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 翌朝、僕と春香は、兄の運転する車で春香のいた柏木園がある桃落市までやってきた。
「この道を真っすぐです」
 少し腫れた目をした春香は、後部座席での広げた地図を指さした。地図を読むのは得意らしい。僕とは大違いだ。
「この先を左折して、それから真っ直ぐだって」
 兄の返事はない。それはいつものことなので、僕は簡潔に道順だけを伝えると手元の地図に目を落とした。
「ケン兄ちゃん」
「ん?」
「どうして携帯電話を持ってるのに使わないの?」
「え?」
「地図。どうして携帯電話の地図を使わないの? そっちのほうが便利でしょ」
「ケンはな、携帯をうまく使いこなせてないんだよ」
「余計なこと言うなよ!」
 兄はこういうときだけは話に入ってくる。そして、僕が結構真剣に悩んでいることを、軽々と暴露する。僕が傷つく理由は大体兄だ。許せない。
「そういうの、何て言うんだっけ? ジョウジャク?」
 春香ちゃん、そういう言葉はどこで覚えてくるのかな……?
「おい、このまま真っ直ぐでいいのか?」
 僕は答えない。というか、答えられないくらいに深い傷をつけられた。子供だから自覚はないのだろうけど、それがさらに僕の心に深い傷を刻む。僕の心は案外繊細なのだ。
 うつろな目でうつむく僕に代わって、春香が答える。
「うん。真っ直ぐ」
 僕たちを乗せた車は、徐々に都会の景色へと変わる街の中を、静かに走り続けた。

 柏木園と書かれた門を抜けると、庭の小さな滑り台のそばにいた女性職員と目が合った。
「こんにちは」
「あら、こんにちは。どうされました?」
 女性職員は小さな男の子を滑り台から降ろすと一言二言何かを言い、僕らの方へと歩いてきた。
「モモカちゃん……」
 僕の後ろにいた春香が、前へ出て来た。
 モモカと呼ばれた女性職員が、驚いて声を上げた。
「春香ちゃんじゃない! どうしたの?」
「ごめんなさい……」
 そういうと、春香は声を上げて泣き出してしまった。
 状況が呑み込めない女性職員さんに今までのことを兄が手短に説明する。その間、僕は春香をなだめていた。
「こちらへどうぞ」
 モモカさんは一通り話を聞くと、僕らを中へと案内した。

「そうでしたか……」
 モモカさんは、もう一人女性の職員を呼ぶと、春香を違う部屋へと移らせた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
「いえ、少し驚きはしましたけど、とてもしっかりしていたので」
「春香ちゃんに聞きました?」
「まあ、しっかりとは聞いてないんですけど、何となく状況はわかりました」
 兄はまた黙りこくっていた。貧乏ゆすりが始まっている。早く帰りたい証拠だ。
「お手数おかけしますが、連絡先を教えていただけませんか?」
「ええ、いいですよ」
 連絡先の書き込みを兄に任せ、僕はモモカさんに気になることを聞いた。
「里子、ってことですよね」
「はい。日本では、あまりこの制度は進んでいないのですが、春香ちゃんには良い里親さんが見つかりまして、昨年、引き取られたんです。大人しくて頭のいい子だったので、大丈夫だと思っていたんですけど……」
「大丈夫、と言いますと?」
「稀なケースではあるんですけど、ここに戻ってきてしまう子もいるんです。春香ちゃん以外にも、数人いました。あの子は大丈夫だと思っていたんですけどね……」
 書き終えた兄に気付いたモモカさんは、あとはこちらで対応しますと言うと、春香を呼び出した。
「春香ちゃん、さよならしようか」
 モモカさんの言葉に、春香は小さくうなずいた。
「迷惑かけてごめんなさい。さようなら」
 しっかりとした子だと、誰でも思うような言い方だった。
「またね」
 兄は無言で手を挙げただけで、そのまま車へと向かって行った。
 僕は寂しそうな春香に最後まで手を振って、車に乗り込んだ。