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 夜中に、ふっと目が覚めた。
 別に怖い夢を見ていたわけでも、眠りが浅かったわけでもない。けどなぜか、目が覚めてしまった。布団から出ていた部分が冷え切っており、くしゃみが出た。慌てて布団を被る。横になり続けていればまた眠れるだろうと思い、布団に潜って目を閉じたが、どれだけ経っても、睡魔は襲ってこなかった。
 寝返りを何度も打ってようやく眠気がさし、目を閉じて眠った少し経った後、今度は焦げ臭いにおいと、夏のような暑さに気付いて目を覚ました。
「……?」
 夜遅くに街に到着した旅人か誰かが暖を取るために火を熾しているのだろうか、それにしても暑いし焦げ臭いなと思って体を起こし、窓まで行って外を見た瞬間、体が動かなくなった。
 見えている範囲全てが、燃えていたからだ。赤のようにもそれ以外の色にも見える混沌とした色の炎が、街全体を覆っている。窓からも、少し熱を感じる程だった。このままではいけないと、逃げなければ死んでしまうと思っても、体は動かなかった。
(どうしよう……)
 このままでは、母も父も、生まれて間もない弟も焼け死んでしまう。ぼくがなんとかしなければ……。
 そう思った途端、足が動いた。部屋を飛び出して両親と弟が眠っている隣の部屋に転がり込む。その音に驚いて目を覚ました父が、ぼくを見てから焦げたにおいに気付き、すぐに母を起こした。母も目を覚ますと事態に気付き、弟を抱いて飛び起きた。
 表が燃えていることを教えると、父は裏口の戸を開けて母を気遣いながら外へ出た。
「……っ」
 外へ出て、再び体が強張るのをを感じた。こちら側も、燃えていた。街全体が燃えているらしい。父が燃えている炎の中、なんとか通れる道を探してこっちだ、と叫ぶ。母が右手で毛布に包まっている赤ん坊を抱き、左手で炎に怯えるぼくの手を優しく握った。
「おかあさん」
「大丈夫よ。行きましょう。布を持っているなら、それで口を塞ぎなさい」
 母がこちらを見下ろして、にこっと微笑む。いつもの笑顔とは違ったが、その顔を見ることが出来ただけで、体の緊張がだいぶ解けた。ぼくは寝ているときもポケットに手ぬぐいを入れていたことを思い出し、それを口に当てた。それを確かめた母が頷いて、先を行く父を追いかけた。

 燃え続ける街をなんとか抜け出したぼくたちは、近くの小川で休んでいた。赤ん坊と幼い自分を連れて逃げるのは大変らしく、父も母も憔悴していた。母は体があまり強くないため、特に疲れが顔に出ていた。自分たち以外の街の者が逃げてくる様子はない。もう逃げた後なのか、それとも、と最悪のことをを考えかけて、首をぶんぶんと左右に振った。
 考えるだけで恐ろしかった。火災の原因も、自分には分からない。それは両親の顔にも表れていた。今まで街の一部が火事になることは空気が乾燥しているこの時期は何度もあったが、街全体に広がることは一度もなかった。なぜ突然燃えたのだ、と両親が小さな声で話しているのが聞こえた。
(なんで急に燃えちゃったんだろう……)
 自分には大きすぎる弟を抱っこしながら、燃えている街のほうに顔を向けた。弟は時折ぐずったが、母がよく聴かせていた歌を真似て口ずさむと、すぐにきゃっきゃっと笑って小さな手を伸ばし、鼻をつついてきた。それを見てかわいいと思いながら、弟の頭を撫でていたときだった。近くで草をかき分けるような音がした。ハッとしてそのほうをじっと見たが、それっきりなんの音も聞こえなかった。
 街の人間なら、声をかけるだろう。彼らが住んでいたところは、街と言ってもさほど広くはなく、街の者なら大体顔見知りだったからだ。
(なんだったんだろう)
 不思議に思い、弟を落とさないように慎重に立ち上がって、少し離れたところにいる両親にそのことを話した。すると普段穏やかで怒ることのない父が、険しい顔をしてそちらを見た。初めて見るその顔に驚き、恐る恐る声をかけた。
「おとうさん?」
「……森を抜けよう」
 少し離れたところに知り合いのユイネンが住む街があるからと、父が険しい顔のまま母を見て言った。母は街のほうを少しの間見てから、哀しそうな目をしてそうね、と静かに頷いた。

 夜の森を歩くのは、とても恐ろしかった。昼間は街の子どもたちの遊び場になっているが、夜は入ったことがなかった。夜の森は危険だと教えられていたこともあったが、灯りのない、真っ暗な場所がとても恐ろしく感じるからだ。夜の真っ暗な森の中では、どこから何が出てくるか分からない。草が生えているから多少は足音もするだろうが、突然襲われても、きっと自分には何もできない。
 ぼくは指先が冷えた母の手をしっかり握りながら、足元に注意して歩いた。途中、疲れから木の根に躓くこともあったが、なんとか懸命に足を動かして森の中を歩き続けた。
 進む方向は父が決めているから、今自分が森のどの辺りにいるのか全く分からなかったが、しばらく歩いて木の幹に見なれた傷を見付け、けっこう街から離れたのだと分かる。この辺りは、街の子どもたちが親から怒られて逃げたときに使う場所だった。そこには大工をしている青年が休みの日に、子どもたちと遊んでいるときに短時間で作ってくれた小屋があった。
 もしかしたらこの中に誰かいるかもしれないと思って窓から中を見たが、暗くて何も見えない。人の気配がしないから、きっと誰もいないのだろう。
(みんな、ちゃんと逃げてるよね?)
 街の火事に気付いたときは、道を挟んだ家も燃えていた。よく自分の家がまだ燃えていなかったなと思う程だ。
「おかあさん、あとどれくらい?」
「きっと、もう少しよ。だから、頑張りましょ」
 幼い息子が歩き疲れたのだと勘違いしたらしい。母は慣れない道で息を切らしながら、それでも優しく微笑んだ。
「みんな、無事かなあ」
「無事であると……祈るしかないわね」
「うん……」
 母の沈んだ声で、なんとなく皆がどうなったのか分かってしまった気がして、自然とこちらの声も沈んでしまった。
(でも、まだそうと決まったわけじゃないから、きっと大丈夫。また会える。遊べる)
 自分に言い聞かせながら足を動かし続けていると、前を歩いていた父が、突然戻ってきた。
「あなた、どうしたの?」
「戻れ、早く」
 父が母の背に手を回し、ゆっくり押す。母はなんとか頷いて来たほうへ足を向け、再び歩き出した。
 今度は父が後ろを歩いている。ぼくたちを守るように腕を左右に広げ、時折背後を気にしながら歩いている。
(向こうも、燃えてたのかな)
 時折前を歩く父を見ていたが、そんな感じはしなかった。森はまだ続いていたし、もし森が燃えているなら、この辺りも既にそうなっているだろう。
 そんなことを考えていると、後ろから初めて聞く男の声がした。
「いたぞ、あそこだ!」
 驚いて振り返ると、その声を聞いた他の男が集まっていくのが見えた。手には銃器のようなものを持っている。それを、こちらに向けようとしているようだ。
「おとうさん、あの人たち……」
「おまえは先に逃げろ。ここから少し離れたら、左に曲がって森を出てユイネンのところへ行け。事情を説明すれば、彼は分かってくれるから。いいね」
「でも、おとうさんたちは」
 ぼくが不安げに父を見上げると、隣を歩いていた母が、ぐいっと背を押した。見上げると、母も厳しい顔をしていた。
「いいから。行きなさい」
「……分かった」
 後ろで男たちがこちらを窺うようにゆっくり近付いてきているのを見てしまったぼくは、声を震わせながら首を縦に振った。すると母が優しく抱きしめてきた。今までにないくらい優しい抱擁だった。
「ごめんね。おまえにも、辛い思いをさせてしまったね。ごめんね」
 なんの話をしているのかさっぱり分からないぼくは、どう返事をすればいいのかも分からない。
 母は小さな息子の頭と背を撫で、最後にありったけの力を込めて抱きしめた。そして、体を離した。今度はいつも通りの優しい笑みを浮かべていた。
「おかあさん?」
「大丈夫。おまえなら、きっと。さあ、行きなさい」
 母が泣きそうな顔をして言い、もう一度頭を撫でた。ぼくは不安そうな顔のままこくんと頷いて、駆け出した。両親よりもっと奥のほうで、誰かが怒鳴った。聞いたことのない音が聞こえて、足を止めて振り返ってしまった。
「あ……」
 見えたのは、街を燃やす炎と同じものが美しい母と、たくましい父の体を包んだ瞬間だった。二人は抱き合うようにしてその場に倒れ込む。今見えたもの全てが、とてもゆっくり見えた。二人が倒れ込んだ瞬間にぼくはハッとして、叫んで二人に駆け寄ろうとした。
「おとうさん、おかあさん!」
 体を燃やしている炎を消そうともせず、走っているぼくに目を向けた。
「逃げろ、早く」
「おまえだけでも、生きて」
 両親の小さな声が、ぼくの耳に届いた。咄嗟に足を止めて、燃え続ける両親をただ見つめ続けた。
(ぼくが……死んじゃったら……)
 きっと、両親は悲しむだろう。もしかしたら怒るかもしれない。生きろと言われているのに、それに背いてしまうのだから。けど、ぼくだって死にたくはない。でも、大好きな両親がいない世界で、どう生きていけばいいのか分からない。
「あそこにもいるぞ」
 男の怒鳴り声が聞こえた。このままここに立ち続けていたら、父と母のように燃やされてしまう。
(……逃げなきゃ)
 死ぬわけにはいかない。このまま死ぬのは嫌だ。
「……っ」
 ぼくはもつれる足を懸命に動かして、森の中を走り回った。小さいぼくは大人の彼らより小回りが利くし、木々も避けやすい。足にも自信があったから、どんどん彼らとの距離は開いていった。彼らが銃器を持っているお陰でもあるのだろう。

 どれくらい走ったのだろう。父に言われた通り、途中で左に曲がって森を抜け出した。ここから少し歩いたところに街がある。父の友人、ユイネンが住む街だ。その街は普通の明け方の街だった。静かで、誰も外にいないけど、窓から部屋の灯りは見えた。そのことにほっと安堵すると足の力が抜けそうになって、慌てて近くにある家に寄りかかった。まだ休むわけにはいかない。ユイソンの家に行かなければ休むことなど出来ない。
 ユイソンの家の場所は曖昧だ。最後に彼に会ったのは二年前だから、ぼくは三つだった。なんとなく頭の中にある記憶を頼りに、街の中を歩いた。そして記憶の中にある建物が見えて駆け出し、その家のドアを叩いた。まだ陽は昇っていていないから、ユイソンは夢の中だろう。それでも、ぼくはドアを叩き続けた。
 十回程叩き続けると、家の中でかすかに物音がした。ドアから少し離れて待っていると、キイ、と音を立ててドアが少し開いた。
「……誰だ?」
 訝しんだ声だったが、それは記憶の中にあるユイソンの声だった。ぼくは彼にぼくだと伝えた。するとすぐにドアが開いて、ぼくの姿を確認して目を見開いた。なぜここにいるのか分からないといったような目だ。周りを見てぼくが本当に一人だと知ると、何かを理解したのか、険しい顔をしてドアを広く開けた。そしてぼくの背に手を当てる。
「入りなさい」
 ユイソンの家に入って灯りのついた室内を見た瞬間、ふっと足を力が抜けてその場に座り込んでしまった。ユイソンが慌ててドアを閉めてぼくを抱き上げてソファーに座らせ、傷がないか、ぼくの体を調べ始めた。それをぼんやりと見ているうちに、目の前で火に包まれて倒れる両親の姿が浮かんできた。真っ赤な炎が大好きな家族を包み込み、体を燃やしていく。

『逃げろ』

『生きて』

 二人の声が脳内で再生される。二人の言葉を思い出したぼくは、もう一つの事実に気付いた。
 ――ぼくが住んでいた街は、なくなってしまった。もうあの場所に帰ることは出来ない。
 それを理解した途端、ぼろっと涙があふれた。慌てて目をこすって涙を止めようとするが、涙は次々にこぼれ、頬を伝っていく。ユイソンがぼくが泣いていることに気付いて、ぼくの頭を抱えるようにして抱きしめた。
 ぼくは涙が止まってくれるまでユイソンの温かい胸に顔を埋め、声を押し殺して泣き続けた。