 ついでにいうと、先輩が故意――いわゆる、わざとやったのだというのもわかっていた。先ほどから傘を取り出す様子のない私に対して何も言わないのも、わざわざ図書室まで私を探しに来たのも、恐らく私が傘を持っていないことを知っているからこその行動であろう。これらの動作こそが、こいつが性格のひん曲がったまごうことなきろくでなしであることをはっきりと示しているのだ。
 私が先輩をギッと睨んで、小さく舌打ちをしながら「何が目的ですか」と訊ねると、先輩は「何だと思う?」などととぼけ、しばらくすると耐えきれなくなったのかケタケタ笑いだした。『穂澄先輩』という珍獣の知能指数の低さに思わずワッと泣き崩れたくなるも最後まで耐えた私は、本当に素晴らしい人間だと思う。
一通り笑って気が済んだのか、先輩は「いやあ、ごめんごめん」と話し始める。
「相合傘ってどんなもんなのかなぁと思って、せっかくだし体験してみようとね」
「そんなことのためにこんなどしゃ降りの日に私に傘を忘れさせたと?」
 あまりの怒りに体が震える。ぶるぶる震える私を見ながら笑いをこらえてぷるぷる震える先輩に、私は「雷でも落ちればいいのに」と思いながら歩み寄った。
「ほら、はやく入れてください」
 そう言って、私は穂澄先輩の、ネイビーの傘の下にもぐる。先輩は背が高く私は小さいので、いつもより傘がずいぶんと上にあってなんとなく違和感をおぼえた。
 先輩はというと、「おお、素直だねえ」なんてニコニコしていてなんだかとても腹が立ったので、衝動的にアッパーをぶち込んだらずいぶんおとなしくなった。いい気味だ。

 雨はしばらくやみそうになかった。隣であごをさすり、呻きながら何も言わずに歩く穂澄先輩が思ったより気味悪かったので、私は先輩と適切かつ和やかに雑談するべく短く声をかける。
「で、感想は?」
「蒸し暑い」
「コイツに彼女がいないのはこういう所が原因なんだろうな」と、私はまたため息をつく。先輩が神妙な顔で「幸せが逃げるよ?」などと言ってきたが、先輩は私の幸せを年中無休でひねりつぶしているのが自分だというのをそろそろ自覚すべきだと思う。
 私は、もう一度先輩に聞こえるようため息をついて雑談に戻る。
「……でしょうね。個人的に、やるにしても雪の時期の方がまだましだったと思いますよ」
「じゃあ、今度からは冬にひっかけることにしよう」
「傘を忘れさせるんじゃなくて、真正面から頼むとかの正攻法をとる気はないんですか?」
「ないね」
「やーいいくじなし」
「ああ、君の大好きな穂澄センパイはとんでもなくいくじなしだよ。残念ながら」
「別に好きじゃありませんよ。先輩みたいなだめ人間なんかにひっかかってたまるか」
 私がむくれてそう言うと、先輩はそれはもう悲しそうに眉を下げた。思わず頬をぶん殴りたくなる表情だったので、私は人知れず右腕を押さえつける。こんなもののためにこれ以上手を汚すのはごめんだ。
「そっか。残念だなあ。もし君と結婚したら将来は弁護士にでもなって、駅から程よい距離にある4LDKの小奇麗な一軒家を買って二人でゆっくり暮らそうと思ってたのに」
「……穂澄先輩は気に入りませんが、その快適そうな経済環境と一軒家には興味があります」
 無駄に付き合いが長いからだろうが、先輩が語った未来のビジョンはやけに私の好みと一致していた。しかし、「どう? 俺のところに嫁に来れば全部実現するよ?」とドヤ顔で言ってくる先輩は非常に気に食わない。結婚とか断固拒否する。
「馬鹿言わないでください。もっといい条件の男が探せばいくらでもいるのに、わざわざ気に食わないやつに嫁ぐほどもの好きじゃないですよ。……まあ、先輩が籍を入れると同時に自分に生命保険をかけて事故にあってくれるって言うなら考えなくもないですけど」
 そうこう言っているうちに、私たちは自分たちの住んでいるマンションに辿りついた。先輩が雫を払いながら傘を畳み、鍵でオートロックを解除してくれたので、二人並んでエレベーターに向かって歩き出す。ちょうどエレベーターが行ってしまったのを見て、穂澄先輩は『←』ボタンを押し、さっきの話の続きを始めた。
「まあ、美恵ちゃんそんななりだけど美人さんだからねえ。言われてみれば引く手あまたか。残念だなぁ」
「……先輩は、一体全体私の何がよくてそんなこと言ってるんですか?」
「まず、顔がそこらの女をぶちぬいてダントツでかわいいでしょ。性格も、ちょっと卑屈で斜に構えたところがライオンの檻に放り込まれた猫みたいでものすごくそそる。あとは生活力かな。料理うまいし、他の家事も得意でしょ? あ、まだあった。いい匂いがして大きさが手頃」
「途中まではまあかろうじて許しますが、『ライオンの檻に放り込まれた猫』とか、『いい匂いがして大きさが手頃』とは。意味不明ですし、なにより――」
『ですし』のところでようやくエレベーターが到着したので、これ幸いと急いで乗り込む。なんでもいいから早くこの話題を終わらせたかった。人の気持ちも知らないで適当なこと言いやがって。穂澄先輩と雑談なんてしようと思ったさっきの自分をシメに行きたい。
 なんて考えながら、私は先輩がエレベーターに乗り込むより前に、「なによりすごく気持ち悪いです」と言って『閉じる』ボタンを連打した。
 先輩は、「思ったことを言ったまでだよ」と言いながら案の定閉まりかけのドアの間に腕をつっこんでくる。行動や言動とは裏腹に、顔だけはずっと爽やかに笑っていてやっぱり気味が悪かった。
「出て行っていいですか」
 同乗拒否を諦めた私が『5』ボタンを押しながら低くつぶやくも、何事もなかったかのように乗り込んできた先輩は「ダメに決まってるじゃん」と爽やかに笑う。
「…………」
「じゃあさ、いきおくれたら俺んとこにおいでよ。生涯独身で待ち続けてるから」
「嫌がらせですか?」
「好意の表現が人より過激なだけだよ」
 五階に到着したので、私と先輩はそそくさとエレベーターを後にしてマンションの通路を進む。部屋の前につくと先輩が鍵とドアを開けてくれたので、軽く頭を下げて中に入った。
 先に靴を脱ぎ振り返ると、「ただいま」と言いながら下を向いてローファーから雨に濡れた足を引っこ抜こうとあくせくしている先輩がそこにいる。間が抜けてて、存在感無くて、謎に顔がよくて、妙に背が高くて、嫌に気が利く穂澄千尋という男が。
 ――私は先輩が嫌いだ。嫌いということにしておいた方が、気持ちが楽だから嫌いだ。
「十六年間ずっといきおくれてるんだから、もたついてないで早く貰ってくださいよ」
 ドアが閉まる音と重なるように囁く。先輩が顔を上げ、目が合う。聞いて欲しいのか、聞かないで欲しいのか、正直自分でもよくわからなかった。
 私は、私の思惑通り「どうしたの? じっと見つめて」なんてきょとんと首をかしげるこの人が、本当に、心の底から大嫌いなのだ。