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 窓から見える景色は止まることなく流れていく。まだ午前十時だというのに空は雲に覆われていて薄暗い。水色の背景色に真っ白な雲が映えて太陽の光に照らされている、そんな見慣れた空はまるで別世界のもののようだった。
 今すぐに帰りたい。だが、帰ることすら億劫に感じる。本当に知らない世界へ迷い込んだと錯覚したように帰り道が分からない。いや、本当はわかっている。ただ、俺の足がそう駄々をこねて誤魔化し俺の理性に嘘をつく。これも全てあの空のせいだ。
 視界の隅に一瞬だけ映った黒い糸。それは何本にも重なっている。それらがゆらゆらと揺れて思わずそちらに目を向けてしまう。黒い糸の正体は俺の隣にいる女の子の髪だ。きちんと整えた髪は真っすぐに伸びて女の子の細い肩を隠していた。彼女は先ほどの俺と同じように窓の外をぼんやり眺めていた。女の子の名前は大瀬美緒(おおせみお)。白い半袖のワイシャツにチェック模様のスカート。スカートは少し暗めの緑色をしている。ワイシャツの裾は丁寧にスカートの中にしまわれていた。これは俺と美緒が通っている星琵(せいび)学園の制服だ。そこで俺はあることに気がついた。
「リボンつけんの? 」
「え? 」
 ずっと沈黙だったせいか、美緒は遅れて返事をした。
「あ、忘れた」
 美緒の声はいつもよりほんのわずかに低かった。朝だからということもあるだろうが、大半の理由は俺だからだ。
「めずらしいね」
「集合時間遅いから油断した」
 眠そうに言葉を発したと思いきや、美緒が口を大きく開いた。そうやって無防備にあくびするのも隣にいるのが俺だからだ。学校にいるときみたいに、クラスメイトと話しているときみたいに女の子らしくふるまわない。他の男子を相手しているときみたいに無駄に笑顔つくって自分を飾らない。でも、俺は。俺だけは幼なじみで長いこと一緒にいるから気を許している。だったら、〝幼なじみ〟じゃなければよかった、……なんて。
 次第に電車は減速していき、駅のホームへ滑り込んで停止した。その反動で電車が小さく揺れた。吊り革につかまっていた俺は平気だった。しかし、気がゆるんだ美緒はよろめいてバランスを崩しそうになる。反射で俺は美緒の肩を抱いた。ぐっとこちらに引き寄せる。
 俺たちがいる側の扉が開いて乗客らの入れ替わりが始まった。
「……ありがと」
 思い切り俺に寄りかかり、俺の腕を掴んでボソッと美緒はそう言った。遠慮もなく、特になんとも思われていない。
 電車が再び走り出した後も美緒は俺の腕を吊り革にしていた。
 
 
 今日は校外学習だ。上野にある東京国立博物館を見学する。十時半に現地集合。博物館の前にクラスごとで並ぶらしい。金曜日の午前中だからか、事前指導で聞かされた一般客はそんなにいなかった。一般客云々はどこの学校も共通で迷惑をかけないことが最優先。まぁ、学生関係なく人としてのモラルだと思うけど。
「もうみんな来てるね」
「そうだな」
 俺と美緒は一年A組。博物館の出入り口を道路一本跨いだ上野公園広場に俺たちと同じ学生服を着た群れが見えた。集合時間五分前。既にクラスでグループごとに分かれていた。今回の校外学習はグループで行われる。
「三班そろってるかな」
 なんの因果か、校外学習のグループまで美緒と同じだった。電車の中では簡単に触れてくるくらい近かった美緒の手はもう遠くなっていた。心の距離も同じように遠ざかる。
「恋也(れんや)、早く」
 小声で美緒は俺の名前を呼ぶ。
 三班と合流すると、メンバー女子から美緒はいじられていた。ネタは俺と一緒に来たことだろう。
「都丸(とまる)くんとはそこで会っただけ」
 愛想笑いを浮かべながら美緒は平然として俺の苗字を口にする。高校に進学してから、美緒は俺のことを苗字で呼び始めた。学校だけでだが。
 集合時間を十五分過ぎた頃、ついに博物館見学が始まった。グループ行動が絶対で基本、自由に見学してもいい。だが、この見学結果を後日グループでまとめて発表するというクソめんどくさいことも控えている。だからきちんと見学しろよ、という学校側の圧力に近い。
 東京国立博物館は二階まで展示ものがあって、他グループのほとんどが二階から見学するようだった。それにつられるように三班も誰も何も言っていないのに二階へとみなの足が進む。
 二階のテーマは「日本美術の流れ」。縄文時代から順に文化品や歴史的なものまでさまざまなものが展示されていた。体験コーナーもあるみたいで博物館と聞いて退屈していた同級生たちが群がっているのが分かる。唯一の楽しみとでもいうようにそこから動こうとしない。うちの班の男子も嬉々としてそちらに向かっていた。俺も誘われたが、遠慮しておいた。どっちにしろあんなに人が群がっていたら体験どころではない。残念な奴らだ。
「せっかく博物館なのに」
 聞こえたその声はいつもの美緒の声。いつの間にか隣にいて俺の心境を代弁してくれた。
「楽しみ方は人それぞれだしな」
 誰よりも今日を楽しみにしていたのは他でもない美緒だった。今朝の眠そうだった美緒とは別人で表情は明るく序盤から楽しんでいるようだった。
「恋也さ、帰りに屋台見てかない? 」
「やだ」
 めずらしく名前呼びしたかと思いきや屋台かよ。即答した俺に頬を膨らませた美緒はちょっとだけ可愛かった。
 少し進むと、展示物が土偶に変わった。ハニワとか古墳時代だっけ。きちんと説明書きもあるけど、展示物そのものを見て時代が分かるのは日本のいいところだ。その時代の代表的なものがきちんと認知化されている。昔の人たちが時代ごとに生きた証を残してそれを現代の人が大切にしている。そう考えたら、俺はこの時代を生きようってなぜだか前向きになれる。
 歴史番組とかでよく見る土偶を見つけた。人型で小さい子が持っているようなぬいぐるみくらいの大きさしかない。頭は少し潰れて穴があいている。顔だけではなく、腕や胴体にまで模様が刻まれていて不思議な感じがした。そして説明書きを読んで一瞬、思考が止まる。
 『遮光器土偶(しゃこうきどぐう)
 秋田県美郷町六郷石名館出土
 縄文時代(晩期)・前一〇〇〇~前四〇〇年』
「……古墳時代じゃない」
 あれ、ハニワと土偶って同じじゃないのか。マジで?
 歴史をもっと真面目に学んでいたらこんな衝撃的なことは起こらなかっただろうな。美緒なら詳しそうだけど。
 そう思いながら辺りを見渡すと、美緒と三班女子たちが驚いた顔である展示物を見ていた。俺らよりも大きい人型のもの。そちらに近づくと、説明書きには菩薩と記されていた。
 うむ、菩薩……。
「菩薩って仏様じゃないの」
「だよね? 寺じゃなくてなんで博物館」
 三班女子の会話。確かに俺もそう思う。
「てか、展示しても大丈夫なの」
「なんか祟りとかあったらどうしよう」
 自分たちで言っていることなのに怖がっている。祟りなんぞ一言も説明書きにはない。飛鳥時代に造られた木造菩薩だ。仏教伝来当時の様子をしのばせる貴重な遺品らしい。
 時間が進むにつれて班員たちの集中力は切れ始めていた。それは他の同級生たちも同じで既に興味をなくしている生徒までいる。それに比べて美緒といったら、どんどん自分の世界へと入り込んでいく。だんだんと遅れを取っていき、一階の展示物を見る頃には班員たちの姿はいなくなっていた。先に行くねと一言残して風のごとく展示物をすっ飛ばしていったのだ。俺に美緒を任せて。おそらくもう博物館の外で暇をもてあましているだろう。自由解散ではないので帰ることは許されない。再び集合する時間は十二時半。只今の時刻、十一時五十七分。このままのペースでは全部見終わる前に集合時間になってしまう。
「美緒、見たいもの優先的に見てけ」
 返事はない。だろうなとは思っていた。こういうときの美緒の集中力は比べ物にならない。小説に登場する探偵みたいだ。
 一階の展示物はジャンル別らしく、各部屋ごとに全然違うものが展示されていた。二階のときみたいな時代を順に追っていくということもなかった。美緒の楽しみを邪魔したくはなかったが、さすがに時間がヤバいので美緒の腕を掴んだ。
「えっ、な、なに」
 驚いた様子の美緒。
「もうすぐ集合になっちゃうから」
「えっ」
 美緒はもう一度驚いた声を出す。
「どれが見たい? ゆっくりみてる暇はないけど、二つや三つくらいならまだ間に合うよ」
「あ、えっと、ど、どれだ」
 俺が美緒の腕を放すと、慌てて美緒はパンフレットを広げた。
「こ、これ、着物と刀みたい! 」
 早歩きでその展示物まで向かった。一応、撮影許可はあったのでスマホで写真を撮っておいた。美緒はあまりそういうことをしない。急がせている分、俺が後でもみられるようにしてやりたかった。
 結局、集合時間ギリギリで班員と合流し、全体解散となった。
 帰り道、公園広場を通り過ぎる前に美緒が口を開いた。
「やっぱ屋台ダメ? 」
 悲しそうな目で俺を見上げてくる。
 このままカラオケに行くと告げた班員たちとは別れて美緒と二人だけになった。屋台に行きたいがためにカラオケを断ったのか。屋台の方にはちらほら寄っていく同級生たちもいる。
「行きたいなら行ってもいいよ」
 そう。別に俺に断る必要はない。俺は一人で帰るだけだ。美緒が行きたいなら、行けばいい。
「ほんと!?」
 すると、ぐいぐいと俺の腕を引っ張って小学生みたいにうきうきした顔で屋台の方へ進んでいく。
「俺も?」
 一人で行けよ。
「恋也も一緒」
 振り向きざまに今日一番の笑顔を向けてきた。俺の名前を呼ぶ声は小さくない。
 あんなに楽しそうで見入っていた博物館はもういいのかよ。まだ他に知り合いもいるぞ。遠ざかった距離はまた近づいて朝のときと同じように俺に触れてくる。本当に楽しそうに目を輝かせて、そんなに豪華な屋台じゃないのに。君に名前を呼ばれることがこんなに嬉しくて、君に触れられることがこんなに愛しくて、君の隣にいられることがこんなにも幸せなのはきっと美緒だから。
 美緒が〝幼なじみ〟でよかった。